透明な檻

年に一度の収穫祭、その時だけは神殿を出ることを許される。それ以外はずっと籠りきりで作業に追われる日々。そんな生活を何年繰り返したか。慣れたとは言わないけれど、妥協はしはじめている。真っ白な石造りの神殿の中で、無彩色な日々を送る。ここにあるのは白と黒と、淡い水色、それから浅黒い赤だけだ。ため息をつく。少し飽きた。ペンを置いて両手で体を支えながら座り直すと、簾をかき分ける音がする。ちょうど食事の時間のようだ。

「ミナト様、お食事をお持ちしました。」

盆を抱えた長身の男が部屋に入ってくる。貫頭衣と言うのだったか、すっぽりとかぶる服は、神官の制服というやつらしい。私は神でも何でもないのだけど。

「様はやめて頂戴、カナエ。」

簾を直しながら、振り返った彼は困ったように笑う。落ち着いた桃色の髪が、襟足から腰へさらりと流れる。

「決まりですから。」

「決まり決まりって、だから頭のカタイお役人は嫌いなの。」

それには答えず、私が広げていた書物を慣れた手つきで片付け、持っていた盆を空いたスペースへ置く。いつものことながら手際がいい。この机の上は私の方がよく知っているのに。

「どうぞ。」

盆の上には三つの皿が乗っている。人間の私からすれば中身は全部同じだ。色とりどりではあるけども、すべて木の実。彼らの主食だ。

「カナエ。」

「何でしょう。」

「こっちへいらっしゃい。髪を結ってあげる。」

「食べないのですか。」

「いつ食べたって同じよ。私は今、退屈してるの。」

彼はやれやれとでも言いたげに笑って、私の前まで戻ってきた。その高い背を折りたたんで、冷たい床に腰を下ろす。つむじの渦巻きを見つめながら、後ろへ張り出す角に額をぶつけないように、少しだけ屈んだ。襟足の髪をすくう。私よりも硬くて、重い。まっすぐなそれをみっつに分けて、ゆっくりと編み始める。

「カナエの髪はきれいね。」

「ミナト様も、綺麗な髪だと思いますけど。」

くすぐったいのか、控えめに身を捩りながら言う。私は寝返りがうてないから寝癖がつかないだけなのだけど。

「様はやめてと言ってるのに。」

抗議の意味を込めて軽く髪を引っ張る。

「イタッ、すみません、でも決まり……。」

「この部屋の外に誰かいるの?」

「……いえ、俺ひとりですけど。」

「第三者がいないのなら決まりを守る必要がある?」

「あります。」

「少しくらい。」

「良くないです。」

「真面目ね。」

きっと彼は真面目だから、神官になれた。真面目すぎるから、神官にしかなれなかったのだろうけど。私がここに来る前は誰がこの椅子に座っていたのか。前の人も、こうやって病で死んでいったのか。彼は話してはくれないし、私も聞きたくはない。ならばこの先も知ろうとする必要はない。多過ぎる情報は、かえって毒だ。

「カナエ。」

「なんでしょう。」

明日も来てくれるのよね、と言いかけて、仕事なのだから来るに決まっている、真面目なのだから、と言い聞かせる。そうじゃない。私が不安なのは、これが、こうして彼が来てくれることが『仕事』だからだ。好意で来てくれている訳ではない。いつだって辞められるのだ。

「明日も来てくれるの?」

「どうしてそんな事を訊くんです?」

「……ちょっと気になっただけよ。収穫祭も近いじゃない。」

「ああ、準備で2、3日外すことはあると思いますけど食事は用意しますよ。」

にっこり笑う彼とは逆に、少しだけ強がる。別に食事の心配はしてなかったのだけど。2、3日か。これから来る冬を思えば短いものだった。

「そう。」

長い髪をようやく編み終えて、でも手を離すのは憚られて、くるくるとこねる。

「冬は寂しいわ。」

「そうなんですか。」

「音が無いもの。」

「俺も起きててみたいです。」

「無理よ。」

「ですね。」

片手で彼の髪を弄びながら、名も知らない木の実をつまむ。甘酸っぱい。実用書以外は切り捨てて焼いたから残ってないのだけど、小説のどれかに初恋は甘酸っぱいという話があった。恋はよくわからないし、教えてくれるひともいない。人間はいずれにせよ私で打ち止めなのだから、私が恋を知る必要はないのだけど。

