解答編
「さてみなさん!」
三田村秀一郎は樋口家の食堂に集めた関係者を、力強く見回した。
樋口杏、樋口絢、伊木澄江、大岡冴、飛勇、ついでに蕪山孝美、残り少なくなった生存者だ。
「ここに集まって貰ったのは他でもないのだ、僕が何もかも解決するのだ」
しかし皆の反応は、何故か悪かった。
「……何言ってんの?」
杏がぽつり、と吐息を落とす。
「みんな死んじゃったよ? 探偵君、……今更何言ってんの?」
「そうである! だから僕がいるのだ! 何があっても人殺しは卑劣な行為! そうしてしまっただけで人生終わりなのだ! だから僕はその卑劣な者をここで特定し、事件を終わらせるのだ!」
「だから! それでどうなるのよ!」
杏の鋭すぎる視線が秀一郎を突いた。だが、すぐに目には涙が溜まって行く。
「ママ……アニキ……どうして?」
冴は無言で刈り上げた頭を抑えていたが、杏の様子に言葉を継ぐ。
「あのなあ、その……探偵? どうしてそれって今なんだ? 亜沙子さん達が……亡くなってまだちょっとしか経っていないぜ、みんなを休ませたりしたほうが良いんじゃないか? 刺激強すぎるだろ……てかな、どうして今さらなんだ?」
「それは」
秀一郎は胸を張る。
「今まで分からなかったからなのだ!」
「はあ」と誰かが納得したのか、疲れただけなのか分からない返事をする。
「だがもう分かった! 僕に分からないことはないのだ! 今しなければならないのは、ここで時を置けば、犯人が証拠を隠滅してしまう可能性があるのだ」
「それって」冴は皆を見回す。
「この中に犯人、いるのか?」
「当然である!」
「バカバカしい……」
冴の態度に秀一郎の奥歯が鳴る。こんな大事な時に異論を挟むなど、愚の骨頂だ。
「うおほん、ぐえ」
秀一郎の傍らで厳しい顔をしている倉木警部が咳払いをして、フローリングの床に痰を吐いた。
「うあ!」
と誰もが引いたが、彼は構わず緩んだ口辺を動かす。
「これは、このわし警視庁警部の倉木正義の要請でもあるんだぞう、だまって話を聞くんだ」
樋口家の人々は不承不承顔を見回す。
不満そうだが反論はない。皆の目には白っぽいガラスの反射光のような光がある。探偵の語る『真相』を待っているらしい。
食堂に彼等の他に、六人もの警官がいれば自然と素直になると言うものだ。
「ではみなさん、まず……小腹が空いたのであろ? ちょっとした料理があるのだ」
「料理」と聞いて杏と絢意外がざわめいた。蕪山があたふたする。
「安心するのだ! これは私の優秀な助手が作った物である」
「安心……何で?」
泣き顔を上げた杏の質問には答えない。
姫希がお盆を抱えてテーブルに向かう。慣れた手つきで彼等一人一人の前に皿の乗った卵焼きを置いていく。
「これって?」
澄江もヘンなしゃべり方ではない。
「美味しい卵焼きなのだ、僕の助手は実は料理が上手いのだ! 皆さんにそれを分かって頂きたいのである」
「ま、待った!」
飛勇がぶんぶん手を振った。
「他の人たち、毒殺なんでしょ? どうして君が僕たちを殺さない保証がある? マヌケな警官達は騙されているだけかも知れないだろうに」
「マヌケ……」
倉木警部が怒りを露わにする。当然だ、日頃市民のために寝る間も惜しんで働いている彼等を愚弄するなど、誰にも許されることではない。
ただ飛勇の怯懦も最もなので、秀一郎は軽い足取りで彼の椅子の傍らまで進み、箸で卵焼きの欠片を取って食べた。
視線が秀一郎に集中する中、彼は「ふむ」と飛勇の前に箸を置く。
「ご覧の通り、安全なのだ、皆さんの前の物もご希望があれば毒味するのだ」
「そ、それはいいけど、せめて箸は換えろよ」
飛勇の戯れ言は無視だ。
「それでは、皆さんどうぞ」
樋口家の人々は、しばし戸惑ったが、倉木警部が睨みをきかせているので、それぞれの間で卵焼きを食べる。
