第5話

 松木は、目の前にいる覆面の男を見据えた。武術に関しては多少の心得があった。中学校時代に勧誘を受け、興味本位で行った部活動体験入部の記憶が目に浮かんだ。

 空手部で組手試合をしばらく見学していた。格闘技には元々興味があり、テレビ番組を観ることはあったが、実際に経験したことは無かった。ところが、部員らの所作を見ているうちにおおよその感覚が掴めたような気がした。試しに模擬戦を申し出たところ、危ないからと何人もの上級生に止められた。

 一方で、「生意気な態度が気に食わない。わからせてやる」と息巻く部員がいた。周囲の懸念をよそに対戦が行われた。誰の目に見ても松木が痛手を負うことは明らかに思われた。

 しかし結果として、2年生の当該部員を圧倒する形となった。自身の出した結果に対し、何ら疑念を抱くことはなかった。

 結局、貴重な時間を無駄に費やしたくないと思い、どの部活動にも入らなかった。ただ噂が広まったようで、在学中はたびたび運動系の部活動から声がかかるようになった。多忙を理由に断ると「在籍しなくてもいいから」と言われたことから、時々気晴らしに部活動に参加したり、時には欠員の出た大会へ参加したりすることもあった。

 静かに背後へ近づいたのち、相手の腰元に腕を回し、下へ一気に荷重を加える。相手にしりもちをつかせる形となった後は、そのまま肩回りへ腕を絡める体位へと移行し、関節を締め上げる。昔、何かのアクション映画で見た動作だった。空手の所作ではないため試したことはないが、頭の中では自身の身体をどのように動かせばよいか、明確にイメージができていた。

 呼吸を整え、気取られないように歩みを進める。間合いに入ったことを確認し、イメージした感覚をなぞるように身体を迷いなく動かした。

 予想外の衝撃に狼狽する暴慢な声とともに、少し鈍い音が床を振動させた。想定通り、腰を地に落とした対象の関節を迷いなく締め上げる。覆面男は、苦痛のあまり雄叫びを上げた。次の動作を思案していたその時、悲鳴が聞こえた。この状況下ではもはや聞き慣れつつあったが、非常事態を訴える声は叶のものだった。

「今すぐ彼から離れなさい」非情な、別の男の声が聞こえた。

 声の元へ視線を移した。まず、恐怖を隠さない強張った表情の叶を認識した。そして彼女の横に立っている男を捉えた。中肉中背で体格に関して特筆する点はなかった。ところが、それよりも目を疑ったのは男の格好だった。頭から布袋を被っている風貌は、松木が人質と判断していた集団と同一だった。

 何が起きているのか、混乱した。再び叶の方を見ると、首元あたりに不自然な「きらめき」があった。目の前の事態を認めたくないという感情が、真っ先に広がった。状況の理解を終えるまでに時間がやけに過ぎたように感じた。触れるか触れないかのぎりぎりの位置に、切れ味のよさそうなナイフが突きつけられていた。

「早くしたほうがいい。いたずらに彼女へ傷を負わせたくない」叶に刃物を突き付けている男は、被っていた布袋を脱ぎ捨てながら言った。当然素顔は無く、同犯者と類似の覆面姿が露になった。思考の猶予がこれ以上ないことを悟った。勧告に従うしか選択肢はなかった。

 力を緩めた途端、先ほどまで苦痛の声を上げていた男が、松木へ襲い掛かった。

「舐めた真似しやがって。こんなんじゃ済まさねぇ」

 恨みのこもった声が聞こえた次の瞬間、重く耐えがたい苦痛が、身体を貫くのを感じた。自身の意思に反して、身体が地面へと倒れこんだ。男のこぶしが、自身のみぞおちを捉えたと認識する間もなく、苦痛の連鎖は続いた。力の差は歴然で、為す術が無かった。

 しばらくして、男が自身から離れるのを感じた。必死に頭を起こし、叶のいた方向を向いた。刃物を突き付けていた男は、律儀にも叶を切創の脅威からは解放していた。少し離れたところに立ち、周囲を警戒している様子が目に映った。

 一方、叶は別の新たな危殆に直面していた。ほんの数分前まで松木自身の制圧下にあった男は、叶の方をじっとりと纏わりつくように見ていた。叶は、視線に耐えがたい様子だった。しかし、男を刺激しないようにと表情を取り繕っているのが分かった。思わず怒りを感じた。男の眼差しは、まるで無垢な小動物を品定めする獣だった。

 視線を感じたのか男は振り向き、松木の方を見た。

「お前が二度と舐めた真似をしないように、教育してやらないとなあ」声は明らかに先程の興奮が続いていることを窺わせた。強めの語気に反し、上擦りがちな声だった。顔には不気味な笑顔を携えている。笑い慣れていないのか引きつった口角が、不快さをより一層増長させた。手に何かを持っているのが見えた。それは、映画やドラマといった創造物でしか見たことの無い代物だった。

