第16話

 時刻は17時を過ぎていた。ガラス窓には、大粒の水滴がいくつも散らばっていた。向こうに見える空はまだ雲が多かったが、隙間からすでに日差しが差し込み始めていた。どうやら雨は止んだようである。松木は、荷物をまとめ始めた。

 影山のいるフロアへ少し寄っていこうと思い立った。少し遅れて、彼が今日は不在であるということを思い出した。また雨が降り出さないだろうかと少し不安に思いながら、出口へと向かった。

 広々としたエントランスに差し掛かると、何やら展示スペースが設けられていた。以前から何らかの企画が断続的に開かれているのは知っていた。普段であれば、素通りするところだった。しかし、今日は何故か興味をひかれた。

 一角は、少し大きな会議室ほどの広さだった。絵画や、物体がいくつも並べられている。整然というよりは、やや不規則な配置が、どこか計り知れない他意を含んでいるように思わせた。

 写実的ながら非現実性を伴う絵画、雑多な曲線で描かれた無機質な文様、アクリル板が緻密に組み合わせられた立体——それらに共通項は見いだせなかった。ただ、どの展示物も不思議と「よく見てみたい」という気持ちを誘起させた。

 ふと、視界の端に見覚えのない展示物が映った。先程近寄った時には、気付かなかった。見落としていたのだろうか。刹那の疑問だった。

 しかし、これを塗りつぶすように、新たな興味が生じた。そういえば、どの作品も、題名らしきものは示されているが、そこに製作者の名は無かった。どうやら、一連の展示物の製作者は、同一人物のようだった。

 周囲を見回すと、大きく掲げられた案内板を視界に捉えた。そこには、「新進気鋭」という枕詞とともに製作者のプロフィールが記述されていた。示されていた氏名は、到底本名のようには思えなかった。ただ、不意に目にした「現役高校生」という素性は、自身の感情の輝度にかすかな揺らぎを生じさせた。

 同世代でうまく立ち回っている者は現に存在するのだ。波打った水面へ板を押し付けるかのように、平静を装ったまま出口へと向かった。

 外へ出ると、湿気を帯びた空気が足元から立ち上るのを感じた。水気を帯びたタイル張りの地面は、差し込み始めた日差しを反射している。この1か月で、悪夢を上書きするほどに見慣れた光景が、今は新鮮で妙につやめいているように見えた。

 夏休みは後半へと差し掛かっていた。期間中は思いのほか国立図書館へと入り浸る形となった。国立図書館は自習室が完備されており、勉強をする環境としては申し分なかった。ただ一番の要因は、司書である影山との出会いであることは否めなかった。

 初対面で、突然クイズを持ち掛けられた時、正直戸惑いを覚えた。しかし、問われる内容は、自身が学園の資料で学習した内容を的確に網羅していた。かえって、学習した内容が身についているかを、確認できる形となった。

 ただ、やはり自身の取り組み方が甘かったというべきか、最後の方は影山の問いに答えられなかった。彼の様子からして、自身への悪意が無いことは、はっきりとわかっていた。自身を怪我の危険から救ってくれたばかりか、終始親身に接してくれているのが感じ取れた。それだけに自身の至らなさを、より一層痛感せざるを得なかった。

 影山から紹介された遺伝子工学に関する本は、当初の目的だった書籍と合わせて、目を通した。どちらも館内で流し見したため、明晰夢の世界で再現できるのだが、就寝を待たずに早く読み始めたいと思い、貸し出し手続きを終えた。

 当初は、影山の言うことは一理あると思いながらも焦る気持ちが首をもたげた。名著と呼ばれている難解な書籍のみで読み進めるには十分な口実だった。しかし案の定、途中から理解が追い付かなくなり出した。

 前評判通り「名著」は、情報量が膨大であることは確かだった。ただ、それは基礎的なことから事細かく記述されているということではなかった。当該書籍内において、影山との問答で確認した事項や、学園の資料で言及されていることは、「学習すべき事項」としてではなく「持ち合わせた共通認識」として扱われていた。

 さらに特徴的だったのが、比較的最近の論文から得られた知見が要所で多数盛り込まれていたことだった。数年に一度改訂されているという実情が如実に反映された結果だった。複雑な概念を伴う場面では、文章に限った表現ではなく、図示が詳細になされていた。遺伝子工学に関する一定の知識を持つ読者にとってみれば、最新の研究内容を学び取れる良書であることは、確かだった。