「……どうであるか? 杏さん」
「ええ、美味しいわね! こんな時じゃなければよかったのにね!」
杏はきつい口調で感想を述べる。
「では飛勇くん、どうなのだ?」
「はあ、箸がキモい、卵は食えるね」
「蕪山さんは?」
「何でも美味い気がする、その点で言えば感謝だよ」
「絢さん、どうである?」
「少ない、けど、おいしい」
「澄江さん」
「は、はい、そうね、卵はもう少し半熟でも良かったわね、あと、隠し味でめんつゆとか」
「ともかく! 美味しかったのであるな? それでは次である」
「……オレの感想はいらないのか?」
聞こえない。
「さて、下らない茶番はやめて本題に入るのだ」
「……あのさ、下らない茶番はさせたのは」
とにかく冴はシカトだ。
「まず!」
秀一郎は声を張った。
「怪人についてなのだ、怪人は何故、怪人なのであるか?」
「は?」
目に見えてテーブルにいる者達は困惑する。
「怪人が怪人である由縁なのだ、怪人が怪人であるのは、つまり怪人を怪人と認めねばならないからなのだ、だから怪人は怪人なのである」
「はい?、何て?」
誰かが聞き返すが、秀一郎はもういちいち個人に答えるつもりはない。
「つまり、怪人を怪人と定義づけるのは、誰かが怪人を怪人だ、と呼ばなければならないのだ……このことは実は今回の事件について、重要な部分である」
「…………」
「考えてみるのだ、今はいつであるか? 外にいるヘンな人物は『怪人』ではなく『変質者』であるな? でも我々は普通に『怪人』と言っていたのだ、何故であるか?」
「それは……」
「考えるのに時間がかかりすぎなのだ澄江さん、それは最初にかの者を『怪人』と呼んだ者がいるからである」
しばらくして心づいた皆が、一人の人物に振り返る。
樋口絢は氷像のように無表情だ。
「ちょっと待ってよ!」
なんらかの雰囲気を察したらしい杏が、泣くのを忘れて椅子から立ち上がる。
「もう……本当に……本当に、何言ってんのよ! このへぼ探偵! ばか! 絢ちゃんは事件に無関係でしょ? 最初に狙われたのは絢ちゃんじゃない!」
火が点いたような杏に、秀一郎は冷静だ。
「そうなのだ、最初にお弁当に毒を盛られたのは、絢さんである」
「なら……」
「では、どうやって絢さんを狙ったんであるか? 杏さん」
「それは……」
「そう、あのお弁当はあなたも食べていたのだ、なのに絢さんが被害を受けた、命を狙っているのなら、どうせなら二人いっぺんの方が容易い、なのに一人、否、一人分もない毒を用いたのだ」
「じ、じゃあ」
「そこから導き出される答えは一つ、あの時は誰も『命』を狙われていなかった、お弁当の毒は、毒の仕込まれた食材は食される直前に入れられた、つまりあれは絢さんの自作自演なのだ!」
「え」と杏が顧みる先に、ぼんやりしている絢がいる。
「でも……どうして?」
「うむ、大事な部分であるな澄江さん、だがその前に一つ確かめることがあるのだ、くだんの怪人と呼ばれた変質者、あれは……蕪山君だな?」
「ええ!」という動揺の中、長身の平凡『探偵』は真剣な面持ちで頷いた。
「ああ、その通りだ……さすがだね、三田村君」
「ぐふふふ、僕は最初から知っていたのだ、警部にも言いましたね?」
隣で大口を開けている倉木警部は、ばちんと手を打った。
「そ、そう言えば言っておった……さすがだ、さすがだ秀一郎くうん」
「なぜ、蕪山さ、さん?」
杏が力無く腰掛けると、彼は思案する顔つきになる。
「うん、実は君たちを驚かすつもりはなかったんだよ、ていうか依頼だったんだ、樋口賢吾さんからの」
「パパからの?」
