負け虎

 話は少しだけ遡る。


 死にかけではあるものの、それでも達人アデプトを名乗る為に鍛え抜いた身体は咄嗟の投擲物に対し、適切な行動を取った。結果として今、男――石徹白いとしろ虎一こいちの手の中にはネズミの死骸があった。


 ――さて、投げつけられたこのネズミは何なのだろうか?


 そう思いながらネズミを投げつけて来た自分と同じような髪の色をした子供に目を向けてみれば、彼は何やら少し満足気で……得意気に見えた。

 何と言うか――


(――良いことをした、みたいな顔だな)


 何となく、師の道場で飼われていた犬を思い出した。投げられたボールを持ってくる時の顔だ。そして、それに思い至れば、手の中のネズミの意味も少しだけ理解出来た。

 弱っていた虎一への贈り物。そう言うことなのだろう。


「――は、」


 柔らかく、口元が歪む。

 自分の武を諦めた。自分の生を諦めた。それでも何故か子供には生きろと言われる。

 それが何だか可笑しかった。

 人生の岐路には仙人は現れることがあると言う。

 目の前の子供は、そんな神聖さを見出すには少しばかり薄汚れてはいるものの、案外そう言うモノなのかもしれない。そんな思考に至り……笑みが更に深くなる。


 ――なんだ。俺は生きたいのか。


 浮浪児を無理矢理神格化している己の心に向き合えば、すとん、とそこに思い至った。

 納めたのは、“武”だ何だと言葉で飾っても、所詮は人斬り包丁を上手く扱う為の技術だ。

 切って来た。斬って来た。殺してきた。命を奪って来た。

 請負人ランナーと言う裏稼業に手を染めて、鍛えた武で行ったのはそう言った外道仕事だ。

 だからどんな風に死んでも受け入れる気でいた。

 亜人デミへの変異により、鍛え上げた武が削がれる様にして弱くなり、そうして傷を負って死ぬ。

 それは己の死に様としては実に不様で、情けなく――似合いだと受け入れていた。受け入れたと思っていた。

 だが実際、己と向き合ってみればこれだ。

 臆病な自分はしっかりと死ぬことを恐れている。

 氣は心に宿る。

 それならば生きたいと思う心を無理矢理捻じ曲げていた己が弱くなるのも必然だ。

 ソレに思い至った虎一はネズミの皮を剥くとその肉に歯を立てた。

 腹に肉と血が入り、呼吸が達人アデプト独自のモノへと変わる。体内で氣を練り上げ、それを血に乗せる。死を選んでいると思い込んでいた心と、死に向かっていた身体を生へと切り替える。


「―――――――――――――――――――、――――――――――――――――――」


 深く、長い呼吸が路地裏に長く、長く、響いていった。







 そんな訳で石徹白虎一は小汚い浮浪児に命を救われた。

 己が“生きたがり”だと理解すると以前は全く理解できなかった師の言葉の意味が途端に分かる様になるのだから不思議なものだ。

 徳を説かれた。義を説かれた。人としての道を説かれた。

 殺す為の得物を振るう業を教えておいて何を、と当時は鼻で笑ったものだが、アレは殺す為の業を、剣を教えるからこそ説かれたモノだったのだと得心が言った。

 殺しの業を納めるが故、道を外れて修羅へと落ちない様にと、あれ程までに丁寧に説かれたのだ。

 ソレが理解できなかった虎一は、多くを斬った。

 今更そんな自分の剣に侠があるとは思わない。

 それでも歩むべきだった『道』に気付いてしまえばこれまでの己の傲慢さが酷く醜く、恥ずかしいものであったのだと思い知らされた。

 そうなってしまえば虎一にこれまでの様な振る舞いは無理だった。

 差し当たって虎一はそんな自分の命を救ってくれた子供を探し始めた。恩には恩を返す。それが出来ないと言うのは今の虎一にとっては酷く恥ずかしことだったからだ。

 さて。

 そうして探し始めて数日後。虎一は命の恩人と出会うことが出来た。







 年齢と体躯に合わない身体能力。それに頼んでコマヒコが手の中の刀を振ってみれば――

 じゃれつく仔犬をあやす様に、ころん、と引っ繰り返された。


「――」


 何をされたのかが分からない。分からないが、分からないから絶対に敵わないと言うことだけが分かった。頼みにしていた折れた刀は何時の間にか男の手の中にあり、全力で突っ込んだはずの自分は、痛みも無く路地裏に寝かされている。

