第2話

 カーテンの隙間から漏れる光が、朝の訪れを告げていた。松木まつき賢人けんとは、母親の呼ぶ声で目を覚ました。

「良い加減、起きなさい。かなえちゃんもう来てるんだから」声の主は勢いよくカーテンを開けた。鋭い摩擦音が室内に響くとともに、部屋は日差しに満たされた。松木は、閉じた目の上からでもわかる眩しさに顔をしかめた。遠ざかっていく足音とは裏腹に、甲高い声がまだ耳の中で反響し続けているように感じた。当分は消えそうにない感覚に観念し、ゆっくりと瞼を開けた。

 松木は、寝床から起き上がった。母親の言葉を反芻するうちに、ぼやけていた意識がしだいにはっきりしてきた。清水しみずかなえは、松木の近所に住む幼馴染で、家族ぐるみで交流が続いている。この春から通う高校も同じであった。

 机の上には「学園」の入学者向け案内と、入学前課題の冊子が広げられていた。合格発表時の歓喜する家族の様子が思い出された。ひとりでに表出した心像へ白けた意識を向けながら、窓の外へ視線を移した。雲一つない快晴の空が、自身のゆるぎない自信に呼応しているかのようだった。学園への合格は、自身にとってみれば何ら珍しいことではなかった。

 学園は、有名難関大学への進学を多数輩出するいわゆる進学校だった。偏差値という点で見れば、学園に迫る進学校はいくつか存在した。しかし学園は高校生という身分にとらわれない取り組みから、国内でも異質の存在だった。受験勉強に縛られない履修範囲もさることながら、在学生が多数の大手企業や大学・研究機関と連携したり、講師として業界の中心で活躍する人物を起用したりと、実績は枚挙に遑がなかった。

 部屋を出ると、叶が食卓に座っているのが見えた。

「朝から押し掛けた上に朝食までいただいて、すみません」言葉の通り少し遠慮した叶の様子が見えた。確かに家族ぐるみの付き合いがあるとはいえ、叶が朝から用も無く押し掛けることはなかった。そう思いかけたところで、松木は叶との約束のことを思い出した。確か、今日は朝一番で出かける約束をしていたのだった。

「賢人ったら、約束を忘れて寒い外で女子を待たせるなんて。むしろこちらこそ、ごめんなさいね」母親は恐縮する叶へ気にしないでと応じていた。寝ていた自身を起こしに来た同一人物とは思えないほど、よそ行きの声だった。

 松木は食卓へ座るなり、叶へ「すまない」と声をかけた。今日の約束は学園の入学前課題に関するものだった。入学前課題は入学者ごとに異なる内容のため、協力してこなせるものではなかった。さらに、松木に割り当てられた課題は、文献を要するものだったため、ネットや書店をあたったのだが、該当する書籍はすでに絶版となっていたのだった。そこで松木は、国立図書館へ行くことを決め、たまたま叶と入学前課題の話となった際に話題にした。するとどうやら叶も同じ状況だとわかり、一緒に行くことを約束していたのだった。

 今日の約束は、叶から申し出たものだった。松木にとってみれば、少しでも早く面倒な課題を終わらせたいと思っており、他人と行動を共にするなど邪魔でしかないと考えていた。入学説明会での出来事が脳裏に浮かんだ。入学を控える面々が、入学前課題に対してグループを作って取り組もうとしており、自身も誘われたが丁重に断っていた。内心は、意味のない行動をとる未来のクラスメイトらを冷めた目で見ていた。

 一方、叶からの申し出は無下にできないと応じた。叶の言葉や依頼を、何と無しに聞いてしまうことは昔から度々あった。ただ、なぜ自身がそうしてしまうのか理由はわからなかった。松木は「困っている弱者を救うのは有能な者の定め」と内心思いなおし、用意された食事に手を付けた。

 テレビでは、朝のニュースが流れていた。キャスターが、どうやら新聞の内容をかいつまんで紹介しているようだった。

「既往歴のなかった健康な人たちの突然死が、相次いでいるとのことです」やや抑揚をつけた声色でキャスターは原稿を伝える。それを観ながら、母親が「あら、こわいわね」と脊髄反射的に応じるさまを松木は横目で見た後、視線をテレビへ移した。スタジオに用意されたパネルには「連続不審死か」と大きな文字が掲げられ、該当する人たちの状況が掲示されていた。いずれにしても、警察は事件性がないと判断しているとのことだった。スタジオには、評論家と思しき出演者が数名いて、キャスターと言葉を交わしていた。