「美味しいですか?」

「普通よ。」

「やっぱりニクってのが一番美味しいんですかね?」

「肉の味なんて忘れたわ。」

「そうですか。」

「今、貴方を食べて思い出してもいいけど。」

「俺は美味しくないですよ。」

「冗談通じないのね。」

「冗談だったんですか、今の。」

「本当に食べると思う?」

「思いませんけど、ガイアは雑食なんでしょう。」

「ええ。」

「人気ないんですよ、この仕事。」

そろそろ帰ります、と言って立ち上がった彼の髪から手を離す。名残惜しい。

「そうなの。」

振り返った彼はしゃがみ直して、親指と人差し指で綺麗な丸を作って見せた。

「給料いいんです。」

「……そう。」

お金なんてどうするの。枯葉か、木の実かもしれないけれど、稼ぐ理由が、あるのだなと思った。私がここで仕事をする理由は、何だろう。最後の人間だから? 使命感? ……違う。

私は生きる理由が欲しいだけだ。ここを出たところで、脚が動かなくてはどうにもならない。ここで、この神殿で、神の真似事をするより他ない。谷に残ったところで死を待つだけだった。私が歩けなくなったのも、こうしてここに連れてこられたのも。運命だの偶然だのは、本当の神に仕向けられている。

「カナエ。」

彼は手を振る私を見て、ぎこちなく手を振る。意味も知らないくせに。

向き合った彼の瞳は深い鳶色。自分の瞳の色はわからないけれど、彼は綺麗な色だと教えてくれた。


「 」


絶対に伝わらないと知っているのに。聞こえるか聞こえないかの声で、私はその言葉を呟いた。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

神官になろうと思った、明確な理由があったわけではなくて、ただ何となくそんな仕事があると知ったからだ。小難しく言えば知的好奇心、まぁ言ってみれば怖いもの見たさだった。突如現れた『神』がどんなものなのか。

「あんまり俺等と変わらないんだよな。」

違うのは小さな耳、色のない爪。それと尻尾がないみたいだ。彼女は俺らでいうドールにあたるのだろうし、角はなくて当たり前か。あとは食性と言語くらい。中がどうなってるかは、さすがに解らないけれど。

「本当にいたんだな、ガイアって。」

俺等は今まで自分達以外の生物を知らなかった。彼女は自分のことをニンゲンと呼んだけれど、俺等は俺等を表す言葉を持っていない。必要なかったからだ。自分達だけのコミュニティで生きてきた俺等は、他種族の扱い方を知らない。言語を学ぼうという意志もない。彼女は毎日毎日、前文明の書物を、俺等の言語に翻訳している。ひとりきりで。

「俺も教えて欲しかったんだけどな。」

ガイアの言葉。こっちの言葉を一通り教えたら、飲み込みの早い彼女はすぐに翻訳にかかってしまった。今や俺は単なる給仕係だ。不満はないのだけど、彼女が書き物をしている時、顔を真っ直ぐ見られないのがちょっと寂しい。青緑色の目。白銀の髪。目の下の泣きぼくろ。演出過剰に思える衣装も彼女には似合っていて、月並みな言葉だけれど、素直に綺麗だと思う。

「違うのにな。」

違っても、似てるからか。

神官を始めて数年になるが、彼女の事は未だによくわからない。わからないものを気味悪がるのは普通だけれど、知りたいだとか好きだとか思うのは、どうなんだろう。

「俺って変なのかなぁ。」

誰もいない家の中で椅子に腰掛け、しわくちゃになった紙を眺める。翻訳を始めた頃に彼女が使っていたお手製の変換表だ。もう要らないから、と彼女が言うからもらってきたのだ。

