第23話
ゆっくりと、瞼を開いた。長い夢を見ていた。ひとりでに生じた内言は、今しがた経験してきた記憶から生じた。夢の中に作られた「虚構の一生」であったことを再認識した結果としての、表象であるように思えた。
網膜に映る、自室の全容をとらえた。屋外から聞こえてきた車の通る音、セミの羽音を同列に認識した。空気の振動を肌で感じた。身体感覚がより有機的に統合したのだろうか。記憶として見慣れていたはずの光景が、膨大な情報を持ち合わせているように思えた。
直感的に、母親がこちらへ向かってくると分かった。当然視界にとらえていたわけではなく、足音もしていなかった。
「これが、勘か」
戦いに身を置いた虚構の一生では、幾度も助けられてきた感覚だった。
松木は、部屋を出て、すれ違う肉親に応じながら、今日の予定を反芻した。インターンシップでの単位認定試験の受験はすでに申し込み可能となっていた。ただ、受験は明日にしようと判断した。まず今日一日は、ほかの受験者の様子や、対峙する相手の情報を把握・収集することが得策であると、理由を自身に提示した。
脱衣所に入ると、着衣を脱いだ。
鏡面に映し出された自らの姿に、瞠目した。
見慣れた顔の下に、年齢にはあまりにも不相応な肉体が、実体として存在していた。これまで、映画やスポーツ中継、格闘技番組でしか目にする機会のなかった、鍛錬の帰結が具現化したものだった。
明晰夢の中で学習した知識、身に着けた技能は覚醒時の世界と同期する。これまでに把握して活用してきた特性だった。とはいえ、非物質である情報にとどまらず、実際の物理現象として自身の肉体に変化が生じたことに、純粋に驚いた。しかし、特に狼狽することはせず、入浴を済ませ、身支度を整えると、自宅を出た。
馴染みの路地を視野に収めながら、駅へと足を進める。
「虚構の一生での経験が、想定外の事象に対峙した際の態度を、根本的に変えたのかもしれない」なんとなしにつぶやいた言葉を、自己分析の結果として隅に置いた。
一日の情報収集と並行して、覚醒時には、身体感覚を確かめながらインターンシップでの訓練に参加した。料理の技能を得たときと同じく、明晰夢での感覚と比較し違和感はなかった。就寝後は日中に収集した情報を踏まえ、覚醒時には実現不可能な形で強度を増した訓練で備えた。
翌日、松木は認定試験の時を迎えた。
相手の隊員の動きを見切りつつも、フェイントを交わし、想定した動きをなぞった。
意図したとおり、隊員の動きを封じ、単位取得の認定を得た。
判定員が明らかに動揺している様子が、見て取れた。相手の隊員も、平静を装い丁寧に対応しているが、想定外の出来事だと感じているのが分かる。はたから見れば素人の学生にいいようにされたのである。腹の内では憤りが渦巻いているのだろうか——。
不意に、「一瞬の出来事だった」という心象が、脳裏に靄のように広がろうとしているのを感じた。意図せず出現した妄言だった。追って僅かな差で、すかさず鞭を打った。根拠のない慢心こそ最も忌むべき行いである——いまだ内包する己の未熟さを、痛感した。
直後、別の隊員から模擬戦の申し出があった。対面した瞬間、圧力を感じた。粗雑さや野蛮なふるまいをしているわけではなかった。むしろ、学生に対し優しく声をかけ、気を使っているのが分かる。これまで、警察官として対峙せざるを得ない「修羅」を幾度も超えてきた——経験の厚みが醸し出すものだということを理解した。
模擬戦が終わり、「試合としては」引き分けとなった。
戦いに身を置いた虚構の一生と、この現実世界との間に「決定的に存在する差」を認識した。虚構の一生は、効果的に相手を無力化することを念頭に置いていた。判断の猶予がない場合、時として非情な選択を行う場面が幾度もあった。しかし、模擬戦は終了すればまた日常がある。致命傷となりうる攻撃を想定した寸刻の後、一時的な無効化の観点で再度判断をし直すその一瞬に、迷いが生じていた——。
言い訳がましい内言が鳴りやむまでに、そこまで時間はかからなかった。結果的には、いまだ力不足であることに変わりない。どのような状況下においても完全に制御できてこそ力なのだと、自らを諭した。
一方、目前の強者と対峙した結果、得られたこともあった。昨日には自覚できていなかったが、先ほどの模擬戦を経て、身体感覚と実際の動作にわずかな誤差が時々生じることを見出していた。
「まだ、俺は強くなれる——」今後は、この差異に意識を向けながら鍛錬を継続しようと、決意を新たにした。
模擬戦をした男性は、ほかの隊員から「ホンゴウ」と呼ばれていた。
一戦を経た後、視界の端で観察していた。すると、彼の身体の動作に僅かな違和感を得た。