 観念し、影山から勧められた書籍をあたることにした。こちらは比較的、端的な記述でまとめられていた。用語の説明では、機序や原因、理由に重点が置かれ、無駄のない図や文章で記述されていた。書籍内で扱う別の単元に関連する事項が出てくる個所では、どのような関係性であるかが具体的に記述されていた。読み進めるにつれて、個別に散って存在していた情報が、組み合わさった体系的な概念へと昇華していく感覚を覚えた。

「リアルタイムPCRは、増幅された塩基配列を直接検出するわけではない。増幅の過程で蛍光が生じるように設計した試薬を添加し、蛍光の強度を計測することで、間接的に定量している。ただ蛍光は、非特異的反応によっても生じる。そこで、PCR反応産物を電気泳動し、実際に存在しているDNA断片長——断片の塩基数ごとの存在量を調べることで、増幅範囲と同じ断片長がどの程度存在するかを併せて解析する」

 以前は、答える知識を持ち合わせず、苦い思いをした問いへの解だった。しかし、自らの意思で影山の元を訪れた際には、今度は確信をもって答えることができた。彼は、まるで初めから松木自身が答えを告げに来ると察知していたかのように「やるじゃない」と応じていた。

 自身の中で、影山から紹介された本のことをいつしか「影山本」と勝手に呼ぶようになっていた。そのように名付けるほど、彼と会話する中で何冊も本を紹介してもらった。

 正直なところ、松木は、これまで対面してきた大人を見下してきた。彼らは2種類に大別された。一方は「私が正しい」と疑わず他者へ無責任に干渉する者だった。もう一方は「自主性を重んじる」という耳触りの良い言葉を隠れ蓑にして放任する者だった。いずれにしても彼らが免罪符とする「あなたの為だから」という口癖は、知覚するたびに大人へ見出すはずだった価値を失墜させた。

 だが、影山はこれまで対面したどのタイプでもなかった。彼からは、「こうあるべき」というような他人への押しつけを感じることは無かった。一方、その場しのぎで適当にあしらえばよいというような態度とも違っていた。

 何と無しに巡らせていた意識は、視界に捉えた既視感のある後ろ姿によって、この場へと呼び戻された。

 叶が、少し先の歩道にいた。入院中に交流が途絶えて以来、今や幼馴染としての体裁は保てていなかった。

 彼女の隣には、男がいた。少し年上で大学生くらいだろうか。はたから見て2人は親しげな様子だった。叶は、最後に見た病室での様子とは違い、笑顔を携え男と同じような調子で応じていた。

 しばらく声をかけようか迷った末に、少し叶らへ近付こうとした。すると、後方から声がした。

「あいつの知り合いか」

 少し低めだが、若さを感じた。振り向くと、そこには同年代と思しき男性が仁王立ちしていた。短く刈り込んだ髪と、大柄な体格が目に留まった。まだあどけなさの残る顔には、やや苛立ちを滲ませていた。

「ええ」不意の問いに、反射的に肯定で返した。叶の知人だろうか——。

 一瞬の出来事だった。体感としては、目前の相手が詰め寄るのとほぼ同時に、自身の胸部に加重を感じた。均衡を失った自身の肉体は、摂理にのっとって地面へと崩れ落ちた。不意に、復学初日の夕刻に、暴戻な酩酊者から受けた仕打ちが思い起こされた。ただ、前回との明らかな違いは、自身の非の有無だった。

 苦痛の始まりを予感し身をすくめた矢先、聞き覚えのある別の声がした。

「彼は、君の友人……ではないようだね」

 橘のものだった。記憶に残っていた穏やかな声色とはまた異なる威厳を感じた。独りでに閉じていた瞼を開けると、彼の毅然とした姿が目に入った。自身と、介入者の間に割って入るように立ちふさがっていた。

 橘が、相手と見合っているのを、固唾を呑んで見守った。一帯に流れる緊迫感は、まるで僅かな一瞬が引き延ばされたように思わせた。

 状況を打破したのは、後方から聞こえてきたにぎやかな声たちだった。こちらの事情などみじんも知らない夏に浮かれた通行人の気配が、次第に大きくなってきた。

 さらなる部外者が近づいてくることを「分が悪い」と判断したのか、捨て台詞とともに男性はその場を後にした。橘に促され立ち上がり周囲を見回した。叶らの姿はいつの間にかそこに無かった。

 危機は去ったにもかかわらず、胸の内は鬱屈としていた。少し前に板で蓋をしたはずの水面は、静かになるどころか揺れを強めていた。

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