第15話

 影山かげやまたくは、独りでに開いたガラス戸をくぐった。電子的な旋律と、背後から追いかけてきた定型的な店員のあいさつが、聞こえた。少し振り向き気味に軽く会釈をして外へと出た。

 風はほとんど感じなかった。ふと視界に入った青空は、いつにもまして濃く感じた。舗装されたタイル張りの歩道は、日差しを乱反射しているためか、どこか幻想的に見えた。

「もう。こうも暑いと意識が遠のいちゃいそ」

 影山は、夏という季節に悪態をつくように呟いた。目当てのサンドウィッチは、残念ながら売り切れていた。間に合わせの昼食の調達を終え、自身の職場へと向かった。

「国立図書館」と掲示された門を通り抜けた。敷地内も例にたがわず、強烈な日差しで満たされている。降り注ぐ紫外線の影響を気にかけつつ、休憩室へ歩みを進めようとした。

 不意に、人影を視界に捉えた。背格好からして男子学生に見受けられる。何と無しに「今日は平日よねぇ」と思った瞬間、やや食い気味に「そういえば、もう夏休みの季節ね」と思い直した。

 本来であれば、このような瞬間には、連鎖的に自身の幼少の記憶が想起されるのだろうか。生じた内言に反して、その様な原風景を知覚することは無かった。

 唐突に、異常事態を予感した。

 ほぼ同時に、目前の男子学生が倒れ込むさまを視覚的に捉えた。

 この距離であれば、地面に倒れ込むまでに充分に間に合う。瞬時に把握した。

 思考するのとほぼ同時に、走り出していた。結果として、倒れ込んだ男子学生を、無事に受け止めることができた。

 彼に対し、どことなく微かな親近感を覚えた。ただ、見覚えのない顔だった。肩を貸し、近くの木陰になっているベンチまで移動した。さなか、妙に軽くなった自身の前腕の辺りへ視線をやった。先ほどまで確かに保持していた昼食は、姿を消していた。

 普段なら、このような粗相をすることは無かった。やや戸惑いながらも「あら何処へ行ってしまったのかしら」と思いなおし、周囲を見まわした。少し離れたところに、放り出されたままの袋を捉えた。補助している彼と比べるまでもないが、中身が無事かどうか少し気がかりに思った。

 彼が熱中症ではないのかと危惧したが、杞憂に終わった。意識は明瞭で受け答えはしっかりしていた。状況からして、どうやら段差に躓いたようだった。

「司書というと、この図書館の職員ですよね」

 男子学生の声が聞こえた。すかさず、「そうよ」と応じながら、松木と名乗る彼の顔を見た。話によると、彼は学校の夏休みの課題の資料集めのために図書館を訪れたとのことだった。

「ちなみに、どんな本をお探しかしら」司書として純粋な興味から出た言葉だった。

「そう例えば……遺伝子工学、とか」続けて、脳裏に浮かんだ言葉を口にしてみた。

 松木は、少し驚いた表情を見せていた。なぜわかったのかと理由を問われたが、「まぁ大人の勘よ」と答えておいた。

 彼は、あらかじめ目当ての書籍を決めていた。具体的に提示された書名は、遺伝子工学における名著として知られたものだった。ただ、目前のまだあどけなさの残る高校1年生にとっては、いささか持て余すのではないかと思えた。

 難易度の低い本にするよう進言しようとした。その矢先、今度は怒りを充満させた松木の表情が脳裏に浮かんだ。

「そうね……真正面からだと納得してくれなさそう」影山は、今しがた感じた感覚を振り払うように思案した。適当に受け流すこともできたが、彼の真剣なまなざしに対して不誠実な態度をとるのは、どこか気が引けた。

 他者からの負の指摘を、自身の感情に反して受け入れざるを得ない時、どうすればよいか。経験上、「自覚すること」が最も効果的であるとわかっていた。

「ねぇ、試すようなことをして申し訳ないのだけれど……少しクイズをしましょ。もちろん遺伝子工学についてよっ」あまり嫌味にならないように、言葉尻へ細心の注意を払った。冗談交じりで持ち掛けたことが功を奏したのか、彼はクイズへ応じた。

