17 桜の下にて

 あれ以降、不破ふわ先生の動きを注視していれば、先生が山下や野村や三島といった男子ひとりひとりに接触し、事情を聞きだしていることは容易に見当がついた。そしてとうとう、最後に大野本人が、先生から呼び出される時がきたのだった。大野はもう驚きも狼狽も見せず、悄然とした様子で教室を出た。同級生たちは静かにざわめいた。山下たちはひと言も口をきかず、疲れ切ったような、よくわからない表情をしていた。陽佑ようすけと梅原はわざと、話どころか目も合わせなかった。連城れんじょうも自席で知らん顔をしていた。


 翌日、梅原は再び不破先生に呼び出され、戻ってきた。落ち込んではいないけれど考え込んでいるように、陽佑には見えた。


 その日の放課後、陽佑と連城はなんとなく無言のまま、靴を履き替えて外へ出た。運動部の号令、ボールを蹴る音、コーラス部の声出し、ブラスバンド部のロングトーンなどが入り乱れて活気づいていたが、少しばかり離れた世界での物音に感じられた。ふと校舎を振り向いた連城が、足を止めた。

「あれ、梅原じゃねーか?」

「……ほんとだ」

 1階の1年2組のテラスに、ひとり座りこんでいる女子がいた。間違いなく梅原だ。……この距離で見分けられるようになってしまった俺らって、いったい……。

「行こう」

 ふたりの男子は取って返した。靴箱で再度靴を履き替え、すれ違いになっていないか梅原の靴箱をちらっとチェックしてから、廊下を急ぐ。まだ教室には生徒が残っているだろう。ふたりそろってわざわざ引き返してきた、と思われたらみっともないので、廊下にあるロッカーにリュックを放り込み、「たった今校内で用事が終わって戻って来ましたよ」的な猿芝居で、のそのそ歩いて教室に入る。予想通り、教室には数人の同級生がいた。……ここでこのままテラスに出てしまったら、何しに来たのかモロにばれるな。でも、仕方がない。ぐずぐずしてもいられないのだ。陽佑は決心して、テラスに出るサッシをスライドさせた。


「……あれ、クラブ、休みなのか?」

 なるべくさりげなく、声をかける。梅原は顔を上げた。まず泣いてはいないことに、陽佑も連城もほっとした。といっても、明るい表情とも言いがたい。

「うん、今日ちょっと、出る気にならなくてね」

 梅原は再び、視線を落としてしまった。

 ……陽佑は、5秒間だけ思案した。

「な、ちょっと、来てほしいところがあるんだ。……連城も」

 自転車置き場のところで待ってる、と言い置いて、陽佑は連城を連れて教室を通り過ぎた。この場にいる同級生にはいろいろと見透かされてしまったかもしれないが、もう考えないことにしよう。リュックを引っかけ、またまた靴を履き替えて、自転車置き場にたたずんでいると、数分して、梅原が出てきた。


     〇


 陽佑と、連城と、自転車を押す梅原は、ぞろぞろと歩いた。梅原が左折してしまう交差点をまっすぐ進み、住宅地に入り、連城と左右に別れる十字路をまっすぐ進み、急に折れて、細い道へ入る。そのまま行くと、道が徐々に下りながら、曲がりくねる。

 不意に、家々が、ひらけた。

「おっ」

「わあ……」


 3人は川原に出ていた。土手の上に、1本の老木が誇らしく立っている。道は離れたところを通って橋になっており、ほどほどの交通量が流れている。


「こんなところ、あったんだな」

「あれ、桜なんだ。春はすごいキレイだよ」

「へえ……」

「ここ、うちから割と近いから、以前はよく来てた。中学入ってからは、さすがに、あんまり来れないな」

 橋げたのそばに、自動販売機がある。3人はいったんそこで停止して、飲み物を調達した。

「梅原、何がいい?」

 小銭を押し込みながら連城がたずねる。

「自分で買うよ」

「こーゆーときは、男がカッコつけるって相場が決まってんの」

「……聞いたことないけど」

 結局、陽佑がスポーツドリンク、連城が微糖の缶コーヒー、梅原がオレンジジュース(一番安かったもの)を選んで、土手にのぼった。水面は穏やかな流れを作って通りすぎる。川の向こうは、さらにもう1本の川まで農耕地が広がっていて、住宅地の合間にやや開けた景色となっている。川沿いの風が心地よい。桜からやや距離をとって、ベンチが置かれている。

