第7話

 締め切った窓の外からは、濡れたアスファルトの上を走り抜ける車の音が聞こえた。先程まで続いていた雨音が、心なしか小さくなったように感じた。

「どのくらい時間が経ったのだろうか」と松木は思った。外出せず自宅で終日過ごしていたためか、どこか後悔の入り混じった物足りなさを覚えた。

 ふと顔を上げて窓を見ると、すでに日は沈み、外は暗くなっていた。おもむろに立ち上がり、窓辺に移動する。ガラスに反射した自身の姿を一瞬捉えたが、構わずカーテンを閉めた。そして何事もなかったかのように、再び自室の机の前に腰を下ろした。

 病院を退院し、3日が過ぎた。病み上がりということから大事を取り、今週までは学園を休むこととなっていた。目前には自身で購入した市販の参考書が広げられていた。目についた文章を読み始めたが、脳裏には別のことが浮かんでいた。それは、入院中に叶が面会に来た時の光景だった。

 謝罪の言葉を受けた時、うわべの否定ではかえって相手を疑心暗鬼にしてしまうと考えた。そこで事実を客観的に捉えるため、あえて叶からの誘いがあったと言及したのだった。彼女への負の感情は、一切伴ってはいなかった。

「俺は、叶のせいとは思っていない」

 思わずつぶやいた言葉は、本心からのものだった。そもそも図書館の存在を叶へ伝えたのは自身であった。彼女からの誘いがなくとも独りで図書館へ行っていただろう。それに、当時の予定や自身の判断基準に基づけば、事件発生日時と重なるように訪問していた可能性が完全に無かったとは、言えなかった。

 ただ、真意を伝える間も無く、叶は病室から出て行ってしまった。彼女の様子が普段と違うことに違和感を覚えたが、検査で遮られてうやむやになってしまった。

 自身の端末を取り出し、叶とのメッセージのやり取りを表示した。そこには更新の途絶えた過去の情報が表示されるのみだった。連絡を試みてはいたものの、会う機会は無かった。

 入院中、学園からは定期的に課題が出されていた。長期の休みになるため、療養中は課題に取り組むことを条件に出席扱いとして考慮するという話になっていた。

 課題は2種類あった。一方は、提出必須だが分量や難易度としては松木にとって支障のないものだった。数日おきに課題が届くたびに滞りなく提出していた。

 もう一方の提出不要な課題は、端的に言えば資料を読むだけで良いというものだった。しかし、分量は膨大で、自身からしても目を通すのが億劫になるほどだった。最初の頃は、提出不要の課題についても、目を通していた。しかし次第に、張り合いのない「読むだけの課題」に対し、疑念を抱くようになった。

「後から参考書を買って一気に勉強した方が、効率的に思える」

 それは、高校生1年目の最初の1か月の間に履修する範囲は、たかが知れているという考えから導かれた結論だった。以降、提出必須の課題は都度迅速にこなしつつ、読むだけの課題は無視するようになった。代替として、進学校用の市販の参考書を購入し学習するようになっていた。

「今日は、このくらいにしておくか」先ほどから、内容に集中できていないことを自覚した。ただ、今しがた読んでいる個所は数日前にすでに学習し、もう何度も復習まで終えていた。

 退院してからの体調は特に異変なく以前と変わりはなかったが、翌日からの登校に備え早めに就寝した。

 朝を迎えると、予定より少し早く家を出た。学園へは想定通り迷うこともなく到着した。事前に連絡を受けていた通り、復学に際しての事務的な手続きを済ませ、自身の教室へと向かった。

 廊下を進むと、前方に自身の教室が見えた。開いている引き戸からは、賑やかな談笑の声が響いていた。構わず中へと入り、教えられていた自身の席へと腰を下ろした。

 先ほどまで聞こえていた喧騒は、いつの間にか静まり返っていた。周囲を見渡すと、クラスの半数以上は既に登校しているようだった。何人かが、こちらを盗み見て様子を窺っていた。それ以外の者も、どこか落ち着きを失い近くにいる生徒同士で言葉を交わしている。

「見たことないけど、誰——」

「あの席は、入学式から休んでいた松木って人だよね」

「確か、主席入学の人で——授業を免除されていたのかなぁ」

 聞こえてきた囁き声が、どれも自身に関するものであることは明らかだった。自身が入学試験における最高得点者だったということは、退院後に聞かされていた。自ら誇示するまでもなく、周囲へその事実が伝わっていることに、悪い気はしなかった。

「なるほど。皆、審美眼を有しているということか」思わず口にした言葉は、想定よりも大きくなり、教室中に反響するのを感じた。先ほどまで無関心を装っていた生徒が、一瞬振り向いたかと思うと、再び向き直るのが見えた。その振る舞いを滑稽に思っていると、一人の女子生徒が近づいてきた。

「あなたが、松木君ね」

 近づいてきた女子生徒は、自身をづき京子きょうこと名乗り、自己紹介した。冷静さを醸し出しながらも、よく通る声にどこか鋭さに近い強みを感じた。通った鼻筋とくっきりとした裸眼から成る顔は、先ほどから目にしているクラスのどの者よりも整っていた。髪は首回りでまとめたボブカットで、透明感のある前髪から額がうっすらと覗いている。京子はこのクラスの委員長をしているとのことだった。容姿から直感した「品行方正」という雰囲気にお似合いであると、妙に納得した。

