29 男たちの哀歌

 昼休み、陽佑ようすけ連城れんじょう樋口ひぐち、桐野といったクラスの男子としゃべりながら廊下を歩いて戻ってくると、村松が、廊下に並べられたロッカーをごそごそしているのが見えた。

「おう村松、お前なにやってんだ」

 桐野が声をかけると、村松はちらりとだけ目をくれて、作業を続行した。

「見てのとーり、ロッカーの整理」

 中がぐちゃぐちゃなことで知られる村松のロッカーは、美々しく整いつつある。

「なんでまた急に」

「今日は何日だ?」

「2月の……10日だな」

「だからさ」

 数冊の教科書をまとめて押し込みつつ、村松が答える。

「時期的にな。ま、そろそろ整理しとこーかと。したスペースくらいは欲しいし。ま、念のためだ」

 ……脳裏で、今日の日付にいくつかの数字を足し合わせ、男子らは急にそわそわし始めた。

「おれも、そろそろやろーかと思ってはいたんだ」

「あ、……まあ、一応、な」

「おれは机の整頓から先にやろうかな」

 数人の男子がごそごそと動く。それを別の男子が目撃し、げらげら笑いながら深く考えずおちょくり、回答を聞いて、彼らもまた落ち着きをなくして、机やロッカーをいじり始める。


 かくしてその後数日にわたり、1年2組の男子生徒たちは、朝や昼休みや放課後といった時間を使って、おのおの机やロッカーの整理及び掃除に精を出した。机の中には引き出しを入れる方式のため、これを天板の上に引っ張り出して、念入りに磨き上げる奴もいる。教科書を、中央の仕切り板の左右に何度も移動させつつ「待てよ、こっちのスペースをあけておいた方が、入れやすいかな」と、両手で謎のシミュレーションをしながら意味不明のことをほざく奴もいる。一方廊下では、「これもう使わないから持って帰るか」と独り言をこぼしながら作業する奴がいれば、ロッカーが隣り合うふたりで「そこどけや」「おれが先に始めたんだ」と軽くもめる奴らもいる。念には念を入れて、靴箱の手入れに着手した奴もいる。果てはロッカーの中に「Welcome」「Thank You」などとデコレーションをほどこす野郎も現れた。

「……あれ何なの。今度は何が始まったんだろ」

 そんな男子の行状を、冷やかにながめる女子がいる。ぽかーんとするひとりの女子の耳に、別の女子が小さく何かをささやく。

「……嘘でしょ? え、本気で?」

「うちの男子って、ほんとバカだよね」

「誰がお前らなんかにやるかっつーの」

 女子は辛辣である。


 男子ばかりが異様にそわそわと落ち着かない数日間が過ぎた。そして、「その日」がやってきた。身辺整理にいそしんだ男子の、おそらく9割ほどが、勝手な期待むなしくいつも通りの1日を暮らすはめになった。それでも、「もう死んでもいい」と口走る喜びを贈られた男子は、多少いたようだ。大野などは、金津をはじめとする一部の女子から、教室内で堂々とチョコレートを贈られて、大気圏を軽く突破するハイテンションではしゃいでいた。もっとも彼らは半分以上をパフォーマンスで喜んでいるから、どのくらい本気かはわからないが。


 陽佑と連城は、その日をいつも通りつつがなく、平穏無事に過ごし、なぜか安堵よりもものさびしさを胸に抱えつつ、リュックを背に教室を出た。靴箱で靴を履き替えようとしたとき、女子の声で呼び止められた――顔を見上げる前にわかってしまった、梅原だと。あわてて追いかけてきたらしく、呼吸が整っていない。

「はい、手出して」

 しかつめらしく、梅原は手早く、陽佑と連城の手に、小さな一口チョコをひとつずつ乗せた。

「義理だからね。1学期にお世話になったから。あと、ジュースのお礼。それだけだから、ヘンな期待しないように。じゃあね」

 おそろしい早口で言って、梅原はぷいっと駆けて行ってしまった。

「……ありがとう!」

 あわててふたりの男子は、首だけを廊下に突っ込んで、かろうじて礼儀を守った。なぜか怒ったような動きで遠ざかる女子は、振り向かず、片手だけをぞんざいに振って、角を曲がって見えなくなった。

 陽佑と連城は、顔を見合わせた。手の上の小さなチョコをまじまじと見た。再び顔を見合わせた。

 ……男子二名の、意味不明の雄叫おたけびが、昇降口で炸裂したのは、その数秒後のことである。


     〇


 2月半ば。クラブに参加していない中学生が下校する時刻にさえ、すでに太陽の方が帰りたがっているという様子だ。

 学校を出る直前に大騒ぎした男子ふたりは、打って変わって黙々と、道を歩いていた。

 アスファルトもコンクリートも、ふわふわに柔らかい。

「おれ、今晩、眠れっかな」

 目に見えて真っ赤な顔で、連城が口走った。

「俺も」

 陽佑は素直に同調した。いつもと同じく白い顔色だが、内心は連城と同じくらい興奮している。声変わりの最中に叫んでしまったので、喉がひどく痛むけれど、今はどうでもいい。

 なんといってもチョコレートである。

 生涯で、家族以外からもらった、初めてのチョコレートなのだ。

 それも、――「特別な」女子からの。

 まさか本当にもらえるなんて思ってもみなかったのに。

 眠れる気がしない。いや、眠って、うっかりおかしな夢でも見てしまったら、どうしたらいいのだろう?