「桜の下、じゃないのね」

「毛虫がひどいからじゃないかな」

「あー……なるほど」

 周囲に人はいなさそうだ。川原には車では入って来られないし、自転車がせいぜいである。ジョギングとか、近所の人の散歩とか、陽佑のようにここが好きな人とか、そうでない限りはわざわざ入ってくる人はないだろう。大声を出さなければ、住宅から聞き取られる心配もない。まさか、こんなところで中学生の会話をわざわざ聞き取ろうと、盗聴器とかドローンを使う人もいまいが。


「おつかれさん」

 ベンチに腰かけた梅原に、連城はジュースを差し出した。

「つらかったろ。俺ら……もっと早く、動けばよかったのに」

 陽佑も言った。そう、もっと早く動けばよかったのだ。不破先生に呼び出されたとき、今から動いただけでもまだマシだったと陽佑は思ったのだが、それは苦しんできた当事者の梅原には、決して言ってはならないことだった。

「ううん、……助かった、ありがとう」

 梅原の表情が、やっと少しだけ、なごんだ。

「いただきます」

「どうぞどうぞ」

 プルタブやキャップを開栓する音が続き、しばらく3人は無言になった。


「あのさ」

 ひと口飲んで、ひと息いれて、陽佑は切り出した。

「言いたくないことは、言いたくないって、断ってくれればいいから。……どうだったの、先生の話」

「うん……」

 梅原は、ペットボトルを一旦、膝までおろした。

「先生、大野くんから事情、聞いたんだって。自分がしたこと、認めたって。……それで、あたしが、大野くんにどうしてほしいか、聞きたいって」

 彼女はそこで言葉を区切り、頭の中を整理し始めた。


     〇


 ……すでに大野たちの様子がおかしくなっていることは、梅原も当然気づいていた。

 不破先生の呼び出しに応じた大野は、梅原への嫌がらせ行為を全面的に認めたらしい。動機はなんだったのでしょう、とたずねたが、不破先生から明確な説明はなかった。

「はっきりしない。もしかすると、大野本人にもわかっていないかもしれない。いらだちらしいものを抱えていることは感じ取ったが、きみ本人に対するものなのか、それとも全然別の何かへのいらだちをきみにぶつけているのか……どちらにしても、あっていいことではないけどね」

 山下たちほかの男子については、ムードメーカーである大野と一緒に同じことをすれば、自分たちも大野と同じように目立てる、程度の考えでしかないことがわかった。やっぱり薄っぺらかったなと、内心で梅原は思った。大野は当初から梅原を敵視してきたが、ほかの男子は学期の途中から、大野の尻馬に乗る形で参加してきたからだ。大野が梅原への攻撃意欲を喪失すれば、失速するのは明らかだった。


 ただね、と不破先生は首を傾げた。

「あの子たち自身に聞き取りを始める前から、どうも、意気消沈しているみたいだね。反省しているというか、後悔しているというか、……なんか怖いものでも見てしまった後、みたいなね。きみに対して悪いことをしてしまったというより、ひどくみっともないことをしてしまった、ようなニュアンスがあったな」

 ……先生の微妙な言葉づかいを、梅原は拾い上げた。

 つまり、――あたしに対して悪いことをしたと思っているんじゃなくて、自分の行為をかえりみてみっともなかった、と思っている……ということ?

 両者は同じようなものに思える。けれど、不破先生の言葉の選び方に、梅原はかすかな段差を感じ取っていた。


 だとしても……彼らをそんな境地に導いたもの、とは?


