第20話
背中に、少し硬い弾力を感じていた。向かい合った天井は、日中に初めて見た時と同じだった。何と無しに腕を上げ、天を仰いだ。白色の蛍光灯は、特段まぶしいと思わなかった。まるで実体を有するかのように、ごく自然に室内を照らし続けている。
松木は、煌めきをそのまま手中に収めるように握りしめてみた。しかし掌に感触を得ることはなく、空を掴んだだけだった。精密に構築された明晰夢の中であることを鑑みれば、何ら不自然ではなかった。あえて脱力させた上肢が、勢い付いて床面に向かうのを感じた。やや重い痛みが走り抜け、衝突音がこだましたのを聞いた。重なる鈍い音が、天井の高さを否応なしに認識させた。
就業体験は数日前から始まっていた。無論、準備を怠っていたわけではなかった。先の橘との会話から、活路を得ていた。自身の見出した「明晰夢での修練が現実へ継承される」という特性を利用することを目論んだ。
手始めに国立図書館を訪れ、情報を収集した。何らかの情報を得たいとき、もはや影山に相談することは習慣となっていた。一利用者からしても、彼が司書として有能であることは明らかだった。
知り合った時に影山が話していた「いろんな分野のおすすめを紹介する」という言葉に、偽りは無かった。形式科学、自然科学、人文科学、社会科学、応用化学——どのような分野においても、快活で独特な調子の声が鳴りを潜めることは、皆無だった。
今回も、彼の有能ぶりは健在だった。松木の提示した「格闘術」という分野に対し、次々と資料が提案された。中には、書籍検索端末では到達しえないようなものが多分に含まれていた。
影山は「つうと言えばかあ」と答えるように、松木の意図を汲んでいた。初めのころは、提示する資料は数点だったが、次第にその数を増やすようになっていた。ここ最近ではその数が時に十数を超えることもあり、提案とともにリストにして渡してくれるようになっていた。
「あなたって、何か面白い能力でも持っているのかしら」
リストの用紙が10枚を超えたころ、影山が抑揚の付いた調子で言葉にするのが聞こえた。ただ、そこに皮肉的な負の感情が伴っていないことは、明らかだった。影山は時々ふざけてこのような調子になることがある。わざとらしくウィンクしてくる目前の大柄な男性との会話は、もはや習慣となっており、嫌いではなかった。
実際、影山の計らいは有難かった。他の司書なら、「膨大な資料を本当に読み込んでいるのか」と訝しげにふるまうところだろう。ひとたび書籍のページを流し見するだけで明晰夢の中で完全再現できるようになっていた松木にしてみれば、少しでも情報は多いほうが好都合だった。
今回も受け取ったリストをもとに資料を取り込んでいった。列挙されている資料は専門書にとどまらなかった。映画や、漫画、雑誌、テレビドラマやドキュメンタリーと、媒体は多岐にわたっていた。いずれも、国立図書館内の閲覧端末で参照できるほか、対応している資料については、館外の端末からもアクセスすることができた。影山のリストには、資料ごとにネット経由での館外閲覧可否が明記されていたことから、効率的に情報収集を行えた。
ただ、目的である「格闘術の訓練」は思うように進まなかった。後になって気づいたのだが、調理と格闘術には明確な違いがあった。それは、他者の介在の要否だった。
明晰夢の世界において物体や場所の再現を難なく行える今も、人や動物の「完全再現」は成しえていなかった。現実と違わぬほど緻密な外観の「物体」を目前に出現させることはできても、そこに「生命」として意思が宿ることはなかった。
行き詰った現状を相談しようにも、当てはなかった。夢の中で自在に行動できるうえ、そこで格闘技を身に着けようとしている。あまりにも荒唐無稽な話だった。一瞬、影山や橘の顔が浮かんだが、受け入れてもらえる確証はなかった。かえって、今まで築いてきた良好な関係に終止符を打つ可能性さえある。
頼みの綱として、対話インタフェースを検討した。この世界について一応の解を示すものの、相変わらずファクトイド型とクローズドクエスチョンの質問にしか応答しなかった。
思うように練習が進まない中、インターンシップ初日の朝を迎えてしまった。
参加者は自身を含めても5人程度だった。互いに面識は無く、別クラスの所属と思われた。皆、比較的屈強な体格をしていた。聞くところによると武術やフルコンタクトな競技の経験者とのことだった。ランダムに割り振られているにしてはやけに都合がいいなと思った。横に並んだ時、最も貧弱な輪郭をしていたのは、松木自身だった。
初日ということもあり、前半はオリエンテーションや座学が主だった。単位認定のための技能試験について説明されたとき、当初は胸をなでおろした。現役隊員との対戦を行い、「1回でも」攻撃を入れられれば合格とする。試験は実技のみで、期間中は「何度でも」挑戦可能とのことだった。
しかし、直後に目の当たりにした模擬戦の光景によって、かりそめの安堵は砕かれた。修練を積んだ者の身のこなしは、素人がやみくもに突っ込んだところで到底どうにかなるようには見受けられなかった。
今は時間が惜しい。悲観的な回想に別れを告げることにした。朝になれば、再び現実世界での訓練が始まる。先行きは不透明だが、今自身にできる最善を尽くそうと心に決めていた。
