第6話

 日の沈む時刻はだいぶ遅くなってきていた。それでも、空は昼間の面影を遠くの方に見せるのみとなっていた。少しくすんだ橙色から澄んだ青色へ混じり、そして夜の訪れへと変わっていく。

 電車内は、個別の人々で混雑していた。周囲にいるどの人も、他者を窺うことなく、自身の端末に目を落としている。叶は、ガラス戸から外を眺めていた。現れては消えていく景色の移り変わりが落ち着きを見せ、駅名を告げる声が聞こえた。降車駅は、まだ2つ先だった。いつもの癖で降りそびれないようにと再度確認する。普段の通学では通過するだけの無自覚な駅だった。

 邪魔にならないようにと、カバンを胸元に抱え、開かない方の扉に近づいた。重い気持ちを紛らわせようと、扉の向こうを再び覗く。しかし、意に反してガラスに映りこんだ自身の姿が目に留まった。傍から見れば、学校帰りのありふれた女子高校生にしか見えないのだろうと思った。思いとは裏腹に、1か月前の悪夢が蘇りそうになった。

 昏睡状態だった松木が意識を取り戻したとの連絡を受けてから、すでに1週間が経過していた。

 一報は、彼の母親から伝えられたものだった。後遺症は残らず、回復へ向かっていると聞かされた時のことが思い出された。

 事件後に初めて彼女と対面した際、顔を直視できなかった。咄嗟に、「すみません、私のせいで——」と声を出すのがやっとだった。

「私が、賢人を図書館へ誘っていなければ、こんなことにならなかった」

 事件以来、頭の中で何度も繰り返されている呪文だった。彼女と対面した時、胸の締め付けが一層強まるのを感じた。まだ開かれていない口元から、彼女の罵声を聞いたような気がした。しかし、松木の母親から出た言葉は叶の意に反したものだった。

「誰のせいでもない。2人とも巻き込まれてしまっただけ。それに、叶ちゃんが誘っていなくても、賢人はあの日に図書館へ行くつもりだったわよ」聞こえてきた声は、1か月前の朝に聞いた時と、変わらない調子だった。

 思わずうつむいていた顔を上げた。そこにあった彼女の表情は、かつてと変わらず笑顔を維持していた。ただ、以前にはなかった目の下の翳りが、並々ならぬ心労と対峙し続けていることを窺わせた。

「叶ちゃんも、会いに行ってやってちょうだい」と入院先を教えてくれた彼女に対し、叶は深々と頭を下げることしかできなかった。

 降車駅の名を告げるアナウンスで、我に返った。電車から降り、人の流れに沿って改札口を出た。辺りはすっかり暗くなっていたが、駅前は栄えており、様々な電飾がこれ見よがしに光を放っている。端末で地図を確認し、病院までの道程を把握した。大通りへ出た後も、足を踏み出すたびに、拭っても滲み出てくる心像を感じていた。

「あの日、賢人1人で図書館へ行ったとしたら、きっと無事だった」

 彼は、事前貸し出しの手続きをしていた。彼の母親が気を使って言ってくれたように、もし彼が一人で図書館へ行っていたとすれば、かえって結果は違ったように思えた。

「私が、賢人を、傷つけた」

 繰り返される呪文の変質を感じながら、無機質な建物の扉をくぐった。

 面会手続きを済ませ、病室の前まで来ると、足を止めて目を閉じた。腹をくくるように呼吸を整え、中へ入った。病室は、4つの区分にカーテンで仕切られていた。静かに歩みを進め、布で遮られた一角に向かい声をかけた。

「賢人、入っても大丈夫」

 久方ぶりに呼びかけた声は、かすれてしまった。病室という場所柄によるところもあったのだろうが、自身の感情によるものであることは自覚していた。

「叶か」

 応じる松木の声がした。承諾の返答を受け、ゆっくりと中へ入った。

 視界には、見慣れた幼馴染の姿があった。先日対面した彼の母親とは対照的に、松木の顔色は事件に巻き込まれる前と比べさほど違いは無いように思えた。だが、それは思い込みに過ぎなかった。捉えたのは、体にまとった病衣や、前腕から延びる細い管だった。叶は、思わず自身の鼓動を感じた。それらの確かな事件の痕跡が、感覚を鋭敏にしたことは明らかだった。

「久しぶり、だね」叶は口を開いた。長年親交を深めてきた幼馴染という間柄にしては、どこか他人行儀な言葉となってしまった。顔を突き合わせたものの、どのような言葉をかければよいか見当がつかなかった。気まずさを感じて、視線を落とした。

「早ければ、翌週には退院できるそうだ」松木自身の病状を伝える声が聞こえた。彼の順調な回復をうかがわせる内容のはずが、自身の鼓動はより一層早まっていくのを感じた。そして、今日この場所に来ると予感した時に決めていた覚悟を、行動に移した。

