トロール

 衣食足りて礼節を知るとはよく言ったものだ。

 コマヒコが虎一に引き取られて三ヵ月も経てば『ぬ』と『め』の書き分けも出来る様になるし、小汚いストリートチルドレンだったコマヒコも『人』としての振る舞いが出来る様になっていた。

 灰と黒の混じった髪と、琥珀色の瞳と言う目立つ容姿を持ち、ストリートチルドレンでありながら群れることをしなかったコマヒコはそれなり程度に有名だったようで、始めの内は店で買い物をしようと近づくと追い払われたりもしたが、小奇麗な格好をして、毎日違う服を着て居れば『あぁ、運よく拾われたか』程度に認識は改めて貰える。

 時計の読み方を教わり、星も太陽もみたことが無くても、世界には朝と昼と夜が存在することを知ったコマヒコは、定食屋で昼ご飯を食べていた。

 虎一が仕事で居ない時などに、一人で店に入れるくらいには小奇麗になっていた。

 因みにコマヒコが良く裏を利用していた地球に優しい定食屋だ。


「……」


 食事のマナーは未だ身に付いていないようで、気を抜くと直ぐに犬食いになってしまうが、それでも悪戦苦闘して箸を使うコマヒコに何となく、定食屋の店主は別の客が残した揚げ物を与えてみた。


「――」


 のぺ、と転がされた薬品付けの培養肉と油の塊をコマヒコが見て、次に店主の顔を見る。そうしてからもう一度自分の皿を見て、それがくれたものだと判断すると――


「ありがと」


 お礼を言った。

 それに店主は感慨深そうに頷く。

 息子の様に、孫の様に、そんな風に思って居た――訳では、無い。

 それでもコマヒコのゴミの漁り方が丁寧だったこともあり、毛並みが気に入った犬くらいには思っていた。なので、姿を見せなくなり、店の裏に別のストリートチルドレンが顔を出す様になった時、少しだけ。ほんの少しだけ、寂しい思いをしたことを覚えている。

 だが、これだ。

 未だに少しサイズは大き目だが、綺麗な服を着る様になった。食事にマナーと言うものを持ち込めるようになった。そして何よりもお礼が言える様になっていた。

 親でもないが、そんなコマヒコの変化が彼はこれまた少しだけ嬉しかったのだ。

 気に入っていた犬の毛並みが良くなったから。それもあるが、それだけではない。


「良かったな、ボウズ。お前、今も路地裏で暮らしてたら、多分、死んでたぞ」


 心底からそう思って居るのだろう。ぐしぐしと乱暴に頭を撫でながらの言葉。

 そんな言葉の意味が分からず、むぐむぐと肉の塊を咀嚼しながらコマヒコは「?」と首を傾げた。







 偶に、そう言うことがある。

 小さなコマヒコが覚えている限りでも二回くらいあった。

 ストリートチルドレンの縄張りを大きく塗り替える外的要因、即ち“大人”の介入である。

 ある時は表層の慈善団体がやって来て子供を捕まえて綺麗に洗い、そうしてから里親斡旋を行っている別の団体に引き渡した。

 彼等の全くの善意からなるこの行動により、とある企業は貴重な投薬実験用の検体を手に入れることが出来た。小さな身体は薬の変化を見るのに丁度いい。

 一か月後、表層での処分に困ったのだろう。その企業が下層に捨てたゴミの中に、捕まった元同類の姿を見て、ストリートチルドレン達は笑顔の善意がもたらす結果を学習した。

 ある時は上で負けたギャングが逃げて来て再起を図る為に取り込みを始めた。

 結果、ある程度勢力を回復した所で元より下にいた別の組織の利権に手を出し、粛清された。

 無論、丁寧に元からの構成員とそれ以外を分けるはずもなく、皆殺しだ。

 善意でも、悪意でも、そうしてストリートチルドレンの数が変動すれば縄張りが空いたり、チームの力の差が変わることで抗争が発生して縄張りが動く。

 コマヒコだってそうして動いたタイミングで自分の縄張りを確保した。

 そして今。

 またストリートチルドレン界隈に動きがあるらしい。

 既にそこから抜けてしまったコマヒコには余り興味の無いことだが、客足が引いていたこともあり、暇をしていた店主に色々と聞かされてしまった。

 請負人ランナーが一人、表層に居られなくなって降りて来た。――良くある話だ。

 その請負人ランナー亜人デミへと変異をしていた。――良くある話だ。

 その請負人ランナー達人アデプトだった。――これは、少しだけ珍しい。

 鍛錬の果てに成れる『かもしれない』。そう言う人種である達人アデプトは絶対数が少ないのだ。

 兎も角。

 虎一と被る要素が幾つかあるが、決定的に違うのは変異した亜人デミの種類だろう。

 虎一が変異している先はエルフ。理性も、知性も、変わらずに、多少の差別には晒されるかもしれないが、表側で問題無く生きて行ける種。

 対して件の男の変異先は――トロール。

 二メートルを超えて尚、“小柄”と称されてしまう巨躯へと至る特性。

 そう言った具合に、素の身体能力に恵まれているにも関わらず、更に勁脈けいみゃくが太く、頑強になり、またその勁脈に流す氣を練る為の勁穴けいけつの性能も大幅に跳ね上がる種族だ。