ゆっくりと立ち上がり、周囲を見回した。我ながら明晰夢の世界における場所の再現は、大したものであると思った。日中に確かに過ごした練習場と見分けのつかない光景に、まだインターンシップの最中であると錯覚しそうになるほどだった。
ただ、床面に散らばるように雑多に広げられた様々な書籍や雑誌が、ここが夢の中であるという「確かな証拠」となっていた。それらは、影山から教えてもらった資料だった。受け取ったリストの大部分は明晰夢で再現したうえで、すでに想起できるほどに記憶し理解していた。
しかし、頭でわかっていることと、身体で会得することは別であると痛感せざるを得なかった。他者がいれば、より実践的に訓練が進められるのだが——。
ふと、視界の端にとらえた書籍が目に留まった。表紙に記された題名は、明らかに格闘術と関連のなさそうなものだった。拾い上げ、ページをめくっていく。自然言語処理の変遷について記された項に差し掛かった時、湧き出るように思い出した。確か以前、学園の講義の資料を読み解く際に影山から紹介してもらった書籍だった。
「自然言語処理は深層学習という手段により一層の進展を見せた。RNN——回帰型ニューラルネットワークを契機に、時系列的観点から語順を考慮した解釈が可能となった。そして、勾配消失問題を克服したLSTM——長・短期記憶へと発展を見せたものの、次第に限界が明らかとなった」
畳の存在感を足底で感じながらゆっくりと歩みを進めていた。視線は、すでに紙面から外していた。もはや内容をそらんじられるほどに読み込んでいた箇所だった。
「転機となったのは、RNNを基礎とした演算構造からの脱却だった」
続けて口にした文章をまるで合言葉としたかのように、思考は知識の概念をトレースし始めていた。
言語において語順は重要である。そのため、時系列データとして順序を考慮した処理を行えるRNNやその発展形であるLSTMは、うってつけの手法だった。
しかし、次第に課題が浮き彫りとなった。主な要因は2つだった。それは「扱える時系列データの長さに限界があったこと」と、「演算機構に順序の制約性を有する」ということだった。
第一の要因については、データ長が増大するにつれて、RNNやLSTMは情報の損失が生じた。結果として、長文を学習させることが困難だった。一方、第二の要因については、時系列データを処理する機構上、前データまでの演算結果を受け取ってから演算を行う構造となっていた。これは、根本的な演算の並列化を困難にし、速度向上を妨げることとなっていた。
糸口となったのが、演算機構から順序の制約を排除するという着想だった。Self-Attentionを用いたTransformerでは、演算構造の中で表現していた時系列的な順序を、データとして演算機構の外で保持するように変更した。Positional Encodingと呼称されるこの実装は、根本的な演算の並列化を以前よりも容易にしたばかりでなく、扱えるデータ長を飛躍的に増加させることにも寄与した。
演算機構の改善に加え、学習に用いるデータの取得方法にも大きな変化が生じた。
深層学習は、学習に用いるデータの種類によって「教師あり」と「教師なし」の2つに大別される。人間が事前にラベル付けしたデータを学習に用いる教師あり学習では、一定の品質を期待できる反面、用意できるデータの量に限りがあった。これは、実質的な演算結果を向上させる上での制約となっていた。
一方、ラベル付されていないデータは、膨大に用意できる。反面、人間がラベル付けしていないため、品質はラベル付されたものと比べ劣るとされた。
しかし、Generative Pre-Trainingと呼ばれる教師なし学習の方法が、状況を一変させた。
この手法では、ラベルなしのデータを実用的に学習で用いられるように変換する。文章の一部をわざと伏せ字のように隠したうえで、穴が開いた箇所にどのような情報が入るかを学習させるようにした。結果として、演算結果の向上に必要な大量の学習データを用意することが現実的に可能となった。
「このようなパラダイムシフトを経て、近年ではGPT-3のような大規模な言語モデルが登場し、人間と遜色のない文章を生成するまでに至っている」
つぶやきながら、手にしていた書籍を閉じた。この分野の学園の資料を読み解く前、焦りに駆られて資料を読み進めていた。字面を負うのが精いっぱいで、概念的な理解は全くなされていなかった。資料で取り上げられていた「人間と討論を行うプログラム」について思いをはせたとき、単なるフィクションとしての人工知能しか浮かばなかった。
ただ、今はその実現性を、心から確信している。これまで明晰夢の世界で積み重ねることで習得してきた「根拠」に基づくものだった。
ふと、我に返った。
知識の概念をトレースしていた意識が、自身を含めてこの世界を認識したためだろうか。おもむろに浮かんだ疑問を、対話インタフェースに向け口にしていた。正確には、疑問という体裁をまとった確信だった。
「人間のように、会話し判断するシステムを構築可能か」
返答は、肯定だった。
急に鼓動が高鳴るのを感じた。矢継ぎ早に、視界に文言が表示された。
「実行しますか」
一呼吸置き、処理の実行を開始した。
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