モルペウス::胎動

@13n-Ls_23vi

第1話

 夜はすっかり明けていた。4月の日差しはまだ弱く空には雲が立ち込めていた。駅へと急ぐ通勤客の流れに逆らうように、男の足取りは早くなっていく。だが、ふと今の自身には家路を急ぐ理由はもはやないことを自覚した。習慣というものはそう簡単には消えないのだなと思った。

 見慣れた外観の建物を視界にとらえた。今しがた得た自嘲に近い知見に戸惑いながらも、地面へ踏み出す速さを先ほどより落としてみる。ただ思惑とは裏腹に、建物の入口へと到着するのに時間はかからなかった。大通りに面した立派な自動ドアを経て共用玄関を解錠し、エレベーターへと乗った。男の部屋は、駅からそう遠くない立地にあるこのマンションの一室だった。

 着替えを済ませると、何気なくテレビをつけた。特に見たい番組があるわけではなかった。同業種ということもありジャンルにかかわらず番組を随時チェックするよう習慣付けていたが、今はどこか寂しさを紛らわせるためという目的があった。この時間はどの放送局もニュース番組やワイドショーが編成されていた。

 特にチャンネルを変えることもなく、男はソファーへと体を沈ませた。テレビから視線を外し、室内をゆっくりと見まわした。一人暮らしにしては広い間取りが、反響するテレビの音からより一層際立ったように感じさせた。少し離れたところに置かれたダイニングテーブルの上には、買い置きしたレトルト食品や飲料のボトルが置かれていた。生活感はあるものの室内はおおむね整っていた。

 テレビの近くにある棚には写真が飾られていた。そこには男とともに10代半ばの少女が映っていた。思わず視界に入った在りし日の記録に一瞬動揺しながらも、視線は外さなかった。

 娘の痕跡を避けずに再び見ることができるようになったのは、つい最近のことだった。ニュースを伝えるキャスターの声がぼんやりと聞こえる中、意図せず振り返っていたのは2年前のことだった。あの頃は、こうやって仕事終わりに自宅で過ごすことなどできる状況ではなかったと、奥歯を噛みしめた。

 男は、シングルファザーだった。妻は娘が物心つく前に病気で亡くなっており、それ以来男手一つで娘を育てていた。高校入学を迎えた年頃となっても、とりとめのない話題で言葉を交わせるほどの繋がりを維持していた。しかし、関係に終止符を打ったのが、2年前の偽映像事件だった。

 娘は、学校へ向かうさなか、歩道へと突っ込んできたトラックにひかれて重傷を負った。幸い一命をとりとめた。事故現場は見通しの良い直線道路で歩道も整備されていた。複数の車線が設けられているような大通りだった。この事故はニュースでも取り上げられ、当初はトラック運転手への批判が世論として噴出した。しかし、ある映像が突如SNS上で拡散されたことで事態は一変した。

 それは、女子高校生が端末を見ながら歩き、現場とみられる場所で歩道から逸れ、車道へはみ出す様子だった。この映像は事故当時の現場監視カメラで撮影されたものとして瞬く間に広まっていった。

 さらに追い打ちをかけたのが、事故を起こしたトラック運転手の置かれた立場だった。勤めていた会社が度重なる過労を強いていたことが明らかとなった。これにより、世論の批判は、加害者側であるトラック運転手から、被害者であった娘へと一気に矛先を変えた。SNS上では娘への非難・誹謗中傷があふれ、一方のトラック運転手へは擁護する声が上がっていった。

 ところがSNSで拡散された映像は、作りこまれた偽の映像と判明した。何者かがCGや編集技術を用いて作成したものだった。警察は、事故当時の現場映像公開に踏み切ったものの、開示された情報が限定的であったことに付け込まれ、疑惑への拍車をかける形となった。

 連日の事実無根の非難に怒りを感じていた。高校生となったことに胸を躍らせていた娘の様子が脳裏から離れなかった。それだけに、回復し退院した後も未だ渦中にいる娘のことを、見るに堪えなかった。なによりも、全く非がなかったにもかかわらず、何者かの工作によって汚名を着せられたことにやるせなさを感じた。

 天真爛漫な娘をほほえましく見ていたことが、遠い過去に感じられた。娘は学校へ行けず、自室で過ごす日々が続いた。会話も少なくなり、顔を合わせたとしてもぶっきらぼうなやり取りへとなっていった。

 巻き込まれたのは娘だけではなかった。娘の身元が特定されるや否や、男の職場へも執拗な嫌がらせが起きていた。幸い上司や周囲が理解のある人たちで、事実無根であるとわかってくれ、制作している番組の現場を外されるようなことはなかったが、それでもやはり肩身の狭い思いをしていた。男は、これを取り返すようにと仕事へと明け暮れた。

