第3話

 喫茶店は、駅からそれほど離れていない場所にあった。時代を感じさせるやや年季の入ったレンガ造りの外壁と、外がよく見渡せる広い窓が印象的である。軒先には手入れされた鉢植えの花がいくつか置かれ、たどった先にはアンティーク調のやや重厚感のある扉があった。

 叶は、もう何度も目にしている店構えを視界に収めながらも、松木の言葉を思い返していた。「学園に合格したのは当然」という言葉から滲む通り、幼馴染として近くで松木を見てきた叶からしても、彼は傲慢であると認めざるを得なかった。

 しかし、叶は不思議と松木の態度に納得感を得ていた。要因として、松木の高飛車な態度は実績を伴っているという点を挙げて、自分なりに分析を試みた。

 実際、松木は中学生の頃から常に学年トップの成績を維持していたし、運動系部活動から度々声がかかることも珍しくはなかった。対照的に自身の状況が思い起こされた。中学校の担任教諭からは進学先を学園とすることに異論はなく、むしろ妥当であると激励された。勉学に関して言えば、周囲から勉強会の講師を頼まれることも度々あった。ただ時折、常にそばにいる松木という有能に怖気づき、結果を出せなくなる。今回の受験直前の模擬試験でも、妙に力んでしまい思ったほど点数が伸びず、肝を冷やしたことが蘇ってきた。

「賢人の自信、私にも分けてよ」そう思いながら引いた扉は、幾度となく開けてきたにもかかわらず、やけに重たく感じた。

 店内には、木目調の壁とレンガの敷き詰められた床が広がっていた。天井に設置された照明器具には、美しい曲線で飾りが施された電球傘が連なっていた。蕾のように悠然とありながら、優しい暖色の明かりで店内を照らしている。カウンター席には、スーツを着た男性客が何人か座っていた。ベロア生地があしらわれたボックス席にも客はまばらだった。

 叶は、この喫茶店が気に入っていた。今のような平日の朝は、落ち着いた雰囲気を見せるこの場所が、夕方ごろになると近隣の学生らが集うにぎやかな様子へと一変する。夜になれば、仕事を終えた人々が立ち寄ったり、混み入った話が交わされたりするような奥深さを垣間見ることもあった。

「高校合格おめでと。いいなぁ春から高校生活かぁ」若い女性の声が聞こえた。もう何度も聞いている朗らかな声は、知覚するたび不思議と安心感を覚えた。

「紗谷香さん、おはようございます」と叶は声の主を見た。神崎かんざきの顔は、店内の雰囲気に寄り添った自然なメイクが施され、柔和な笑顔を携えていた。やや長めの髪は後ろのほうで束ねられ清潔感を感じさせる。すると、離れたところから紗谷香を呼ぶ声がした。カウンターに座っていた男性客がどうやら会計を済ませたいようだった。

「注文決まった頃にまた来るね」と言ってレジへ向かう紗谷香の姿を、何と無しに目で追った。愛想よく男性客と言葉を交わし、てきぱきとした手つきで仕事をこなす彼女の姿が見えた。自信に満ちた立ち振る舞いは、憧れに近い好感を抱かせた。

 叶は、窓から外を眺めた。駅に近いこともあり、店に面したこの道は、意外と人通りがあった。通勤中と思われる人たちが、皆少しうつむきがちに足早に通りを抜けていく。叶の目に映るどの顔も、やや疲れているように思えた。

「これが持つ者と持たざる者の差か」松木の声が聞こえた。どこか横風な感じがした。松木の方を見ると、目が合った。松木は「皆が出勤する中、俺らは優雅に喫茶店でくつろげる」と言葉をつづけた。叶は、周囲の人たちに聞かれていないかと心配になり周りを見渡した。幸い、近くに他の客はいなかった。叶は、「私たちは学生だから猶予されているだけだよ」と控えめに応じた。

 すると紗谷香が、やってきた。

「そういえば最近亡くなった有名な俳優さん、ここだけの話、このお店の常連でね」

 注文を取りながら、紗谷香はやや声を落としながら話し始めた。喫茶店という場所柄、紗谷香は様々な人の話を聞いているようで、時々こうして叶たちにこっそり話してくれることがあった。

