55 仮称はないだろ

 体育館は、珍しい興奮が渦を巻くように充満していた、と思う。思うというのは、陽佑ようすけに余裕がなく、そんな分析は後になってからのことだったからだ。体育館上部の窓には暗幕がめぐらされ、照明は若干暗めで、生徒たちの興奮を上手にかき立てる効果がある。


 これまでのこの中学で、見られなかったものが、始まろうとしている。それも、ひとりの生徒の発案から始まったものが。――文化祭(仮称)として企画したが、タイトルを考えるのが次々後回しになってしまい、とうとう仮称のまま当日になだれこんでしまった。痛恨の極みだ。山岡たちのバンド名についてどうこう言う資格はない。


 司会進行を務めるのは、文化委員会副委員長の野木のぎ。外見は印象が薄そうで、声も高く細いが、言うべきことはきちんと言うし、説明するための例えも絶妙だ。なによりこうした場では、主張しすぎない柔らかな語りが、催しの妨げにならない。

 アリーナ横の照明が当たりづらいところに、ひっそりと長机がひとつ配置されている。運営本部だ。生徒会長の福田、文化委員長の中島、総監督の陽佑が腰かける。緊急連絡に備えて、文化委員がもうひとり、常時誰かがそこに控えることにもなっている。空席は、司会の野木が出番の合間に座るところだ。

 生徒会長の福田による開会宣言、校長先生の(かなり短い)挨拶に続いて、いよいよオープニングアクトである。

「オープニングアクトは、副校長先生によるピアノ演奏です。曲は、茶色の小瓶」

 野木の紹介が終わらないうちに、アリーナの生徒たちが盛大にどよめいた。先生たちの中にも、ええっ、という顔をした人が多くいたのを、陽佑は暗がりで見逃さなかった。隣に座る文化委員長の中島と、にっと笑顔を交わす。中島は、生徒会所有の無線機(かなり古い)でどこかに配置された文化委員と交信中だった。


 ステージにはすでに、ブラスバンド部が演奏するための、たくさんの椅子や譜面台、大がかりないくつかの楽器が配置されている。そのためステージのそでに寄ったあたりに、控えめにピアノが置かれ、副校長の三枝さえぐさ先生はそのそばで、礼をして簡単にあいさつした。

 ……こういうことか。陽佑は思った。校長室での協議の場で、三枝先生ははっきりと、文化祭には反対だと述べていた。けれども、その後の生徒総会で、多くの生徒が文化祭の開催を支持した。……ひょっとして、副校長先生はけじめをつけようとされたのだろうか。だからこそ、夏休みの間に人知れず、ああして……。

 ピアノは相変わらず下手だった。しかし、夏と同じように唇を引き結び、懸命にピアノを弾くその姿を、笑う生徒はひとりもいなかった。あの厳しくも口やかましい副校長先生が、やりつけてもいないピアノ演奏を、全校生徒に披露している。これが……文化祭への、副校長先生の……。

 要求されていたものは、演奏の質の高さではなかった。だからこそ――曲が終わった時、生徒たちは、惜しみない拍手を送った。副校長先生の、あの誇らしそうな笑顔を、初めて見たという生徒は大勢いたことだろう。



 ブラスバンド部の発表が行われた。陽佑はタイトルをよく知らないが、行進曲、そして最近のポップスをブラスアレンジしたものだった。陽佑は特にフルートに耳を傾けつつ、進行表とメモをチェックし、中島と共用の無線機で文化委員たちに指示したり、出演者たちの突発的な問い合わせに応じたりしていた。


 ブラスバンド部が撤収し、椅子や譜面台が片づけられ、ステージの上には何もなくなった。そこへ野木の紹介で、ふたりの女子生徒が登場した。2年2組の堀川今日子きょうこと、2年4組の勝田怜美れみである。ふたりとも私服のジャージに、つば付きの帽子をかぶっていた。互いに距離を取り合って、ポーズをつけて静止し、音楽の始まりを待つ。曲がかかると同時に、明るい照明が投げかけられる。曲名もよくわからないが、生徒より教師の年代が喜びそうな――ディスコナンバーというやつだろうか。けれど決して古臭くなく、懐かしい感じだけどノれる、というような曲調だ。堀川と勝田は、最初はおとなしめの振りから、次第に大きく大胆になっていった。ヒップホップダンスだ。ボックスステップ、ブルックリン程度なら陽佑も聞いたことがあるのだが、サビに入る頃にはもう何なのかわからないテクニックが続けざまに披露された。キックバック。ムーンウォーク。圧巻のヘッドスピン。なによりも、いつもおっとりのんびりした堀川の、別人のように生き生きした表情と動きが、2年生たちを仰天させたことだろう。ステージってあんなに狭かったっけ、と思わせるほど、ふたりはかたときもじっとせず、ほとばしるエネルギーですべての生徒と教職員を魅了しつくした。いつの間にか全員が手拍子をとっていた。一般生徒の最初の出番としてこれ以上はないという導入だったと陽佑は思う。アリーナにはごく自然にスタンディングオベーションが広がり、歓声やら口笛が飛び交った。