 どうすれば勝てるのか、どうすれば逃げられるのか、そもそもどうやって転がされたかすら分からない。彼我の力の差にコマヒコの頭は一つの結論を出した。

 これは、もう、どうしようもない。どうしたって敵わない。

 ある日、とびっきりの暴力に出会って殺される。

 ストリートチルドレンの最後なんてこんなものだ。

 コマヒコは何となく自分の終わりを悟った。

 それでも簡単に死にたくはない。


「――」


 むくと起き上がったコマヒコはポケットから宝物――さっき拾った肉のこびり付いた二片の骨を取り出し、それを男に差し出した。


「?」


 そんなコマヒコに男は不思議そうに首を傾げる。

 そこで初めて正面から男を見たコマヒコは、その黒と灰色の混じった髪を見て、男が誰かを思い出した。

 ネズミをあげた男だ。

 やっぱりあのネズミは変な物を食べていたのだ。

 それでこの男は怒っているのだ。

 そう判断した。


「あげる」


 何とかこれで許して貰えないだろうか? しゃぶると味がするので、とても美味しいのだ。滅多に手に入らない物なのだ。そう思いながら、手の中の骨を掲げる。


「あげる。ます、ので。ゆるして」


 途切れ途切れの、どこか発音がおかしな言葉を必死で紡ぐコマヒコ。


「――そうか」


 それを見て、男はしゃがみ込んだ。びく、と反射的にコマヒコの身体が跳ねる。だが、直ぐにその琥珀色に疑問が浮かぶ。しゃがんだ男は膝をつき、手の平を上に向け、無抵抗であることを示す様な態度を取っていたからだ。


 ――なんだろう?


