歯車のおと
歯車の音がする。明りとりのため開け放った窓からは柔らかな陽が差し込んでいた。鳥のさえずりすら聞こえない中でその音だけが響いている。歯車の音はだんだんと大きくなっていく。それは街との繋がりを断ったこの森には似つかわしくない音だった。この森に文明はない。あるのは原始的で粗放的な、たったふたりの小さな世界だけだ。普段は訪れる者も去る者もいない。読みかけの本に栞を挟んで、カップに注がれた湯を啜る。茶というものを、僕は口にしたことがない。この森には嗜好品など唯ひとつを除いては存在していないのだった。歯車の音が止まる。背後から控えめなノックの音がした。歯車の音の主のようだ。
「何か御用ですか。」椅子からは立ち上がらずに、扉の向こうへ話し掛ける。
「ひとを訪ねて来ましたの。」まだ年若いドールの声だ。それでも僕よりは2、3上かもしれない。
「開いていますので、どうぞ。」促すと、遠慮がちに扉が開いた。歯車がまたカタカタと鳴り出す。彼女の鈍色の左脚が、どうやらそのようだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「どうやってこの森に?」10年前、この森の回りには高い壁が造られた。そのあと一度だけ、森を抜け出そうとしたことがある。高い壁は無慈悲に僕を見下ろすだけで、おまけに先代にも見つかったから諦めた。先代はすぐにぐずるからなかなか面倒なひとだった。思えば、もし壁を越えられたとしても、僕には森の外に居場所などなかったのかもしれないけれど。
「あら。壁があるとはいえ、もう10年も経っていますのよ。朽ちている箇所もいくつかありますわ。……もっとも、ここに進んで来ようと思うのなんて私くらいでしょうけれど。」彼女は口元を手で隠しながら上品に笑った。高いとはいえ木製の壁は、森の外側の木を切って、それで造ったらしかった。
「なるほど、僕も今度探してみます。」森の中は10年前から時間が止まっている。外の世界がどうなっているのか、とても興味があった。
「この家も、だいぶ年季が入ってきましたわね。」彼女は僕の出した湯を口に含み、味を探すように緋色の眼を斜め上に向ける。そのままきょろきょろと左右に眼玉が動いた。
「いつからご存知なんですか。」ひとを訪ねて来たと言った。僕は身に覚えがないから、カシャの関係者だろうか。
「もうずっと……それこそ壁ができる前からですわ。」すると、カシャの関係者でもないらしい。彼は壁ができた後、文字通り空から降って来たのだ。
「じゃあ訪ねびとって言うのは……。」僕でもカシャでもない、ともなると思い当たるのはひとりだけだ。
「カタさんって、ご存知かしら。」彼女の口から出た名前に、思わず眉をひそめる。当たって欲しくない、予想が当たった。
「ええ、先代です。でも先代はもう……。」言い掛けて口をつぐむ。最後まで言い切ることは不要だと悟った。彼女はとても穏やかな眼をしていた。
「知ってるわ。でも、会いたかったのよ。」彼女はカップを手に取りかけてやめ、「これ、お湯よね。」と言って笑った。僕は眼をそらす。
「本当に、ここには何もないんです。もちろん、墓も。」先代の屍体は僕が埋めた。静かに眠って欲しかったから、墓標は立てなかった。今はもう、何処にいるのかもわからなくなってしまった。
「いいのよ。こうしてこの森にもひとが生きてるってわかったんだもの。」ひとりで眠るのは寂しいわ、と彼女はまた笑った。
「先代も、貴女が来てくれて嬉しいと思います。」こういう時に、月並みな言葉しかかけられないのがもどかしい。こればっかりは知識があっても仕方のないことだった。
「ありがとう、きっとまた来るわ。」彼女が立ち上がると、また歯車の音が鳴る。不思議と安心する音だ。本の中で見た時計の音はこんななのだろうか。前文明でも歯車が使われていたと言う時計は、今はもうない。化石燃料が尽きたことで発電が困難になり、夜を生きなくなった僕らには、時計は必要ないのだった。それとともに時間の概念は薄れ、ひとびとは規則的に回る香箱を飛び出し、緩やかな流れの中に身を置くことを選んだのだ。そうはいっても技術は革新を続けるらしい。僕がまだ外にいた頃は、機械式の義足なんかなかった。10年という歳月は短いようで長い。外にはどのくらい絡繰りが増えたんだろう。目の前の彼女ならあるいは、詳しく知っているかもしれない。
「あの、もしよかったら外のこと、教えて貰えませんか?」思わず不格好に呼び止める。振り返った彼女はゆっくり、僕と、湯の入ったカップに目をやった。そして肩をすくめる。