「そうだよ杏ちゃん、賢吾さんはどうもこの事件に関して何らかの予感があったようなんだ、だから……数日前から屋敷の前の見回り、皆さんの身辺警護を頼まれていたんだよ、ただ無用に怖がらせても困る、ということで顔を隠せ、と言われたんだ、賢吾さんは時々とんでもないことを言う人だったんだ、人を殺せるか? とかね、だから最初は冗談かと思って適当だったんだけど、……絢さんの事があって……」
「僕らが初めてこの屋敷に来たとき、あの時も要請されたのだな」
「ああ、強く、だからすぐに僕は周りを見回った……そしたら、見つかっちゃったんだな、実はあの時はもう捕まってもいいかな? とも思ったんだけど、どうしてか逃げ切れちゃったんだよね」
「僕が泳がせた方が良い、と判断したのだ!」
「そうかあ、さすがだね、しかしどうした僕だと分かったんだい?」
「樋口賢吾氏の葬式の日である、あの時君は怪人の風体を僕より詳しく言い当てた、僕は怪人の着ていたコートがベージュだとか、マスクだとかは知らなかった、追いかけたとき暗かったからである、ちなみに絢さんもちらりと見ただけで、知らなかったようだ、なのに……である、そして背丈、怪人は身長が高かった、電信柱の看板から割り出したのだが、それらを総合すると、君しかいなかったのだ」
「なるほど……しかし、それも現実に樋口賢吾さんが亡くなって用済みだよ、なんてったって警官が警備していたんだから」
そう『怪人』は本当に殺人が起きてから一度も現れなかった、もはや『匿名』のガードマンが必要なくなったからだ。
「さて、怪人が蕪山君と分かった今、彼にはこの通り樋口家の皆さんに害意はなかったのだが、どうして外にうろつく『変質者』に『怪人』という得体の知れない者の危殆な雰囲気を被せてしまったのか、皆、うろつく怪しい者が犯人、と思いこんでいた、それは」
秀一郎は『探偵』らしく格好つけて絢を指した。彼女は表情を消している。
「巧妙に『怪人』の危険性を刷り込んだ人間がいたのだ」
「そんなの……うそよ」
杏は激しく否定した。
「ふむ、しかしそう考えると、もう一つの謎が消えるのだ、つまり密室の謎」
食堂は静まりかえった。その中でタップリ時間をかけて秀一郎は説明を再開させる。
「密室が密室である条件とはなんであるか? 密室はなぜ密室なのだ?」
「またかよ! その禅問答はなんだよ?」
荒立つ冴は放っておく。
「それは『密室』と誰かが確認することである、つまり樋口賢吾氏の部屋は絢さんが密室を演じたために、そうなったのだ」
「でも、あの時……」
「そうである杏さん、あの時の事を良く思い出すのだ、扉が開かない、とは誰が言ったのだ? 誰が試したのだ?」
「でもー、確かに開かなかったと思います」
澄江は思案顔だ。
「開かなかったのではない、開けなかったのだ、ドアノブを持っていたのは絢さんだ、しかもその後それは外れて本当に扉は開かなくなった……大抵の扉はノブがなくなるとあかなくなるのだ、しかし、ここで奇妙な物が登場する、そうハンマーだ」
皆が必死に考えている。その場面を記憶層から掘り起こしている。
「僕はあの前に賢吾さんの部屋に訪れたが、その時、廊下には鉄の大きなハンマーなどなかった、家を破壊するためのそれがあったのなら、僕は忘れないのだ、だがあった、なぜなのだ?」
「そこに居なかったから分かんないけど、どうしてだい?」
「蕪山君、それはあの密室は外から壊してようやく密室として完成する物なのだ、つまりハンマーで壊さないと、ただノブがとれただけで鍵がかかっていない、と後々分かってしまう、絢さんの名演技がフイになるのだ、中に入って確認したのであるが、賢吾さんの部屋のスライド鍵は外されていた、外れていた、ではないのは、ネジの穴が綺麗すぎ、ネジもなかったのだ」
「でも、だって、パパは」
「そう、そこである、何故絢さんは賢吾氏にあんな死に方をさせたか、実際、惨い姿であった、そこに登場するのが『怪人』である」