「……お返し、しなきゃ、ダメだよな?」

 不意に、連城が言った。

「あ……そうか。ホワイトデー……」

 治まりかけた顔の熱が、再び上昇する。

「……どーする?」

「あいつ、お礼だって言ってたけど……義理欠けねえよな?」

「だよなあ」

 熱に比して、声のトーンはどんどん下がっていく。

「買いに、行かねえと……」

「……ずい……」

「でも行かねえと……」

「……いや、わかってるけど」


 まだひと月先なのだから、今日は何も考えず、喜びに浸ろう。ふたりは交差点で別れた。自宅に着くと、陽佑は念入りに周囲を見回し、家族がいつも通りまだ帰っていないことを確かめて、ひどく後ろめたい気持ちで玄関を開けた。リビングで自分のスマホを回収して部屋に入り、スマホを机に置いて荷物を下ろし、なぜか周囲を数回見回して、大きく吐息をつく。ポケットから……夢ではなさそうだった。もらったばかりの一口チョコをつまみ出すと、そっと机に乗せた。

「……ほんとかよ…………」

 わざと声に出す。

 どこから見ても、ごく普通の一口チョコである。この時期だけに売り出される、特別な仕様ではなさそうだ。けれどもそれは、何百倍も光り輝いて見えた。しかも、陽佑の好きな、ピーナツ入りらしい。このまま置いておくのは罰当たりな気がして、陽佑はティッシュを1枚引き抜き、折りたたんで、その上にチョコをうやうやしく乗せ、柏手を打って拝んでから、天井を見上げてふーっと大きく息を吐いて、ようやく着替えにかかった。

 ごろん、とベッドに横たわった。まだ動悸が治まらない。ちらちらとチョコを見上げてしまう。ああ~、とうなって、ベッドの上でごろごろと転がった。俺は何やってんだろ、と冷静なツッコミを入れてみるが、熱はさめそうにない。「義理だからね」「ヘンな期待しないように」……梅原本人に言われた言葉を脳裏でリピート再生してみたが、冷や水どころか体感温度がさらに上がっていく。突然、陽佑は起き上がると、チョコをティッシュごと引いて、机の奥の方に押しやった。これで、家人がドアを開けてぱっとのぞいた程度では目につきにくい。陽佑はぱしっと両の頬を手のひらでたたいて気合いを入れ直すと、やるべきことを片付けるべく、リュックを開けた。英語の教科書とノートを開き、指定されたページの英文和訳を始める。ともすると視線は一点に流れて行き、つい顔がゆるんでしまうのだが。

 スマホが短く鳴って、陽佑はびくーんと体を硬直させた。なんのことはない、連城がメッセージを送ってきただけである。

『ホワイトデーって、チョコレートでもいいらしいぞ』

 ……気の早い男だ。陽佑は返信した。

「売り場見てから決めよう」

『勇気がいるな』

「しょうがない。ふたり連名で贈るか、別々か、どっちがいいかな」

『ふたりがかりで渡すのって難しくねーか? タイミングもシビアそうだし』

「じゃ、別々に用意しようか」

 待てよ。となると、ひとりで売り場を見に行かないといけないのか。……ホワイトデーの、お菓子山積みの売り場を、ひとりうろつく自分。……めちゃくちゃ恥ずかしい。連城と一緒に見に行って、別々に買うか。……それ余計に恥ずかしくないか?

 結局その日は相談はまとまらず、陽佑はひとりで机で頭を抱えて苦悩し、姉が帰宅した物音でようやく我に返った。



 その夜、陽佑は日付が変わってからも、これが「まんじりともせず」ってやつかと実感しながら、何度も寝返りをうっていたのだが、突然母親にたたき起こされた。空白はほんのわずかな間だったはずなのに、時計は遅刻寸前を示していた。音速で身支度を整え、お茶漬けだけかきこんで家を飛び出すはめになった。結局夢を見たかどうかはわからずじまいだった。連城の顔にもはっきりと、寝不足デス、と書かれていた。


 放課後、ある男子が、廊下で寂しく背を丸め、ロッカーの中のデコレーションを剥がす作業をしているのを、陽佑は目撃してしまった。これは見なかったことにするのが礼儀というものである。その男子とは、連城ではなかった、とだけ明言しておこう。

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