ウサギさん
黄昏時に影が伸びる。
そんな時間帯に狛彦は一人、再び公園に来ていた。
いつもの公園、いつもの大樹の傍。それでもいつもとは違い、狛彦は倭刀を抜くことなく木の根元にリュックと一緒に放り投げると、小さなスケッチブックと鉛筆を取り出して大樹を背に腰を下ろした。
スケッチブックと鉛筆。双方共に骨董品で、電脳時代では嗜好品以外のなんでもなく、そこそこの値段がしたし、探すのに中々苦労した。
それらを手に夜に溶けだした街を眺めた。
太陽は砕けて街に落ちたのだろう。
明かりを失った空とは対照的に眠る気の無い街はビルと車の明かりで満ちていた。
一層から四層をぶち抜く様にして造られた街の柱にして中心であるセンタータワーは勿論、街に並ぶビルはこれからが本番だと言う様に明かりを灯し、センタータワーに制御された何万と言う自動運転状態のヴィーグルが時速二百キロで走り周り、光の帯を引いていた。
わざわざ太陽を落として造った“夜”でも電脳時代の街は光で溢れている。
狛彦は余りあの光が好きではない。
幼い頃の名残だろう。どうにも人が多くいる場所と言うのは好きに成れないのだ。
だが、それでも――絵の題材としては悪くない。
「――」
何となく見様見真似で鉛筆を握った手を突き出し、片目を瞑ってみる。「……」。これを何の為にやるかが分からなかったので五秒で止めた。
その代わりに狛彦は両目を閉じた。
街は見えなくなった。だが街はまだそこにある。当たり前だ。
始めに風を聞いて、風に触れた。次に風の中の匂いを感じ、呼吸で風の味を感じた。そうしてからゆっくりと目を開く。街が見えた。
狛彦は鉛筆を動かした。描いたのは街――ではなく、風だった。
声境、蝕境、香境、味境、以上四つで感じた風を色境にて見られる形に落とし込む。
風は見えない。だが風は確かにそこにある。
狛彦は暫くそうして風を感じながら風を描いていた。
世界を、ただ、あるがままに――。
そうしている内に、狛彦はふと視線を感じた。
敵意は無い。好奇のモノでもない。どちらかと言うと友好的なモノだが……鈴音のモノでもない。誰だ?「……」。そう思った所で狛彦は自分が相手の意を見ているのだと気が付いた。
――法境、即ち一刀如意。
そこに触れたのだと自覚した。自覚して尚、そこから自分が零れ墜ちることなく、その領域に立って居られることに気が付いた。
「……」
ゆっくり、立ち上がり倭刀を握る。調息。錬氣呼法。勁穴にて練られた氣が氣血に溶け勁脈を奔り五体を満たす。――倭刀は抜かない。
ただ、ただ、呼吸を意識する。
氣の流れを意識する。
何、難しいことは無い。何と言っても最近は横を見れば特上の見本があるんだから。
氣の量は誇るべきことではない。氣の流れこそが肝要だ。
即ち火岩風水。
火の様に苛烈に、岩の様に確と、水の様に流麗に、風の様に軽やかに――。
意識をする/意識をしない
不意に、狛彦が一歩を踏んだ。落ちる葉を踏んで、一歩。狛彦の身体が空へと昇る。二歩。また葉を踏み、狛彦の身体が空へと昇る。「……」。為そうとしたことが為せた。その興奮に浮かされる様にして三歩目を踏んで――
「……ま、こんなもんか」
混じる雑念の重さに足が沈み、地に落ちた。
先に進む時が劇的である必要はない。気が付いたら勁穴が開いて居た様に、絵を描く為に風を、世界を見て居たら一刀如意に入っていた。どうやらそう言うものらしい。
まぁ、そうは言っても未熟未熟の未熟者。一刀如意の
何、どうせ自分は剣と共に歩くしかないのだ。
それならば歩く道は長い方が楽しめる。
「ンで、お前は何の用だ、えーと……ウサギだっけ?」
出てこないなら石ぶつける、と狛彦が虚空に話しかけると――
『そうだ。ウサギさんはウサギさんだ』
景色を溶かしてソレが現れた。
四足と人間の中間の骨格を持った獣人型。ぴくぴくと長い耳を動かす白いボディと赤い目。八頭蛇刃に斬り落とされた両腕はしっかり治した様だ。
ウサギ。あの時、少女から助ける様に頼まれた
確かミリがダイバーダイナーに少女と一緒に匿っていたはずだが……
「どうやって上がって来た?」
『ウサギさんは姿を消せる。下層と上層の行き来くらい、簡単だ』
「そうかい。そいつはすげぇ」
『……そうだ。凄いんだ。ちゃんと今もウサギさんは姿を消していたはずだ。どうして狛彦はウサギさんがいると分かった?』
「姿は消えてもお前は“在る”からだよ」
色境にて捕らえること能わずともそこに“在る”以上、風は流れを変え、音も変わるし、触れれば匂いだって孕む。そもそも“無”の領域にでも至って居なければ意識が生まれる。
意の法境にて世界を見る今の狛彦にとっては姿が見えない程度では何も変わらない。
『……さっき、空を歩いていた』
「葉っぱ踏んで歩いただけだ」
『嘘だ。人はそんなことは出来ない』
「氣は心に宿り、心は無量無辺。即ち業を極めた
師匠の受け売りだけどな、と狛彦。
『……やはり狛彦は強いのだな』
「そう成りたいとは思ってるぜ?」
――で? 何の用だ?
『ウサギさんは弱い。ウサギさんは弱いから、狛彦に助けて欲しいのだ』
電脳時代、学科の授業と言うのは酷く空席が目立つ。
当然だろう。教師ですら自宅のベッドに寝ころんだまま電脳空間で授業をするのが“普通”なのだから。普通科などには入学式から卒業式まで一度も登校することなく全ての単位を取得して去っていく筋金入りもいるくらいだ。
その点、練武と言う身体を必要とする授業がある練武科は席が埋まっている方だった。
勿論、電脳時代に生きる者らしく自宅で授業を受ける者の方が多い。それでも三限でぽつぽつと、四限になるとそれなりに席が埋まってくる。
だが一限から登校しているのとなると狛彦と鈴音二人だけと言うのも珍しくなかった。
「お。烏丸、うぃー」
だから扉を開けた瞬間、クラスメイトに挨拶されると言うのはこの学校に入ってからは初めての経験だった。
「ゲンさん、うぃー……何? どしたん? 何で一限からいるん? 単位ヤバいの?」
余談だが。
クラスメイトとの国交が断絶しているお嬢様と違い、狛彦はそれなり程度にクラスメイトとの付き合いがある。時々お嬢様を放置してラーメンを食べに行ったりしている。……そしてその後、蹴りを喰らったりしてる。
鈴音の武に対する嫌悪。武を修めようとする者に対する嫌悪。
あの話を聞けばそのスタンスも分からなくないが……中々に根が深く、お嬢様に狛彦以外のお友達が出来る日は遠そうだった。
「お前じゃねぇんだからソレはねーよ。まぁ、あれだ、芝浜の奴が、ちょっとな……」
クラスの頼れる兄貴分、スキンヘッドにタトゥーと言うゲンさんが指差す先には話題の芝浜氏が机に突っ伏し、その周りを囲む何人かが励ましていた。
「『告白、玉砕、元気出せー』の青春友情三点セット?」
「いや、それは二週間前にやった」
因みにその時の相手はお姫様な、とゲンさん。「……」。狛彦がその話題に上がった人物に視線を向けてみれば、何時もの定位置、窓際一番後ろでお嬢様は何やら端末をたぷたぷしていらっしゃった。ぽこん。音。見ればスタンプ。『早くキティ』。仔猫をこれ程ウザく描けるイラストレーターはどっか病んでると思う。
「お呼びか?」
「お呼びですな」
行かないけど、と端末をポケットに戻しながら狛彦。
「芝浜氏、どうかしたの? 飼ってるペット死んだとか? 場合によっちゃ授業中に飲むつもりだった豆乳提供するけど?」
「あー……、なんつーか、アイツ、
「
「いんや、
ちょい、こっちこい、と声を潜めて手招きされたので寄って耳を貸す。
「対戦相手、殺しちまったんだよ」
「……」
え? それだけ? と言うのが狛彦の正直な感想だったが――
「それはなんつーか……ご愁傷様? ドンマイ?」
その辺の感覚がズレている感覚はあるので、ピノッキオを演じる。
だが、悲しいかな大根役者。「ま、お前はそうだろうな……」とあっさりバレてしまった。そもそもゲンも
「……いや、
これがその証拠です、と豆乳をリュックから取り出しながら狛彦。
「見て。狛彦くんは大好きなバナナ味を提供します」
「おーサンキューな、渡しとくわ」
「他にも何か慰めになるなら言ってくれ。お嬢様もパンチラ写真とかは無理だけど、髪の毛一本位なら提供してくれるだろうし」
「……
「……でも流石にパンチラ写真は無理だぜ?」
「頼む気は無いから安心しろ」
そうですか、では! と狛彦が手をあげ、では! とゲンさんも手を上げた。
そうして別れて狛彦は教室の後ろに向かう。
「豆乳渡してましたけど、何かあったんですか?」
「ん? あぁ、芝浜氏が始めて人を殺しちゃったらしいから、ちょっとな」
「そうですか。………………………それがどうかしたんですか?」
「……一応、人間は同種を殺すのに抵抗を持つ人の方が多いんですよ、お嬢様」
「覚えておきましょう」
言って、お嬢様が手を出す。「……」。良く分からなかったので、狛彦は握手しておいた。
「違います」
違うらしい。
「私もこの前の仕事が初めての人殺しです」
三人殺しました。
だから豆乳を下さいとお嬢様。「……」。心がスラム。何と言うか、お嬢様は武を嫌っているが、武はお嬢様のことが大好きな気がする。戦闘者としてこの精神性は立派な武器だ。
「紅茶と黒ゴマとプレーン……どれが良い?」
「紅茶で」
ではどうぞ、と進呈する。「……」。午前中の四コマの授業で飲むはずだった四本の豆乳の内、早くも二本が無くなってしまった。後で補充しよう。
「そう言えば今日学校終わった後、暇?」
「デートのお誘いですか、ダーリン?」
「そんな訳ないだろ、ハニー。……ちょっとダイバーダイナーに顔出したいんだよ」
「そうですか。構いませんよ」
言って、ぷす、とストローを刺して一口飲んで――
「残りはあげます、とりまる」
「……お嬢様のお口には合いませんでしたか?」
「まぁ、そんな所です」
そう言って紅茶テイストの豆乳が返って来た。「……」。お嬢様にしてはお行儀が悪くストローに歯型が付いていた。
「……こう言うのが好きなんですか?」
「豆乳に貴賎はありません。全部美味しいのです」
じうー、と呑みながら。でもチャイ味はあんまり好きじゃない。アレ、匂いが強いから嫌い。
「そうですか。……美味しいですか?」
「? ちゃんと美味しいですよ」
「それなら良かったです」
あとがき
練武科の生徒に対してお嬢様国は鎖国状態。
相性が致命的な迄に悪いのです。
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