秀一郎はここまで話すと一息吐いて、ちらちらと絢に視線を走らす樋口家の人々を見回した。
「怪人がやったのなら……そういう、いわば皆を納得させる因子、その為に彼女は怪人の存在を最初に指摘し、賢吾さんを傷つけた、部屋を密室にしたのは、内部犯行を誤魔化すためである、だから最初に自らに毒を盛った、外に樋口家の者を狙う何者かが居る、声明文やらの存在も、目を外に向ける為の工作なのだ」
秀一郎はここで絢に感嘆する
「大した物である……前々から構想を練っていたとは思うが、蕪山君の外部の動きに気付き、彼が近くにいたあの日、僕たちが広間でマカロンをごちそうになっていた時、絢さんは賢吾さんを殺害し、部屋に細工して自分の部屋に戻って悲鳴を上げたのだ、皆が驚いて飛んできて、外の蕪山君も様子を見に来る、そこで僕が『怪人』と遭遇、当然いない賢吾さんを心配するフリをして最初に彼の部屋に行き、壊しておいたドアノブを握る、その後賢吾さんの死体が発見されたのなら、誰もが容疑を『怪人』に向けるのだ、そう、絢さんは一声で架空の『怪人』を現実にしたのだ、みんないつの間にか、外をうろつく『怪しい者』の存在を疑わなくなっていた、この僕さえもである」
「おかしいわ!」
杏が何かに気付き声を上げた。
「じゃ、じゃあどうして白井さんが死んだの? あの人のことを絢ちゃんは知らなかったでしょ? 知っていたの?」
「いいえ、絢さんは白井純一などという筋肉オバケは、知らなかったはずなのだ」
「なら!」
「良く思い出すのだ、あの時細工された椅子は本来僕の物だったのだ、あそこで狙われたのは白井さんではないのだ、この僕である!」
秀一郎は背骨が痛いほど胸を張った。
「絢さんは首尾良く賢吾さんを殺したが苦境に立った、この僕という超絶有名天才凄腕神業『探偵』が偶然に居合わせ、捜査を開始したからである、彼女はそのジャマを素早く排除しようとしたのだ、が、結果は」
「父さん……重ね重ねかっこわるい」
飛勇がくすりとする。
「ならママとアニキは? 大体、絢ちゃんにパパを殺す動機なんてないじゃない! どうしてそこまでしたのよ!」
杏の詰問に、秀一郎はしばらく彼女を見つめた。
姉のために必死で叫ぶ妹。頬は真っ赤だが反対に唇は色を失っている。
「それは、絢さん達が樋口賢吾さんとは、血が繋がっていないからなのだ」
「え?」
「秀一郎様! どうして!」
姫希がぐぐっと眉根を寄せて、真珠色の歯を食いしばっている。何やら約束したような気がするが、今はそれどころではない。
「……そして、賢吾氏は肺癌で、もう余命幾ばくもなかった、絢さんはそれを知っていた、だから不安になったのだ、遺産が手に入るか」
絢の瞳が揺れた、それは久しぶりの彼女の反応だ。
「賢吾さんは無精子症で子供が出来ない、敏文君と絢さんと杏さん、あなた達は賢吾さんの子供ではない」
「そ、そんなの、うそ……」
へなへなと杏がその場に崩れていく。
「本当である、だから絢さんは急いだのだ、真実を知った賢吾さんの手で遺書が書き直されてしまう前に、彼を亡き者にする必要があった」
「そして、捜査している有能な『探偵』も黙らせようとした、しかし死んだのは白井純一、これは彼女にとって想定外である、絢さんはこれを逆に利用しようとした、白井純一など全く関係ない者の死を絡めることにより、よりこの事件を複雑化したのだ、そしてより多額の遺産をせしめるために、亜沙子さんと敏文君を手にかけた、あるいは杏さん、君も危うかったのである」
もう誰も反論もしないし口出ししない、秀一郎の舌はなめらかになる。
「亜沙子さんについて、タバコの細工であるが、実は僕はその光景らしき物を目撃していた、絢さんがタバコを隠すところを、その後は青酸カリを注入して、彼女に渡せばいい、同じ銘柄のタバコをいつも吸っている彼女は、いつか必ずその毒に引っかかる、問題は敏彦君だ、警戒して部屋に閉じこもった、彼に毒を飲ませるのは簡単ではない、そこでこれである」
