11 感情についての考察
1年生たちが中学校生活に慣れてくるにともなって、大野はさらに元気にお調子者ぶりを発揮していった。英語の授業であてられると、短い英語スピーチの中で、担当の女性教師である
梅原だって、女子と多少の雑談をすることはある。しかし、大野はそれを目ざとく見つけて梅原に「黙ってろ」とか言ってくるレベルになってきた。山下や金津らがそれをくすくす笑って見物している。2組の生徒たちがとっさに固まってしまう瞬間に、大野は梅原から顔をそむけ、巨大な冗談を言う。山下たち、金津たちがどっと笑う。ほかの生徒には微妙な空気が流れる。
陽佑は嫌な感情に満たされてしまう。
……ふと、
――何だったのだろうか。
まあ、双川はともかくとして――。
「いい加減不愉快だな」
帰り道で、陽佑はそうこぼした。
「やっぱりお前もか?」
「そりゃそうだよ」
「ちょっと驚いた」
「俺だって不快感くらいあるよ」
茶化されたように感じて、陽佑は連城に穏やかに抗議した。
「いや、ゴメン。なんかお前、あんまり顔色変わらないから」
「……よく言われるけどね」
陽佑はしばしば、喜怒哀楽が鈍いんじゃないかと言われることがある。情緒欠陥人間のように言われるのは、陽佑自身心外だ。ただ、言われるのも無理はないかという自覚もある。
喜はわりと素直に出る人間だと思う。友人との会話ではげらげら笑っているし、それなりにしゃべっていて、口数が少ないということはないだろう。しかし、怒と哀、特に怒りの感情がどうも苦手だ。うまく表現できない。
怒るとか悲しむとか不快感とか妬みとか、そもそもそういう感情を、陽佑は好きではない。そういう感情に自分が支配される状況が好きではない。なにより、怒るのは、疲れる。疲れる上に自己嫌悪になってしまう。情緒はちゃんとあるのだが、嫌な感情がこみあげてくるのを、ああ嫌だなあとぼんやり思ってしまう。さらに、陽佑は顔色が白い。強い感情で顔が紅潮する、ということがほとんどない。陽佑本人は「頬が熱いな」と自覚しても、他人から見れば顔色がまったく変わっていない、という現象になる。不愉快になっても、眉根が少々寄る程度で、ぼさっとした普段の表情があまり変わらないし、口調が激することもないので、こいつ怒ったことあるのかな、という疑念を持たれがちなのだ。
そんな陽佑でも、大野たちの梅原への攻撃は、腹にすえかねるレベルに入ってきたように思える。ただ困ったことに、このいらだちをどう表現すればいいのか、わからないのだ。普段怒らない人間は、怒りを感じた時、持て余してしまうらしい。
先生に相談すべきか? それって、自分たちが勝手に動いていいことなんだろうか?
「梅原はさ」
連城が口を開いた。
「何度もしゃべってきたからわかるけど、梅原って、おれらと同じだよな。大野のああいうノリは、好きな奴だけでやれば、って感じの」
「うん」
陽佑は短く答えた。ああこいつも同じこと感じてたんだなと、少し安心しながら。
「けど大野って、おれらには別にどうってことなかったけど、なんで梅原にばっかり、ああなんだろう」
「それは……」
あごを上げ、眉間にしわを寄せて、雲よりももっと上を観察してから、陽佑はつま先の前方百メートルほど先に視線を落とした。
「俺らと梅原の違いって、男子か女子か、くらいのもんじゃないか」
「…………」
「いや、俺らの知らないところで、梅原がなんか、大野のコンプレックス刺激するものを持ってるのかもしれんけど、それはもうわからんし」
「大野って、そんなに女子ウケがほしいかねー」
あきれたように、連城は嘆息した。陽佑も連城も、女子にモテないよりはモテる方がいいな、とは思っている。ただ、自分は女子にモテるタイプではなかろうし、モテるために一生懸命努力するガラでもないし、そこまでしてモテなくても、という思いの方が強い。だからより一層、大野の神経がわからないのだ。
「そのくせ、なんで梅原だけ……。そもそも……梅原は、どういう解決を望んでるんだ?」
連城が口にした。
梅原は……どうなりたいんだろう。大野と仲直りしたいのか。もう金輪際関わりたくないのか。謝罪してほしいのか。それによって、どうすればいいかは、異なってくるんじゃないだろうか。
