35 廊下へ開く窓

 教室の、廊下に面して開け放した窓辺が、陽佑ようすけ連城れんじょうの定位置になっていた。その壁に寄りかかって、雑談をするのが日課になった。

 ここなら、ちょっと首をひねるだけで、廊下が見渡せる。……彼女が通りかかることにも、すぐに気づける。そして気づくと、「おう梅原」と声をかける。そこまで含めて、日課だ。梅原はたいがい気づいてくれる。ちょっと手を挙げて行き過ぎてしまうことの方が多いけれど、――それが何より嬉しい。小さくて暖かな火がともる。暇であれば「なんか用事?」と近づいて来てくれることもある。嬉しくも困ったことに、――用事はないことが多い。本当に用事があったり(取ってつけたように、次の授業の教科書を貸してくれと場をつないだこともある)、雑談のネタをぱっと思いつければラッキーだが、そうでなければ「いや、特には」などと情けない返答をするはめになる。だったら声をかけなければいいのにという見方もあるだろうが――気になる女子が目の前を通るのに、しかも声をかければ反応してくれることがわかっているのに、声をかけずにすませるなんて、男としてそんなことがあっていいのだろうか?


 いつだったか、たまたま男同士の雑談がほんのちょっとばかりエッチな方角に踏み込んだとき、廊下から近づいてきた梅原が、窓越しにふたりの間で「こんにちわぁ」と言ってきたので、背後から不意をうたれた驚愕と狼狽とで、絶叫と同時に口から心臓を吐きそうになったことがある。

「なっ、なんだ」

「いや、いつも声かけてもらってるから、たまにはこっちからと思って。……そんなにびっくりした?」

「いや、まあ、ちょっと、話に熱中してたから」

「そう? ……何の話で?」

「あっと、その、えー、お茶漬けは、海苔か、鮭か、どっちが本流かという話が、白熱して……」

「そーっ、そーそーそー」

 あのときは教室中の視線がとんでもなく痛かった。男子約二名、さぞかし間抜けで滑稽だったろうと、陽佑は思っている。でもそれも後になってからのことで、当座はごまかすために、無意味にゲホゴホ言いながら冷や汗をかきまくった。「じゃあもう声かけるのやめる」などと言われてしまっては致命傷だ。以後、ここにいるときは話題に気をつけよう、という紳士協定が成立した。

「それにしても、よりによってあんな話になったときに近づいて来なくてもな」

 後で連城は、身勝手きわまるぼやきをこぼしていた。


 それはともかく、3人での雑談に持ち込めれば、クリスマスと正月とラッキーデーと誕生日が全部一緒に来たようなめでたい気分になれる。そんなときは、何より楽しい時間になる。相変わらず、梅原の感性は独特で、話していて飽きない。ちょっと変わった視点に「そういうものか?」と軽く驚かされることがよくある。性別関係なく、純粋に、雑談相手として興味深い、と思うのだ。おそらくそれが、一緒にいてあまりどきどきしない理由だろう。男子として情けないことかもしれないが。たった数分、ほんの数分――それが、黄金よりもずっとずっと貴重なひとときだった。


 1年生のときは教室にいるのが苦痛そうで、よくどこかへ出かけていた梅原だったが、その間に他のクラスに女子の友人を作っていたらしい。クラス替えで、そうした友人の何人かと同じクラスになれたようで、梅原が1組の女子とうまくつき合っているらしい様子は、たびたび見られた。大野と離れられただけでなく、そうしたところでも、梅原の表情が明るくなってきたのが、陽佑や連城には喜ばしかった。それでもときどき、梅原がひとりで廊下を歩いていることもあって、2組の窓辺にたむろするふたり組は、機会をのがさないようにしていた。


 声をかけるのも、毎日とはいかない、毎回とはいかない。でも、ほぼコンスタントに、週5日に3、4回は梅原と接触できる。1、2週間に1度くらいは雑談もできる。

 それだけのために、学校に通っているのかもしれない。


 別々のクラスでは、――それが精いっぱいだった。

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