第8話

 つい先月までは、道に立ち並ぶ木々は淡い花を携えていたというのに、いま目に映るのは厭わしいほどの新緑だった。端末の時計は18時を過ぎていた。ほんの数週間前までは、この時間になれば辺りは薄暗くなっていたはずである。

 だが、今はまるで日没が存在しないかの如く空は明るかった。少し色褪せた空の青が、季節柄なのか、時間帯によるものなのか定かではなかった。ただ、まるで訪れる夜に必死に抵抗しているかのように見え、往生際の悪さに苛立ちを覚えた。

 一瞬見上げただけで、目にしたあらゆる情報が、自身の感情を波立たせるのを感じた。松木は、外を歩いているのが「いけない」と思った。視界に偶然入った目前の商業施設へ向かうことにした。無造作に足を踏み出していると、数時間前のことが思い出されていた。

 結果として、初めての登校日は散々だった。一限目の化学の授業は、電子配置の問答以降、遅れを取り戻そうと躍起になったが無駄に終わった。他の教科で取り返そうと気持ちを切り替えたものの、二限目以降も状況は変わらなかった。朝の余裕は焦燥感へと変わり、下校の頃には無力感へと変質していった。

 各教科で新たに配布された資料は、やはり膨大な量だった。休み時間に目を通してみたものの、全く聞いたことのない単語、概念、図式であふれていた。

 帰り際、荷物を無造作に詰め込もうと開けた鞄から、参考書が覗いた。意図せず目に映った「進学校対応」と表紙に銘打たれた文言が、憎らしく思えた。自身の手元に用意していた各教科の参考書が、役に立つことは無かった。

 やや乱雑にファスナーを閉じ、いたたまれない気持ちで廊下へと出た。すると、後方から自身の名を呼ぶ女子生徒の声がした。

「もう帰るのね、松木君」

 振り返ると、自身を見つめる京子の姿があった。化学の授業の時と同じ、冷ややかな眼だった。応じようとしたところ、彼女は言葉を続けた。

「今日の出来事は、あなたの判断が招いてしまった」

 言葉の意味自体は、事実を実直に表していた。しかしその声が自身への負の感情をはらんでいることを松木は認識した。反論の意図を持ったが、返す言葉が浮かばなかった。

「明日も今日のような調子だと、先が思いやられるわね」

 浴びせられた言葉からは、自身に用があるようには思えなかった。京子へ背を向けその場を離れようとした。

「逃げるの」

 京子の鋭利な言葉に、思わず足が止まった。耳で知覚しているにもかかわらず、自身の胸の辺りを深く抉るように感じた。取り合う必要のない「僻み」であると捉えようとした。しかし、これまで他者から己へ向けられてきた「謂れのない負の感情」とは異なり、妥当性を帯びているように直感した。

 京子は言葉を続けていた。ゆったりとした足取りで、背後から彼女が近づいてくるのが分かった。

「学園の生徒なら、やむを得ない事情があったとしても、それを含めてうまく立ち回るでしょうね。正直なところ——」

 先程まで互いに対面していた立ち位置は、京子が歩みを進めたことで、もはや互いに視線をかわせない構図となっていた。彼女が自身を追い抜くとき、澄んだ声が耳元でより一層明瞭に聞こえた。

「松木君、あなたは学園に相応しくない」

 京子は、発した言葉に「もはや未練など無い」とでも言うようにそのまま歩いて行ってしまった。松木は、まともに取り合う必要はないと自分に言い聞かせた。しかし今日一日の出来事が蘇り、自身への説得は失敗に終わった。京子の後姿を、ただ睨みつけることしかできなかった。

 目的のビルまでは少し距離があった。夕方という時間帯もあり、行きかう人々が目についた。このまま大通りを進むのが煩わしく感じた。衝動的に脇道へと入ると、思惑通り人はまばらだった。

 しばらく歩いていると、前方から1組の男の集団が見えた。道幅が限られた状況下にもかかわらず、横一列に広がって歩いている。手に持っていた缶を口元へやるのが見えた。こちらが向かってきていることも当然見える位置にいるはずだが、一向に避ける気配はなかった。

「邪魔なんだよ」

 松木は、思わず言葉を発していた。先ほどから滞留していた情動が、口を衝いて出たものだった。先程よりも近くまで来ていた集団の男と目が合った。数秒後、後悔したが手遅れだった。

 すれ違いざまに、胸部を強く押された。抵抗する間もなく、あおむけに倒れたところに、男が馬乗りとなった。

「にいさんの方こそ邪魔っすよ」軽々しい言葉とは裏腹に、のしかかった重みは確実に松木の身体を固定していた。反射的に顔をそむけた。まるで消化された食物の醸し出しそうな臭気が、周囲の空気と混じり、息苦しさを感じた。すると、傲慢な男の手が自身の頬をつかんだ。

 一瞬遠くの方で、通行人らしき姿を捉えた。しかし、何かを察知したのか、それ以上こちらに近づくことなく、来た道を急いで戻っていくのが見えた。薄情に思いながらも、賢明な判断であると思った。

 視線を泳がせていると、男の持っていた缶が見えた。側面下部に印字された「アルコール度数」という文言が、嫌な予感を与えた。飲み口は開封されていた。

 すると、男は何のためらいもなく、のぞき込みながら松木自身の頭上で缶を傾けた。とっさに拒絶しようとしたが、男の力にびくともしなかった。

 反射的に目を閉じていた。何らかの液体が自身の顔を舐っていくのを感じた。次の瞬間、目や鼻に強烈な刺激感を感じた。口にもかかり、先ほど感じた臭いがより一層強烈に広がった。思わずせき込む中、男らの嘲笑を聞くことしかできなかった。