 ダンスユニットが惜しまれつつ退場すると、文化委員たちによって、ステージに大きな四角い布がいくつも配置された。床に這うような低く横に長いものもあれば、人の背より高いものもある。そこへ男女5人の3年生が登場した。パントマイムだ。5人は軽い雰囲気の音楽に合わせながら、ごく軽い動作にしか見えない動きで不思議な世界を作り上げていった。背の高い布が、異次元との境目であるかのような、奇妙な手足の整合。低い布をエスカレーターに見立てた上下運動。空間の都合上、アリーナの端の方に座った生徒には若干、見えてはいけない部分が見えてしまったりもしたが、これはもう仕方ない。それにしてもパントマイムをやる人って、涼しそうに筋肉を酷使するものだなと、思う陽佑だった。リハーサルを見ておいてよかった。本番をのんきに楽しむ気持ちの余裕がない。中島の無線の指示で、足音を殺してアリーナ後方をぱたぱたと駆ける文化委員がいる。


 パントマイムが終了し、アリーナがぱっと明るくなった。再び何もなくなったステージに、生徒たちが次々に並んで、コーラス部の発表となる。今回は古典ミュージカルの曲らしい。ミュージカルなのでいかにも踊れそうな雰囲気の、聴衆がつい体を揺らしてしまいそうな曲だ。2曲目は……陽佑は聞いている場合ではなかった。舞台そでからアクシデントが無線で知らされてきたからだ。次の出番となるファッションショーの出演者、城之内じょうのうちが行方不明だという。あんのバカ、と陽佑はわめきたくなった。横から聞きつけた中島が、手すきの文化委員を総動員して捜索にあたらせ、自身はマイクのそばで待機する野木のところへ行って時間を稼ぐよう指示を出すが、司会のできる時間稼ぎなどたかが知れている。中島は去り際、監督はそこを動くな、と言い残したのだが、仲間を信じるがゆえに動けない自分というプレッシャーも相当つらいものだと、陽佑は学んだ。運営本部に控えていた文化委員も伝令として飛び出して行き、陽佑は別のひとりに控えに来てもらった。幸い、時間ぎりぎりで城之内は舞台そでに戻ってきたと連絡があり、事なきを得た。陽佑は、捜索終了の合図のために、本部の文化委員にひと走りしてもらった。後から聞いたところ、城之内は急に腹具合が落ち着かなくなったのでトイレに駆け込んでいたとのことだ。アイツに制裁するのは連城れんじょうたちに優先権があるな、と陽佑は冷静に、けっこう怖いことを考えたものだった。結局コーラス部の発表は満足に聞けずじまいだった。


 コーラス部の出番が終わると、舞台上部からスクリーンが下りてきた。文化委員がプロジェクターの用意をし、照明がゆっくり暗くなっていく。マイクを手にした連城が登場し、ちょっとした自己紹介の後、ボリュームを抑えた音楽が始まり、スクリーンに写真が大きく映し出された。私服姿の土田憲二けんじである。特にどうということのない写真だが、連城が呼ぶと、ほぼ同じ恰好の土田本人が舞台そでから出てきた。裾を縫い上げたりベルトを使ったり、眼鏡などの小道具を合わせることで、ちょっとばかり垢抜けた印象の着こなしに変わっていた。同時にスクリーンには、さっきの写真と並んで、今と同じ姿の写真が、いわゆるビフォーアフター状態で映される。ほう、という声がアリーナの複数箇所から上がる。陽佑は、長机に肘をついた姿勢のまま、面白いな、と素直に感嘆した。彼らはステージのリハーサルでも、制服姿のまま通し稽古をしていたので、陽佑も全貌を見るのはこれが初めてだったのだ。

