第3話 無題(裏)
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さて、哲学をはじめます。
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これは物語としてはかなりイレギュラーな描写の始まりである。
つまるところの時野舞白、この物語の主人公とも呼べる少女とはまるで関係のないところで、始まることもなく、当然終わることもなく、本来ならば誰の目にも耳にも入ることのない物語。
それを果たして物語と表現することは正しいことかどうかは、誰にも分からないことだし、重ねてどうでもいいことなのかもしれない。
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「人間てのは、どこまでいっても救いがない。この場合、救いようがないと言った方が親切なのかな。兎も角、人間が人間をしている以上そこに救いはないし、同様にそこに希望なんてものは微塵もない」
そう話す男は、全身を真っ黒のスーツで纏い、肩よりも少し下まで伸びた髪を鬱陶しそうに輪ゴムで括っている。
表情は誰から見てもわかるほどニヤついており、自身の価値観を人に押し付ける悦びに酔いしれているのが見てとれる。
だが、人は見た目で判断してはいけないと言う通り、彼のことを簡単に評価してはいけない。
「なんだよ、そんな紀元前からわかりきってることをわざわざ説教しにきてくれたのかよ。最近の殺し屋ってのはどうも暇してるみたいだな」
そして、全身を真っ黒のスーツで纏い、肩よりも少し下まで伸びた髪を鬱陶しそうに輪ゴムで括っていて、表情は誰から見てもわかるほどニヤついており、自身の価値観を人に押し付ける悦びに酔いしれている男の正面で悪態をつく少年。彼はこれより数年後、本人の意図を完全に無視される形で、偶然なのか運命なのか、はたまた宿命なのか分からないけれど、時野舞白に出会い、行動を共にし、絆を育み、そして決定的な別れを経験することになるのだが、それはまだ語られることのない物語なのでここでは深くは記載しないことにする。
「少年、善良な殺し屋を捕まえて暇してるなんて酷いことを言うもんじゃないよ。殺し屋が仕事をしていないことは、つまるところ殺人は起きないこととイコールなのだから」
「よく言うよ。あんたが暇してようが暇してなかろうが、人間は人間を殺すし、人間は人間に殺されてる。そんな当たり前を存分に、盛大に、最大に、明確に、確実に含んだまま笑って暮らすことを平和なんて名前をつけて生きていくのが人間である以上、この俺からそれに対して言えることなんて何一つとしてないんだけれど」
「ふむ。少年と知り合って随分と時間を重ねてきていると思うのだが、その辺の話をしたことがなっかたように思うね。いけないいけない、殺し屋といえどコミュニケーションの大切さは弁えているつもりでいたと言うのに、失念していたようだ。と言うことで聞かせてくれるかな。話してくれるかな。教えてくれるかな。少年を少年たらしめている者の正体を」
「随分自分本位なコミュニケーションなんだな。だいたいあんたに話して聞かせることなんて何もないぜ。俺は生まれた時からこの世界にいたし、この世界のことしか知らない。裏とか表とか、闇だとか影だとかこの世界を表現する言葉は嫌と言うほど耳にしてきたが、俺に言わせればそんなことはどうでもいいことだ。そもそも比較するべきもう一つの世界を俺は知らない。子どもが子どもと呼べるうちは、家族に見守られながら学校に通い、義務教育を終えた後も大した目的もなく学生として社会に存在し、大した技能も知識も持たないまま大人と呼ばれるようになり、毎日変わらない時間を懸命に生きて、恋人を作り家族を作り生きていくなんて、そんな世界を俺は知らない」
少年はつまらなさそうに話す。
