彼女だけでいいのだから
今日は収穫祭の初日だ。各々屋台の準備や、広場の飾り付けに追われている。大通りはいつも以上に人が多く、少しだけ歩きにくい。だけれど本祭の日はもっと人で溢れかえるのだと思えば、どうということもないように思えた。ガヤガヤと賑わう道中は、響く機械音を掻き消す。普段は私を奇異の目で見る住人達は、今日は自分達のことで精一杯みたいだ。
「毎日こうだったら、少しは生きやすいのかしら。」そう言いかけて思い直す。収穫祭の間はどこの店も休業だ。生きにくいことこの上なかった。
大通りから外れて、細い路地を行く。喧騒はだんだん後方へ過ぎ去って行き、静寂が私を包む。やがて赤茶けたレンガ壁が途切れ、一気に視界が開けた。この瞬間だけは、いつだって新鮮で、美しい。ただその先のことを思うと、自然と歩幅が小さくなる。それでも私が生きていくためには、定期的に通わなければいけないのだった。
開けた視界の先の、鄙びた工房を見やる。私のふたつめの左脚が、生まれた場所だ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
聞き慣れた歯車の音が近づいてくる。わたしは急いで紙とペンを用意し、そばに置いてから、何事もなかったように中断していた仕事に取りかかった。ノミを握り直したところで、建てつけの悪いドアが悲鳴をあげながら開く。
「こんにちは。」鈴を転がすような可憐な声。逆光に透けた白髪は眩しいほどで、褐色の肌によく映える。
『こんにちは。今日は?』紙に書いた字を彼女に見せる。長年こうしてきたからか、字を書くのだけは速くなった。彼女は紙にさっと目を走らせると、表情を変えずに答える。
「先日森へ行ったから、点検を頼みに来たの。」わたしが指した椅子に腰を下ろした彼女は、そのまま左脚をこちらへ伸ばす。その脚を丁寧に作業台へ乗せ、接合部のベルトを緩めて取り外す。彼女の左脚は膝から上だけになって、膝から下は機能を停止した。彼女は座ったままわたしの視界から出て行った。ペンを取ろうとして、彼女に止められる。
「書かなくていいわ。」振り返ると、緋色の瞳が冷たくわたしを見据えていた。仕方なく鈍色の義足を手に取り、分解していく。隙間に挟まっていた土や草が、ポロポロと零れ落ちた。作業台を軽く払って、床に散乱したそれらを見て、ちらりと後ろを見ると、彼女と目が合った。
「そんなに話したいの?」こくりこくりと頷くと、彼女は大きなため息を吐いた。
「好きにしたら。」
『隣に行ってもいい?』
「……好きにしたら。」許可を得たので紙とペンを椅子に乗せて、彼女の隣に移動する。彼女は心底嫌そうな顔をしている。わたしのことが嫌いなんだと思う。わたしは彼女が好きなんだけれど。
『わたしのどこが嫌い?』
「別に嫌いなわけじゃないわ。私は貴方の期待には応えられないってだけ。」
『わたし、カイと話したい。それだけ。』本当はそれだけじゃないけれど、それを今彼女に言ったところで叶うはずも、叶える努力が生まれるはずもなかった。ペンを握り替えながら彼女の反応を伺う。生まれつき声の出せないわたしは、彼女の声に一種憧れめいたものを抱いているのだろう。
「声を出せる絡繰は作れそうにないの?」
『まだ、楽器としてが限度。』
「面倒じゃない? そうやって筆談するの。」
『ずっとこうだったから。』
「じゃあやっぱり、私と貴方は違うわ。」
『違うから嫌い?』
「嫌いじゃないってば。」
『でも好きじゃない。』
「そうよ。私は貴方を好きにはなれないの。」
『どうしても?』
「どうしても。……あのひとを忘れたら、そうかもしれないけど、でもあのひとのこと忘れたくないの。」彼女は布に包まれた切断面を撫でる。彼女と『あのひと』。そこにはわたしの知らない世界がある。彼女についてわたしが知っていることなんてほんの少しだ。
「カホ。」
『なに?』
「悔しかったら私を慰めてみて。」その声に紙から顔を上げると、彼女の潤んだ瞳に射抜かれる。彼女がこんなことを言うのは初めてで、しかも目に涙を溜めてで、面食らってしまう。森へ行ったというが何かあったのだろうか。
『カイ?』
「何。」
『その、頭とか打った? 大丈夫?』
「打ってないわ。大丈夫じゃない。」涙目の彼女に耳を引っ張られる。千切れそうに痛いのに、彼女が自分からわたしに触れてくれたことで頭がいっぱいになる。彼女の手は金属のように冷ややかで、陶器のようになめらかで。そうやって耳を触られているとおかしくなりそうだ。
「ちょっ!」言い訳するのも忘れて、彼女をきつく抱きしめる。彼女の薄い体はふとしたことで割れてしまいそうな、氷や何かみたいだ。
『あったかい?』彼女の背中を指でなぞる。彼女はくすぐったそうに身を捩る。
「あったかい、けど。」そこで言葉を切った彼女は、わたしの背中に腕を回す。そしてわたしがした様に、背中を指でなぞった。
『くるしいわ。』
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「どうして私なの?」ようやくカホの腕から解放された私は、少し離れて座り直す。彼女といると私の中の何かが揺らぎそうになって、だから嫌なのだ。変わるのは怖い。過去の自分を否定するようで。
『カイがいい。』何の理由にもなっていなくて、それがまた彼女らしくもあった。
