第17話

 普段は締め切っているブラインドを少しだけめくりあげた。指先に触れた無機質な感触とともに、ガラスに打ち付ける雨粒の細かな振動を耳にした。まだ日没の時間ではなかった。

 夏休みは残すところ数日というのに、橘は職務に当たっていた。今日中に、プロトコルに関する現状の解析結果と今後の計画を、京子へ報告しなければならなかった。あらわになった透明な板の向こう側へ、それとなく視線を向けた。

 空には雲が立ち込めていた。ただ、不思議と嫌ではなかった。垣間見えた外の様相が、自身と外界とのつながりを自然と認識させた。

 今の環境に不満があるわけではなかった。現に雨風を尻目に、整った設備の中で働くことができている。それも「先端技術機構」という国内有数の好環境である。過去の自身の立場からは想像すらできない状況だった。

 橘は、自身の席に戻ると、再び端末の画面を視界に収めた。表示されている情報は、被験者である「松木賢人」のものだった。解析は、おおむね終了していた。観測された情報の数々は、ひとまず「フェーズ1」への到達成功を示唆していた。

「ひとまず、か」

 思わず自身の中で率直に表出した単語を、自嘲的に指摘した。そもそもプロトコルの遂行自体、難易度は極めて高い。現に、これまでフェーズ1へ移行したケースは全実施ケースの1割にも満たなかった。その困難さは、身をもって感じてきたはずである。

 やや感情的な見解からいったん離れることにした。再び画面を視野に収めた。解析結果から想定される彼の能力について考察を記述しているところだった。空白の入力スペースが、熟思の堂々巡りを物語っていた。

 プロトコルの進捗に呼応するように、彼には顕著な変化が生じていた。それは「成績の改善」だった。

 学園における大幅な学力差は、本来であれば覆すのは不可能に近い。現に、これまで意気揚々と学園に入学したものの、周囲との差に苦しみ去っていったものは少なからず存在した。しかし、彼はこの短期間で急速に学園での成績を持ち直した。

 時間はみな平等に流れているはずである。首席で入学していようが、効率的な勉強法を充てがおうが、物理的な制約というものは存在する。彼がなぜ学業面で成果を上げているのか、不可思議であった。

 一方、被験者の状況を適切に把握することを目的として、非侵襲的に生体データを随時得ていた。心拍や呼吸数などといった基礎的な情報を、非接触かつ数十メートル以上離れた地点から観測する技術は「一般の」機関においてでさえ、既に実証されている。

 先端技術機構では、より研究が進んでいる。脳波のような微弱な生体シグナルを、一定の信頼性をもって検出する技術が、すでに確立されていた。得られた松木の生体データを解析すると、就寝中であるにもかかわらず、日中と変わらずに随意的に活動しているかのような特徴が認められた。

 随時把握している彼の行動とともに辛抱強く情報を多角的にとらえた結果、一つの仮説を得るには至っていた。それは、彼が制約の少ない「明晰夢の世界」で勉強をしているということだった。もたらされた主張は、まるで成績優秀者が冗談で口にするような内容に思えた。

 正直なところ、その仮説を棄却したい衝動にかられていた。ただ、得られた数々のデータが、一見、荒唐無稽に思える可能性を、冷静に示唆していた。

 受け入れがたい結論から無意識に離れたいと思っていたのだろうか。独りでにめぐっていた思考の端から、おもむろに、松木との先日のやり取りが思い出されていた。

 松木の様子からして、路上で彼を突き倒した男性と面識は無いようだった。視界にとらえた彼の表情は、曇っていた。ただ、呼びかけに応じた目の奥に、一瞬激しい情動がうごめいた気がした。少なくとも、はじめて言葉を交わした時に見た「おぼろげな眼差し」とは、明らかに異なっていた。

 彼の視線が、少し遠くへ向くのとほぼ同時に、閉ざされていた口が開かれたのを聞いた。先ほど彼の瞳から得た予感を裏付けるように、声はやや苛立ちを伴っているように感じた。それでも、冷静にはなろうと努めてはいる様子だった。

 吐露されたのは、自身の「弱さ」への慚愧だった。特に、肉体的な強靭さが自身に伴っていない点を、しきりに気にしていることが窺えた——。


 いつの間にか飲み込まれていた「主観に満ちた記憶」に見切りをつけ、我に返った。ブラインドから漏れていた外光は、すでに消え失せていた。

 先日の出来事以来、意図せず松木に関する事象を想起してしまうことが増えていた。プロトコルにおける彼の情報というよりは、松木と行動を共にした際の体験的な記憶ばかりだった。これまでの経験上、被験者への介入の際の記憶を主観的に想起することは皆無だった。

「計画継続の観点から、被験者の心身の適切な保護は不可欠だ」

 自身の感情を排除しようと、とっさに取り繕った目的を口にした。ただ、紡がれた文言は、予想以上に合理性を帯びていた。

 実際、先日のような出来事が再び起こる可能性は否定できなかった。以前にも彼は路上で狂酔者から介入を受けている。被験者に対する部外者からの不適切な介入は、今後の計画を立案する上での明らかなリスクだった。

 彼にまつわる一連の思念の根拠を、プロトコルへの影響を懸念した結果であると捉えることにした。橘は、端末に表示された情報を再び見つめた。

 京子への報告にあたり、最優先で対処すべき点を洗い出していく。まず、彼の能力に関する考察は情報不足として解析中とすることができる。そもそもプロトコルの進捗自体は上々である。今対処しなければならない事項——行き詰っているのは、今後の計画のほうだった。刻々と京子へ報告する期限が迫っていた。

「とすると」

 室内に少し明瞭に声が響いた。

 幸い在室しているのは自身一人だった。計画を立案する上で、判明している情報へは中立的に向き合わなければならない。データで支持される仮説に対しての「懐疑的な感情」が、自身から切り離されたのを確かめたのち、思考を再開した。

 松木が「明晰夢で勉強した」という仮説を採択するならば、彼は明晰夢の世界と現実世界で陳述記憶の移行が可能ということになる。ようやく受け入れがたかった視点を取り込んだ矢先、ふと、自身の中で新たな好奇心が芽生えた。

「では、非陳述記憶はどうなのだろうか」

 記憶には、知識のように言語化されないものがある。運動や知覚、認知と言った類のもので、このような非陳述的な事項は、経験として記憶されている。

「仮に、明晰夢の中で何らかの鍛錬——経験により左右される技能を訓練した場合、現実世界へ移行することが、できるのかもしれない」

 意図せず見解を口走っていた。先ほど生じたばかりの無垢な好奇心が、次第に期待感を伴う実体へと成りあがっていくのを感じた。彼の明晰夢の能力はどこまで可能性を持っているのだろうか。突き動かされるように資料の体裁を整えると、京子へ情報を送信した。

 返事は、思いのほか早かった。おおむね計画の意向に問題はないとの趣旨だった。ただし、被験者への介入は彼女の指示通りに行うようにとのことだった。添付されていた資料の中身は、普段通りの様式だった。具体的な日時と場所、詳細な行動内容が羅列されていた。まるで見聞きしてきたかのような事細かな指示は、職務遂行上、好都合な反面、どこか異質さを感じた。

 京子から指示される内容の中には、一見無駄に思えたり、意図の不明だったりすることが含まれることは珍しくなかった。しかし時が過ぎてみれば「そうするのが適切であった」ということを思い知らされることになる。どうやら、彼女には大局的な物事の見方が備わっているらしい。

 自身の中で負の感情が微かに滲むのを感じた。まるで染みを拭うように京子から示された筋書きを頭に叩き込むと、端末を手に取り、部屋を後にした。

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