「えご、あも、て。」

彼女が、帰り際に呟いた言葉。俺の知らない、彼女だけの言葉だ。表を見れば発音や表記はわかるけれど、意味まではわからない。あまり長い文ではないみたいだし、さようならか、また明日か。そのくらいならこっちの言葉を使えばいい。

「教えてくれるわけ、ないよなぁ。」

自分で突き止めろと。そういうことだろう。どうやって。

「どうにかするしかないよな。」

今年の収穫祭までには、突き止められる、だろうか。収穫祭が終われば、俺等は眠りにつく。毎年毎年、起きたら世界が変わってるんじゃないかって不安になる。空白は恐怖だ。必要だとわかっていても。冬も眠らない彼女が、少しだけ羨ましいのだった。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


神の代行者の話をしよう。


便宜上彼と呼ぶ、彼はあらゆる神の代行者だった。この世にごまんと居る神総てのだ。ただ、彼は人間だった。崇められ、拝まれる存在とは違う。彼は悲しいほどに人間だった。


「私は神を愛している。」


地上の誰よりも。彼は神々の望むように行動した。しかし神々はお許しにならなかった。彼が神になる事をだ。


「神々よ、どうして私に永遠を与えてくださらないのか。」


そうすれば永遠に神々にお仕え出来るのに。彼は自身の不運を嘆いた。嘆いて嘆いて、嘆きの果て、彼は影になった。彼は影として神々に仕え続けた。しかし神々は彼を脅威として見放し、月の影に閉じ込められて仕舞われた。


月が太陽を覆う日、彼は姿を現す。


太陽のない昼間は恐れられた。


不吉なものと忌み嫌われた。




彼は、最期まで誰にも愛されなかった。




◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「おはようございます。」


「おはよう。」


彼女がじっとこちらを見つめている。顔に何かついているだろうか。


「……どうしたんですか?」


「最後の本が終わったら、私はどうなるの?」


俺の目をまっすぐに見て、彼女は問う。それに答えるのは、とても難しいような気がして。悲しみも絶望もその目には浮かんでいない。そういう次元は超えてしまったのだろう。


「どうしてそんな、」


「わからないのならいいわ。」


感情のない声で、彼女は言い切った。本心では聞きたいのだろうけど、聞いて仕舞えば引き返せなくなる。そうなるのは俺だって嫌だ。しかし神殿の管理を任されているからといって、俺の一存で決められることでもない。彼女が他人にとっては翻訳機器に過ぎないのも確かだ。前文明の書物が手に入れば俺等の世界は良くなる。必要なのは翻訳済みの本であってガイアの存在じゃない。彼女には前文明の文字が読めること以外にはさほど価値はないのだ。だから最後の本を訳し終えた時、彼女はきっと、いなくなってしまうのだろう。彼女を救う方法があるとしたら。彼女が首を横に振れば簡単に破綻してしまうような。淡くて脆い約束だ。


「私をここから連れ出してくれる?」


「まだ、だめです。」


今すぐにどうにか出来ない自分がもどかしい。これまで彼女は充分耐えてきた。ずっとひとりでいて、ひとりで死んでいくのは怖いと思う。それを言ったところで彼女は否定しかしないのだろうけど。


「もう少ししてからなら。」


「いつ?」


「その時が来たら。」


「意地悪なのね。」


彼女は目を細めて笑う。不謹慎だけれど、綺麗だ。喉の奥がツンと痛む。やっぱり変なのかもしれない。異種族に、それも『神』に恋をするなんて。


「それまで、どこにも行かないでくださいね。」


俺だけの貴女でいて。外に出ればきっと、それは叶わないのだろうから。彼女は外を知らない。知っているのはこの神殿と、以前住んでいた谷だけだろう。外はここより遥かに魅力的なもので溢れている。


