第3話 唯一の魔の王

 笑顔で見開いていた、少年の瞳が半分閉じられるだけで、俺に向けた不信感が増している様子が見て取れる。


 それだけじゃあ無い。


 明らかな殺意が、この部屋を満たす事を理解出来た。

 唖然とその様子を俯瞰で眺める事しか出来ず、固唾を飲んで少年の次の言葉を待つ。


「まず、自己紹介だね。ボクの名前はアギル。ファーストネームとか無いから。ただのアギルだよ」


 一言一言が胸を鷲掴み、肝を冷やす。


 言っている事はただの自己紹介だ——けれど、それだけで重力が増して行く様に、空気が薄くなる様に、この部屋での俺の生命活動が脅かされる。


 瞬きも、呼吸をする事さえ忘れ、アギルの話に聞き入る。


「突然の事だから、理解が追い付かないと思うけどさ。時間が無いからさ、最後はイエスかノーで答えてね」


 少年の瞳の光が、俺の瞳と交錯するのを嫌って首を縦に振る。


「ここは君が居た、元の世界とは違う、別次元の世界って事にしておくね。その方が都合が良いからね。いわゆる異世界って言えば伝わりやすいかな?」


 異世界だと?

 俺はまだ、夢でも見ているのか?

 

 ——夢?


 俺は、何の夢を見ていた?


「君の事は良く知っているよソウマ。大切な人の所に行く途中だったんだろ?」


 そうだ。

 アカリの夢を見ていた。


 そこまでは覚えているが、その先を思い出せない。


「ごめんね、突然こんな所に呼び出しちゃってさ。でも、君にしかこの世界は救えないんだ。勝手だと思うけど、君がこの世界を救えば大切な人が待つ、君の世界も救ってあげるよ」


 こいつは何を言っているんだ?

 理解が追い付かない。

 全くもってその通りだが。


 でも、何か割って入る言葉も見つからない。

 俺の世界を救うから、こいつの世界を救えって言われても、俺に何が出来るのか。


「ソウマさぁ『俺に何が出来る——』って顔してるよね。良いかい? 君には今からこの世界の唯一の魔の王となって、勇者を皆殺しにして欲しいんだ」


 その言葉を聞いても、理解は追いつかないけれども、忘れていた呼吸を思い出した様に必死に息を継ぐ。


「僕は君に力を与える。君はその力を使って、魔に属す者と、そうでは無い者との戦いを終わらせる。ここまでは理解出来たかい?」


 簡単な事だ。

 言ってる事は分かる。

 理解までは追いつかないが。


「その為には勇者が邪魔でさ。君が元の世界に帰る為の条件として、勇者の殲滅とその為に必要な全ての事を条件として提示させて貰うよ」


 乾いた喉の奥が詰まる。

 ありったけの唾液を集めて流し込む。


「俺が、それを断ったらどうなるんだ?」


「君は断らないよ。彼女とその世界を救う唯一無二の手段を提示しているんだよ」


「その言葉が真実だって言うなら、それを証明してみろよ。今、ここで」


 そうだ、その通りだ。

 この少年と、この状況と、全てが、何もかもを理解出来ない。信用できない。


 どうやって俺に証明出来るって言うんだ。

 そんな事出来る筈は無い。


「——必要無いんだよ」


 魔の王。そんな単語を聞いたからなのか、少年の言葉には、一層の圧力が感じられる。立っていられない程に身体は衰弱して、ついには両膝から地面に崩れ落ちる。


「君は僕の言葉を信じるしかないんだ。それは君が一番理解している事じゃあないのかい? そうだろ、ソウマ」


 そうだ、その通りだ。

 分かっている。

 そんな事は、わかっている事だ。


「アギル…… だったか。その通りだ。お前の言う通りだよ」


 アギルは、それ以上に、執拗にイエスかノーかを問い質した。答えは決まっている。

 俺の意思も、伝わってはいる筈だが、それでも強く差し迫る。


「イエス…… 」


 全身から力が抜け、今にも倒れて眠ってしまいそうな程に衰弱している身体で、心に力を絞り出して答えた。


 アギルの顔が、笑顔で満たされる。

 その表情は、狂気に満ちた様に歪んでいる。

 

 アギルが両の手を広げると、周囲の黒い壁が歪みを帯びて虫の集まりの様に蠢く。


 それに合わせて不協和音が鳴り響く。


 身体を支える事が、やっとの状態で。それでもたまらずに仰け反り耳を塞ぐ。

 視界が霞む。黒い物質が壁から剥がれる。俺を中心に球状に、その形を変えて行く。

 意識を保つのがやっとの状態で、その光景に必死に耐える。


 眼球に黒い粒が入り込み、視界がひび割れたと錯覚してしまう。


 ——気付くと不協和音は消えていた。


 相変わらず景色は歪みを帯びてはいるが、耐えられない程では無い。

 アギルが何かを言っている様だが、耳に何か詰まった様に、ハッキリとは聞き取る事が出来ない。

 それでも何かを言い続けているアギルを凝視すると、歪んだ景色の向こうで、アギルの掌の上で神秘的に輝く、光の粒の集合体に視点が合った。

 粒と言ったそれは、もうすでに尖った神秘的な鉱物の様な形を形成ている。鉱物と視点が合えば、それを中心に歪んでいた景色も、徐々にではあるが、正常に元の視界を形成して行く。

 漸く回復した景色の中で、アギルは俺の事を睥睨し、首を掴み無理矢理に立ち上がらせると、掌の上に浮く鉱物を、無言で俺の胸に突き刺した。

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