 ただし、理性は蒸発し、知性も溶ける。

 直ぐに癇癪を起す子供。そしてその力は銃火器で武装しても止められない。

 そう言う種族だ。

 当然ながら敵性亜人レッド・デミに分類され、発症すれば処分の対象となる特性である。

 だが、“普通”ならば……この電脳時代の“普通”であれば、即ち首の裏への電脳の埋め込みが行われ、勁穴が潰れている“普通”の人であれば左程問題にはならない。氣への適応が進んでも、そもそも氣を使えないのだから。


 ――だが彼は達人アデプトだった。


 元より氣を操る男はこの時代では珍しい生きた勁穴の持ち主であり、それがトロールへの変異により肥大化した。

 更には理性が蒸発し、知性が溶けて尚、骨と肉が覚えているのが“武”だ。

 莫大な氣でもって武を操る獣。

 そうして表層で始末されるはずだった男は殺し屋コヨーテの手から逃れて下層に降りて来た。

 だが男は弱かった。

 鍛えても、鍛えても、どうしようもなかった人間としての、或いは生物としての弱さ。

 汚染に耐え切れず変異した彼。そんな彼は、変異して尚、下層の汚染には耐えることが出来なかったのだ。

 食事をとる。水を飲む。下層の住人なら、或いは環境に馴染む為に変異した身体であれば普通に出来るはずのソレが、変異して尚、彼には出来なかった。

 飢えていた。

 渇いていた。

 負け犬の末路なんてそんなものだ。

 力強い巨躯を持ち、それを自在に操る武を納め、それでも、それ等を生かすだけの身体を持ち得なかった彼はそうして薄暗い路地裏で終わるはずだった。

 だがそれを飼うことにしたチームが現れた。

 溶けた知性は幼児に近いものだった。

 だからソコに漬け込み、或いは同調して、若しくは友達になって――。

 兎に角、そうして一つのチームが強大な戦力を得た結果、今、またストリートチルドレン界隈は動いているのだと言う。








 それを聞いてコマヒコは、ふーん、と思った。

 だってもう既に自分には関係が無い。

 虎一に拾われなければ自分の食い扶持を守るために動いていただろうが、ソレをする必要が無い以上、完全に他人事だ。

 チームに属していたら、或いは友人の一人でもいれば話は変わったかもしれないが、生憎と一人で生きて来たコマヒコには、そう言う種類のイキモノは一人も居なかった。

 だから巻き込まれない様に路地裏には近づかない様にしようと思った。

 それでも少し興味が有ったので、少しの期待で路地裏を覗き込んだ。

 そこが、分かれ道。分岐点。

 目が合った。

 話題のトロールと……ではない。

 そのトロールが担ぐようにして抱きかかえる女の子と、その女の子を助けようとして蹴り飛ばされた男の子とだ。

 二人には見覚えがあった。

 コマヒコの縄張りを荒らしてくれた三人の内の二人だ。

 彼等はトロールが居るのとは別のチームだったらしい。つまりは奪われる側だ。

 蹴り飛ばされた男の子を笑いながら、担がれた女の子を笑いながら、勝ったチームの連中は楽しそうに道を行く。


「……」


 目が合った。

 顎が砕けた男の子と。連れさられる女の子と。口を読んだ。「たすけて」と言う男の子と――何も言わない女の子と。

 認識は無い。いや、ある。アレは敵だ。自分の縄張りを荒らしてくれた敵だ。

 それでも助けを求められた。助ける様に求められた。

 ストリートチルドレンだったころのコマヒコならば無視していた。

 虎一に拾われて直ぐのコマヒコでも無視していた。

 だが――。

 だが、今は――。

 一歩を踏んだ。その一歩を始まりに駆けたコマヒコはトロールのチームの前に立った。


 ――道を塞ぐように。


 突然現れたコマヒコ。その小さな身体に何人かが嘲りの笑いを投げ、何人かがその髪の色に思い当たることがあったのか「……コマヒコだ」と呟いた。

 目が随分と上の方にあるせいか、単純に鈍いのか、トロールは暫くコマヒコに気が付かなかったが周りの様子から何かを察し、視界を下げて自分の行く先を塞ぐように立っているコマヒコに気が付いた。


「なんだ、おめ?」


 たどたどしい。幼児の様な音でトロール。


「はなして、やれよ」


 それに年相応の幼い声音でコマヒコが応じる。

 別に助ける気は無かった。それでも前に立たないといけない気がした。

 いのち。そんな言葉が過ったのだ。

 それが何なのか、本当の意味ではコマヒコは分かって居ない。

 それでもきっと、それは――。

 虎一が大切にしているそれは、きっと――。

 こんな風に雑に散って良いものではないのだろうとコマヒコは思うのだ。

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