第29話 真犯人は遠くに逃げました
夜の闇の中を流線型の物体が滑るように走っている。明らかに人工物だったが、
移動物体の上に据えられた小屋から一人の影が出てきた。背後を振り返る。夜でさえ街の灯りに照らされて浮かび上がり、その巨大な存在感を常に周囲に与え続ける魔王城は、既に麦粒ほどの大きさに見えた。
「どこで間違えた……」
高速で動くことにより生み出された風により、被っていたフードが剥ぎ取られる。家庭教師であった。人狼形態から普段の姿に戻っている。その表情は憎しみで染まっている。
「あの糞吸血鬼め……」
家庭教師は逃げている。
祖国を戦争に引きずり込むべく共に活動した留学王女が腹を殴られて吹き飛んだ瞬間、彼は全てを諦めた。何故彼女が負けたのかさっぱりわからなかったが、もはや何をしても無駄だと悟っていた。
彼の計画は、ほとんど想定どおりに進捗していた。
B国の
魔王城が無能なデュラハンで埋め尽くされた時は快哉を叫んだ。思惑どおり容疑が近衛騎士に向けられ、厄介な騎士共が城から追い出された時は気分が良くなり過ぎた。大学の教え子たちから「なにか良いことでもあったのですか」と聞かれたくらいだ。
そして見事に、留学王女はひと月で30人の吸血鬼を滅ぼしてみせた。
残る暗殺対象はただ一人。戦争大臣のみだった。
魔王陛下の腹心中の腹心たる彼女を滅ぼせば、彼の計画は完成する。
しかし、
「なんなのだ奴は……ッッ!!」
しかし、今はどうだ。
躁鬱病患者めいた態度を取るあの吸血鬼のせいで、すべてがひっくり返った。いきなり現れて、無意味に盤面を引っ掻き回されてしまった。戦争大臣は逃げ、留学王女も負けた。だから家庭教師は今、血塗れのまま全速力で逃走している。
「逃走ルートがバレるはずもないが……」
王都は広い。魔界で最も大きく、最大の人口を抱えた都市である。夜でも郊外に出る乗合馬車が大量に出ているのだ。商用馬車を計算に入れればその数は無数と言って良い数になる。そして、B国への最短ルートはいずれも陸路だ。
馬鹿でも頭が良くても陸路を封鎖する。
だから彼は海の上にいる。
流線型の正体は小さな船であった。ただし、誰もが知るような帆や櫂で動くそれではない。B国が秘密裏に開発したスクリュー推進船である。
舳先が波を勢いよく掻き分けていく。
「まぁ、いい……」
潮風に揉まれるうちに、彼は落ち着きを取り戻していく。考え直す。自分に言い聞かせるように「問題ない」と呟いた。彼の置かれた状況からすれば違和感のあるものだったが、それは独り言であるがゆえに虚勢ではなかった。
彼が逃走に移ってからまだ1時間と経っていなかったが、帆船であれば半日掛かる位置にまで逃げ出していた。自分の家には戻らず大学からそのまま港湾区域まで移動したし、証拠はどこにも残していない。暗殺計画はすべて頭の中にあった。
そして--
「大学が半壊するほどの騒ぎが起きたのだ。完璧とは言い難いが……」
--そして、彼の計画は成功したも同然だった。
もちろん、戦争大臣を滅ぼすつもりであった。だからこそ自ら暗殺に加わったのだ。だが、もっとも欠かせない要素は既に達成しているのだった。
「あとは、わが祖国の行く末を見届けるのみ……」
前兆はなかった。
突如、船尾に衝撃。大きく船がかしいだ。家庭教師は手すりを掴んで揺れを耐える。船が再び真っ直ぐ進み始めた頃--
「おめでたいな。見届けるだけの寿命が君に残っていると?」
バリトンが朗々と響いた。
そして、その声の主が歩み出てくる。
まったく闇の中だったが光源は不要だった。
お互いに夜目が効く。
「やあ、始末をつけようか」
吸血鬼は言った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます