畑精霊様のお願い事

星山藍華

第1話

 高層ビルや高級住宅地、アウトレットモール、遊園地……、そんなものが一切無い静かな町に僕の実家がある。少し歩けば畑や田んぼが広がっていて、その近くの小屋には無人の直売所なんかもあった。けれど僕が社会人になって働くようになり、実家にもほとんど帰らなくなって久しぶりに帰ってきたと思えば、住人が前より少なくなっていることは明確だった。裏の家で南瓜を育てていたおじいさんも、小さい頃お世話になったおばさんも、次に会えるのはいつだろうかと考えてしまうほど寂しい。

「ただいま」

「おかえり結志ゆうじ。ちゃんとご飯食べてる? 少し痩せたんじゃない?」

「これでも三食ちゃんと食べてるよ。野菜送ってくれるのはいいけど、使い切るの大変なんだ。量減らしてくれない?」

「余るくらいいいじゃない。毎日お腹を空かせていることが一番バチ当たりなことなんだから」

 これが母の口癖。いや、教訓、とも言うべきなのか。

 僕が使っていた部屋はすっかり物置部屋となっていたが、ちゃぶ台と布団が置けるスペースがあれば十分だった。畳んだままの布団の上に座り、スマートフォンを弄る。ゴールデンウィークだというのに、仕事のメールがいくつか来ていて休まる気がしない。こういう時くらいは家族の時間を大事にするべきなんだろうけど、実際何をしたらいいか分からない。

 部屋着に着替えた後、父の姿が見当たらないので夕飯支度をする母に訊ねた。

「そういえば父さんは?」

「マス釣り。まだ一時間は帰ってこないと思う」

「じゃあ迎えに行ってくるよ」

「気をつけてね」

 さすがに連絡がつかないとなるのは困るので、スマートフォンを尻ポケットに突っ込んで父の居場所を探しに出掛ける。一番近い川で三十分は歩く。もう人の顔が分からないくらいの夕暮れ時で、本当に父を見つけられるか内心不安だった。

「結志か? なんだ帰ってたのか」

 向かいから歩いてくる人が父であると分かったのは、酒と煙草で痛めた掠れ声だった。

「帰るって聞いてなかった?」

「聞いてたけどな、ニジマスが釣れねーんだ。どこ行っちまったんだか」

 僕がクーラーボックスを手に掛けると、父はそれを察したように手を離した。言っていることが正しいことを示すように、少し軽いような気がした。

「都会の仕事は窮屈で割に合わん。お前も嫌になったら、こっち帰ってきていいんだぞ」

「昔より給料は良いよ。仕事もほとんど家でできるから、楽させてもらってる」

「そんなことが言えるのは今のうちだぞ」

「自給自足の方が僕には向いてない」

 家族らしい会話なんていつもこんなものだ。けれど相性が良い部分もあった。

「そういえばお前の作ったデジタルの家計簿。あれ使いやすくて便利だな」

「まだ使ってくれてたんだ」

「最初は抵抗あったけどな。けど慣れたら寝る前にちょこっとポチポチするだけであっという間に計算してくれる。嬉しいこった」

「それは良かった。僕も父さんの作るきゅうり、梅肉入りの浅漬けにして食べてるよ」

「美味かろう美味かろう」

 自分で作ったものを誰かに喜んでもらう行為は、きっと父の遺伝なのだろう。それが僕の幸せでもある。しかし道中の枯れた田畑を見ていると、人はどこへ行ってしまったのだろうと寂しさが込み上げる。

「そういえばな、そう遠くない未来、お国はこの町をダムに沈めるんだとよ」

「え? それ本当?」

「俺が嘘ついたことあったか?」

「一回だけ。ズッキーニ嫌いなこと知ってたくせに『茄だ』って言って食べさせた」

「がはは。そんなこともあったな。こっち帰ってきて、妙に人がいないと思ったろ。そのダムの話があって、みんな都会に住んでる子供の家に転がり込んでったさ」

 へー、と相槌を打つも、それ以外の言葉が出てこなかった。僕一人ではどうしようもできない事象に打ち拉がれていた。

「ニジマスも釣れねー。野菜も採れなくなっていく。俺たちもお前んとこに転がり込もうかね」

「急に来られても困るから、その時は事前に連絡寄越してよ?」

「そうなったらな」

 のんべんだらりと話しているうちに実家が見えてきたと思えば、スパイシーな香りがツンと鼻を刺した。

「あ、野菜カレー」

「お前は鼻が効くな」

「カレーだけね」

 家に上がれば腹の虫は飯だ飯だと大騒ぎして止まらない。僕は料理が得意でも好きでもないから、一人暮らしの今では簡単に炒めたものくらいしか食べていない。幸いにも野菜の好き嫌いはない(正式には野菜嫌いを克服した)けど母の手料理は母自身の好きが溢れていて美味しい。腹八分目を忘れて空気が入らないくらいは食べた。

 台所が片付くと、今までテレビを見ていた父が台所に立ち釣った魚を捌く。土地が痩せていると言わんばかりに魚も痩せ細っていて、刺身よりも燻製にしてしまった方がまだ食べられそうなくらいだった。縁側に出て使い込んでいる七輪に火をつけ、捌いた身を置いていく。

「お前も抓むか?」

 床の保管庫から日本酒を取り出し僕に向けて誘う。少しだけ、と言いながら僕は戸棚からお猪口を二つ用意した。母はといえば早々に湯船に浸かっていた。

「結志、覚えてるか? この土地の言い伝え」

「言い伝え?」

「まだ小学校に上がる前だったかな。怖がって小便漏らしてたっけなー」

「そんな大昔の話は覚えてないよ」

「それもそうか。――あの山の中腹にな、今は誰も住んでいない神社があってな」

 父の昔話が始まった。要約すれば、その神社はこの土地を守護する神様と、その神様をお力添えする精霊様が住んでいて、豊作祈願で訪れる人も少なくなかったそうだ。けれどある時、お供え物を勝手に食べた放浪人がそこで野糞を垂らし神様を怒らせたらしく、精霊様はその放浪人に食あたりを起こす呪(まじな)いを唱えたという。その後、感謝を忘れた人には腹を下すという言い伝えが今でも残っている。この言い伝えがあるからなのか、この町で感謝をしない人は一人もいなかったことを覚えている。

「けどな、人間の感謝なんて一喜一憂なもんよ。みーんな都会に行っちまった」

「ダムの話は仕方ないよ。人間一人の力なんて高が知れてる」

「高が知れてるだと! 俺は一人でも戦ってやるさ。この町は野菜が美味い。人様の手で育てた野菜が不味いわけねーんだ、ボケ!」

 いつにも増して酒の回りが早い。それでいてぐいぐいとお猪口を口に運ぶから介抱が大変だ。

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