第19話
いつの間にか、雨が降っていた。握りしめていた手掌の中で、まるで糊を塗りたくったかのように皮膚同士が貼りつくのを感じた。墨汁を薄めたような淡色の雲が、上空を覆っている。今朝、天から降り注がれていた明るげな表情は、今やどこかへ行ってしまったようだった。
松木は、奥に見ていた景色から、手前のガラス板へ焦点を移動させた。天井の蛍光灯から発せられる光は無機質だった。視界の端に映った時計の針は、下校時刻をとうに過ぎている。
おもむろに窓から視線を外した。想定外の光景から目を背けたいという自身の思惑から、干渉を受けたのだろうか。ごまかすように見慣れた構内をゆっくりと見まわした。日中の快活な雰囲気が嘘のように、今や周囲に人の姿は認められなかった。
カバンの中を無造作に探った。普段であれば指先に感じるはずの、折り畳み傘の存在は無かった。往生際の悪さを自覚しながらも、中を覗き込んだ。代わりに、数時間前に配布されたインターンシップの書類が、ちらりと目に留まった。記された就業先に視線が移るとともに、ひとりでに今朝の出来事が思い起こされていた。
京子主導のもと、くじ引きでインターンシップの就業先が決められていった。各々が順番に京子のもとへ行き、折りたたまれた紙片の中から一つ取り出す。その場で広げ、自身で確認するとともに、京子へ提示することになっていた。くじが引かれるたび、教室内は感嘆や安堵、落胆の声でかわるがわる満たされた。
松木の番になり、教壇前へと向かった。紙切れに一喜一憂する周囲の様子を、どこか傍観していた。しかし、目についた紙片をつまみ上げ広げた結果、自身もその渦中へ飲み込まれることとなった。
「松木君の就業先は——」
京子の声が告げるよりも早く、自身の視覚が情報をとらえていた。
折り目の付いた一片には「機動捜査隊」と印字されていた。視認性の高い、無機質な字体だった。
ざわめきに満ちていた教室を、一瞬の静寂が横切ったように思えた。再び音を取り戻すと同時に、その内容がいくつか耳に留まった。
「え、今年もあるんだ。機動隊」
「毎年、ほとんど単位取れないところだろ」
「松木って、体力あるのかな、かわいそ」
手元の紙片から、視線を上げた。京子の表情をとらえる形となった。どこか、哀れんでいるような感じがした。見据えていると、彼女は口を開いた。
「公平性の観点から、変更は無理よ」
まるでこちらが不服を申し立てることを危惧したかのように、鋭い言葉だった。すでに京子は、自身の手元の書類へ視線を落としていた。
「でも——」顔を上げることなく彼女は言葉をつづけた。
「もし技能試験がダメだったら、別の就業先に行けるわ。結果的に日数は倍になるけど」
これ以上、取り合うつもりはないとでもいうように、京子の言葉は、端的だった。
どこか、もの悲しげな和音のように反響音が強まるのを耳にした。
松木は、感傷的な白昼夢から自我を取り戻した。外へと続く出入口のガラス戸を介して、再び外の様子が目に映った。ところどころに生じた水面に、いくつもの模様が入り乱れている。外光が弱まったためだろうか。手前には反射した自身の姿が浮かんでいた。おぼろげで半透明だった。
先ほどまではどこか節度を保っていた雨粒は、今や我を忘れたように地へ降り注いでいた。天候は、しばらく回復しそうになかった。再び、今朝の出来事が脳内で再現され始めようとした矢先、聞き覚えのある男性の声がした。
振り返ると、橘の姿があった。おもむろに、先日助けてもらった時の光景が想起された。自身が路上で突き倒されたときに、彼は身を挺して庇ってくれた。対して、自身はどうだっただろうか。図書館で強盗に巻き込まれた日から、何もできなかった。いや、本当は、それ以前から自身は「持たざる者」だった——。
気が付くと、とめどなく感情があふれていた。
どのくらい経ったのだろうか。胸中で滞留していた情動を吐き出したためか、我に返った。視界にとらえた橘の表情を直視できなかった。ただ、橘は松木の言葉を遮ることはしなかった。変に距離をとるようなそぶりを見せることさえ、なかった。
「少し、場所を変えようか」
橘の声は、穏やかだった。少なくとも、松木自身への嫌悪感は伴っていないようだった。
やや視線を落としながら、橘の後へ続いた。このまま立ち去ることで、気まずい関係へ変質していくことを懸念してのことだった。先ほど吐露した時に、口走ったことが不安になった。ひとりでに記憶の中にある自身の発言履歴をさかのぼっていたところ、再び橘の声を聞いた。
「確かに、機動捜査隊はインターンシップの難関という認識で、相違ない」
内容とは裏腹に、落ち着いた声だった。変に危機を煽らない話しぶりは、不快ではなかった。と同時に、結果として今しがた取り組んでいたことの答え合わせとなった。どうやら橘に対して、今朝の出来事を話題にしていたようである。
「身体的な屈強さは、要求される素質の一つといえる。ただ——」
彼から発せられた、反語のニュアンスをはらんだ言葉に思わず反応した。その直前のもっともらしい見解よりも、耳を傾ける価値があるのではないかと期待感を覚えた。
「かえって、これを好機ととらえることもできる」
直感に呼応するように、松木自身の鼓動が高鳴るのを感じた。不意に生じた緊張感は、不思議と心地よかった。
巷にあふれる「逆境を逆手に取る」という高説は、何度触れても納得感を得ることはなかった。成功者が結果論として吹聴しているだけの戯言とさえ思うこともあった。
しかしながら、橘から紡がれた言葉は、不思議と自らの内側へ染み渡った。自身に寄り添い、立ち居ふるまってきた橘の存在が、彼の表現した「概念」に確かな実体を与えていた。臨場感を伴わない「外野の言葉」とは、似て非なるものだった。
実際のところ、機動捜査隊でのインターンシップを経験すれば、「脆弱な自身」と決別できるかもしれない。脈動が早まるにつれ、思考のベクトルが方向を変える音を聞いたような気がした。
「ところで、最近見た番組で、興味深い話があって」
橘の声の調子が、少しおどけた感じに変わるのを知覚した。松木自身としては決して思っていないが、橘なりに「説教臭くなってしまっていないか」と、気を使っているのだろうかと考えた。
彼の話は、今度は娯楽の側面が色濃く出ていた。都市伝説系の話だった。とある人が就寝後に見た夢の中で、別の人生を経験したというのである。
「つまり、その人は一夜にして別の一生を経験したということになる」
橘は、少し大げさな口調で言葉をつづけていた。夢の話であるということに一瞬驚いたものの話半分に応じた。橘は朗らかに笑いながら言葉をつづけた。
「もし僕だったら——夢の中で一生分使って、苦手なことを得意にしちゃうな」
実益的な見解に少し吹き出しそうになった。松木は、とっさにごまかそうと咳払いをした。やや大げさに「大丈夫」と聞いてくる橘をやり過ごしていた。ところが彼が続けた言葉に、今度は思わず胸が飛び出しそうになった。
「あ、でも夢の中で身に着けても、目が覚めれば全部なかったことになっちゃうかぁ」
橘の言葉が、自身の中で反響した。
本来であれば、そうなのかもしれない。だが、自身は例外であるということを知っている。
夢の中で練習を重ね習得した調理技術は、今や現実世界で「まぎれもなく」振るうことができる。この事実が、橘からもたらされた「危機を好機とする」という概念に、より一層の臨場感を与えていた。
「雨、止んだね」
橘の声を聞き、視線を上げた。廊下越しに見えた空には、暗雲を裂く光が見えた。
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