「やるな、連城」

 同様の手順が繰り返され、荻野おぎの春海はるみと城之内慎太郎しんたろうが紹介された。しかしなんといっても見ものは、最後の葉山美織みおりだったろう。先に葉山の私服姿の写真が公開されたとき、陽佑はやっとからくりに気づいた。あ、わざとダサイ感じに撮ったな、と。葉山はだらっとした白いワンピース姿だったが、眼鏡も髪の編み込みも学校でおなじみの姿で、表情もやや暗めになっていた。そして舞台そでから現れた葉山は、……おお、とアリーナがどよめいた。ショールとベルトを使い、あの白ワンピースがスタイリッシュに見える。サンダルに履き替え、眼鏡も外し、髪もおろして、ふわりと波打った髪が白いワンピースにアクセントとなっていた。連城が最後のあいさつをして、4人のモデルと一緒に礼をすると、大きな拍手が上がった。


 文化委員が慌ただしく、ステージのセッティングに駆け回る。楽器が配置され、3年生のバンドが入ってきた。キーボードを生徒会執行部会計の柳井やないが務める、あのバンドである。オーディションではろくに聞けなかった陽佑だが、聞きだすと、ああこれは山岡たちが諦めるのも無理はないレベルだ、と認めざるを得なかった。それにしても、ステージ上はもちろん、アリーナの、特に3年生の熱狂ぶりはすごかった。陽佑と中島は、無線で裏方とやりとりするのに怒鳴らなくてはならなかったほどだ。


 一転して、その次は時田ときたという1年生の落語である。陽佑は、時田にはステージのかなり前の方に座ってもらい、そのすぐ後ろに幕を引くよう手配していた。最後に演劇部の発表となるので、この幕の後ろで少しずつでも、大道具の配置を進めてもらうためである。落語の演目は「死神」というものなんだそうで、落語といえば笑うものだと思っていた大多数の生徒たちは、笑わせるばかりが落語ではないのだということを知ることになった。もっとも……怖いと言う心理効果には、照明の果たした役割も大きかったが。


 いよいよ最後の演目は、演劇部の発表「冥土の飛脚」だった。もう一般生徒の演目は終わったし、大きなトラブルはないな、と陽佑は見越して、演劇部の舞台に見入った。舞台そでに控えていたアシスタントや道具係や進行管理の文化委員たちも撤収し、運営本部の長机のそばで休憩がてら鑑賞している。照明や音響を担当していた文化委員も、演劇部の部員と交代して、その場でひと息入れているはずである。

 陽佑はいつしか演劇部の舞台に引き込まれていた。3年生が年配者の役をするので、主役は2年4組の池田が、相手役の梅川は同じく2年4組の鳥羽とばという女子が演じていた。

「あいつ……すごいな…………」

 池田にはいろいろと嫌な思いをさせられてきた陽佑だったが、今日ばかりは素直に認めるしかなかった。というより、そこに池田はいなかった。いたのは、飛脚屋の養子、忠兵衛ちゅうべえその人でしかなかった。せりふがないところでも、首の動きひとつで、感情が伝わってくる。飲みこまれる。これが……演劇、か。

 ――負けた、かな。

 陽佑は、やってみたらけっこう楽しかったと思ってもらえるような結果を出すために、文化祭を演出してきた。文句を言っていた池田は逆に、陽佑に後悔させるために、この舞台に臨んだのかもしれない。これなら演劇部の発表を単体で見たかった、という意見を増やすために。だとしたら……演劇部の部分に限っては、陽佑は胸中で白い旗を揚げるしかなかった。


 喝采とともに演劇部の発表は終わり、ステージには幕が下ろされた。最後に校長先生の総括があり、おおむね好意的な内容を聞いて、陽佑は長机に溶けて崩れるほど安堵した――気力を使い果たしたためでもある。その後、実行責任者として文化委員長の中島があいさつしたのだが、サプライズで陽佑の名が呼ばれ、みんなの前に引っ張り出された。まったくの不意打ちだったので、頭の中は真っ白で、何を言ったのか後になっても思い出せない。覚えているのは、とても大きく温かな拍手と、最後に深々と頭を下げたことだけだった。自分が話していた途中で巨大な爆笑が起こった気もするのだが、……思い出さない方がいいのかもしれない。

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