第9話

 公園は、大通りに面した場所にあった。奥には、都心ならではのビル群が立ち並び、敷き詰められた窓からは、無機質な蛍光色が覗いている。その手前には、まるで結界のように木々が生い茂り、自身のいる噴水を囲んでいた。ライトアップが施され、少しずつ色を変えながら舞う水柱が、己の存在感を悠然と示していた。

 不意に、噴水の光に反射して目前の男子学生の顔が見えた。かつて携えていた「自信」とは、かけ離れた、憔悴した表情だった。噴水を囲むように設置されているベンチの一つに近づくと、橘は、松木へ腰かけるよう促した。

 公園は、都会のオアシスとでもいうような位置づけとして、人々の生活に浸透している。昼間は家族連れで賑わったり、付近のオフィスビルで勤務する人々が休憩がてら過ごしたりする場となっている。橘自身にとっても、この公園は馴染みのある場所だった。

 座り込む松木へ、飲み物を買ってくるから少し待つようにと話し、立ち上がった。園内は照明で程よく照らされ、周囲の状況を把握するのはたやすかった。見慣れた自動販売機へ向かうさなか、モダンな照明に照らされた公園の案内図が視界に入った。様々な施設や場所が並んでおり、敷地の広大さを感じさせた。

 意図せず「追悼広場」という単語が目に留まった。過去にこの地域で勃発したテロを風化させないようにと設けられたものだった。普段の公園の雰囲気とは異なる仰々しい言葉は、何度対面してもやはり慣れないと、橘は思った。

 ちらりと、先ほどまで自身のいた場所を振り返ると、ぼうっと噴水を眺める松木の姿を捉えた。今は、目前の対象に集中しなければと思い直し、取り出した缶コーヒーを握った。ただ意に反して、意識は数時間前の記憶を再生していた。

 一日のすべての授業を終えた橘は、「先端技術機構」の一室にいた。窓はあるが、ブラインドで遮られている。室内には種々のケーブルで接続されている無数の機器や画面が設置されていた。会議室程度の広さの場所は、自身の所属する部門のフロアだった。この場所にいると、時間の経過があいまいになると取り留めもなく思っていると、上司のぼやく声が聞こえた。

「プロトコルのためとはいえ、嫌な役回りなものね」

 規則正しく響く端末のキーボードを打鍵する音とは裏腹に、京子の言葉はどこか「ためらい」を帯びているように感じた。先ほど終了した被験者への一連の介入に対する感情が、彼女にそう言わしめているのだろうと、橘は推察した。

 先端技術機構では、国内外のあらゆる先進的技術に関する研究開発が行われている。取り扱われる分野は、多岐に渡っていた。有能な研究者が集う環境ながら「学園」の生徒が機構に所属することは例年のことだった。昨年は自身が赴任し、今年は京子だった。

 しかし、一つ想定外なことがあった。何故か京子が、自身の後輩ではなく「上長」として配属されたということだった。年齢と立場が逆転することは、実社会では決して珍しいことでは無い。とは言え、ややねじれた感情をほのかに抱いていることは否定できなかった。

 先端技術機構は、時折その実績がニュースに取り上げられる。ここ最近のことで言えば、「科学警察研究所」に技術提供したというニュースを端末で目にした記憶がある。名ばかりの機関ではなく、社会の様々な組織に実質的な貢献をしていることの裏付けだった。

 京子の発した言葉が自身の脳内で、独りでに繰り返されていた。彼女の発した「プロトコル」もまた、先端技術機構が独自に進めている研究の一つだった。

「我々は、粛々と『対象』のプロトコル成功の可能性を、高めていくだけです」橘は、京子の言葉に応じた。目前の端末画面には、「対象」に関する情報が表示されていた。丹念に情報を頭に入れていく。氏名欄の「松木賢人」という文字列を眺めた。プロトコルに関連する彼の状態さえ把握できればよく、一人の人間としての彼には一切興味が無かった。

