第14話
玄関の扉を開けると、ぬるい湿気のある風が頬を撫でた。構わず足を踏み出す。しばらく歩くと大通りへ出た。目に映る見慣れた景色は四半期前とさほど変わっていなかった。何と無しに視線を上方へとやった。濃い青空には、隆起した雲がまるで浮島のように塊となって浮かんでいる。唯一の違いは降り注ぐ日差しの強さだと、松木は思った。
初めて不可思議な夢を見た日から、もうすぐ2か月が経とうとしていた。あの日以降、松木は就寝するたびに明晰夢を見るようになっていた。幸いなことに、睡眠の質は落ちてはいないようで、疲れが残るようなことは無かった。
夢を見続ける中で、いくつか見いだしたことがあった。一番初めに気づいたのは、夢自体に記憶の継続性があるということだった。本来、夢での記憶は「その場限り」で、同じような夢を何度見ようとも、夢の中で既視感を覚えることすら無い。日々睡眠を経ても直前までの記憶が当たり前に継承される現実世界とは、対照的である。
しかし、松木の見る明晰夢では、現実世界での就寝と起床の如く記憶の継続性があった。松木が、一度目が覚めて再び就寝し明晰夢を見た時のことだった。直前に夢の中で経験した「真っ白な空間で無機質な声と対峙した一連の出来事」を容易く思い出すことができた。
そればかりか自身の記憶にとどまらず、「明晰夢の世界」自体にも継続性があると認めざるを得なかった。仮想網膜投影やブレインマシーンインタフェースに加え、試行錯誤の末に実装された対話インタフェースも、目が覚める直前の状態のまま再現されていた。
次に思い知ったことが、明晰夢の世界では本当に「ほぼ何でもできる」ということだった。特に、物を出現させることは練習すればするほど上達した。
初めは、小物や身近な物から始めた。想定通りのものを出現させるための思考の扱いに当初は苦戦したが、練習を重ねると次第にできるようになっていった。ブレインマシーンインタフェースの扱いも次第に慣れていった。しばらくたつ頃には、自身の意のままに知っている物であれば自在に出現させることができるようになった。
食べ物は、香りや味、温度を知覚することができた。当初は、好きな料理や菓子を手あたり次第に出現させ、飽きるまで食べてみた。夢の中で五感は現実と遜色ないものの、満腹感は不思議とあまり感じなかった。
一通り、物を出現させられるようになると、場所を再現することに挑戦した。実際、周辺の一定の区画であれば現実と違わぬほど、緻密に場所を再現することができるようになった。
しかし、「ほぼ」何でもできると認識している通り、未だ実現できないこともあった。それは、人間や動物を出現させることだった。
正確に言えば、物体として出現させることはできた。しかし生成されたそれは、硬直した「物」だった。人間の場合は、緻密な蝋人形のようだった。話したり立ち居振舞ったりせず、表情や態度を示すことさえ、無かった。人間以外の動物でさえも例外ではなかった。しぐさや鳴き声の類を呈することは無く、まるで精巧な剥製のようだった。
次に判明したことが、夢の世界と現実世界との間で、記憶の双方向移行が可能であるということだった。きっかけは、何度か明晰夢の世界で過ごす中で訪れた。
知っている物体を出現させられるということは、現実世界の記憶が多少なりとも移行されているのではないだろうかと思い浮かんだ。振り返っていくと、何気なく最初に明晰夢から目が覚めた時のことが脳裏に浮かんだ。
夢の世界から初めて現実へ帰還できた時、明晰夢での出来事を事細かに思い出せたことに気づいた。そればかりか、次に就寝し再び明晰夢を見た際にも、直前に現実世界で考えたことや出来事の記憶が、夢の中においても鮮明に思い出せていたことを認識した。
これをきっかけに、松木はある実験をしてみることにした。それは、半ば好奇心によるところが大きかった。特に「現実世界で見聞きした物を、どこまで夢の中で思い出せるか」という点に興味がわいた。
結果は、想定をはるかに超えていた。現実で見聞きした情報は、たとえ「一瞬」であったとしても夢の中で完全再現できることが分かった。これは、単に思い出すということでは無く、明晰夢の世界で、現実と全く同じような状態で再現できるということを意味した。書籍であれば、現実世界でパラパラとページをめくって流し見した程度であっても、明晰夢の世界の中で本を物質として出現させ、さらには実際に読むことができた。
ただ松木は当初から手放しで喜んだわけではなかった。書籍を夢の中で再現できたときに、その内容はでたらめなのではないかと訝しく感じた。
懐疑心をなだめるために、検証してみることとした。現実世界で読んだことのなかった本を書店でランダムに10冊ほど購入した。帰宅後に流し見し、就寝後の明晰夢の中で物質として再現してみた。
物体の再現はあれから何度か練習したこともあり、容易かった。目前に現れた書籍を見つめると、本題はここからだと思い直し表紙を開いた。
流し見た感じでは意味のある文章が記述されていた。しかし、その様な主観とは距離を取り、次々とページをめくった。出現させた書籍ごとに数ページおきに、ランダムな行の先頭からランダムに数えた位置にある文字を次々と暗記していった。