「図書館、混んでいるかな」叶の声が、松木の視線をテレビから外させた。叶の心配そうな表情が目に映った。平日はそんなに混んでいないだろうと応じた。松木が国立図書館を訪れるのは、今回が初めてだった。絶版書籍を見つける過程で、施設の存在を初めて知った。

 国立図書館では、国内外を問わずこれまで出版されたあらゆる書籍が所蔵される。さらに、アーカイブされる情報の対象は、名称とは裏腹に「図書」にとどまらない。新聞、雑誌、テレビ番組、ラジオ番組、さらにはネット上の電子的な情報に至るまで、多岐にわたっていた。歴史は長く建物はとても大きいが、たびたび改修工事が行われていることから、外観はとても現代的だった。

「あ、この俳優さん知っている」叶は不意に、テレビのほうへ気を取られたようだった。松木は再び番組へ視線を向けると、キャスターが神妙な面持ちで俳優の訃報を伝えていた。松木も画面に映る俳優を知っていた。多数のドラマや映画に出演し、いくつものヒット作を持っている。数十年前から活躍しており、最近では若手俳優のわきを固める演技派としても確固たる地位を築いていた。しかし、数年前から姿を見せなくなっていた。松木の記憶では、突如として昏睡状態となって以来、闘病を続けているとの話だった。映像は、生前の俳優のインタビューの様子に切り替わった。

「野菜や果物も植物ですから、花言葉があるのです。私が大好きなタマネギにもね」俳優は饒舌に話していた。どうやら自身の出演した映画に関するインタビューであるように見受けられた。

「この俳優さん私好きだったわぁ」と母親が応じた。しかし、松木の知る限りではこれまでに彼女が特定の俳優を熱心に応援している様子はなかった。当たり障りのない反応を示し続ける姿に、肉親とはいえ微かに冷めた感情を覚えた。

 松木は、そろそろ行こうかと、叶に声をかけた。互いに支度を済ませ、見送る母親の声を置き去りにして玄関を出た。柔らかな日差しが、少し湿ったアスファルトの路面を照らしていた。起きがけで窓から見た時には気が付かなかったが、どうやら昨夜のうちに雨が降ったようであった。少し立ち上る地面からの独特なにおいと共に、乾いた冷気が松木の頬を撫でた。

 松木は、端末で国立図書館までの道を検索した。すると、このままでは思いのほか早く着き、開館まで1時間以上待たなければならないことが分かった。そこで2人は駅の近くにある喫茶店で少し休憩することにした。この店は2人の行動圏にあるということもあり、中学生のころからよく利用していた。店員とも顔なじみで気を張らずに過ごせるところが、松木は気に入っていた。

「賢人と、同じ学校に通えることになって良かった。私、直前までボーダー付近だったから心配で」叶の声を聞いて顔を見ると、少しはにかんだ様子で松木を見ていた。叶の口元から吐く息が白い靄となり消えていくのが見えた。

「そうか。俺の場合は学園に合格したのは、当然の結果だ」松木は心から思っている言葉を迷わず口にした。叶のほうを見るが、表情を崩さずそうだよねと同意する。松木は、あまりにも屈託のない叶の言葉を聞き、中学生の頃の記憶が思い起こされた。

 勉強も運動も難なくこなせた。自身としても特に苦手意識はなく、率直に周囲に表明していた。経験上、謙遜とは無縁の態度に対面した者は、程度に違いはあれども嫌悪を示した。眉を顰められたり、不快感がにじむような言葉を投げかけられたりと、負の感情を向けられた。

 それでも、松木は、自身の態度を変えることはなかった。彼らは、有能な自身に嫉妬し、妬むことしかできない可哀想な存在なのだと、心からそう認識した。素直に優れた他者を認められないような哀れな人々から、理解される必要すらないと思えた。とはいえ松木にとってみれば、正当な評価を表明しただけで人々の歪みに曝されるのは、やはり不快感を伴うものだった。

 一方、叶からは特に拒絶感を示されることはなかった。幼馴染として、松木の「自身に素直な態度」を、これまで度々見聞きしているためだろうかと考えた。むしろ時として肯定さえする叶の姿勢が、彼女と行動を共にする一因となっていることを否定できなかった。

「今日も、さんいるかな」という叶の声で、我に返った。周囲を見ると、すでに見知った通りへ差し掛かっていた。どうだろうなと呼びかけに応じながら、2人は喫茶店へと続く路地へと入っていった。

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