 それでも、プロトコルにおける自身の役割と重要性は理解していた。自身はただ、求められている先輩像を通じて対象に適切に干渉するのみであると思い直した。

「必要な条件は揃った。あとは仕上げね」室内にこだました京子の声を合図に、橘は指定されたポイントへ向かった。

 待機場所は、学園ではなく、大通りから少し入った裏路地だった。正直、このような場所に松木が現れるのか半信半疑だった。

 しかし、その疑念は容易く払拭された。事前に伝えられていた時刻に、まるで示し合わせたように松木は現れた。身構えていたからか、周囲を見ずに歩いていた彼と出会い頭にぶつからずに済んだ。まるで予知のように正確な京子の指示を受けて、からくりを問いただしたい衝動にかられた。しかし、橘自身にその様な権限が無いことを理解していた。おそらく、何らかの人員を割いて松木の動向を逐次監視していたのだろうと想像したのだった。

「良かったら飲んで」

 松木の顔を視界に捉えながら、意識は今この時へと戻っていた。缶コーヒーを差し出すと、彼は戸惑いながらも受け取った。橘は、松木と同じく目前の噴水へと向き直った。

 しばし、言葉を交わすことのない時間が流れた。静寂とはまた異なる、微かな喧噪が行き交っていた。噴水のもたらす水の衝突。面した大通りを走る車のエンジン。横断歩道の青信号。行きかう人々の気配。それらの種々の音や存在が、不思議と調和し周囲を満たしていた。

「君が、事件に巻き込まれたということは知っている」

 橘は、事前に指示されたシナリオ通りに話し始めた。視線は、2人も噴水から逸らしていなかった。それでも橘は、松木が一瞬身じろぐのを横目で見逃さなかった。

「安心して。これは学内でも限られた人しか知らされていない」すかさず言葉を続け、今度は松木の方へと向き直った。彼の顔からは、明らかな困惑が窺えた。

 想定内の反応であることを確認し、事情を説明した。筋書きは「自身が生徒会の一員で、通学に課題を抱える生徒を支援する担当である」というものだった。

 松木は、橘の説明に納得した様子だった。加えて、橘の一貫した松木への態度に警戒感を緩めていくのが分かった。彼は、橘へおもむろに今日あった出来事を吐露した。松木の言葉の端々には、資料に記載されていた傲慢さは失せ、代わりに卑屈さが顔をのぞかせていた。いずれにせよプロトコルとしては、想定される良好な状況だった。

 ここからが重要だと橘は自身へ言い聞かせた。一呼吸置くと、再び松木へ語り掛けた。

「羽月さんから伝言があって——」事前に準備していた通り、穏やかな声となっていることを自覚した。まるで今思い出したとばかりに偶発性を装えていることを、細心の注意を払って確認した。松木へは、復学に当たり見てほしい動画があり、今夜詳細を端末に送る旨を京子からの伝言と称して伝えた。

「羽月さん、放課後君と話した時にちょっと言い過ぎたかもって気にしてたよ。あ、今のは内緒で」

 調子を崩さないようにしつつ、会話をつづけた。実際、先端技術機構で京子の漏らしていた言葉は、どこか本心から生じたもののような気がした。

 しばらく、彼とのやり取りを続けた。プロトコルの先行事例の分析から、対象へのフォローが成功の確率を向上させるという見解を見出していた。思惑通り、松木の表情が和らいでいくのをつぶさに観察した。

 どうやら、干渉は成功したようだった。松木のどこか虚ろだった眼に光が灯ったのを見届け、彼に帰宅を促した。駅へと向かう松木の背を見つめていると、橘は自然と言葉を発していた。

「君は、どんな可能性を僕たちに見せてくれるのかな」

 対象を観察し続けた結果、おのずと高まった期待感の表れだった。状況終了の報告を終えると、橘は、松木の歩いて行った方向とは反対側から公園を後にした。

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