単純な暗記は、松木にとって決して苦ではなかった。丁寧な理解を要する学園の膨大な資料に比べれば、10冊の本の限られた文字の記憶は造作もなかった。夢の中で完全に記憶を終えて目を覚ますと、現実世界で答え合わせをした。
結果は上々だった。夢で覚えたそれぞれの書籍の各ページにおける指定行の当該文字は、現実世界の実物のものと、すべて完全に一致した。
このことをきっかけに、松木の生活は一変した。松木は、何度か同様の検証を経たのち学園の資料をものすごい勢いでめくっていった。膨大な量だったものの、理解を考慮する必要はなく文字を目で追うことすら不要で、紙面の全体をただ視界に捉え続ければ良かった。一瞬見ただけでも、明晰夢での再現には充分であることは、数回検証した結果で判明していた。配布されたすべての資料に目を通し終えるまでに、そう時間は要しなかった。
一方で夢の世界に関する重要な知見を、もう一つ得ていた。どうやら夢の中での時間経過が、「現実よりもゆっくりである」ということだった。初めて明晰夢を見た時点で薄々感じていたものの、日々の検証を重ねるたびに次第に確信へと変わっていった。
最初に明晰夢を見た日、夢の中で半日以上は過ごしていたように体感していた。だが、起床後端末の時計を確認すると、1時間すら経過していなかった。
明晰夢の世界では、時間をさほど気にせず自由に活動できる。そればかりか「夢」と「現実」との間で、自身の記憶は同期される。本来は分け隔てられた2つの世界が、有機的に結びついていくような感覚を覚えていた。これは登校初日の夜に欲した「可能性に満ちた力」そのものであると思えた。
とは言え、「力」を手にしたものの、はじめの頃は日中に学園で過ごすのはとても居心地が悪かった。ただ、何とか食らいつくことは、できた。明晰夢の世界で自由に未知なことを試せることが、気晴らしとなった。緩やかな時間経過の中で、学園の資料を焦らず着実に学習することができた点も大きかった。
結果として、復学から1か月が経過したころには、状況は変化し始めていた。クラス内でトップとまではいかなくとも授業へ充分付いていけるほどの状態となっていた。
半数のクラスメイトらからは、相変わらず冷ややかな対応をされることはあった。一方で、傲慢だった態度を改め、次第に授業へもついていき出した松木の変化を察知し、一定の交流を図るクラスメイトも徐々に現れるようになった。次第に、学園での居心地の悪さも薄らいでいった。
昨日、学園は夏休みに入ったところだった。大量の課題が出た中、松木は前日から入念に準備を進めた。もう二度と同じ過ちを繰り返すまいと、学園から帰宅するなりすべての資料を流し見た。就寝後、明晰夢の世界で入念に確認し、提出すべき課題の全容と、真に求められている水準を理解した。結果、資料を集める必要があると理解した。それは、因縁の場所へ行かなければならないということを意味していた。
今日は喫茶店へ寄らずに、国立図書館へと直行していた。横断歩道を渡り、ほどなく目的地へと着いた。事件へ巻き込まれた当日と何ら変わらない門構えが、目に映った。
いやな記憶が刷り込まれてしまったこの場所を再訪することに、ためらいはあった。抵抗感を軽減しようと、明晰夢でも国立図書館の再現を試みて、予行演習をした。明晰夢での場所の再現は容易かった。念のためだったとはいえ、実際にいま目にしている光景と全く同じ状況で、難なく館内まで到達することは、できていた。
根拠のある既視感を感じながら、呼吸を整え、敷地へと入っていた。どこか、鼓動が大きくなったように感じた。気のせいであると言い聞かせながら、脇目も降らず目的の場所へと足を踏み出した。日差しは相変わらず強く、地面から立ち上る熱気を感じた。
突然、自身の意に反して、視界が揺れるのを感じた。力が抜け、思わず倒れ込みそうになった。
「弱いな」と思い地面が近づくのを傍観していた。痛みを覚悟した矢先、不意に自身の身体が受け止められるのを感じた。直射日光に当てられた熱く硬いタイルの質感とは異なる、安心感のある弾力だった。
「大丈夫、ケガはないかしら」
やや低めな男の声だった。
「歩ける」と聞かれたため、はいと応じた。背はやや大柄で、隆起した肩から上腕、胸板を捉えた。男は、「失礼するわね」と言い、松木の腕を自身の肩に回す形で、松木を補助した。
「もう。ここの段差見えづらいのよねっ」とぼやく声が聞こえた。横目で見ると、男はやや屈んでいた。松木が無理なく歩けるように自身の背丈を調整しているのが分かった。木陰になっているベンチへ移動すると、松木はゆっくりと腰を下ろした。
「今日は暑いから熱中症になると大変よ、ちょっと待ってて」そう言うと、男はすぐ近くにある飲料の自動販売機へと小走りで向かった。一瞬身に着けていた身分証らしきものが目に留まった。「影山」という苗字と「司書」という単語がちらりと見えた。
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