「……お茶の淹れ方、からね。」彼女は文明の音をさせながら、微笑んだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「レモングラスよ。ハーブティーになるの。」彼女は家の周りで摘んだ草を見せながら言った。かすかにレモンに似た香りがする。
「図鑑に載ってたので名前は知ってますけど……。」これが、茶なのだろうか。どう見ても摘みたての草だ。
「見ててね。」彼女は湯でポットを温めて流し、もう一度湯を沸かす。その間にレモングラスを千切ってポットに入れた。沸いてから少し経った湯をそっとポットに注ぐ。それから静かにポットに蓋をした。
「ガラスのポットだと、色が見えて綺麗なのよ。」陶磁器のポットを指さして彼女が笑う。乳白色のそれは静かに湯気を吐き出していた。
「じゃあ、注いでみてのお楽しみですね。」生きてきた中で初めての茶に、期待を隠しきれない僕の様子が、彼女には可笑しいらしかった。促されるままにポットとカップを持ってテーブルへ戻る。しばらく蒸らすのだそうだ。
「そういえば、お名前お伺いしてませんでしたね。カオです。」10年も閉ざされた世界にいて、名乗るという行為は新鮮だった。どことなくぎこちないのがわかる。
「私はカイ。ここに来た時はよろしくね。」彼女、カイは慣れたように返す。外では当然名乗ることも多いのだろう。
「ええ、よろしくお願いします。」しばらくの間、ふたりを沈黙が包む。何か話してくれるのだと思って待っていたのだが、アテが外れたようだ。彼女はじっとポットを見つめて、立ち昇る湯気を浴びていた。潤いの秘訣だろうか。
「そろそろですか?」
「そうね。」ポットを傾け、茶漉しを通して、鮮やかな黄緑色の液体をカップに注ぐ。レモンのような香りが部屋いっぱいに広がった。
「いい香りですね。」カップを取ってひと口含む。ほっとする味だった。ふわりと身体の芯から温まっていくようだ。
「貴方のお相手にも、淹れてあげてね。」カップを置いた彼女の人差し指が、僕の鳩尾を突いた。突然のことで噎せそうになる。
「どうしてそれを……。」
「なんとなくね。ひとり暮らしって家じゃないわ。」指をくるくる回しながら、食器棚に眼を向けた。ひとり分にしては多い食器が雑多に並べられている。かつては先代と僕、今はカシャと僕のだ。
「……カイさんは、先代と、どういう関係だったんですか。」彼女の絡繰り仕掛けの左脚に目をやる。褐色の肌から異質に浮き出る鈍色は、静かな存在感を放っていた。
「もう昔のことよ。私も幼かったの。」左脚をさすりながら俯く。白髪がさらりと流れ落ちた。
「彼は私の左脚を食べて、食べながら、泣いてたわ。私はそんな彼を置いて逃げたのよ。」
「……仕方ないと、思います。」
「それでも、後悔してるの。そばに居てあげられたら、私がちゃんと向き合ってあげられてたら、何か変わったかもしれない。」
「そう簡単に、変わるものですか。」
「貴方だって、変わったのじゃなくて?」
「……どうして、何もかもお見通しなんですか。」
「森から出ていかないのは理由があるからでしょう?」
「……先代と約束したからです。それに、外に僕の居場所はないでしょう。」
「どうかしら。」
「彼だって、僕が眼玉を奪ったりしなかったら出ていったはずだ。」
「一緒に暮らしてるのは、その彼?」
「僕が初めて……食べたひと、です。」
「……そう。一途なのね。羨ましいわ。」
「違うんです、僕は彼を食べたくて仕方がないんだ。でも、苦しいんです、出来ないんです、そんなこと。」
「彼を愛してしまったんでしょう。」
「……それは、違う。そんな資格は僕にはありません。」
「貴方がどう思うかよ。」
「わからないんです、もう。自分の気持ちも、彼のも、何も。」
「彼は貴方といたくているんじゃないかしら。」
「そんなの、勘違いをしているだけなんだ。」
「それじゃあ貴方、私と一緒だわ。」
「わからない、わからないんです。でも、僕が彼を引き留めちゃ駄目だ。」
「それを決めるのは彼でしょう。」
「一緒にいて、耐えられなくなったら、僕がまた彼から奪ってしまうのが、それが怖いんです。」いつの間にか頭にやっていた手が、そのまま爪痕を残しそうな程食い込む。
「いつ、我慢できなくなってもおかしくない。」
「だからって、後悔しか生まないわ。」とうに冷めたハーブティーをくるくると回しながら、彼女は僕の眼を覗き込んだ。彼女の緋色の瞳はわずかに潤んで、それでも涙は決してこぼれないような、そんな気がした。