「心配しなくても、何処にも行けないわ。」


俯いた彼女が自嘲気味に呟く。俺は彼女を選んだのだけど、彼女はたまたま出会ったのが俺だっただけで。本当を言えば、車椅子で外に出ることだって出来る。ここにこうして縛りつけているのも、俺のワガママだ。


「……すみません。」


「どうして謝るの。」


「毎日、ここに来るのが、俺なんかで。」


彼女がむっと眉根を寄せる。


「貴方のそういうところ、嫌いよ。」


「俺も嫌いです。」


他は好きなのかと曲解して、こういう時でもヘラヘラ笑ってしまう。今最高に気持ち悪いと思う。彼女はなんとも思っていないのか、顔に出すのも面倒なのか無表情だ。


「私が可哀想だなんて、思わないで。」


「……はい。」


彼女の瞳は思ったより真剣で。可哀想だなんて、思っていないけど。好都合だと思うのも、同じくらい失礼だろう。彼女は彼女なりに生きているのに、そこに俺が入り込む意味は? ないのかもしれない。俺の勝手な希望に彼女を付き合わせたいだけ。脳味噌はいつだって自分中心で回っている。彼女と自分は違うと、それもわかっているつもりなのに。


「神様は見えないの。」


彼女に手を取られ、その手が手袋越しにもわかるほど冷たいことと、いきなりの行動に戸惑う。


「私はただの人間よ。」


彼女の細い指が、指の間を縫って絡みつく。ペンダコや変形した爪が似合わない、その白い手が、少しずつ俺の体温を奪っていく。痺れるような感覚に苛まれ、筋肉が凝り固まる。


「何も特別なんかじゃない。」


彼女の言葉も上の空で抜けていく。叶うならこの手を握り返したいのに。向き合った青緑色の瞳は潤み、艶々と輝く。ほろりと、ひと雫が頬を伝う。


「普通でいたかっただけなのに。」




◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「『了』。」


ペンを置いて、静かに本を閉じる。これが最後の本。こんなにはやく訳し終えてしまうと知っていたら、実用書以外も焼いたりしなかったのに。それに、ここには驚くほど娯楽が少ない。騙し騙しやっていくのにも精神的に限界がある。


「いっそのこと、さっさと死ぬべきなのかしら。」


確固たる意志があって生きているわけでもない。今は生かされているけれど、ひとりでは生きていけない。彼だって仕事が終わったなら離れていくだろう。


収穫祭が近づくにつれ、外は賑やかになっていく。かえって静かになるここは、確かに神殿のようだった。


「淋しくなんてないの。」


父も母も兄も、人間すべて、私と同じ病で死んでいった。脚元から、徐々に壊死していく。赤黒く変色して機能を失う。最期は生命器官がゆっくり時流に逆らって停止する。赤変は胸のあたりで止まり、痛みもほとんどない。『綺麗な死に様』だと、誰かが言っていた。普段は包帯で隠しているけれど、私の両脚も既に赤に蝕まれ、動かない。今年が、最後の収穫祭になるのだろう。私がここを出る最後の。


「失礼します。」


「……カナエ。」


食事は数日分置いてあるから、収穫祭が終わるまでは来ないと思っていた。ほんのり心が弾んでいるのは、きっと驚いたから。


「どうしたの。」


「包帯、替えに来たんです。」


彼が指差す先にあるヨレヨレの包帯を見て、顔がカッと熱くなる。昨日の夜に自分で巻いて、思いの外下手くそだったけれど、誰にも会わないからとそのままにしていたのだ。不器用がバレてた。


「……そういうところも嫌いよ。」


「嫌われてるなぁ。」


その割ににこにこしている。彼のことはよくわからない。机を挟んで向かいに腰掛けて、肘をつく。目線が同じになって、自然と目があう。深い鳶色の瞳は、見ていると吸い込まれてしまいそうだ。しばらく見つめあっていたが、一向に包帯を替える気配がない。


