対決編
第四章
樋口賢吾は死んでいた。
秀一郎は自分の冴え渡る鋭い勘に大いに自慢したかったが、それを口に出来る状態ではない。
「パパ!」
彼に続いて現場に入った絢を抑えなければならないからだ。
「離して! パパ! 離せ、離せ」
そんな訳にはいかなかった。
樋口絢の顔は死人のように青黒く、はまっている目は暗く濁り、唇は赤く割れている。
こんな状態の彼女を、賢吾氏の死体に近づけてはいけなかった。
何故なら、あまりにも酷い死に様だからだ。
賢吾の体は部屋の左側の書架にもたれ掛かっていた。着ている物の乱れはなく、誰かと争った、という訳ではなさそうだ。
はっきりとした異常がなければ、ただカーペットに足を投げ出して、本棚に持たれているだけのようにも見える。
が、そうでないと断定できる異常があった。
まず、机と肉体の間にあるおびただしい血の跡、賢吾の体の下には乾いていない血だまりが出来ていた。
賢吾のかっと見開かれた左目は、白濁し鈍く光っているのだが……。
「パパ、離せ!」
「絢さん、いけません!」
姫希の助力で、絢を部屋の外に追い出すと「ふうむ」秀一郎は嘆息した。
何よりも異常を物語るのは、左目ではなく、右目の辺りに果物ナイフのような刃物が突き立っていることだ。
顔の半分は血まみれで、まるで大穴があいているかのように口が開いている。着ている仕立ての良いスーツもじわりじわりと暗い染みが広がっていた。
無駄だと確信しながら近寄り、そっと右手を取り脈を探る。
はっとした。
脈がなかったからではない、それは何となく予測が付いた。
右手、賢吾氏の右手の指が無くなっていた。鋭利な刃物、恐らく右目にあるそれで切断されたのだろう。
親指と小指を残して全てだ。
思わず顔を直視し残った左目と目が合う。戦慄して身を引いた。職業柄死体をよくその目にするのだが、慣れはしなかった。
先程まで会話していた人が、今は片目にナイフを突き立てられ、喉の奥の闇を見せて、唇からおびただしい涎を垂らして死んでいるのだ。
秀一郎はもう動かない賢吾から、すいと目を逸らした。
「どうしたの?……探偵君……パパは?」
絢と入れ替わるように杏が恐る恐る足を踏み入れてきた、秀一郎は厳しい表情を作る。
「来ては行けないのだ! 誰もここに入らないように言うのだ……すぐに警察を呼んで欲しいのだ……救急車も」
付け加えた物は必要ないだろう、が、それを伝えたほうが安心すると経験から知っているから、無駄な要請をした。
「う、うん、パパ、大丈夫だよね?」
泣きそうだが無理に笑う杏に、何も答えない。真実を伝える訳には行かない。
「うんま!」亜沙子は憤慨している。
「うんま、オマエごときのガキに命令される言われはないわ、この家は私の家で、賢吾は私の主人、どうなったか知る権利が私にはあるのよ」
扉の破片を蹴散らし、どすどす入ってくる彼女を秀一郎は無視した。彼は亜沙子とすれ違うように扉の横の鍵を調べに行く。
「ぎょへー!」という気持ち悪い悲鳴も耳に入らない。
内側からの鍵は、鉄の棒をスライドさせて固定するタイプであり、扉の破壊の際に割を食ったのか、壁から外れて絨毯の上に落ちていた。
あたふた出て行く亜沙子に構わず、手袋を嵌め慎重に拾う。ずっしりとした確かな重みがあった。確かにこの鍵を掛けられていたら扉は開かないだろう。
愚かな亜沙子が甲高く賢吾の死体の状態を口走っている。廊下で待っている者達がざわざわと動揺していくのがわかる。
秀一郎は指で、スライド鍵を固定していたネジ穴に触れた。建て付けが良かったのだろう、穴は等間隔に規則正しく並べてあり、欠けたり歪んだりしていない。
「ふむ」と頷く。
「秀一郎様」
姫希が慌てた様子で呼びかけて来た。