「先生、あたし、最初に先生に呼び出された前日まで、大野くんたちはあんな感じだったのに、ひと晩たっただけで、様子があんなに変わるなんて……なんで急に、心境が変わったんでしょう?」

「それもわからんのよ」

 不破先生は首を振った。

「大野本人は、ある人物から、お前らがやっていることはいじめだぞ、と指摘を受けて、目が覚めたと言っている。――だがどうも、なにやら矛盾を感じるな」

 不破先生は大野を呼びつけた際、指摘されるまでいじめだと自覚していなかったのか、とたずねてみた。自覚していなかったと、大野は答えたそうだ。

「まあとにかく、大野もほかの連中も、自分たちの非を認めて、もうやらないと言っている」

 それでしばらく様子を見てはどうかと思うけどね――口の中でいくつかの語をシュレッダーにかけてから、不破先生はたずねてきた。

「そこで、梅原は、どうしてほしいと思うのか、考えを聞かせてほしい」

「え」

 梅原は、戸惑った。

「どういう、ことでしょう」

「つまり、みんなの前で大野たちに謝罪してほしいとか、もう顔も見たくないからクラス編成を変えてほしいとか、全員の保護者をまじえて話した方がいいとか、もう嫌がらせをせず必要最低限の関わりだけですむならこのままでいいとか。実現できるかどうかはその後のこととして、ひとまずきみの意向を聞いておきたい」

「……………………」

 すぐには反応できない梅原だった。


     〇


 ……彼女の話を聞いている途中から、陽佑は顔を上げにくくなった。大野にいじめを指摘した人物って……俺、かな。俺が、あいつらにあんなにショック与えたのかな。……連城が、マジか、という顔をしてこっちを見ている。


「えーと、それで、梅原はどう答えたんだ」

 取り繕うように連城がたずねる。幸い梅原は気づいていなさそうだった。

「……そのときはね、こう思ったの。謝ってもらったところで、なかったことにはできそうもないし、正直もう、謝罪されるって形ですら、関わりたくないの。だから、もういいです、謝罪もいらないし、また何かあったら相談に乗ってくれそうな人もいることがわかったし、もうこんな目に遭わなくていいならそれ以上望みません、って」

 ……謝罪という形ですら関わりたくない。当然だろう。彼女は、中学生という新しい門出に、いきなり泥を塗られてしまったのだから。しかもまったく身に覚えのないことで。

「けどね。時間がたつうちに、わからなくなっちゃったの。あたしは大野くんに、どうしてもらったら気が済むんだろうって。クラスの全員が見ている前で土下座させたらすっとするのかなあって。でもこれって、大野くんに負けず劣らずひどいよね」

 ……返事に困る。力で押さえつけられ、その力がいきなり消えれば、反動が起こるのは当然のことだ。けれどそれを大野と同じだと評されると、どう答えればいいのかわからなくなる。

「もう、自分がぐっちゃぐちゃになっちゃった。……これがおさまったら、気持ちが軽くなるに違いないって思ってたのに、なんか、ヘンなの」

 梅原はジュースを飲んで、少し笑った。


     〇


 そろそろ帰るね、と言い出した梅原に、陽佑はひとつだけたずねた。

「大野たちがあんなに落ち込んだ理由、梅原はなんにも、心当たり、ないんだよね?」

「ううん、全然」

 梅原はためらいなく首をふった。


「そっちの道を出て、右へ曲がって、次の角をもう一回右へ曲がって、あとは道なりに行くと、あの大通りのドラッグストアの横に出るよ」

「うん、ありがと」

 聞いてくれてありがとね、と再度礼を言って、梅原は自転車を押して帰って行った。


 ――彼女を見送った後、陽佑がやや顔を曇らせたのに、連城は気づいた。

「……梅原に聞かせられない話か?」

「うん、ちょっと酷だと思う」

 陽佑はスポーツドリンクをごくごくと飲んだ。


「大野たちは、梅原をああやって罵倒したり答案用紙のぞいたりしていたけど、それ以外のことはしていないってね」

「ああ、梅原はそう言ってたな」

「……いじめって何を連想するかっていったら、暴力ふるったり、所持品壊すとか隠すとか、バケツに上履きつっこんだりとか、カギかけて閉じ込めたり閉め出したり、あとネットに悪口とか個人情報さらしたりとか、カツアゲとか……」