「急がなくていいの?」


「俺がゆっくりしたいんですよ。」


「あっ……そう。」


何をしに来たのやら。帰るのを躊躇っているように思えるのは、ただの願望だろうか。


「俺、ミナト様の字が好きなんです。」


閉じていた本をパラパラとめくる。インクじみや、二重線で消した書き間違いばかりが目についた。


「もう書かないけど。」


「……終わっちゃったんですか。」


彼は困ったように眉をひそめる。何を困ることがあるのだろう。彼が死ぬわけじゃないのに。それに、もう用済みだろう、私は。


「それよ。」


彼がめくっていた本を指差す。一瞬、時が止まった。彼は静かにそれを閉じて、表紙を撫でる。私がここで過ごした数年と、彼がここで勤めた数年。それが終わりを告げようとしている。当たり前のように受け入れられた自分に少し驚いた。いつかこうなると、わかっていたからだろうか。


「……包帯、替えましょうか。」


床に座り直した彼が、私の脚を取って丁寧に包帯を解いていく。赤黒い皮膚が顔を覗かせ、自分の脚なのに何か別の物体のように思えて、気分が悪くなる。


「醜いでしょう。」


「いいえ。」


「悪趣味なのね。」


「ミナト様だから、綺麗です。」


「……そう。」


肯定して欲しかったのか、否定して欲しかったのか、自分でもわからない。手際よく巻かれていく包帯を眺めながら、器用だなと思う。私は、何もかも不器用だから。


「できました。」


「ありがとう。」


「座ったついでに、俺の髪も三つ編みしてください。」


「自分ですればいいのに、器用なんだから。」


「ひとにやってもらうのがいいんじゃないですか。」


「そういうもの?」


「そういうものです。」


首を傾げながらも、くるりと背を向けた彼の髪を編み始める。毎度ながら下手くそだ。外のひとに笑われてはいないだろうか。外に出たら解くのか、編み直すのか。次来る時には解いているし。何がしたいんだろう、彼は。一層わけがわからない。わからないから、知りたいのだろう。そう自分に言い聞かせる。


「 」


伝わるわけがないから、言えるのだけど。臆病で、自信がなくて。何でも先延ばしにしてしまう。普通でいたくて、好かれることが怖くなって。そうやって人を遠ざけてきたから、人を好きになっても、それだけで終わりだった。普通でいられる条件はそれだけだったから。


「……俺もです。」


急に振り向かれて心臓が跳ねる。途中まで編んだ髪も離してしまった。しばらく見つめ合ったまま固まる。今、何て言った? 俺もです、何が? わかったっていうの、わかるはずがないのに、教えてないのに。混乱でうまく頭が回らない。


「明日も来ますから。」


彼が目をそらしながら言う。心なしか、顔が、赤い? 気のせいだろうか。行動ひとつひとつに過敏になっている。


「……これ、持ってって。」


いそいそと立ち上がる彼に本を渡そうと手を伸ばす。その時に手が触れて、びっくりして本を取り落としてしまう。


「あっ、ごめんなさい……。」


落とした本を取ろうとして、手を伸ばした途端にバランスを崩す。


「えっ……。」


自分の脚が動かないこと、どうしてかすっかり忘れてしまっていた。転がるように落ちたと思ったら、床に叩きつけられる。新鮮な痛みが全身を襲う。


「ミナト様!」


駆け寄った彼が手を取って起こしてくれる。泣きそうな顔でこちらを伺う彼に、すぐに痛みは引いたから、大したことはないと伝える。


「……もう、危ないことしないでください。」


「ごめんなさい……。」


抱え上げられて、元のように石の上に座らせてもらう。一瞬だけ抱き締められたような気がして、そんなはずはないと思って、でもさっきの言葉が本当ならと、悶々と考えてしまう。