「このコブサラダも、あの俳優さんきっかけでメニューになったんだよ」紗谷香は、そう言いながらメニューを開きサラダのページを示した。彼女によると、例の俳優が店に通ううちに頼み込んだらしい。結果、店主の計らいで裏メニューとして提供していたものが、ほかの客の目に留まり、思いのほか好評になったとのことだった。

 叶は、メニューへ視点を移した。この店には何度も通っているが、サラダはあまり意識したことがなかった。掲載写真を見ると、細かく切られた色とりどりの野菜が入っていて、とても健康によさそうだった。ただ印象的だったのが、タマネギがたっぷりと入っていることだった。叶は、思わずぎょっとした。

 叶には好き嫌いがほとんどなかった。ただし、唯一苦手な食べ物が「タマネギ」だった。鼻に抜けるような独特な刺激感と辛みが、原因だった。

「私は少し、タマネギ苦手かも」叶は、紗谷香から不意に勧められるのではと感じ、とっさに答えた。すると、紗谷香は「大丈夫だよ」と優しく応じた。話によると、実は紗谷香もこのコブサラダを食べる前まではタマネギが苦手だったそうである。ところが最近では徐々に平気となり、むしろ好んでよく食べるようになったとのことだった。

「今度、家においでよ。もっと食べやすいレシピ、作ってあげる」紗谷香の天真爛漫な声が、思ったより近くで聞こえた。ふと声の方を向くと、紗谷香が少し前のめりになっていた。

 先ほどまで気が付かなかった香りを、ほのかに感じた。叶はその感覚に覚えがあった。前に友人と少し背伸びをして遊びに行った時のことである。ウィンドウショッピングと称して、立ち並ぶセレクトショップを見て回った。人も物も、街に行き交う「すべて」が、最先端の流行に裏打ちされ洗練されていた。勇気を振り絞り足を踏み入れた店で、試供品としてもらったハンドクリームの記憶がよみがえった。

「将来のお客様へ、どうぞ」店員の女性がくれた。値段を見て愕然としていたところだった。冷やかしの自身へも優しく接してくれた彼女からは、ほんのりと心地よい清香がした。自身もこうありたいという憧れを抱くには、十分だった。

 タマネギはやはり嫌いだ。そう思いながらも、紗谷香の提案に乗ってみようかと思える自分がいた。少し照れくさくなって、窓の方へ顔を向けた。

 来店前に歩いてきた路上の湿り気はすっかり乾ききっていた。行きかう人々の流れとは別に、何人かの男性が少し離れたところで集まっているのが見えた。スーツ、作業着、そしてどちらでもない着衣の3人組で、文字通り三者三様の出で立ちだった。顔は全員、使い捨てのマスクをしていて口元が隠れている。花粉症かと思いながらも、統一感のない男性らに対し一体どのような繋がりなのだろうと珍しく思った。

 すると、男らが、奥からこちらのほうへ歩いてきた。しきりに周囲の様子をうかがっていて、ちょうど窓の近くまで来たとき目が合いそうになった。叶は、思わず視線をそらした。頭の中に残った残像で、目元を囲むように「ほくろ」が模様になっている印象が強烈に残った。

 窓のそばを通り過ぎたのを視野の隅で確認したところで、恐る恐る様子を窺ってみる。すると、男性らはちょうど路地の角を曲がるところだった。その時、別の男が現れ、彼らに話しかけているのが見えた。新たな男性はサングラスをかけているようだった。話しぶりからして面識があるように思われた。そうこうしているうちに、彼らは角を曲がって行ってしまった。

 隣にいた松木に思わず話しかけようとしたが、彼は端末に夢中の様子だった。今一度、自身の行動を顧みる。別にただの通行人を見ただけで、彼らが何かしでかしたわけではない。松木に話したところで、「そうか、それで」と問答を続けた挙句、言葉を詰まらせる自身の姿が目に浮かんだ。

 手持ち無沙汰を紛らわそうと、注文したコーヒーを口に含んだ。ミルクの量が少なかったのか、少し苦い味がした。

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