秀一郎はとっくに冷めた卵焼きを指した。
誰も何も分からないようなので、秀一郎は箸を使ってそれを丁寧に分解する。
「ほら、見るのだ」
秀一郎が皿を持ち上げ、皆に見せた。
卵焼きの中に刻んで入れた紅ショウガ。
「はっ」
意味に気付いた杏が口辺を覆う。
「そうである、この卵焼きには気づかれないように紅ショウガを入れておいたのだ、しかし……」
しかし、かつて風味ですらその存在に気付いた彼女は、今回全く気付かなかった。
絢の無表情がようやく変わっていく。追いつめられた者のそれに。
「僕は不思議に思った、さっきの……その、料理についてだが、あれは人外の物である、なのにどうして彼女は何ともなく食べられたのだ? 簡単である、現在の彼女には味覚がない」
一人杏が理解できない、他は嫌と言うほど分かる。
「なぜなら、警部」
「うむ」
倉木警部が受けた。
「先程、ここの庭を植物学者を連れてより詳しく調べてみた、そしてわしが見つけた、わしが、トリカブトをだ」
「トリカブトの塊根にはアコニチン、メスアコニチン、ジェスアコニチンを大量に含み、それらは少量で人を死に至らしめるのだ、葉や茎も同様である、そしてトリカブトを口から摂取した場合、往々にして味覚障害に陥るのだ、最初の段階でこの家の庭にそんな危険な草があることに気付くべきであったのだ、ただ僕の失敗ではないのだ、何故ならトリカブトの栽培は合法であるし、特徴的な花をつける季節ではない、さすがにただの草にしか見えないのだ」
秀一郎は少し顔をしかめた。
「恐らく絢さんは、敏文君に口移しでトリカブトを飲ませたのだ、あの人は絢さんにいたくご執心だった、チェーンでロックされていても顔はくっつけられる、毒物のキャリアは絢さん自身である、その痕跡もないのだ、そして気分が悪くなり部屋から出ようとしたが、もう鍵を外すのが精一杯だった、咄嗟の時、チェーンロックを外せなくなるのが人だ」
食堂に沈黙が降りる、誰もが闇を直視したように声を失った。
「トリカブトを庭から採ったのは昨日、蕪山さんが来た後、不自然にジョンが鳴いた、絢さんをも見たからである」
「う、うそでしょ? こ、これって全部探偵君の想像よね? そうでしょ? 絢ちゃん」
杏にそう問われた絢は、目が覚めるような微笑みを浮かべた。
「ほんと、私、兄さん、殺した」
「え……そんな、どうして?」
「それはね、杏ちゃん、兄さん、は人殺し、で、通り魔で」
「嘘である」
茫然自失の杏に説明しようとする絢を、秀一郎が遮った。
「うおほん、残念ながら……敏文君は巷を騒がす通り魔ではない……」
警部が重々しく断定する。
絢は不思議そうに瞳を大きくした。
「わしが直接調べた、彼は家にいないときにサポートスクールに行っていた、友達には『行かないと家を追い出す、とパパに言われた』とこぼしていたそうだ、つまり彼には完全なるアリバイがある」
「ちなみに、杏さんが昔友達を殺した、とのくだり、あれも嘘である」
杏がきょとんとした。
「八年前、確かに駒河公園で女の子が貯水池にはまって死んだ、が、それは杏さんとは無関係なのだ、彼女はただその場にいた大多数の目撃者の一人、というだけである、ただその親が興奮して杏さん達をなじったらしいのだ、どうして助けなかった? と、と言っても皆が見つけたときはもう死んでいたようである、蕪山君はその時その親に責められた絢さん達を思って『離れるべきじゃなかった』と言ったのだ、そうであるな、蕪山君?」
「ええ? そんなこと? あったかもしれない、ど、どうかなあ?」
秀一郎はしどろもどろの蕪山を唾棄した。探偵ならば覚えていても良い事柄だ。
「うそ」