「……重かったでしょう。」


照れ隠しに、当たり障りのないことを言ったつもりだった。


「重いですよ。生きてるんですから。」


初めて聴く怒った声に、反射的に目を閉じてしまう。


「あ……ごめんなさい。」


目を開けると、彼は焦ったように目を泳がせていた。さっきとは打って変わってキョロキョロと動く目玉が面白くて、返事を忘れそうになる。


「いえ……こちらこそごめんなさい、ありがとう。」


彼はひとつ頷いて、床に落ちたままだった本を拾う。軽く払って、大事そうに持ち直した。彼は咳払いをして一瞬私の方を見るけれど。


「じゃあ、また明日。」


「ええ。」


照れくさくてお互いにまともに顔を見られないまま、ぎこちなく手を振って別れた。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「えご、あも、でうす。」


彼女が訳してくれた本の一節だ。ガイアは神を信じる時、その神にまつわる本を書くらしい。これがそうみたいだ。訳本と原本とを見比べてみる。私は神を愛している、とある。『えご』、『あも』、『でうす』が、『私』、『神』、『愛している』のどれかに当てはまるのだろう。彼女が言っていた『えご、あも、て』の意味は?


「私は、神だ?」


神じゃないと言い張る彼女がそんな事をわざわざ言ったりするだろうか。様をつけられるのも嫌がっていたし。


「私は、愛している?」


何を? て、が何かわからない。目的語が何かによって意味はガラッとかわってしまう。


「神を、愛している?」


これかもしれない。神は見えないのだと彼女は言っていた。彼女がこの本を実用書として残したからには、彼女にとってこの本、この神は特別なのだろう。今度、適当に返事をしてカマをかけてみようか。何て返事をしたらいいだろう。


「……俺もです?」


俺にとっての『神』は当然彼女な訳で。これは遠回しに告白しているのでは。でも他にどう言ったらいいかわからない。嘘ではないのだし。もう、当たって砕ければいい。出来れば砕けたくはないけれど。そんな都合のいい話があるとは思えなくて。神殿に行く口実はどうしよう。食事は置いてきてあるし、収穫祭の準備で来られないと言ってしまったし。


「包帯を替えに来ました、でいいか。」


きっと上手く巻けていないのだろうから。ずっと解いていなかった三つ編みをつまむ。ところどころ太さが違って、一言でいえば下手だ。


「でも、好きなひとがやってくれたってだけで、素敵じゃないか。」


明日も神殿に行くから、解いておく。また彼女に編んでもらえるかもしれない。


「打算的。」


しょうがない。彼女と俺は、似ているようで違うんだから。彼女との距離を詰めるのも亀の歩みで、そんな自分が情けない。俺等に残された時間はどれだけだろう。目を背けてきた事実が頭をもたげてきて。少しでも考えてしまうと抜け出せなくなりそうで、答えが出てしまうのも恐ろしくて。そんな考えを振り切るように、そっと目を閉じた。




◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


明日は前夜祭ということで賑わう街をこっそり抜け出し、小高い丘に建つ神殿に向かう。持っていた紙袋がバタバタと鳴るほどには風が強く、白い壁は秋の陽差しを反射し尽くして、神殿の中は少し肌寒い。


「おはようございます。」


「……おはよう。」


眠そうな声が返ってくる。いつも通りの時間のつもりだったが、早すぎただろうか。


「……寝てます?」


「起きてる……。」


机に突っ伏した彼女はどう見ても寝ていた。うーんうーんと唸っている。


「寝てていいですよ、起きるまで待ってますから。」


「起きてる……ってば……。」


ぐぐぐと重力に抗って体を起こそうとする彼女。しかし重力に勝てるものはいなかった。


「ちょっとだけ……。」


「おやすみなさい。」


「おやす、み。」


突っ伏した彼女の後頭部を眺める。しばらくして、ベッドに寝かせればよかったと後悔する。今から移動させてもいいけれど、何がとは言わないが誤解を生みそうだなぁと思って諦める。