「ふむふむ、少年は憧れているのかな。少年の言うところの大人とやらに、この善良な殺し屋もカテゴライズされるのだろうが、果たしてどうだろうね。うん、どういうことなんだろうね。この場合、大人である僕の立場から少年に対して説教の一つでも披露しておきたいところだが、少年のために披露できる説教を僕は、この善良な殺し屋は持ち合わせていないんだよ」
そんなもん、殺し屋が持ち合わせてるわけねぇだろと、少年は心の中でツッコむ。
いや、この少年に心なんて呼べるものがあればの話なのだが。
「つまるところ、少年は裏とか表とか、闇だとか影だとかと呼ばれる世界しか知らないが故に、そうやって知らない世界に思いを馳せ、いじけているというわけだね。しかしそうなると、もしかすると、いやこの場合もしかせずとも、その辺りに少年が少年である所以が眠っているのかもしれないね」
「ちっ、勝手に解釈して勝手に納得してんじゃねぇよ。つーかなんでさっきからここにいるんだよ。普段こんなところ近付きもしねぇくせに」
こんなとこ。
二人がそれぞれの感情はどうであれ、会話に花を咲かせているその場所。
少年の言うところの、裏とか表とか、闇だとか影だとかなどと表現される世界においてもさらに廃れたその場所。
まともな住居は一つもなく、まともな住人も同様に一人もいない。
日の当たらない世界において、さらに深い闇の中。
異質の中の異質が最後に流れ着く地。
「こんなところに、あんたの言うところの善良な殺し屋なんかがのこのこ立ち入って生きて帰れると思ってんのかよ。ここにまともなやつなんて一人もいねぇぞ。仲間意識も同族意識も同郷意識も同罪意識も俺たちにはない。あんたもこっち側になんか来たくはないだろう。余計なことは何も考えずにさっさと帰りな。遠からずどうせまた仕事で顔合わせることもあるだろ、話の続きはその時までお預けだ」
「ふふふ。少年はやはりなんだかんだ面倒見がいいようだ。世話を焼くのが好きと見える。僕が今日少年に会いに来たのはね、そんな少年を見たかったからさ。その出自は全くと言っていいほどの謎の中にありながら、自分のことを隠そうとはしない。僕もこっちの世界はそれなりに長いけれど、少年のような少年は少年しか知らない。流塵街なんて、確かに好き好んで顔を出すところではないけれど、僕は少年に会えただけでここまで足を運んだ価値があったと声を大にして言えると言うものだ。たとえここが人を人とも思わない殺人狂ですら、泣き叫びながら逃げ出すような街だとしても、ね」
「ふん、勝手にしろよ。忠告はしたからな。で?結局あんた何しに来たんだよ。まさか本当に俺の顔を見に来ただけなんて言わないよな」
二人にとって今日を生きることは、今日を生き残ることと等しい意味を持つ。
殺し屋と少年。
裏とか表とか、闇だとか影だとか言われる世界においても、かなりレアなコンビである。
そしてそれは、殺し屋が少年と共にいるからではない。
少年が、そこにいること。たったそれだけのことで、この二人の存在が奇妙で奇怪で珍妙で惨烈で非道で激甚で深刻で滅茶苦茶たりえてしまうのだ。
きっとこの先も少年の口から語られることのない事実として、彼自身の正体がある。
性質というか、現象というか、症状というか。
少年と表現されるそれは、決してその記号通りにあどけなさを含んでいるわけではなく、その見た目通りに同情される余地なんてものも当然なく、その面倒見の良さから理解されることも微塵もないのだ。
それほどまでに逸脱している存在。
人類の歴史を振り返ってみても、彼と全く同じ性質、現象、症状をその身に宿していた人間は数える程度しかいない。
だが、それでもこの少年を少年という記号以外で呼称するとき、我々はその本質に触れることなく、そう呼ぶことができるだろう。
理解もなく、解釈もなく、想像もなく、遠慮もなく、配慮もなく、警戒もなく、深慮もなく彼を呼ぶことができるだろう。
それほどまでに、ありふれた記号なのだ。
ありふれているのにも関わらず、正しくその記号を冠することができる存在は皆無だったはずなのだけれど。
絶無だったはずの存在が、紛うことなくここにいるのだ。
世界は少年のような存在を、畏敬と軽蔑と迫害の念を込めて、こう呼んだ。