根がぼんやりした人間のサガだろうか。つい理屈っぽく考えてしまって、どう踏み出していいかわからなくなる。
〇
連城と別れてから、陽佑は重苦しい思考に沈んだ。沈みたくはないのだが、原材料が重すぎて、浮かび上がってこないのだ。
自分と、連城と、たぶん梅原。共通しているのは、「大野は楽しそうなヤツだけど、まあご自由に」という感性だ。楽しい奴だと思う。でも別に四六時中もてはやそうとは思わない。ひとりの同級生として関われれば、それでよかった。特に嫌い合う仲になりたいわけでもないし、特段仲良しになりたくてたまらないというほどでもない。
大野は少なくとも、自分と連城にはそう接してくれていると思う。クラスの男子のひとりとして。しょうもない雑談で一緒に盛り上がることもよくある。基本的に陽佑は、大野のことは嫌いじゃないし、面白くて楽しい奴だと思う……思っていた。
でも今は……。
自分と連城のふたりと、梅原はどう違うのだろう。相違点のどんなところが、大野のカンにさわったのだろうか。……梅原が女子ということか? 基本的に大野は、男子よりも女子にウケたがる。梅原が自分をちやほやしてくれないからか? いや、最近ようやくわかってきたのだが、女子にもいろいろいる。金津のように大野に積極的に近づく女子もいるが、大半はそんなに、いつも大野とくっつきたがっているわけでもない。クラス全体から見れば、大野の取り巻きは少数だ。大多数の考えていることは、実は陽佑とそんなに変わらないんじゃないかと思う。大野を、愉快な奴だとは思うけど、そんなにいつも一緒にあれこれしなくてもいい、というような。たぶんそれが普通だ。大野がうまく冗談を言うから、みんなどっと笑って面白がっているけれど、だから大野とはものすごく親しい、といえるわけではない。
……となれば。梅原が女子だからという理由だけでは、大野に嫌われる原因とは考えにくい。むしろ梅原は、ほかの女子にない特異な部分で、大野の神経を逆なでしている(というか、大野が勝手に逆なでされている)ということになるか。
女子の中で、梅原だけが、特殊な部分を持っている。
大野はそれが気になるのだ。
陽佑や連城と同じように。ただ、「気になる」の矢印が、真逆だけれども。
……大野は、梅原にもちやほやしてほしかったのだろうか。クラスの女子全員からもてはやされたかった、のだろうか。梅原ひとりのせいでそれがかなわなかったので、大野は梅原を攻撃した、としたら? かわいさ余って憎さ百倍、というやつだろうか。けれどそれは、大野が、梅原を強烈に意識しているということでもある。
大野が梅原にしていたのは、嫌がらせにしか見えなかった。女子に愛嬌を振りまく底抜けに明るい態度と、梅原ひとりに向ける冷たく尖った言動と、露骨なまでの落差に唖然としていた同級生はけっこういるんじゃないだろうか。ムードメーカーでもあった大野の機嫌を損ねると後々面倒だから、指摘する者は誰もいなかったけれど。現に、大野に嫌われた梅原は、クラスから浮いた位置に固定されていた。みんながなんとなく梅原に近づきにくい空気を、大野が教室に充満させてしまったのだ。例外は、ぼんやりして空気を読まない男子約二名くらいだったかもしれない。陽佑も連城も、「大野に嫌われているらしいから」という理由で梅原を忌避しようという発想はまったくなかった。ちょっと関わっただけで、梅原がさっぱりしたいい奴だということは、理解できたからだ。
けれど。
大野だって、いつかは知ることになるはずだ。世の中には一定数、自分に興味を持たない女子がいるということを。そのとき、あいつはどうするのだろう。たぶん、大野が梅原に詫びるには、遅すぎるタイミングになるだろう。いや、詫びる気持ちになるかどうかも怪しい。
ちょうど自宅の玄関にたどり着いた時、陽佑の脳裏を強烈な悪寒が貫いた。何か……なにか、おぞましい可能性がかすめたような気がする。陽佑は鍵を取り出す手を止めて思考に集中してみたが、それはもう暗がりの奥に消えてしまい、見つけることができなくなっていた。
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