「綺麗な髪だな。」


うずうずする。触りたい。編みたい。彼女が起きるまでどうせ暇なのだから、手慰みに。いつもは俺が編んでもらっているし。せっかく綺麗なのにもったいない。色々と理由をつけて、彼女の長い長い髪を編んでみることにした。




◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


昨日のことを考えていたら、まともに眠れなかった。けれど彼が今日も来ると言ったから、起きて待っているつもりだった。瞬く間に撃沈してしまった。眠い。待っててくれると言ったから、安心してしまう。ちょっとだけ、ちょっとだけと呟きながら、本格的に眠りにつく。彼が帰らずに待ってる保証なんてないのだけど。どうしてか、待っていてくれる気がした。




◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「あ、起きました?」


「……本当に待ってたの?」


「当たり前じゃないですか。」


気になったのか、彼女が後ろ髪をさわる。


「三つ編み……?」


「嫌だったら解きましょうか。」


「別にいいけど。」


「俺のも編んでください。」


「下手だって笑うんでしょう。」


「笑いませんよ。」


「どうかしら。」


「笑いませんよ。」


俺は、他でもない彼女にやってもらいたいんだから。不器用で冷たくて、とびきり綺麗な彼女に。床に座って、振り返る。彼女はキョトンとした顔でこちらを見た。


「ミナトさん。」


「なに?」


言ってしまうべきか、やめるべきか少し迷う。これで本当に引き返せなくなる。居心地のいい、曖昧なままの関係は終わってしまう。それでも、言ってしまうことに決めた。自分に嘘をつくのは嫌だ。


深呼吸をして落ち着こうとするのと裏腹に高鳴っていく心臓がもどかしくて。震える声、やっとのことで伝える。


「好きです。」


「……奇遇ね、私もよ。」


彼女は昨日とは打って変わって落ち着いた様子で、淡々と述べる。不思議な感覚に陥って、頭がふわふわする。


「よかった。」


他に返す言葉も思いつかないほどに。安心ついでに、彼女に背を向けて落ち着こうと試みる。彼女は俺の髪を手に取った。


「昨日の、意味もわからずに言ってたの?」


「ある程度まではわかってたんですけど。」


最後まではちょっと、と?を掻く。


「わかるはずないと思ってたもの。」


「訊くのは、恥ずかしいかなって思って。」


「今訊いたじゃない。」


鬼の首を取ったように得意げに、指差しまでしてきそうな勢いで彼女が言う。その挑発に乗る元気は、さっき使い果たしてしまった。


「やっぱり確かめておきたいじゃないですか。俺の勘違いだったら、それの方が恥ずかしい。」


「正直ね。」


呆れたように笑う声はいつもと変わらない。えいえい、と小さく呟きながら、髪を引っ張られた。彼女も彼女で照れているのかもしれない。素直じゃないなぁ。


「できた。」


「ありがとうございます。」


編みあがった髪を手にとってみる。愛おしさがこみ上げてくる。振り返って、彼女の細い体を抱き締める。ひんやりとした感触が心地良い。突き返されると思ったのだけど、大人しく抱き締められているので面喰らう。もう少し、調子に乗ってしまってもいいだろうか。自分の中の色々な基準が緩んでいるのがわかる。否定されるリスクなんて考えもしなかった。ほとんど勢いで、言ってしまう。