「私のせいで、こんなことになってごめん」

 精いっぱい心情を形にした一方で、心の片隅では、必死さを静観している自身もいた。松木の「そんなことない」と否定してくれる言葉を、どこか期待していた。先の彼の母親との会話が、甘えの付け入る隙を与えていた。そのためか、松木の発した言葉がすぐには理解できなかった。

「確かに、叶から図書館へ行こうと誘われたな」松木の声は、以前と変わらない調子だった。表層的な慰めは無く、どこまでも客観的に事実のみを形容していた。それだけに、叶の中で繰り返される呪文がより声高になるためのさらなる口実を与える結果となった。

「私が、賢人を、傷つけた」

 より一層深く刻まれる心像に耐えていた。どう返して良いか分らず、うつむいたままだった。今まで苦しいほどに明瞭に映し出されていた視界が、急にぼやけてくるのを感じた。喉の奥が熱く、先ほどまで無意識にできていた呼吸が急に困難に思えた。端の方で、松木が何か言いかけたように思った。しかし、内容を確認することはかなわなかった。

「松木さん、検査の時間ですよ」呼びかける声に続けて、カーテンのひらめく音が聞こえた。看護師は叶に会釈したものの、こちらの方が重要であると表明するかのように、松木の方へ向き直った。看護師の職務の正当性を覆せる状態ではなかった。今の自身にできることは何もなかった。

「——ごめんなさい」

 気が付くと、言葉を置き去りにして、病室を後にしていた。あふれてくる涙を隠そうと顔を伏せがちに歩いた。しかし嗚咽を止めるすべはなかった。病院の敷地を後にし、駅へと向かっていた。行きは時間がかかったように思えていたが、気が付くと駅の近くまで来ていた。ただ、この感情を引きずって帰宅するのは気が進まなかった。両親から、「松木は元気そうだったか」と訊かれたときに、そつなく答えられるほどの余力は残っていなかった。

 煌々と光る街の明かりの元で、端末を操作していた。特に知りたい情報や確認すべき事項があるわけではなかった。

 突然、上肢に衝撃を感じた。反射的に目をやると、筋張った太い指と、上着の袖が見えた。自身の前腕あたりを掴んでいる。少し遅れて、立ち上ってくるような酒の匂いを感じた。思わずむせ返りそうな不快なものだった。

「子供がこんな場所で生意気だなあ」聞こえた声と強引な力に抵抗しようと、顔を上げた。見覚えのない男の顔がそこにあった。頬が紅潮し、目の焦点が定まっていない。ジャケットとスラックスという身なりだが、袖のボタンは外れ、首元に絞められたネクタイは緩んでいる。

 その時、1か月前の光景で頭がいっぱいになった。まとわりつくような視線と暴慢な怒号。向けられた銃口。叫ぼうとしたが、膝が震え、声が出なかった。それでも何とか助けを求めようとした時、声がした。

「おじさん、俺の連れに何してんすか」別の男性の声だった。若い呼びかけとともに、自身をつかんでいた無神経な手は振りほどかれた。湿っぽい舌打ちとともに、不快な男は姿を消した。

「大丈夫、絡まれていたみたいだったから」青年はそう言いながら笑いかけてきた。「連れ」と形容されたが、見覚えはなかった。叶の警戒心をくみ取ったのか、青年は「何もしないよ」と釈明し、自ら少し距離をとった。

「さっきからこの場所にいるみたいだけど、誰かと待ち合わせとか」青年からの質問に、叶は違いますと端的に答えた。おどけて「制服目立つからさ」と応じる青年を改めて見た。清潔感を感じさせる整った身なりだった。高校生、いや大学生くらいだろうかと思った。少なくとも自身より年上に見える彼に対し、助けてくれた手前、無下に接することは気が引けた。

「もし時間あるなら、あそこで時間つぶそうよ」と誘う声が聞こえた。彼が指さした先にあったのは、駅前のカフェだった。どの街にもある見覚えのある看板を視界に捉えた。先程のおびえた自身の態度に配慮したのか、すかさず彼が口を開いた。

「近くにさっきの酔っ払いがいるかもしれないし、すぐ前が駅だから嫌になったらすぐ帰れるしさ」

 叶は思案した。先程のような目にあっても、やはり家路につく前に少し時間を置きたかった。それに少なくとも目の前の青年は、自身を助けてくれたという実績がある。彼の忠告通り、一人で時間を持て余すよりは安全に思えた。

「少し、だけなら」

 馴染みのない街の喧騒のためか、発した声を知覚できなかったが、彼には聞き取れたようだった。自身の中で繰り返される呪文から、少し気をそらせた気がした。眩く光るネオンを背に、青年とともに駅前へ向かった。

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