「貴方が食べなくたって、彼はいつか死ぬのよ。」彼女は乗り出していた体を元に戻した。歯車が静かに鳴る。
「あのひとと違って、彼は生きてるじゃない。……間違っても、やり直せるじゃないの。」彼女が冷えたハーブティーを飲みきった時、背後から扉が開く音がした。
「ただいまー、って、お? いい匂いがする!」カゴいっぱいに木の実を持って帰ってきたカシャは一直線に僕の方へ歩いて来る。その途中でカイの存在に気づいたらしい。
「お客さん?」首を傾げて尋ねてくるので、頷いた。
「おかえり、カシャ。」嬉しそうにカゴの中身を見せてくる彼の頭をなでて、それからカイが見ていることを思い出してハッとした。慌てて手を引っ込める。
「おかえりなさい、カシャくん。私はもうお暇するわね。」あからさまに気を使っている。引き止めるわけにもいかないので渋々頷く。
「カシャ、皮むいておいて。」
「はーい。」元気よく返事をするカシャを残して玄関を出る。
「そういえば、外のこと何も聞いてないですが。」
「私から聞くより、見た方が早いわ。」耳と眼を順番に指さしながら彼女は言った。それもそうだが、なんだか騙された心境だ。
「じゃ、頑張ってね。街の方では近いうちにお祭りがあるから、いらっしゃいな。」遠ざかる歯車の音を、手を振って見送る。彼女が歩く様は、どことなく強さを連想させた。彼女の背が森の木々に消えた頃に、せめて壁の壊れているところくらいは訊くべきだったと後悔する。家に戻ると、皮をむきながらつまみ食いをしているカシャと目があった。わかりやすく肩が跳ねる。
「いやその、これは毒味で。」苦しい言い訳をしながら眼を泳がせる。一緒に泳いでいた手を掴んで、もごもごと動く唇に自分のそれを重ねる。甘酸っぱい味が口内に広がった。
「お仕置き。」掴んでいた手を離す。カシャの手はそのまま空中に留まっていて、琥珀色の隻眼は見開かれて、つまるところぽかんとされていた。しばらく見ていると氷が解けるようにゆるゆると動き出して。
「かお、違うよ。」離したばかりの手を握り返される。果汁がベタベタする。
「これ、ご褒美っていうんだぜ。」手をぎゅっと握られて、幸せそうな笑顔で、そんなことを言われたら。
「好き。」口が滑った。
「えっ。」驚かれた。
「えっ。」驚かれるとは思っていなくて驚いた。おろおろしているとカシャの頰がみるみるふくらんでいった。
「かおの嘘吐き。俺には好きって言うなって言ったくせに。ずるい。」
「えっと、ごめん、愛してる。」
「そうじゃない。」
「……じゃあ何さ。」
「かおは俺のことなんか好きじゃないと思ってた。」頬をつねられる。やっぱり果汁がベタベタする。
「そう、なんだ。」
「さっきだっていつもみたいに『友達だろ。』って言われるだけだと思ったのに。」つねられたままぐるぐる回される。果汁がベタベタする以前に痛い。
「それにさぁ、かおが言おうと思ったのってさっきのお客さんになんか言われたからだろ。そんなの悔しいじゃん。俺が一番かおのこと知ってるし好きなのに。」
「ほ。」
「やっぱり自分で振り向かせたいって思うじゃん。もう遅いけど。」聞いてると恥ずかしくなってきた。全身の血が普段の倍の速さで流れている気がする。果汁のベタベタもそろそろ我慢の限界だ。早々に話題を変えようと思って、口を開く。
「街で、お祭りがあるんだって。」我ながら下手な話の振り方だ。
「お祭り?」なんで今その話を、という顔をされる。
「一緒に、行こう。」
「……デートってやつだ! 行く!」デートという言葉にギクッとする。もしかしてとんでもない話題を持ち出してしまったのでは。
「……目立つことしたらダメだから。」
「なんで?」
「僕ら、失踪扱いになってると思うし。」
「あー、そっか。忘れてた。」
「こっそり行くんだからな。」
「何までならいい?」
「………………………………手ぐらいは、繋いでもいい、かも。」ちょろちょろと動き回って迷子にでもなられたら困る。
「やったー! 楽しみだなぁ、外!」今までも充分うるさかったのに、それに拍車をかけてうるさくなった。僕はさっそく言ったことを反省し始めていた。
「カシャ。」
「なに?」
「ハーブティー淹れてあげるよ。」
「それ、おいしいやつ?」
「うん、おいしいやつ。」今まで気づかなかったけど、カシャの眼は期待している時が一番綺麗なのだった。
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