「嘘ではないである、絢さん、大体、その時あなたはどこにいたのだ?」
「私、タカミー、と」
「ほら、蕪山君が近くにいる時点で、その記憶は嘘なのだ、彼はそこから離れたから後悔したのである、話しが矛盾しているのだ、あなたの失敗は恐らくこの僕を恐れたのであろうが、あることないこと吹き込んで、この僕を混乱させようと企んだことなのだ、ちなみに亜沙子さんのライバル殺しも嘘である」
ぶるぶる、と何かから逃れるように、絢が両手で顔を覆いその場に蹲る。
「絢ちゃん!」
杏が椅子を倒して近づいた。
「こんなの嘘! デタラメに決まっているわ! そ、そうよ! 指は? パパの指はどうしたの?」
杏のひび割れた叫びに、秀一郎は軽く肩をすくめた。
「それは知らないのだ」
「なによ!」
「賢吾さんの指を切断したのは怪人の猟奇性を強調するためのポーズである、まあもしどこにもないなら食べてしまったのかも」
「た、たべ……」杏の顔が引きつる。
「だって、毒が」
「賢吾さんに使われたクラーレ、という毒は主に矢毒として使われるものなのだ、不思議な毒で、傷口から入れば危険だが、胃に入れば安全なのだ、つまり食べて良い毒である」
「ば、ばか! そんな……」
『くすくすくす』と軽い鈴が転がるような音が杏を遮る。
『くすくすくすくす』訝しむ一同だがすぐに気付く、手で顔を隠した絢が、いつの間にか笑っていた。
勢い良く手を離し、隠されていた顔を出す。
彼女の今までの雰囲気を裏切り、絢は明るく楽しげだった。
「あ、絢ちゃん?」
杏の手をすり抜け、跳躍するように立ち上がる。
「そ、そんな、何かのジョークだよな? 絢? お前にそんなこと」
ううん、と彼女は簡単に否定した。
「ごめんね、冴ちゃん、杏ちゃん、も、探偵君、の言うこと、は、みんな、本当、みんな、私が、一人で、考えて、やった、タカミー、が怪人だ、とわかったから、思いついた」
「どうして……?」
絢は妹に輝くように微笑する。
「それはね、杏ちゃん、私、パパ、の遺産、が全部、欲しかった、使いたい、ことが、あったの、だから、ね、ごめんね」
秀一郎はあっと叫んだ。
「逃げるのだ! 杏さん!」
しかし絢はポケットから銀のペン、いつだったか賢吾氏の机の上にあった物を取り出し、動けない杏の首筋に突き立てた。
「いかんのだ!」
秀一郎が駆け寄り絢から杏を引き離す、杏の首から血が溢れていた。
「杏ちゃん」
蕪山が走り寄り、彼女の頭を抱える。
秀一郎は絢から銀のペンをもぎ取った。それはペンではない、先端に針がついた妙な武器、恐らく敏文が通販で購入した物だろう。
「あ、れ?」
花が萎むように、杏から何かが消えていった。
「くそ」
秀一郎がペン先の針を睨む。
「これは多分クラーレが塗られているのだ、恐らく賢吾さんを殺した武器である、警部、どうして回収しなかったのだ!」
「し、知らないもの、そ、そんなのどこにあったあ?」
倉木警部はしどろもどろだ。
「蕪山……さん」
杏は苦労の後、傍らの『凡人探偵』を呼ぶ。
「何だい杏ちゃん、君らしくないなあ、もっと元気出せよ」
「うん」
倉木警部が急いで救急車を手配しているが、杏は大きな息をついた。
「あ……たんだよ、蕪山さんに……言いたいこと……」
「後で聞いてやる、だからがんばれ」
杏は弱々しく唇を尖らせる。
「も……ごまかさ、ないで……よ、……い……だよ、言いたい……よ、蕪……山さんに」
『くすくすくす』どこからか心底嬉しそうな笑いが起こる。
樋口絢は死に瀕する妹を見ながら、唇に手を当てて笑っていた。
「これ、で、私ののぞ、み、かなう」
彼女は優雅にくるっと踵を返した。スカートが翻り綺麗な輪を作った。
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