「結婚してください。」


おずおずと背中に腕が伸びてくる。ひた、と掌が背中について。少し震えているのがわかって、余計に抱き締めた。


「……喜んで。」




◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「これを貰ってください。」


持ってきていた紙袋から、彼が何かを取り出す。


「靴?」


「結婚の条件は『一生使えるものをお互いに贈り合う』なんですよ。」


「確かに私なら靴底も擦り減らないでしょうね。」


歩けないのなら、そもそも靴は必要ないのでは。使う使わない以前の問題な気もする。


「外はここみたいに凹凸少ないわけじゃないですよ。」


ぶつけると痛いです、と呟きながら私の反応を伺う。


「ふうん。」


「嫌だったら別の考えますけど。」


「これがいいわ、履かせて。」


彼は編み上げのブーツに私の足をそっと差し入れる。少しずつ紐を締めて、最後にきれいに蝶結びをする。


「きつくないですか?」


「大丈夫。」


本当は、感覚もないからわからないのだけど。反対の脚も同じようにしてもらう。膝丈のブーツは、包帯を隠すのにちょうどいいかもしれない。紙袋を丁寧に畳んだ彼が、おもむろに深呼吸をする。


「本当は証人が要るんですけど。」


彼の手が私の頬にのびる。突然のことにびっくりして肩が跳ねる。彼は微笑みながら、大丈夫です、と囁いた。


「神様が見てるってことで。」


それからゆっくりとふたつの唇が重なる。優しく、割物に触るような。彼の手からも血流を感じて、唇が熱い。離れたあとも熱の塊が居座っているようで、ふたりして顔をそむける。


「……貴方達もこうするのね。」


「俺達似てますからね。」


似ているけど、違うから。私達が一緒にいる理由はそれで充分だ。もう普通には戻れない私には。


「……そうね。」


「これでミナトさんは俺のですね。」


「私は私のものよ。」


冗談を言いながら、結婚したのか、と妙な感慨にふけっていたところで、大事なことを思い出す。結婚の条件は『一生使えるものをお互いに贈り合う』。


「待って、私からは何もあげてない。」


「ミナトさんからはもう貰いましたよ。」


まったく心当たりのない私に、白い歯を見せて彼は笑った。




「Ego amo te! (愛してる!)」




◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


収穫祭の儀式も滞りなく進んだ。これで本当に私の仕事も、彼の仕事もなくなってしまった訳で。


「収穫祭で使ってた車椅子、そのまま貰っちゃいましょうか。」


「そうね。」


「あ、俺の家、ベッドひとつしかないですけど。」


「……敬語やめない?」


「すみま、ごめん。どうしても抜けなくて。」


引っ越し作業に追われていた。とはいえ私が出来ることはほとんどないのだけど。彼が忙しく働いているのを座って眺めているだけだった。


「結局連れ出すんじゃない。」


「違うよ、結婚したらしたなりにいいことがあるんだって。」


「例えば?」


「『婚儀を交わしたもの同士以外は、両者及びどちらかを傷つけることはできない』。」


「なるほど。」


「心中はオッケーって訳です。」


「やな事言わないでよ。」


私の服だとか包帯だとかを鞄に詰めながら、いい笑顔で言い放った。


「婚約って、異種族でも成立するの?」


異種族間の結婚なんて、あまり普通ではないだろう。そもそも前例はあるのだろうか。


「金槌と結婚してるひとがいたから大丈夫。」


その答えに安心するも、金槌と同列視されるのは複雑な気分だ。適当に言っているだけかもしれない。作業の手が滞ってきた彼は話すことで意識をつないでいるようにも見える。


「もう眠いんでしょう。」


「ちょっとね。」


収穫祭が終わったら春まで眠りにつく彼等には、冬が長いという感覚はないのかもしれない。


「仕事なくて大丈夫なの?」


「何のために高給取りやってたと思う?」


「ダウト。」


「春になったら見つけるよ。」


「春になったら、ね。」


私はあと何年生きられるのだろう。指折り数えるのも憚られて、そっと拳を握る。


「もっとはやく気づけばよかった。」


もう普通じゃなくてもいいんだってこと。普通を作ってた人間はもうどこにもいない。その普通に従う必要はない。


「なに?」


「何でもない。」


両肘をついたまま微笑む。彼は不思議そうに首を傾げたまま、作業を再開した。ふたりして臆病で、自分で自分を縛りつけて。外見はこんなにも違うのに、私達は本当に似たもの同士だった。

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