第18話

 9月の空は、いまだ夏の面影を残していた。数時間前にすでに顔を出していた太陽は、それほど高く昇ってはいなかった。それでも、目視ではとらえることのできない熱の痕跡を、額の素肌で感じた。松木は、日差しを遮るように掌を上方へかざした。熱源からの逃避を淡くもくろんだが、やはり効果はなかった。観念するように地面をける足を速めた。学園への登校に要する最小限の注意を払いつつ、おもむろにここ数週間のことを振り返っていた。

 明晰夢での検証は、引き続き重ねていた。未知の世界で行使できる「自由」は、勉強漬けだった日々の気晴らしになっていた。明晰夢の世界に関して休暇中も気づいたことは幾つかあった。ただ、ここにきて予想外な発見があった。それは、明晰夢の中で習得したことは、どうやら現実世界においても身につき、できるようになっているということだった。

 学園から出された夏休みの課題は、何も受験に必須の科目だけではなかった。例えば、家庭科がその一例だった。指定されたレシピの料理を調理し、その模様をレポートにまとめるという内容が指示されていた。

 松木は、調理をしたことがなかった。それでも、握ったことのない包丁を見よう見まねで扱い、課題に当たった。ただ当然というべきか、結果は散々だった。

「ちょっと、危なっかしいわぁ」

 手をケガしないように、慎重にまな板に向かっていた時のことだった。少し抑揚のついた肉親の声が通り過ぎていくのを感じた。反射的に表出した苛立ちを覆うように「学園の課題だから」と、応じることしかできなかった。

 料理の出来はさておき、何とか提出用のレポートは完成した。しかし、控えめに言って納得はしていなかった。先日横目でとらえた含み笑いを携えた母親の顔が、脳裏に浮かんだ。当然、提出するレポートは評価の対象である。自身がベストを尽くしたとは言い難いように思った。

 とは言え、現状のままでは、再び台所に立つのは気が引けた。母親から揶揄されることなく、邪魔の入らない場所で自身が納得のいくまで取り組みたいという衝動を得た。その思惑と同時に、妙案が浮かんだ。それは明晰夢の中で料理を練習するということだった。

 松木は、その日の就寝後から、行動を開始した。既に可能だった「場所や物の再現」は、今や日常生活の一部となっていた。これまで経た様々な検証が、能力により一層の磨きをかけていた。

 特に、物の再現では、その「物の持つ役割」も再現できるようになっていた。例えば、冷蔵庫や電子レンジというような家電についても、現実世界で使用した経験や物品の挙動を理解することで、実際に使用ができる状態での再現に成功した。

 当初は、明晰夢の世界でなら料理が得意になっているのではないかと期待をした。しかし、そのような都合の良い話には、ならなかった。覚醒時と遜色のないもう一つの世界において、もたらされる結果が変わることはなかった。

 調理の過程で次々に知覚された情報は、現実そのものだった。手の中で感じる包丁の重み。煮込まれた具材から立ち上る熱気と香り。フライパンの上ではじける油の音。それらの確かな感覚は、目前の品々に臨場感を与えていた。まるで、本当に現実世界で「実体」を持っているかのようだった。

 調理を終えると、じっくりと目前の料理を見据えた。先日と比べ、幾ばくか食欲を掻き立てる見た目にはなっているように思った。

 期待して、口へ運んだ。

 しかし次の瞬間、不快感を得た。舌の上に広がったのは、覚醒時に自ら調理した際に味わった「ちぐはぐな」ものだった。咀嚼するうちに、悔しさが込み上げてきた。

 ただ、一方で冷静な視点は失っていなかった。松木は、明晰夢の世界における、現実世界とは異なる「強み」を見出していた。ここでは、材料をいくらでも出現させることができる。そして、時間の流れは多少緩やかである。この2点は、自身を奮い立たせるには十分なものだった。夢中になって、調理を続けた。