「殺人鬼」と。
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「ったく、結局なんだったんだ。俺が俺であるところの所以が知りたいとか言ってたくせに、ほとんど説教だけして帰りやがった。まあ、あの殺し屋もこんなところには長居したくないだろうよ」
少年は口数の多い善良な殺し屋との会話を思い出しながら、なんとなくベッドに寝転がる。
ベッドと呼べるほど上等なものではないが、そもそも少年が寝床としているその場所でさえ、家と呼ぶには倒壊が進みすぎているし、家としての機能を何一つとして果たせていないのだが。
それでもそんなこと何一つ気にする様子もなく、少年はくつろぎ始める。
それは少年と殺し屋が会話を切り上げ、別れてから数分後のことである。
そして少年がベッドに横たわった頃と時を同じくして、流塵街の北端に位置する通りでは、一人の男がバラバラに解体されていた。
そのバラバラに解体されたパーツを組み立てることがもしできたのなら、その男は全身を真っ黒のスーツで纏い、肩よりも少し下まで伸びた髪を鬱陶しそうに輪ゴムで括っていたのだろう。そして表情は誰から見てもわかるほど何かに怯えており、自身の価値観で推し量れないほどの恐怖を目の前に、全てを飲み込まれんとする苦悶の顔をしていたはずである。
解体されるだけ解体され尽くしたそれの横に人影が一つ。
「■■■■、ーー■■■。■■?」
その言葉を聞き入れる者も、理解しようとする者も、ましてや返事をする者もここにはいない。
流塵街。
人ならざる者の棲家。
行き止まりの遥か先まで、行き過ぎた者どもが、異質の中の異質が最後に流れ着く街。
そんな、漫画の世界のような地獄はこの世界に確かに存在する。
「ん?あーやっぱり殺されちゃったか。だからさっさと帰れって言ったのに。つか最初から来んなよな」
少年は突然降ってきた雨に文句を言うかの如く、何かを呟いた。
その言葉もまた、誰にも届くことはなかった。
届けるべき相手はもうこの世にさえいなかった。
そもそも少年のいる場所から、殺し屋が殺された場所まで距離にして四キロメートル。
少年がスマートフォンの類の電子機器を所有しているわけもないので、本来それを知覚できるはずも道理もないのだが、そこは流石ということなのだろう。
「だいたい、たかだか殺し屋が簡単に踏み込んでいい場所じゃねぇのに。でもまああんなお説教好きの胡散臭い自称善良な殺し屋でも、殺されたら後味悪いもんだな。殺し屋、ねぇ。殺し屋は仕事の上で人を殺す。依頼があって対象がいて、さらに報酬があって初めて成立する殺人。そんな面倒くせぇ殺しなんかやってるうちはこの街には来るべきじゃなかったよ。どうせ殺されちまうなら、教えてやってもよかったかもな。冥土の土産なんてよくできた言葉だよ、本当に」
笑えもしないが、と少年は面倒くさそうに立ち上がる。
右手には、少年の名前が刻印されたバタフライナイフ。
左手には、同様に少年の名前が刻印されたコンバットナイフ。
「はあ。面倒くさいことこの上ないが、仕方ねぇ。殺人鬼の殺しは理由をこれっぽっちも必要としないが、前提としての殺しであって、それ以上もそれ以下も、何もかも介入する余地はないんだが。はいはい、あんたの言う通りだよ。どうせ俺はお人好しなんだろうよ。面倒見が良くて世話好きで、半端な殺人鬼なんだろうよ。くだらねぇ。自分が嫌になるよ。さて、俺にとって大切でもなければ、今後の俺の物語において差して重要でもない友達を殺してくれた奴はどこのどいつかねぇ」
少年は気だるそうに、歩き出す。
少年は面倒くさそうに、歩き出す。
少年は理由もなく、歩き出す。
少年は楽しそうに、歩き出す。
少年は嬉しそうに、歩き出す。
そして少年が両手にナイフを携えて、着ている服に少なくない返り血をこびりつけて帰宅したのはそれからおよそ二時間後のことだった。
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