 何とか目を開け、状況を確認しようと試みた。男のうつろな瞳と半開きの口が見えた。これまで感じてきた「嫌悪」が「安寧」であったと思えてくるほど、不快だった。すると、声が聞こえた。

「どうかされましたか」やや強めの大きな声だった。別の男が急に慌てだしたかと思うと、予兆なく自身の身体は解放された。足早に立ち去る彼らを見届けながら、ゆっくりと体を起こそうとした。

 目前には数名の警察官がしゃがみ込み、自身の様子を窺っていた。着ていた服の袖で、顔をぬぐった。まばたきは出来るようになったものの、不快な痕跡は染みついたままだった。少し後ろの方には、心配そうな眼差しで様子を見守る男性の姿があった。服装からして先ほど見かけた人物であることを察知した。

「だ、大丈夫——です」発作的にそういうと、何とか立ち上がり、大通りの方へと足早に歩き始めた。まだ節々に緊張が残っているためか、うまく歩けているだろうかと思った。顔を上げると、あたりは薄暗くなり、街灯がともり始めていた。何故か、通り過ぎる通行人らがまじまじとこちらを見ているように感じた。どの表情も怪訝そうで、中には口元に手をやっている者もいた。

「なんか、臭くない」

「てか、あの人顔になんか付いてる。汚な」

 聞こえてきた声の元へ視線をやると、こちらを窺う集団が目に留まった。目が合った瞬間、向こうから逸らされてしまった。自身のことを話題にしていたことが、容易に想像できた。

 急に、惨めさが頭をもたげてくるのを感じた。自らの言動がもとで因縁をつけられ、抵抗すらできなかった。見ぬふりをされたと思っていた者に、間接的にではあるが結果として助けられた。望まぬ形で自身は不快感を想起させる容姿と臭気を放っている。

 不意に、3月の事件当日の朝の光景が浮かび上がった。喫茶店で、横にいる叶へ自慢げに「これが持つ者と持たざる者の差か」と話し、道行く人々を見下していた。

 なぜ、こんな目に遭っているのだろうかと思った。数十分まで抱いていた苛立ちとは真逆の、無力感にさいなまれた。

「持たざる者は、俺だった」

 認めたくは無かったが、この瞬間に知覚しているあらゆる事象が、示唆している結論のように思えた。

 当ても無く、ただ歩き続けた。大通りを歩いている間、好奇の目に晒され続けているように感じた。撫でまわすように顔を見られないよう、下を向き続けた。いつの間にか、「人目につかないように」と、再び大通りを外れていた。その場にい続けたくないと、足取りは次第に早まっていった。

 ここまでの酷い目に遭っても、帰宅するという選択肢は浮かばなかった。家に帰ってしまえば、家族から登校初日のことを聞かれることが当然予見された。今日の醜態をどのように伝えろというのだろうか。

 帰宅後は、シャワーを浴び、食事をし、そうこうしているうちに、眠気を感じ就寝することになるだろう。必然的におのずと「翌日」を意識せざるを得なかった。明日から、今日のようなやるせない学園生活が続くことが耐えられなかった。

 ひび割れた路上の表面が、後方へ流れていくのを呆然と見ながら、「家にさえ帰らなければ、明日なんてやってこないのではないか」と、幼稚な妄想が脳裏に浮かんだ。

 路地の角に差し掛かった時、急に視界に人の足元が飛び込んできた。周囲をよく確認せず歩いていたため、回避することができなかった。衝撃に備え、体を強張らせた。しかし、杞憂に終わり、声が聞こえた。

「すみません、大丈夫ですか」

 いつの間にか固く閉じていた瞼をゆっくりと開いた。目の前には、学生服を着た男がいた。一瞬、男子学生の顔を捉えた。明らかに何かに気づいたような表情を携えていた。直近に受けた「冷笑をはらんだ感情」を警戒し、急いで視線を相手の胸元へと下げた。

 意図せず視界に映り込んだ相手の身なりに、一瞬、既視感を覚えた。寸刻の後、原因を把握した。自身と同じ「学園」に通う者が着用する制服だった。

 急に不安が押し寄せてきた。自身でさえ気付いたということは、当然相手も同様のことを考えているのだろうと思った。このような姿を目撃されてしまえば、「学園」での居心地がより一層悪くなることは想像に難くなかった。そのような状況下での最善策は、一つしかなかった。大丈夫ですと応じ、足早に立ち去ろうとしたとき、自身の前腕が掴まれる感触を覚えた。

「待って。松木賢人君、だよね」

 為す術なく受けた先の身体的介入の再来を覚悟した。しかし声の主は、予想外な行動に出た。振り返りざまに捉えたのは、差し出されたウエットティッシュだった。

「見つかってよかった。良かったらこれ使って」

 男子学生の声は、少し高めで、安堵感を醸し出していた。自身の態度がどのように映ったのか定かではなかった。それでも、松木自身に対する敵意は感じ取れなかった。

「どうして、俺の名前を——」差し伸べられた善意を未だ受け入れられず、疑問が生じた。それを察知したのか、男子学生は自身をたちばな裕也ゆうやと名乗った。続けて、君さえよければ説明させてほしいと答えた。

「立ち話も何だし、場所を変えようか」そう言うと、橘は端末を取り出し、地図を表示した。先程までやみくもに歩いていたため気づかなかったが、少し歩いた先に広めの公園があることを把握した。

 正直なところ、長時間の歩行により、下肢に重苦しさを感じ始めていた。現状の自身の身なりでは、喫茶店に入ることはおろか、電車に乗ることさえも躊躇われた。

 今はただ、目前の厚意に甘えていいのではないかと思えた。松木はしぶしぶ提案に応じ、橘の後へと続いた。

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