31 ミッション・インビジブル

 ……その朝陽佑ようすけは、深呼吸し、精神を統一させつつ上着のボタンをとめた。今日の最重要荷物はすでにリュックに入れてあるが、もう一度確認し、背中に引っかける。

 行くぞ。

 玄関に施錠し、いつになく背すじを伸ばして歩く。澄んだ冷たい空気が繊維の隙間から、肌に滑り込んでくる。いつもなら寒くてたまらないところだが、今日は心身を引き締めてくれるようだ。歩きながら、作戦を考えてみるが、どうもうまく形にならない。学校に着くと、さりげなく梅原の靴箱をのぞいてみた。……もう来ているらしい。

「おはよっす」

 あいさつしつつ、荷物を机に置く。おーす、と返してくれる同級生がいた。教室にいる生徒は十数人、梅原も連城れんじょうもそこに含まれる。陽佑は連城をとっつかまえて、小声でたずねた。

「お前、今日、どうする」

「ああ、おれ今朝学校来たらすぐ梅原にでっくわして、周りに人いなかったから、そこでもう渡しちまった」

「あ、ど畜生め」

「手ェ貸すぜ」

「……いや、作戦まとまらないから、後でな」

 陽佑は頭を抱えてしまった。

 完全に出遅れた。


 卒業式も過ぎ、3年生はいなくなり――今日は、ひと月前に女子から幸せを贈られた男どもが、義理を欠いてはならない日なのである。大野あたりなら、教室の中だろうと人前だろうと、堂々と渡せるのだろう。陽佑はそうではない。なにより他人に見られたくないから作戦が必要なのに、いっこうに立案できない。それでも今日はいつもより早めに来たつもりだったのだが。


 ……困ったな。


 渡したいのだが、他人に見られるのも嫌だ。だから陽佑が贈るものは、悪友に悪ふざけでのぞかれた程度ではばれないように、リュックの奥の方に忍ばせてある。取り出すのにもタイミングが必要だ。そうなると、人目があるところでは準備すること自体容易でないことになる。

 ……ロッカーに入れさせてもらうか。いや、でも、他人のロッカーを勝手に開けるって行為はどうなんだろう。それも女子のロッカー。……心理的抵抗は大きい。先月、気合いを入れて自分のロッカーを整理したことはすっかり忘れている陽佑である。

 まずい。まずいな。出ばなをくじかれた。

 こうなると、どうなるかというと……当然ながら、登校してくる生徒が増える。ますますチャンスはなくなる。予想通り、大野が衆人環視の中で堂々と、金津にお返しを渡して、クラス中からはやしたてられる。陽佑は気ばかり焦って、気持ちがどよんとしてくる。大野は良くも悪くも、人前でスゴイことをやってのけるものだ。どうしてあんな勇気があるんだろう。


 まずいなと思いつつも、授業が始まってしまった。陽佑は終始うわの空で、どうしたら梅原とふたりになって、あれを渡せるかと悩み通しだった。――ある程度の危険を覚悟で、休み時間にどこかへ呼び出すか。けれどもそんな日に限って、梅原は戸倉とくら斯波しばと一緒にいる。彼女たちに知られずに梅原に接触するのは至難の業だ。


 ああどうしよう。


 昼休み。陽佑は廊下に悄然と出てくると、ロッカーからリュックを引っ張り出した。先週陽佑が、全身から火が出る思い(他人から見れば顔色は白いままで、ただの不機嫌な少年としか見えなかったのだが)で購入したのは、かわいらしいマシュマロがいくつか入った小さなケースを、乙女仕様の包装紙でラッピングしたものだ。さしてかさばるものではないが、かといって握った手の内側に隠してこっそり持ち歩けるほど小さくもない。

 ……生徒でごった返すこんなところで、こんなもの取り出そうものなら、冷やかしの的になることは明白だ。


 やっぱり今はだめだ……。


 午後の授業が始まった。英語の授業で当てられ、うわの空だった陽佑はそのまま立っていろと言われてしまったが、そんなことはどうでもいい。こちらは真剣に悩んでいるのだ。

 放課後になれば梅原はクラブに行ってしまう。そうなると戻ってくるのはとても遅い。ホームルームが終わってから、クラブに行く直前につかまえる――それしかあるまい。それなのに。

桑谷くわたに~、ちょっといいか~?」

 礼が終わった瞬間に、3組の城之内じょうのうちが、ドアから顔を突っ込んで巨大な声で呼び出してきた。

「なんだよ」

「こないだ言ってたゲーム雑誌の発売日がよ~ぉ、来月遅くなるらしいって話がネットでな~」

 よりによって今、そんなどうでもいい話かよ。

「おい城之内、桑谷は今日ちょっと用事が……」

 連城が援護射撃するのをものともせず、アホ城之内はずかずかと教室に入ってきた。

「かわりに増刊出るんだってよ。その表紙があの、知ってっか、望月もちづきるるあ、って巨乳のグラビアアイドル……」


 馬鹿野郎……。


「おい、どうしたよ」

 女子の冷たくも鋭い視線を浴びながら、陽佑と連城は額をおさえて沈黙した。

 空気を読まないアホ城之内の馬鹿話を聞き流しつつ、ふと見回すと、梅原はとっくにいなくなっていた。

 ……どうしたらいいのだろうか。梅原がグラビア云々の話をろくに聞かずにさっさとクラブに行ってしまったのは、当然の流れだろう。しかし。しかしだ。

「……城之内お前、ちょっと来いや」

「桑谷、助太刀するぞ」

「え、え、え、なんだよ」

 普段温厚なはずのふたりに襟元を引っぱられ、城之内は半笑いの表情のまま、ずるずると教室から引きずり出されて行った。


     〇


「……どーするよ」

 男子トイレで、いつもは温厚なふたりに鬼の形相で「空気を読め」と説教(?)し倒され、城之内がほうほうのていで逃げ出した後、連城は両手をぽんぽんと払いながら、陽佑を心配した。