 DNA、RNA、転写、翻訳、スプライシング——基礎的な用語については一応の解答が、松木の言葉で提示された。目前の彼は、全くの無知ではないようである。

「とは言え——」生じた内言とともに、軽く息を吸った。影山は、「ここからが本題ね」とつぶやくと、松木へ問いかけた。

「ポリメラーゼ連鎖反応——つまりPCRについて説明できるかしら」

 問いを投げかけながら彼の様子を窺った。迷いのない眼差しをしていた。間髪を入れず、松木の声を知覚した。

「確か、特定の塩基配列を増幅する技術で、熱変性、プライマー結合、アニーリングの3つを繰り返すことで実現される、と理解しています」

 松木の応答は、キーワードを織り交ぜ端的ながらも明瞭だった。好感の持てる話し方ねと思う反面、用語について解答ができることは想定内だった。影山は、質問を続けた。

「じゃあっ、感染症の原因ウイルスの存在を確かめるために『リアルタイムPCR』を行った場合、電気泳動を併せて行うのは、どうしてかしら」

 松木の顔を再び見据えた。先ほどまで淀みなく言葉を紡いでいた口は、反して堅く閉じられたままだった。影山を見据えていた彼の眼は、伏せられていた。表情には、焦りと屈辱を携えていた。松木が、答えを持ち合わせてはいないことを読み取るには、十分だった。

「はい、時間切れっ」

 慣れた明るめの声色で、影山はクイズを打ち切った。

「答えは——」少しわざとらしくなっていないだろうかと顧みながらも、調子を続けた。おもむろにメモ用紙を取り出すと、ペンを走らせた。書き終えた情報を「どぉーぞ」と、松木へ手渡した。

「これは……」と再び口を開いた彼は、面食らっているようだった。影山は、遺伝子工学に関するおすすめの本であることを、告げた。

「松木君の探してた本、情報量が多くて確かに良書と名高いの。でも、少し言い回しが難解なのよねぇ。だから、いまメモで渡した本を一緒におすすめするわ。両方読むと、捗るかもっ」

「もし、答えがわかって、松木君の気が向いたらまたお話しましょ」影山は言葉を発しながら、時刻を確認した。休憩時間はもう半分が過ぎていた。

「これでも司書だし、それに遺伝子工学以外にもいろんな分野のおすすめ本紹介しちゃうんだからっ」渡したメモには、自身の普段の職務エリアも記載しておいた。

 松木は、礼を言うと、館内へと入っていった。別れ際に告げられた「ありがとうございました」という言葉の調子から、幸いにも彼が負の感情を抱いている痕跡は認められなかった。

 影山は、松木の後ろ姿を見届けると、視線をゆっくりと周囲へやった。地面に崩れ落ちている昼食の袋を再び視界にとらえた。相変わらず日差しに満たされているからか、反射した光で激しく輝いている。

「かえって、サンドウィッチを買わなくて良かったのかもしれない」と思いながら、歩き出した。

 正直、松木への自身の一連の行動に驚きを感じていた。国立図書館へ来てからというものの、目的遂行を第一として、他者とは一定の距離を保つようにしていた。無論、その思惑を気取られないように、お調子者を装った自身の立ち居振る舞いには、逐一注意を払っていた。

「ほんと。この日差し、どうにかならないかしらっ」

 小言を言うように、軽くため息をついた。

 突然、呼応するかのように周囲の明度が下がった。一瞬の驚きを得たのち、空を見上げた。流れてきた雲が、日差しを遮っていた。

 拾い上げた袋の重みを手に感じながら、立ち上がった。雲はあっという間に過ぎ去り、まるで映画の上映終了後のように周囲は光を取り戻した。

 不意に、ある直感を得た。普段のようなビジョンでは無く、五感として形容はできなかった。おもむろに言語化された「対峙」という概念と、先ほど会話した松木の感覚が絡み合っていくように感じた。

「これは——誰の能力かしら」

 覚えのない予感に戸惑ったものの、空腹を無視するわけにはいかなかった。形の崩れた袋の中身を気にしながら、影山は小走りでその場を後にした。

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