第10話

 棚の上にある時計は、22時を示していた。机には、これまでに配布された膨大な資料が広げられていた。各々の紙面には文章、図、グラフ、数式といった想定しうる情報の記述方式が所狭しと並んでいる。それらを束ねるファイルは、もはや一つには収まりきらず、同様の分厚い冊子がいくつも端に積まれていた。

 松木は、自室の天井を見上げていた。背中にベッドの柔らかな感触を感じた。魅惑的に「このまま目を閉じてしまえばいい」とまるで囁いているかのように感じた。その誘惑を跳ねのけるように勢いよく再び起き上がると、机の前へと座った。帰宅してすでに数時間が経過していた。その間、机とベッドの往復を振り子のように繰り返していた。

 橘と話し、今できることに取り組もうと思い立った。手始めにこれまで無視し続けていた「読むだけの課題」に取り組み始めていた。はじめは今夜で遅れを取り戻し、明日の授業では何食わぬ顔で参加してやろうと息巻いていた。ただ、結果は行き詰っていた。実際に資料を読み解き始めて、事はそう単純ではなかったと思い知ることになった。

 現状を知るために、手持ちの役に立たなかった参考書と、配布資料の内容を突き合わせてみた。そこには、多少は内容的に重なっている個所もあるだろうという期待があった。実際、参考書に記載されている内容は、配布資料にも記載されていた。しかし、それは各単元の初めの数ページに集約されており、いわば導入部分のような扱いだった。

 端末でネット検索を用いて、しばらく情報を突き合わせていった。判明したのは、履修内容が一般の高校の内容にとどまらず、大学の学部で学ぶような専門的な内容にまで及んでいるらしいということだった。

 資料は、単なる語句の説明だけではなく、実例や他分野の概念も入り乱れる形となっていた。表層的な暗記だけではなく、各分野の論文を読み解けるほどの「知識」となるよう深い理解を求められていることがうかがえた。

 自身が負傷し入院している間、さらには読むだけの課題など無駄だと切り捨てた間に、クラスメイトらが迫られてきた水準からすれば、差が生じるのは必然と言えた。当然、市販の参考書を単純に丸暗記する程度で埋まるようなものではないことは明らかだった。

 いつの間にか横道にそれた思考を律し、松木は目の前の資料へと再び向き直った。今しがた取り組んでいるのは、予習だった。資料を読み解いた結果、明日の授業から別の単元に入ると判明した。復習ばかりではいつまでも皆へ追いつけないと正当化しつつ、実際は焦燥感と好奇心の入り混じった気持ちで読み進めてみたのだった。資料には「深層学習と自然言語処理」とタイトルが記載されていた。

「自然言語処理の一部として、形態素解析が行われる。形態素解析とは、文章を最小の言語単位に分割することである。形態素解析で得られた分割された単語は、単語同士の関係に着目する『構文解析』や、単語そのものをベクトル化し意味の定量的理解を目指す『単語の分散表現』、深層学習を利用したモデルに応用される」

 少なくとも、3回は声に出して読んだ文章だった。言葉の意味を調べつつ理解を試みた結果、どうやら「機械に人間の言語を理解させる」という趣旨の分野と理解した。資料を少し読み進めた先に、実例として、世界的情報技術企業が研究を進めている「人間と討論を行うプログラムに関するプロジェクト」が紹介されていた。

「いわゆる、人工知能、か」つぶやきながら、各文章で記述されていた概念の説明図に目をやった。何とか今読んでいる個所までは理解できたが、今日の授業のペースで言うと、明日の講義ではもっと広い範囲まで進んでしまうことは明らかだった。焦りに任せて文字を目で追うだけならば、範囲をカバーすることは不可能ではなかった。しかし、それではただやみくもに時間を消費するのみで、実益が無いことは理解していた。

 突然、やや控えめな電子音が鳴った。端末の通知音だった。確認すると、新着のメッセージが届いていた。反射的に、橘の伝言が呼び起された。そういえば、動画を見るようにと言われていた。

 中身を確認すると、案の定、京子を名乗る文面だった。そこには、橘が洩らしていたような「松木自身へ発した辛辣な言葉への引け目」は微塵も無かった。無感情な文章とともに、動画へのリンクが記載されていた。

 復学に際して視聴するよう言われていたため、やや身構えた。しかし、動画の内容はどうということのない学園の紹介だった。

「『求めよ、さらば与えられん』という当校の理念は——」

 やや抑揚をつけた女性のナレーションが耳に飛び込んできた。不意に聞き取った「求めよ」という言葉が、脳裏で反響した。たった1か月休んだだけで、周囲とは明確な差がついてしまった。京子の非情な言葉が想起された。明日から先が思いやられるのは、自身でも自覚せずにはいられなかった。

「この圧倒的不利な状況で、俺は何を、求めるのだろうか」まるで自身に問うように声に出してみた。答えはすぐに浮かんだ。求めたのは、力だった。この状況を覆せる「可能性に満ちた力」こそ、自身が今もっとも欲したものだった。ただ、それが具体的にどのような力なのかは、思い浮かばなかった。