同時に彼のもとへ向かっていた。距離を詰めながら、彼の手から滑り落ちる端末を、まるで舞い降りる羽を目で追うようにゆっくりと視認した。画面には、男性の顔が映し出されている。なぜか、既視感を覚えた。ただ、このままだと端末が、画面部分を下にして地面へ叩きつけられることが想定された。
乾いた音が控えめに響いた。
「大丈夫ですか」
松木は、指先に無機質でひんやりとした感触を得ていた。持っていた端末を素直に目前の男性へ渡した。改めて近くで見ると、今更ながら屈強な体格をしているなと思った。彼は「助かったよ」と礼を言い、ほかの隊員とその場を後にした。去り行く後ろ姿が、妙に緊張感を漂わせていると感じた。
世話になった隊員らに礼を言い、訓練場を後にした。駅に着くころには、陽がだいぶ低くなっていた。それでも、暦とずれた夏の痕跡が、湿気をいまだ感じさせた。広場に備えられた街灯はすでに光を放っていた。
端末の通知に気づいた。
確認すると、「ついでに買い物してきて頂戴」との連絡だった。幸い駅から少し歩いたところには、大型ショッピングモールが営業していることを思い出した。
ひとりでに開くガラス戸をくぐると、屋内は吹き抜けの広場となっていた。時折イベントが開催されるのだろうかと、なんとなしに思った。壁際には待ち合わせや、時間を持て余している思い思いの人たちが見て取れた。
群衆の中に、久方ぶりの面影を認識した。
叶だった。松木が、見知らぬ男子学生に突き飛ばされる直前に見かけたのが、最後の記憶だった。ただ、感傷に浸るよりも前に、周囲に漂う「負の感情」をかぎ取った。その源泉は叶と談笑している男だった。大学生くらいだろうか。清潔感があり、時折見せる笑顔は人当たりの良さを演出している。松木の「勘」が、目前の好青年と評されるであろう人物に対し、否と答えていた。
併せて、当該の直感が、叶に対する幼馴染としての感情によるものではないことに確信を持ち、胸をなでおろしたところだった。男は、機動隊で手合わせした「ホンゴウ」の端末に表示されていた人物だった。
2人は同じ階にあるフードコートへ移動していた。叶を席に残し、男が注文を取りに行くのが見えた。叶は、端末に目を落としている。一方、男の方へ注意を向けると、やけに周囲を気にしているように見受けられた。松木は、少し俯瞰し周囲を把握した。結果、男と呼応するように不自然な動きをする者がいることに気づいた。どうやら相互に面識がある様子である。対象者は2名かと思えたが、最終的に3名であると判断した。男が注文しているカウンターにいる店員も一味と識別した。
特に、店員と男の目の合図から負の感情の痕跡を読み取った。カウンターの店員の手元に違和感を覚えた。別の店員がすでに蓋をしたドリンクをもう一度開け、「粉状の何か」を混入したところを、見逃さなかった。
松木は、立ち上がると行動を開始した。まずは、得体のしれない飲み物の処理が先決と判断した。さりげなく、男に近づくと、持っていた飲み物がこぼれるようにぶつかった。
ドリンクの容器は、控えめな湿った音とともにフロアへ叩きつけられた。男が因縁をつける隙もなく、死角を作り急所を押え気絶させた。男が派手に倒れ込み無関係なものの注意をひかぬよう、留意した。数秒後、男のただならぬ様子を見て、想定通り周りにいた不審な仲間が駆け寄ってくるのを視野の隅で知覚した。店員もカウンターから慌てて出てきた。
場所を変えるべきと判断し、叶のもとへ向かった。目が合った瞬間、叶は目を見開いた様子だったが「逃げるぞ」という松木の声を聞き何かを察したのか、手を引く松木に従った。
階段を駆け上がり、立体駐車場エリアに来た時だった。ただ息を切らす声が聞こえるのみだった叶から、言葉が発せられた。
「もう、いいよ。だって、健人には関係ないじゃん」
叶の声から、単なる拒絶でないことは感じ取った。彼女自身、素直にあの場から離れることを選択したこととも、関係があるように思えた。
「一緒にいたあの男とは知り合いなのか」
問い詰める感じにならないよう、松木は声色に十分注意した。叶が明らかに動揺しているのが見て取れた。それでも言葉を濁しながら、「本当はいい人だよ、きっと」と繰り返す。その言葉の裏から、叶自身、あの男から確信とまでは言えないものの「負の気配」を感じ取っていたように思えた。
「今度はその子を食い物にするのかよ」
状況を打開するように、若い少し低めの声がした。声の主が、松木自身につかみかかろうとしている様を、背後に把握した。声の主のたくらみは潰え、地面に突っ込む形となった。松木は、目前の起き上がる男の顔を確認した。