「主席合格のあなたと勉学を共にできること、光栄に思うわ」そう言うと、京子は「一限目は化学だからみんなと一緒に移動ね」と言い、席を離れていった。

 いつの間にか始まった担任教諭による朝の連絡事項周知をやり過ごした後、一限目の教室へと一足先に向かった。校内の各教室の場所は、すでに把握済みだった。

 程なくして、授業が始まった。先生は黒板の前の教壇に立ちながら、話を進めている。

 復学に当たり、万全の準備をしていたつもりだったが、気がかりなことがあった。それは「教科書」の存在だった。学園では、授業で使用する教科書が無くすべて都度配布される資料にて代替すると説明されていた。

 周囲を見渡すと、皆の机上に置かれている物はまちまちだった。ただ、それでも存在感を十分に主張する分厚いファイルが目に留まった。なるほど、都度配布される資料を綴るためのものかと、思った。教科書を用いないとはいえ、皆何らかの書籍は用意しているようだった。自身の手元にある参考書に目をやった。学園を休んでいる間、何度も繰り返し学習を重ねた実績の証だった。

「それでは、前回までの復習から始めましょう」先生はそう言うと、黒板へ「電子配置」と書き記し、向き直った。

「化学の電子配置について説明してください」問いに対して、周囲を見回す先生の視界に入るように、松木は間髪を入れず高らかに手を挙げた。まさに、参考書で学習していた範囲だった。

「電子配置は、内側からK、L、M、N、O、P殻で定義される電子核に、電子が存在するか否かを表したものです」

 自信たっぷりに発した声が、教室の隅々まで広がるのを感じた。有数の進学校を凌駕する学園とはいえ、どうと言うことは無かったと思った。

 松木が話し終える間に、ほかの生徒達がどよめき始めた。松木は、自身の完璧な問答を受けて皆が感嘆しても仕方ないと平静を装った。先生の方を向き、もうすぐ発せられる称賛の言葉を待ち構えていた。しかし、思惑はあっさりと外れた。

「ほかに、付け加えることはありませんか」

 自身の視界には、明らかに困惑している先生の表情が写っていた。解答は以上であると告げると、先生は、他の答えられる生徒を募り始めた。

「合っているはずです」反応に納得できなかった松木は、まだ話は終わっていないとばかりに、先生へ言葉をぶつけた。すると、先生は諭すように口を開いた。ただ表情は落胆を隠しているように思えた。

「先ほどの答え方では、一般の高校範囲となってしまいます。本校の履修内容には足りていないため、不適切です」

 言葉の意味が分からず、思わず手元の参考書のページをめくり始めた。その様子を見ながら、先生は話をつづけた。

「あなたが休んでいる間に、課題として資料を送っていたはずです。きちんと読んでいれば、答えられたと思うのですが」

 先ほどよりも、落胆の色が強くなったのを感じた。言葉を聞いて、松木はある結論を得た。本当に重要だったのは、提出不要の「読むだけの課題」だったということだった。

 今更それに気づいたところで、為す術は無かった。これまで配布された資料は持参していた。しかし、あまりにも膨大な量の資料から、問われた内容を探し出す猶予は与えられていなかった。

 すると、先ほどから生じていたざわめきが、鮮明に聞こえだした。

「登校初日からふざける余裕があるんだ」

「え、さっきの様子だと本気だったみたいだよ」

「主席合格とか、偶然だったんじゃないの。あるいは裏で——」

 称賛と思っていた声は、嘲笑だった。松木は、崩れ落ちるように着席した。

「答えられない奴らがひがみやがって」強気な言葉とは裏腹に、声は朝の威勢を失っていた。

 先生は、松木との問答を終えたと認識し、改めて他の解答者を募っていた。それに対し、松木の目を疑う光景が広がっていた。クラスのほとんどの生徒が手を上げ、答えられる旨を表明していた。未知数の生徒への警戒や様子見のために解答を控えようという思惑は、もはや無いようであった。

 その状況に割って入ったのは、今朝聞いた女子生徒の声だった

「松木さんの解答内容に補足します」

 京子は、静かに立ち上がり、黒板の方へと歩きながら話し始めた。

「電子殻は、電子軌道により構成されており、波動関数によりあらわされます」

 彼女は、慣れた手つきでチョークを手に取ると、黒板へ素早く図を記載し始めた。松木にとっては、そこに書かれたどの数式やグラフも見覚えのないものだった。

「電子の存在確率の高低の分布パターンにより、s、p、d、f、g軌道に大別され——」

 図を描き終え、京子は皆の方へ向き直った。あまりにも素早いその所作に、彼女の滑らかな髪がふわりと広がるのが見えた。同時に整った顔立ちが視界に入り、目が合った。今朝話したときの表情とは一変し、瞳には「興ざめした」とでも言うかのように冷たさを感じた。

「——構造原理に基づき、電子が格納されていきます」

 チョークを置きながら、京子は体の向きを先生の方へ向け、言葉を終えた。

 一瞬の静寂が教室に流れた。そして、感嘆の声が上がった。明らかに自身の受けた時のどよめきとは異なっていることを、否が応でも理解した。

「十分な内容に加え、黒板への図示もあり、状況に即した解答でした。ほかの皆さんも今一度理解しておいてください」先生は、教室を見回しながら話した。京子以外の教室にいる全員へ向けられたはずの言葉が、まるで自身のみを名指ししているかのように冷淡に聞こえた。

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