「街に出れば、いいんじゃない。」他にいいひとが見つかるかもしれない。でもそれを聞いた彼女は、元からの猫背をさらに縮こまらせて、上目遣いに私を見た。鋏で一直線に切り揃えられた前髪と、買い溜めされて部屋の隅に置かれた保存食が、出不精な彼女の性格を物語る。後ろ髪はさすがに自分では切れないらしく、会うたびに頭上でまとめられたシニヨンが大きくなっている、気がする。部屋のカーテンは晴れているのに閉め切られて、頼りない電球の明かりが辺りを照らす。
「そうよ。こんな閉鎖空間にいたんじゃ、感情の方向が定まって当然だわ。」どこかで聞いた様な台詞だった。彼にあんなことを言っておきながら、自分も同じことをしている。
「でも生憎、私は貴方じゃないの。」カホは鼻をすすって、俯いた。青白い肌の上では赤くなった鼻がことに目立って、昔話のトナカイのようだと思った。
「……悔しかったら、忘れさせてみて。」自分が何を言ったのか、何をしようとしているのか、わからなくなる。どうしたところで、忘れられるわけがないのに。私と彼女は義足で繋がっていて、私とあのひとは左脚で繋がっているのに。それなのにそこに何かを期待する自分がいて、裏切られることがわかっていても期待しないではいられなくて。堪えていた涙が溢れる。それを温かい手がそっと優しく拭う。
『苦しい?』
「……涙、で、読めないわ。」紙を置いた彼女の手が、再び私の方に伸びる。その手がゆっくりと私の瞼を閉じる。それから、熱いものが左右の瞼に交互に触れる。
「……?」じわりと溢れた涙が、何かに絡め取られて、空気に触れて冷たくなる。熱い塊が這って、柔らかな感触が瞼に落ちる。ちゅっと控えめな音がして、彼女と私の息遣いだけだった静寂を乱す。そうして初めて、瞼に触れる熱いものが、彼女の唇だと気づく。それでもどうすることもできずに、彼女のするまま、触れた胸から伝わる心音を聴く。少しだけ速い彼女の音に合わせるように、私の音も速くなっていく。彼女にすべてを預けたまま、やがてゆっくりと意識が遠ざかっていった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
寝てしまった彼女を作業台へ横たえて、その綺麗な髪を梳く。作業台を塞いでしまったので、義足の点検はできない。よって彼女の寝顔を眺めることにした。艶やかな彼女の唇を指でなぞる。今なら抱きしめても、どこへ口づけても、彼女は起きないだろうのに、何となくどうすることもできないでいた。作業台の横の、彼女が座っていた椅子に腰掛けて、彼女の顔を心ゆくまで眺めるのが、今のわたしにできる精一杯だ。さっきのわたしは主に積極性においておかしかった。どうしてあんな大それたことが出来たんだろう。思い出して自己嫌悪に陥る。彼女と物理的な距離を縮めたところで何も変わらないのに。わたしがいいだけで、そういうのはエゴだ。彼女は、きっと起きたら怒って出て行こうとするんだろうけど、義足のない状態では動けないだろう。そう考える自分が酷くずるく感じて、でも他にどうあればいいかわからなくて。初恋は叶わないと言うが本当だと思う。十年以上片想いを続けて、彼女とわたしの関係にはこれっぽっちの進展もないのだから。
「…………すき……。」突然の音に大袈裟に肩が跳ねる。彼女が寝言を言ったみたいだ。『あのひと』の夢でも見ているのか、幸せそうに口元を緩める彼女は言いようのないくらいに素敵だ。その笑顔がわたしに向けられることはないんだと、思い始めると胸がぎゅっと締め付けられて、彼女の髪に触れていた手も離してしまう。それにも気づかないで微笑み続ける彼女に咄嗟に意地悪をしたくなって、鼻を摘む。そしてそのまま、口を塞いだ。2秒経ってから自分のしたことに気づき、冷や汗が背中を撫でていったけれど、しょうもない意地が引き返すことを躊躇わせる。
「……っん…………。」彼女が苦しそうに脚をジタバタさせる。知らずに止めていた自分の息も限界だったので口を離した。
「…………っは、え……?」彼女と一緒に息を整える。わずかに上気した頬が艶っぽくて、乱れた髪がそれに拍車をかける。
「なに、なに今の……。」彼女が一瞬こちらを見て、すぐに目をそらす。しばらく見ていると、また目が合ってそらされる。何回か繰り返した後、おもむろに彼女が切り出す。
「私、寝てた?」こくこくと頷くと、彼女が耳まで赤くなる。
「……今、何したの。」
『ごめんなさい。』
「謝るようなこと、したのね?」
『ごめん。』
「貴方の前で寝た私が悪いんだわ。さっさと点検終わらせて頂戴。」彼女はわたしに退けと目だけで言って、椅子に座り直す。立ち上がったわたしは恐る恐る紙を見せる。
『怒ってる?』
「……びっくりしただけよ。」俯きながら手ぐしで髪を整える彼女に見えるように、紙を差し出す。
『もう来ない?』来ないだろうな、と漠然と思った。そろそろわたしを気持ち悪がってもしょうがない。
「煩いわね、他に任せられるひとがいると思ってるの。」ぶっきらぼうに言い捨てる彼女に、思わず目を見開いた。彼女はわたしが思っていたより遥かに優しい。そしてそれを聞いて嬉しくなるあたり、わたしはどうも単純なんだろう。
『ありがとう、』
「なによ。」少しだけ見せるか迷って。結局、どっちでも変わらないのだろう。
『好き。』
「……知ってるわ。」彼女は、本当に知っているだけだ。彼女の中には『あのひと』の椅子しかない。わたしに振り向いてはくれない。仕方ないとはいえ定期的に通ってくれるだけで満足するような、そんなわたしにはこれで充分だ。
自由があるのは、彼女だけでいいのだから。
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