 慣れない手つきということもあり、不意のやけどや包丁で指をケガするというようなことは当然あった。明晰夢の世界の性質上からか、患部の外見上の異常とともに、痛みを感じた。しかし、現実世界とは異なり、しばらくすると、いつの間にか治ってしまっていた。明らかに異様な現象に戸惑いを当初は覚えたが、結果として調理の訓練には好都合だった。何度も繰り返すうちに、一つ一つの所作が、洗練されていった。

 翌日、起床するなり台所へ向かった。冷蔵庫を開けると、玉ねぎを手早く取り出した。皮をむき、水で洗った後、まな板の上に置き、包丁を握った。

 感覚としては「できる」と直感していた。それでも、実際に試してみるまでは一抹の不安はあった。自身の感覚を信じ、刃を引いた。

 結果は、成功だった。流れるような小気味いい音を聞きつけたのか、手を止めてふと目をやると、母親が起きだしていた。鳩が豆鉄砲を食ったような彼女の様子に、「借りは返した」と思いながら、そのまま朝食の準備を手伝ったのだった。


 記憶に浸っていた自身の意識をすくい上げた。ちょうど、学園の門をくぐったところだった。そのまま校舎へ入り、廊下を進んでいった。

 しばらく歩くと、普段は耳にすることのない「ざわめき」を知覚した。それでも無関心を装い、教室へと入った。まだ始業まで時間に余裕はあったが、クラスのほとんどの生徒が登校していた。

 皆、普段と様子が違っていた。半分は、前方の教壇の前に集まっている。もう半分は、着席しているものの、心配そうに前方の様子をうかがっていた。松木は、やや聞き耳を立てつつ、自席へ着いた。

 人だかりの中心にいたのは、京子だった。横目で見たはずだが、一瞬目が合ったような気がした。すると、自身へ呼びかける声が聞こえた。

「今度のインターンシップ、面倒なことになるらしいぜ」声の主は、松木の席の近くにいた男子生徒だった。松木が成績を持ち直した後、比較的一定の交流を図るようになった集団の一人だった。

 学園では、例年1年生の秋から冬にかけての2週間、インターンシップと呼ばれる就業体験を行う。一般の学校においても行われているが、その意味合いは異なっていた。

 学園では、インターンシップにおいて技能試験が設けられ、これをクリアすることで初めて履修単位として認められることになっていた。未経験な事案でも短期間で成果を上げるということを訓練するための一環という目的によるものだった。例年、就業体験先を幅広い職種・業種から自由に選ぶことができることとなっていた。

 しかし、どうやら今年は就業先を選べないらしい。皆、詳細が分からず慌てているようだった。

 教諭が教室へ入ってきたため、皆いったんは着席した。ただ、今日はこの後、インターンシップについての変更点の説明と、就業体験先についてのオリエンテーションの場とするとの伝達がなされた。詳細は、委員長の京子から説明がある旨伝達されると、再び教室は紛糾のそぶりを見せた。しかし、京子が話し始めると、周囲は次第に落ち着きを取り戻した。

「今年は、インターンシップの就業体験先について、選択制をやめることになりました」

 その声には、もはや「これは決定事項である」とでもいう明確な意思が宿っているように松木は感じた。彼女の話しぶりからして、このクラス内ではみな違う就業先になることがうかがえた。とはいえ、学年全体でみれば、何人かは同じ就業体験先へ割り当てられることにはなるようである。松木としては、顔なじみがいないほうが、かえって気は楽だと思った。

「ただ、就業体験先のバリエーション自体が狭まったわけではありません。変わったのは、ランダムで、担当が割り当てられるということです。公平性の観点から、この後一人ずつくじ引きで決めていきます」

 京子は、穏やかに言葉をつづけた。先ほどの冷徹な印象とは打って変わり、今度の彼女の表情はいつの間にかやや親しみを携えていた。京子自身も当事者の一人であるということを窺わせる彼女の態度に、皆は妙に納得感を得ているようだった。朝の騒がしい様相が嘘のように、不思議と誰も京子に異論を上げる者はいなかった。

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