 娘と最後の言葉を交わしたのも、ちょうど制作現場での予定が遅れ、朝帰りした時だった。自宅の郵便受けに娘の通う「学園」からの通知文書が届いていた。リビングに入りながら中身を確認した。ふと室内に目をやると、最近ではめったに口をきかなくなった娘がそこにいた。

 娘は、ソファーに腰掛け、端末を操作していた。父親が帰宅したことなど気にも留めていないようだった。声をかけようとするが、気まずさを感じ、先に開封した通知文書へと視線を落とした。そこには、停学を勧告する旨記述があった。

 男は気が動転した。確か学校へは騒動があってから、課題のやり取りで当面対応すると話がついていたはずだった。通知文書の続きを確認すると、「所定の課題未提出のため」と記述があった。

「これはどういうことだ」

 そこにいる娘に問いかけたつもりだったが、微動だにしない様子を見て、自身が声を発していなかったのかと一瞬疑った。再び問いかけるも応答はなかった。うつむいたまま、端末を操作し続けていた。

 男は、娘のもとまで歩みを進め、郵送されてきた通知文書を突き出した。書類が、上から端末を覆い隠すように娘の視界に入ったと思われた。それでも、当の本人は目前の紙を押しのけ再び端末を見ようとした。実子とはいえ、疲れが抜けきっていない男の神経を逆なでるには、充分だった。次の瞬間、男はつぐむべき言葉を口走っていた。

「大事な時に端末ばっかりいじっているから、今こうなっているんだろ」普段よりも声は大きくなり、これまで接してきたどの態度より雑な言い回しとなった。男はこの言葉にも彼女は無視を決め込むと、どこかで思っていた。しかし、予想に反し、娘は顔を上げた。男に向けられた彼女の顔からは、怒りではなく落胆が読み取れたような気がした。いや、もっと深く、まるで拠り所にしていた最後の一本の綱がプツンと音を立てて切れたかのような、そんな危うさを感じた。彼女は静かに立ち上がり、男に背を向けた。

「パパも、私のこと信じていなかったんだ」

 声には生気がなく、途切れがちだった。先ほどの表情から想起された負の感覚に反して、声からは感情が読み取れなかった。娘が遺体で発見されたのは翌朝のことだった。

 気づくとテレビの映像は今秋公開の映画に関する情報へと切り替わっていた。出演する俳優のインタビュー映像が流れ、花言葉がどうだとか言っているのが聞こえた。だが、男は映像に対し何の興味も持てなかった。

 結局、娘は自殺したのではない。今にも飛び込もうと深淵のふちにたたずんでいた娘の背中を押したのは自身だったのだと、思った。家族にすら信じてもらえず絶望に至ったことへの無念さとともに、一因となった自身の愚かさに対する怒りが沸き上がってきた。しかし、わめき散らしても暴れても、娘は戻ってこないということがただ一つの事実だった。

 連日面白おかしく放送されていた娘を取り巻く偽映像の件は、いつの間にか取り上げられなくなった。出演者らは、当初は事故の被害にあった女子高校生を哀れみ、加害者側のトラック運転手を痛烈に非難する立場だった。しかし、偽映像拡散の後は一転し、女子高校生の落ち度を糾弾する姿勢をとっていた。

 彼らの手のひら返しが、本音からくるものかどうか定かではなかった。仕事での経験上、彼らが台本に合わせて特定の結論ありきでの会話を要求されることは、実際にあり得ないことではないと知っていた。そうすると、彼らは、娘の偽映像に関し、加担した加害者であると同時に巻き込まれた被害者であるのかもしれないと思った。

 偽映像だったということすら取り上げられず、渦中の女子高校生と呼ばれた娘の汚名は晴らされなかった。男は、おもむろに端末を拾い上げると、慣れた手つきでSNSを表示した。

 今でも当時の拡散された情報は確認することができた。偽映像は、SNSインフルエンサーによっても戯画的に拡散されたことで、娘の偽りの愚行は多くの目のもとに晒されることになった。当時の情報を流し見しながら、男の視界には、端末に表示されたアカウントが次々と入っては消えていった。

 本当に映像を信じ、自身の善意に基づいて正義感から拡散させた者もいるだろう。それとも、映像の中身など吟味せず面白そうと場の雰囲気で興じた者もいたのだろうか。あるいは、偽映像と知りながら吹聴した者もいたのかもしれない。しかし、端末上からはそれらのどの立場か判別することはかなわなかった。

 事故を起こしたトラック運転手のことは許していた。彼のおかれていた過労せざるを得ない立場もあったが、何より本人が悔いているさまが記憶に残っている。彼にも家族があり、繋がりを保とうと必死だったということを理解した。それよりも、この一連の事故をまるで消費されていく娯楽の様に扱い、娘にでたらめな批判を仕向けさせ扇動した奴らが許せなかった。