 いつの間にか動画のナレーションは構内の設備を紹介していた。早送りしたい衝動にかられたが、適当に流し見する気にはなれなかった。効率化という名の過ぎた自身の愚行が、このようなひっ迫した状況をもたらしたということが、何よりの抵抗感へとつながっていた。

 自身を奮い立たせ、画面を注視していた。しかし、あまりにも動画が退屈な内容だからだろうか、だんだんと眠気の波が寄せてくるように感じた。必死に目を開けていたが、気づかないうちに動画が進んでいた。棚の上の時計に目をやった。先程から5分も経過していなかった。

 眠気を覚まそうと、学園の理念を復唱してみた。言われるままに、やや冗談めかしつつも心から、掴みどころのない「力」を求めてみた。

 わかってはいたことだが、眠気が覚めることも無ければ、記憶力が急激に上がることもなかった。速読ができるようになるわけでもなく、計算が早くなったわけでもなかった。当然、求めただけで何も起きるはずは無かった。自身の行った滑稽な衝動に思わず吹き出してしまった。眠気は止むどころかむしろ大波となり自身に覆いかぶさろうとしていた。登校初日にしてはきつかったと思った次の瞬間、松木の意識は跡形もなく激浪に飲み込まれていた。


 不意に、我に返った。

 いつから、こうしていたのだろうかと率直に思った。

 すべての感覚が、おぼろげだった。

 かすかに、声が聞こえた。

 内容は聞き取れず、無機質で抑揚に乏しいものだった。

 こもったような声に、注意深く意識を向けてみた。

「……キドウニ、セイコウ、シマシタ」

 言葉というよりも、どこか、遠い世界の音だった。自身の関心などお構いなしに、無機質な声は立て続けに音を発し続けていた。

「ツヅケテ……ガイジュヨウカンカク……サイゲン……カイシシマス」

 その音をきっかけに、得られる情報が広がったように感じた。

 不可思議なことに「耳」という感覚が無かった。

 ただ、まるで詰まっていた何かが取れたような解放感を得た。

「聴覚の再現に成功しました」

 今度は、明確に言葉として聞き取ることができた。

 何が、起きているのだろうと思った。

 周囲を確認しようとしたとき、何も見えないことに気づいた。

 正確には、中央の辺りにうっすらと白い靄があることはわかったのだが、それ以外は認識できなかった。

 注意深く、その部分に意識を向けた。

 すると、不思議と、その白い靄が外側に向かって四方に広がっていくような気がした。

「視覚再現プロセスを実行中です。完了まで3、2、1——」

 無機質だと思っていた声にも抑揚が多少出てきていることに気づいた。

 いや、初めから抑揚はあり細かく聞き取れるようになってきたという方が、正しいのかもしれないと思った。

 突然のカウントダウンが終了すると、急激にまぶしい感覚に包まれた。

 先ほどまで、靄がかかっていた視界は、今やテレビの映像のようにくっきりと細部を捉えられるようになっていた。

 どこまでも奥へと、真っ白な光景が広がっていた。

「外受容感覚の再現完了。内受容感覚の再現完了。外界干渉インタフェースとの統合が完了しました」

「——覚醒時水準をクリア。リアリティの構築に成功しました」

 気づくと、その場に立ち尽くしていた。おもむろに、体を動かしてみる。先ほどまでは身体が無いということに何の疑問も抱かなかったのが不思議なくらい、馴染んだ。ここはどこで、自分は誰だろうか。記憶をたどろうとしたが、頭に霧がかかったように考えが先へと進まなかった。

「潜在意識、顕在意識への永続的無制限アクセス権を要求——権限取得に成功しました」

 唐突に、自身が「松木賢人」であるということを理解した。先程まで自身が誰であったかということすら理解できていなかった。それが当たり前で初めからそうであると思えていた。しかし、今となってはあまりにも不可解だった。

 胸元や、腕、足元を動かしながら目で追っていった。確認できる範囲からすると、どうやら自室で予習をしていた時の格好のままだった。確か、もうすでに22時を回っていたはずだった。どこかへ出かけた覚えは一切なかった。ただ強烈な眠気を感じていたことは覚えていた。先ほどまでのおぼろげな意識とは比較にならないほど、明晰に自身の思考が動き出すのを感じた。

「つまり、これは——」今現在、自身に口があり、声を発する感覚を覚えた。当然のように聞きなれた自身の声を耳にした。当たり前の状況が、ほんの少しまで当たり前でなかったことが一瞬よぎった。不安を伴う心像から注意をいったん逸らし、種々の状況を振り返っていった。

 導き出された結論は一つだった。それは自身が今、夢を見ているということだった。そして、すぐにこの状況の特異な点に気づいた。夢の中で「夢であると自覚している」ということだった。過去に端末で都市伝説的なサイトを閲覧していた時、この現象について目にしたことがあった。

「これは、明晰夢だ」

 際限のない広大な空間に、自身の発した声が吸い込まれていったような気がした。

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