声の感じに聞き覚えがあった。前に叶を見かけたときに、道路で突き飛ばしてきた男子学生だった。
「俺の妹が未遂だったから、許すと思ったか! 変な薬を飲ませようとしやがって」男子学生は、再び松木に向かってきた。ただ、先ほどまで観測していたような「負の雰囲気」を、目前の彼から感じることは無かった。
一方、対極にある「既出の元凶」が、そばに来ているのを既に気配で感じ取っていた。
「勝手にどっかいかないでよぉ、叶ちゃん。あー、君ガードが固くて、もう面倒くせーや」
叶の驚く声とほぼ同時に、負の感情をまとった声が響いた。叶と一緒にいたときとは違い、もはや好青年の面影はなく、不敵にゆがんだ笑顔が気味悪さを増長させていた。そばには、先ほど松木が認識した男の仲間3人もいた。
鈍くこもった音が、数発続いた。
松木は、自身の体に男の負の感情が打ち付けられるのを感じ、床に転がった。
男子学生の「どういうことだよ」という声と、叶の悲鳴が聞こえた。
「さっきはふざけたマネしやがってよお」負の感情を有する男が、松木自身のもとへ歩み寄ってくるのを感じた。間合いを見て、立ち上がった。
続けて、叶のそばにいる男子学生に向かい質問した。
「こいつらの仲間ではない、ということでいいんだよな」直感的にはわかっており、形式的な問いに近かった。男子学生が肯定の反応を示すのを確認した。
目前の挑発的な暴徒へ、一応の警告を告げた。
「過剰防衛にならないように、気をつけますね」
あえて感情を込めなかった声とともに、松木は行動を開始した。
虚構の一夜の晩年に受けた苦痛を基準にしてしまえば、覚醒時に受ける打撃の痛みはほぼ無痛と言わざるを得なかった。受け身もとれており、自身の身体には害を受けていないことを確認していた。
先ほどまで負の感情をまとい得意げになっていた男が、今は、地に這いつくばりうめいている様を認識した。依然、意識はうめいている声の源泉に向けていた。あまりの一瞬の出来事に男の仲間らは、ひるんでいる様子だった。
次の瞬間、明瞭で重い声が、一体を包んだ。
「全員動くな、警察だ」
一人の大柄な男を先頭に、制服のものと、そうでないものが入り混じった集団が、なだれ込んできた。
「た、助けてください、このガキが俺を殴って」
地に這いつくばった男は、先頭を切って入ってきた大柄な男へ、白々しく訴えかけている。それを受けて、警察の者と思われる男が近づいてくるのを松木は目にした。
彼は、「ホンゴウ」だった。
「お前がいままでやってきたこと、しっかり署で聞かせてもらおうな」免罪を目論んだ男に対して、凄みをまとった端正な顔立ちで、語りかける声が響いた。
直面していた危機が去ったのを、松木は慎重に確認を終えた。
同時に、叶とどう接するべきか気がかりになり始めていた。終始、叶の様子は気にかけていたが、タイミングを見計らえずにいたところだった。
叶の、震える声が聞こえた。
「私のせいで、またまきこんじゃってごめん」
目に涙を浮かべた叶の顔があった。図書館での事件に巻き込まれ、入院していたころに訪ねてきてくれた時の姿と、重なった。
松木は、伝えられなかった言葉を、今度こそ伝えることに決めた。
「図書館でのことも、今回のことも、俺は叶のせいと全く思っていない」他意の無い、本心からの表明だった。
松木の声を聞いて安心したのだろうか。緊張の糸が切れたように泣きじゃくる叶の様子を、見守った。
その夜はあわただしく過ぎた。警察からの事情の聞き取りを受けた。ただ、記録されていた防犯カメラ映像のおかげで、思いのほか拘束時間は少ない形となった。一方、これまでに少し話しただけだった面々と交流を持つ機会となった。
「ホンゴウ」は、やはり苗字だった。ただ、機動隊ではなく現在は刑事をしているとのことだった。詳しくははぐらかされたが、叶が一緒にいた男性の関わっていた犯罪グループの検挙のために、作戦が組まれていたため、今回の状況で介入できたとのことだった。
これまでに松木に介入してきた男子学生は、
互いのわだかまりが解け、待ち時間の間にしばらく会話したときのことだった。
「そういえば、お二人、学園に通っているんすね」先ほどまで危険な目にあっていたのをまるで忘れたのかと疑うほど、天真爛漫な大門寺の声が聞こえた。
「学校違うから普段は合わないかもだけど、せっかくの機会だしまたどこかで交流したいね」叶の話した言葉を受けて、大門寺の少し幼い顔が横に引っ張られたように笑う様子が見えた。
「いや——案外すぐ、会えるかもしれないっすよ」
その言葉の意味を、まだ松木と叶は知らなかった。
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