「……すさまじいな」

「だから俺、大野に、いじめって言葉使ったのはきつかったかなって思ったんだよ。……なんで、そこまでは、やらなかったんだろう。……ネットの方はわからないけどさ」

「…………確かに」

 陽佑は、ペットボトルを額に当てた。少し、気持ちが悪い。

「大野は、梅原のこと、単純に嫌いなんじゃなくて……興味のある嫌悪、なんじゃないかな」

「興味のある嫌悪?」

「いや、そんな言い方があるかどうか知らないよ。ただ……梅原に興味は持っていそう、すごく」

 でなきゃ、あんなに執拗に答案用紙をじろじろ見ないだろう。それに、梅原が何か言いかけると近づいて行って罵倒するというのも、梅原の声に耳をそばだてている、ということの裏付けではないのか。

「めんどくせえな、なんだそれ」

「俺の勝手な推測だから、本当かどうかわからないよ。ただ、考えていたら気持ち悪くなっちゃってさ。誰かに吐き出さないと、つらくなって」

「……で、結論は出たのか」

「ないよ。勝手な推測なんだから。でも」

 大野を、そんな無茶苦茶な行動に駆り立てたものは、何だったのか。


「たとえば、大野が、教室のムードメーカーみたいなキャラ付けに自分で疲弊していて、そのガス抜き相手として、梅原にストレスをぶつけていた」

「なんだその、自業自得の結果を無関係の奴にたたきつけるような仕組みは」

 連城のまとめ方はなかなかうまい。

「あるいは、いつか話したみたいに、大野は梅原を見かけるたびに、なんかイヤなコンプレックスを刺激されて、攻撃せずにはいられない気分になっていた」

「そんなの大野の問題であって、梅原にぶつけるのはスジ違いだろ」

「理屈で考えればね。でもこういう感情って、たぶん理屈に従ってくれないんだと思う」

 陽佑は、ペットボトルをぽちゃぽちゃ振っていたが、しばらくして動作を止めた。


「……もっと気味の悪い可能性、言ってもいい?」

「……なんだよ」

「大野が、俺たちと同じ……つまり、……」

「おい…………」

 すっ、と連城の顔が青ざめていく。

「まさか、……あいつが、梅原を……?」

「……可能性、なくはないだろ?」

「やめてくれ、いくらなんでも、やってることがえげつなさすぎだろ!」

 連城がベンチから立ち上がる。

 陽佑は、左膝に左肘をついて、頬杖の姿勢になった。

「なあ連城、小学生の時、好きな女の子にわざと意地悪して、気を引こうとしてた男子って、いなかったか?」

「そりゃ、多少いたよ」

「それの……バージョンアップ版、と仮定したら、どうだ?」

「……やめてくれ……」

 陽佑は、いつか思索の沼で行方不明になってしまったある恐ろしい仮定、というものに気づいてしまったのだ。梅原に対して、陽佑と連城は好意を持っているが、大野は逆に、嫌悪を持っている。自分たちと大野では梅原への「気になる」の方向性が真逆だと思っていた。しかし……本当に真逆だろうか、と陽佑は嫌な疑問にけっつまづいたのだった。

 小学生男子あたりなら、気になる女子にわざとちょっとしたいたずらをしかけて、反応を面白がるという行動もあるだろう。しかし、梅原に向ける大野の態度は、執拗で、冷酷なものだった。幼稚、という表現に収まらない、奇怪な形をしているように見える。


「あくまで可能性の話だよ。でもこれなら、説明がつく気がするんだ、恐ろしいことに。大野が自分をどんどんコントロールできなくなってしまうのもわかる気がする。あんなに因縁つけても、梅原はほとんど反応してくれない、だからいらだちがどんどん大きくなっていって……」

「桑谷、やめてくれ」

 陽佑は、黙った。

 力なく、連城が腰を下ろす。

 桜のずっと下を、川はゆっくりと流れて行く。

 橋の街灯が点灯する。


「……ありそうなのは2番かな」

「絶対に3番はダメだ」

 ふたりの男子はベンチから立ち、桜の木をしばらくながめた。

「春にまた来てーな」

「うん、いい景色になるよ」

 土手をくだり、自動販売機そばのごみ箱に、空き缶と空のペットボトルを捨てる。


 連城が、陽佑の肩を引いて、手を差し出した。

「梅原のジュース代、半額、65円」

 ……陽佑はポケットから財布を引っ張り出した。

「……5円負けてくれ」

「ここに案内したの、お前だもんな。しょーがねえ、負けちゃる」

 ……カッコつけるのも、楽ではない。

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