 男は、気持ちが高ぶってくるのを感じた。おもむろに立ち上がると、ダイニングテーブルへ足早に歩き出した。目についたボトルを勢いよくあけ喉を潤し、目を閉じた。それは娘の死後も一定の平静を取り繕うための儀式となっていた。

 男がそこまでして、自身を律したのには理由があった。自身の職業柄これまで様々な環境に置かれた人々の人生の波を見てきたということが大きかった。

 ある日突然、疑惑の渦中に放り込まれたことで、平穏な生活を乱された者がいた。あるいは、風雲児と呼ばれ社会的成功を果たしたはずが、時とともに忘れ去られたことを認めず過去の栄光にすがる者がいた。それらの挙句の果てを見ることは、珍しいことではなく気にも留めなかった。

 ところが、当事者になったとたん、そうした人々の生活が崩れていく様が鮮烈に思い出されるようになった。自身はそうあってはならないと、自暴自棄になりそうなところを封じ込め、仕事に打ち込むことで取り繕ったのだった。

 これまでに担当した番組はドキュメンタリーからバラエティに至るまで様々だったが、ここ数年担当している番組の一つが医療番組だった。番組開始当初は自身の身体の臓器の名前を挙げることすらままならなかった。それでも、番組のため必要に迫られてと学び始めたことをきっかけに、今や医学部に通う大学生に引けを取らないほどの知識となっていた。それは、娘が亡くなった後の逃避先として、仕事に没頭していたことによるところも大きかった。しかし時折、娘のことを思い出しては、自身があの時に力になれることはなかったのかと考えずにはいられなかった。

 いつの間にかテレビから流れる話題は、映画の紹介から最近話題の飲食店の紹介へと移っていた。そろそろ寝ないと次の仕事に響くことはこれまでの経験上明らかだった。ソファーに身体を投げ出すと、外界を遮断するかのように目を閉じた。

 娘の死後、眠りが浅いのか妙に緻密な夢を見るようになっていた。道路に敷き詰められたアスファルトの粗い粒、吹き抜ける風の湿り気、行きかう車や雑踏の音——意図せず刺激された感覚は、夢と現実の境界をあいまいにした。

 以前に端末で検索したところ、このような現実感を伴う夢のことを明晰夢というらしいことを知った。ただ、明晰夢の場合、夢と自覚することで夢自体を制御できるらしいのだが、男が夢だと自覚するのは決まって目が覚めた後だった。

 一方で、夢の内容はあまりにも現実離れしていた。それは自身が超能力者となり瞬間移動能力を発動するというものだった。自身を移動させるだけではなく、触れたものを好きな場所に瞬く間に移動させることもできた。

 夢の中では、娘がまだ生きていた。娘が道端を歩いていると、トラックがものすごいスピードで迫ってきていた。男は、遠くでそれを見つけると、この夢の中だけの能力をさも当然というように遺憾なく発揮していた。ある時はすかさず瞬時に娘のもとまで駆け付け、次の瞬間には安全な場所まで娘とともに再び移動した。またある時は、トラックの目の前に一瞬にして現れ車体に触れた瞬間に、巨大な一塊ごと離れた場所に瞬間移動させた。

 いずれの場合も、娘を助け出すことはたやすかった。危機が去ると、娘が笑顔で「ありがとうパパ」と笑いかけてくる。だが、言葉を返そうとするところでいつも目が覚めるのだった。あまりにも強烈な現実感を伴うからか、娘がもう存在していないこの世界のほうが夢であると錯覚しそうになるほどだった。

 夢での瞬間移動時の感覚も強烈に残っていた。しかも、同様の夢を何度も繰り返し見るたびにそれはより強固になっていることを感じた。まるで、実際に目が覚めているときであっても感覚を思い出すだけで、本当に瞬間移動の能力を行使できるような気がしてくるほどだった。

「もしも、いま認識しているこの世界が夢だったとしたら、娘とまた楽しく会話する世界がこの悪夢から覚めればあるのかもしれない——」

 取り留めもなく浮かんだ考えに身をゆだねてみたが、やはり寝付けなかった。眠れない理由をテレビから流れる音声のわずらわしさに擦り付けることにした。手を伸ばし、電源を切るためにリモコンを探った。しかし、想定した感触を掌に感じることは無かった。

 そういえば、ダイニングテーブルに行ったときに持って行ったかもしれないと思い返した。すると、不意に夢の感覚が呼び起された。突然のことに戸惑う間も無く次の瞬間、無機質でひんやりとした硬い感触を指先に得た。少し遅れて、リモコンを握っているということを理解した。

 きっと疲れているのだろうとそう思いなおし、ボタンを押した。リポーターが発していた甲高い声が止み、静寂が訪れた室内で今度こそ、男の意識は途絶えた。

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