 男が、慣れない手つきでセーフティを外しながら銃口を叶へ向けるのが見えた。苦痛に耐えながら「作り物の銃にしては良くできている」と松木は言い聞かせるように思った。

「この場で銃を使う計画ではないでしょう」落ち着きを維持した丁寧な口調で、男を諭す声が聞こえた。離れた場所にいた松木自身でさえ聞き取れるほど、明瞭に発せられていたはずだった。しかし、興奮状態にある者には届いていなかったことを、寸刻の後に理解した。

 短い轟音が館内を割き、ガラスの弾ける音が聞こえた。既に本来の静寂さを失っていたこの場所からしても最も相応しくない音だった。続けざまに人質らから悲鳴が上がった。

 松木は、反射的に自身の目を閉じていた。少しずつ目を開く。すると銃を片手に仁王立ちした男の姿があった。銃口は天井を向いていた。先ほどまで抱いていた「銃が偽物である」という希望的観測は、跡形もなく打ち砕かれた。発作的に叶を探した。腰を抜かし、地面に座り込んでいる彼女の姿が見えた。すぐ横には、もう一方の男がいた。

「叶、逃げろ」無我夢中で叫びながら、満身創痍の身体を動かした。気づくと先ほど制圧していた男に掴みかかっていた。予想外の介入を受け必死の形相で目を見開く男の姿が、視界に入った。

「この銃さえ奪えば」自然と口にした思惑を阻止しようと、男も必死に応戦する。状況を打破したのは再びの銃声だった。

 松木は、何が起きたのか理解するのに時間を要した。耳鳴りがして音が聞き取りづらい。何より意識がぼんやりとしてくるのを感じた。足元を見ると銃が転がっていた。早く奪わなければと直感的に思った。身体を動かそうとしたその時、視界がひっくり返るのがわかった。目前には、快晴の空が広がっていた。今朝見た時と同じ透き通った色は、残酷な現状をより一層際立たせた。何とか力を込めて両腕を動かすと、視界の端に赤黒い何かが映った。それは、血にまみれた自身の掌だった。

「俺が撃ったんじゃない、こいつが、こいつが」猛々しかったはずの声が、やけに薄っぺらに聞こえた。先ほどまでの威圧感は失せ、取り乱す男の様子がそこにあった。怒号を響かせていた野蛮な男が、今や泣きじゃくる子供のように慌てふためく姿を見て、滑稽だなと思った。

「もういい。これ以上、醜態をさらさないでくれ」

 終始冷静だったもう一方の男の声がした。その数秒後、突然野蛮な男の苦痛な叫びが聞こえ、そして止んだ。男が近づいてきて自身をのぞき込むのが見えた。彼は、自身の手をややかばっているように見えた。野蛮な男ともみあいでもしたのだろうかと思った。

 覆面で素顔は当然わからないものの、端から見える目と口のしわが、予想外の感情を表しているように思えた。それは、本来強盗が持ち合わせるはずのない「遺憾」だった。

「通報しておいた警察がすでに駆けつけていたはずだ。銃声を聞き、もうすぐ突入してくるだろう。この場所にあるとようやく突き止めていたのに。奥に行かせた奴もこの分だと間に合わない。自律という言葉を知らない獣に、すべてを台無しにされるわけにはいかない」男が独り言のように話すのが聞こえた。それはまるで男自身に言い聞かせているようだった。

 松木は、目まぐるしく変わる状況のためか急に疲労感が襲ってくるのを感じた。まるで睡魔にいざなわれるかのように、急激に知覚が遠のいていく。それでも、今ここで意識を失うわけにはいかないと思った。脳裏には叶の顔が浮かんだ。周囲を見ようと試みる。だが、思うように視点は動かなかった。先ほどまで聞こえていた周囲の音が、まるで耳栓をしたかのように遠く感じられた。

 爆発音がしたような気がした。何度目だろうかと率直に思った。力強い足音が連なるのが、かすかに聞こえた。

「負傷者の救助要請、急げ」大声のはずなのに、まるでオーディオ機器のボリュームを絞ったかのように、遠くの方で音が鳴っている。目路を頼りにしようとするも、もはや薄暗く、遠くの様子をうかがうことはかなわなかった。

 その時、人の顔が現れた。純血した目、これまでにないほど大きく動く口元と、頬を伝う涙が見えた。一番探し求めていた顔だった。自身の名前を必死に呼んでいるのだろうかと思った。暗晦な視界に注意を何とか向ける。首元に、傷は無かった。

 叶の無事を確認し、もはや意識が遠のくことに抗う理由は無かった。国立図書館に来る前までの出来事が、ひとりでに思い出された。晴天の空、遠慮がちな叶、タマネギ好きの俳優と喫茶店、それから——駆け巡るどの要素も現状の結果に繋がらなかった。

「人質の中に仲間がいるなんて、物語ではよくある話だったな」

 自嘲に近い思考が、松木の認識した最後の自我だった。

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