 怒っていないのかもしれない。そんなことを思い、おずおずと一歩だけ近づいてみた。


「すまない。つい、追いかけてしまったが、本当に怖がらせる気は無かったんだ」

「……」

「俺はお前にお礼が言いたかった」

「……おれい」

「そうだ。お礼だ」

「これ。いらない?」

「――あぁ、要らないよ」


 男がそう言ってくれたので、コマヒコは、ほっとして一片の骨をポケットに入れて、一つを口に咥えた。とてもいいものなので、心変わりされるかもしれないと思ったのだ。


「……腹が減ってるのか?」


 聞かれて、少し考えた後、首を横にふりふりとコマヒコ。

 お腹は減っていない。何故ならついさっきゴミを漁ったばかりだからだ。


「そうか。お前、名前は? あるのか?」

「こまひこ」

「コマヒコ。俺は虎一だ」


 色々と訊かれ、色々と答えながら視線を合わせる様にしゃがんでいた男を見てコマヒコは思っていた。『こいつはなんなのだろう?』、と。

 殺す気なのかと思えばそうではない。奪いに来たかと思えば、やっぱりそうではない。その癖、何故か自分なんかに色々と尋ねてくる。


「そうだな。あとは……お父さんとかお母さんは居るのか?」


 だが、男のこの言葉で何がしたいのかを理解した。

 前にも同じことはあった。

 その時は上手く逃げられたが、今回はそれが出来ない。それだけだ。

 都市下層でストリートチルドレンのコマヒコがチームに所属することなく生きて行ける理由。子供には不釣り合いな身体能力。それに目を付けたのだろう。

 実験動物。

 そう言うことだろう。

 なんだ。とコマヒコは納得した。

 それならこれも下層のストリートチルドレンが居なくなる理由としては良くあることだ。つまり、ストリートチルドレンの終わりとしては何もおかしなことでは無かった。







 風呂に入れられた時が警戒のピークだった。

 その後にしゃぶっていた骨が、骨に成る前のモノを貰った辺りで警戒が溶け始めた。フライドチキンと言うらしい。

 そして何回かご飯を食べても、一向に何もされないので、どうやら自分は実験動物として連れてこられた訳では無い様だ、とコマヒコは悟った。

 第四層の地下アパート。その虎一の住処にコマヒコが連れ込まれて実に一週間程が経ってからの結論である。

 そもそも連れて来られた時に言われたのは「ここで寝ても良い」「食事は俺が居れば何時でも出してやる」。そんな言葉だった。

 信用が出来ずに一度はコンテナ、元の寝床に戻ってみたが、暖かい寝床と美味い食事がどうにも忘れらず戻ってみれば、出会ったのは、あんな言葉とは裏腹に、少し慌てた様子で自分を探す虎一の姿だった。


 ――こいちはいいやつなのかもしれない。


 ぼんやりとそんなことを思ってしまえば、下層で生きる為に無くすしか無かった子供の無邪気さも芽生えてしまい、コマヒコは虎一に懐き出していた。

 それでもコマヒコはストリートチルドレンだ。

 そんな上手い話が無いことは分かって居る。人は人に利を求める。ただ、ただ、優しい人など存在しない。

 人間は高尚な生き物ではなく、獣の一種でしかない。そのことをコマヒコは良く知っていたのだ。

 だから聞いてみた。何で? と。何で虎一は自分に良くしてくれるのか、と。

 ……まぁ、狙いの半分以上は答えが欲しかったからと言うよりは最近やらされるようになった字の書き取りに飽きて来たからだったのだが……。


「……命を、救われたからだ」

「いのち」


 電脳化されていないコマヒコの学習用具は昔懐かしの紙と鉛筆だ。

 ぐりっ、と鉛筆を動かしてコマヒコが丸っこい『いのち』を書く。『ち』が反対を向いていたので、その横に正しい『ち』を書きながら虎一が続ける。


「そう命だ。お前は俺の生命としての命と、剣士としての命を救ってくれた」

「――」


 訊いておいて、無言。

 何だかんだと言って真面目な所があるコマヒコは、新しく渡された手本に集中して再び、ぐりっ、と鉛筆を動かし、同じように丸っこい、それでも今回は正しい『いのち』を書き上げた。


「……難しかったか?」


 虎一がそう問いかけてみれば、


「『ぬ』と『め』は、いや」


 顔を上げないまま、そんな返事が返って来た。


「……」


 そうじゃないんだけどな、と苦笑い。

 どうやら色んな意味でまだコマヒコには難しかったらしい。まぁ、それでも良い。何時の日か、どこかで『いのち』と言う言葉を書くか、見るかした時にでも思い出してくれれば良い。その時に少しでも分かってくれれば良い。


「恩には、恩。命を救われた俺はお前に命を返すんだ」


 呟いた言葉に返事は無い。

 別に構わない。聞いて貰わずとも、言葉に出したこれは小さな宣言だ。

 虎一はコマヒコに衣食住を与え、教育を施す。ついでに表層で生きていく為の戸籍を調達屋ペリカンから買い、一人の人間として、一つの命として生きて行けるようする。

 それが虎一がコマヒコに出来るせめてもの恩返しだった。

 過剰。そう取る者も世の中には居るだろう。そもそもコマヒコは虎一の命を救おうと思っていたわけではない。そんなことは虎一も分かって居る。

 だが、自分の命の値段を決めるのは自分だ。虎一の見積もりでは、虎一の生命としての命は安い。一流、凄腕。そんな風に煽てられてても、所詮は請負人ランナー違法業務アウタービズを糧とするロクデナシだ。

 だが、剣士としての命は――。

 血を吐いて磨き上げた己の武の値段は――。

 それに値段を付けたくない程度には虎一にとっては高価なものだったのだ。

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