「しょうがねえよ。しばらく待ってみる」

「でもクラブ終わりって、5時半になるだろ?」

「しょうがねって」


 そこまでつき合わせるわけにはいかないので、連城には先に帰ってくれと伝えた。このタイミングで渡そうと具体的に決めてしまえば、気持ちはかえって楽になる。クラブには荷物を持って行かない決まりになっているので、梅原は教室かロッカーに戻ってくるはずなのだ。もうそこしかない。同じクラブの佐々木とか宮野が一緒にいたら? ほかのクラブの連中も戻ってきたら?

「縁がなかったものと思って、あきらめるか」

 なかば捨て鉢な気分で、陽佑は教室の中を見回した。まだ十数人の生徒がだらだらと残っている。日直の美濃部みのべは、黒板の掃除に余念がない。暇なので、陽佑はリュックから勉強道具を取り出して、宿題にとりかかった。ブラスバンドの練習が聞こえ始めた。

「あれ桑谷、今日はまだ帰らねえの?」

「うん、ちょっとな」

 ごまかしつつ、居残る。そうするうち、生徒はふたり減り三人減り、ついに陽佑だけになった。窓の外はだいぶ暗くなりつつある。宿題が済んでしまったので、ガラにもなく英語の予習などしてみる。が、どうにもよくわからない構文にぶつかって放り出し、あきらめてすべてをリュックに詰め込んだ。立ち上がって、ぶらぶらと窓辺に近づき、校庭の様子をのぞいてみた。グラウンドでサッカー部がボールを拾って、一角に集合し始めた。向こうのテニスコートでは、たった今、解散の号令があったらしい。そういえば楽器の音もいつの間にか消えている。

 ――もうすぐだ。

「腹減ったー」

 どやどやと入ってきたのは、バレー部の連中だった。

「今日のパス練はひどかったよなー」

「お、桑谷じゃん、珍しいな」

「ああ、うん、ちょっと」

 しゃべっているうちに、ほかのクラブの生徒も徐々に戻ってきた。教室に座りこんでだべり始める者もいるし、荷物を回収してさっさと帰る者もいる。陽佑が雑談に混じりながら、ちらちら様子をうかがっていると、ブラスバンド部の佐々木と宮野も「つかれた」と言いながら教室に入ってきた。

「よお桑谷」

 などと声をかけられ、適当に返事をしているうち……ばたん、とロッカーを閉める音が聞こえた。陽佑の視界の端に、廊下を通り過ぎた梅原が消える一瞬が、映った。

「……だってよ」

 急に話を振られて、陽佑は男子らに向き直った。わざと何かに気づいた表情を作り、教室の時計を見上げる。

「あ、時間来た、俺帰るわ」

 あいさつもそこそこに、陽佑は立ち上がると、リュックを右肩にかつぎ上げて教室を飛び出した。廊下には「うえー」とか言いながら歩くサッカー部員がいるばかりで、梅原の姿はない。


 ――先月のお手本にならえ!


 陽佑は通行人をかわしながらダッシュした。泥まみれで歩いてきた樋口ひぐちとだけ「おう」と声をかわしながら、角を曲がり、靴箱にたどり着いたが、ここにも梅原はもういなくなっていた。靴を履き替える。


 まだ、あきらめるな!


 陽佑は段差をかけ下りた。疾走する。校門の手前に自転車置き場がある。

「梅原っ!」

 自転車を押して校門に近づいた女子に、陽佑は呼びかけた。こんなに暗いのに、形だけで、しぐさだけで、わかってしまう。梅原はびくっと立ち止まり、その間に陽佑はどうにか追いつくことができた。

「……どうしたの」

 梅原はヘルメットをかぶって、両目をぱちくりさせている。陽佑はといえば、それから数秒、呼吸を整える時間が必要だった。

「これ……」

 ようやく……リュックの底から、包みを引っ張り出す。間違いないことを確かめ、梅原に差し出した。

「先月の、お礼」

「えっ……」

 梅原は、陽佑と包みを見比べた。

「お返し、いらないって、言ったのに」

「……だからって、もらいっぱなしじゃ、こっちの気が、すまない」

 情けなくも、まだ息が上がっている。

「遅くなって、ごめん。なかなか、タイミングが」

 ……梅原は、しばらく沈黙した後、包みをそっと受け取ってくれた。

「律儀だなあ、連城くんも、ふたりして……ありがとう」

 ふわっ、と陽佑の胸の中が、暖かくなった。

「家族以外からお返しもらったの、今年がはじめて」

「それはそれは」

「……来年はあげないよ」

「そんな催促のつもり、ないし」

「ありがとうね」

 梅原は手を振って、校門を出ると、自転車をこぎ始めた。陽佑はへなへなとその場に座り込んだ。単純に疲れたし、受け取ってもらえて嬉しいというよりも、懸案事項がようやく片付いたという安堵の方が強かった。力つきた陽佑の姿を、生徒たちがいぶかしそうに見ながら通過していった。

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