「亜沙子さんの言葉で、皆さんが酷く怖がっています……その、なんとか」
「ネジ」
「は?」
「この鍵を固定していたネジがないのだ」
「は?」
姫希は困ったように聞き返す。
「まあいい」と秀一郎はその場にスライド鍵を置いた。
次に秀一郎は足元の木片やら釘やらを踏まぬように注意して、扉以外に唯一外界へ開いている、机の後ろの滑り出し窓に近づいた。
「秀一郎様! 机に!」
姫希が両手を頬につけているが「それは後なのだ」とかわす。
賢吾の部屋のすべり出し窓は横に開くタイプで、上部部分に支点があり、下部部分を持ち上げて開ける仕組みになっている。
目一杯開いてみる秀一郎だが、人が出入り出来るスペースは出来ない。例え痩せた子供だとしてもつかえてしまう。
秀一郎は苦労して窓から顔を出し庭を確認する。わんわん、とジョンが激しく鎖を鳴らしながら吠えている。
「もしも出ることが出来ても、下にはあの煩い犬、であるな、そして扉は内側からスライド鍵」
秀一郎は大きく頷いた。
「確かに密室である」
大まかに確認し、姫希も指摘した問題の机の上に意識を移す。
血だまりがあり、その横に銀色に光るペンがり、血まみれの紙が被せてあった。
『罪深き一族を抹殺せよ』
黒い文字でそれだけが書かれている。手書きではなく、あきらかにワープロなどを使用した特徴のない字だ。
「犯行声明文であるな」
秀一郎はそれ以上机上には触れず、かがんで回転椅子と机の下を覗く。
「どうしました?」
「指である」
「はい?」
「賢吾さんの死体には右手の指が数本ない、犯人が切り取ったのならどこにあるのだ?」
「それは……」
「そうである、この窓から人は入れない、見たが外にも落ちてないようである、背後の扉は鍵が掛かっていたのだ、犯人はどうやってここに入り、賢吾さんを殺した後、どうやって指を持ってここから出たのであるか? 逆に言うと賢吾さんの指がないことが、この状況を『殺人』と証明しているのだ」
ここで言葉を切り、秀一郎は次の言葉をもったいぶった。
「しかも、それは恐らく毒物に汚染されていて、危険なものである!」
「え? どうしてですか秀一郎様?」
秀一郎はにやり、と笑った。
「僕に分からないことはないのだ、賢吾氏の状態、指三本を切られ目をナイフで突かれているが、それでは彼は死なないのだ、あの程度の傷なら人は死なない、指と目の出血も多いがまだ失血死に至る程ではない、僕の見立てでは目のナイフの傷は意外に浅い、視神経にも達していない」
「では、どうして?」姫希は息を飲み、そっと賢吾の死体を伺う。
「毒殺である」
「え!」
「彼の様子を見れば分かる、あんなに口を開いているのは呼吸が出来ないから、しかし暴れた様子がないのは動かないから、彼は筋弛緩剤のような物で殺害されている」
「で、でも!」
「言いたいことは分かるのだ、あの状態である、それは恐らく犯人が本当の死因を悟らせまいとしてやったことである、誰が見てもあの惨状なら毒殺を疑わない、ただここには僕がいたのだ!」
秀一郎はづん、と胸を突き出した。
「パパ……どうして?」
秀一郎は仰天した、傍らの姫希も不意を突かれて頭を伏せかける。
いつの間にか絢が再び入り込んでいた。
賢吾の死体の正面に両膝を折り座っている。
「ねえ……どうして? どうして、なの? パパ、パパ!」
「絢さん! 入ってはいけないと言ったのだ!」
絢はふらふらと立ち上がり、探偵の非難をかわして賢吾の机に近づいた。
「絢さん!」
姫希が体で隠そうとしたが、目ざとく彼女は気付いた。
机上にある血まみれの紙、と一文。
「ああ、ああ、ああ!」
ゆっくりと絢の表情が歪んでいく。
「ああああああ」
制しようとした秀一郎も姫希も押しのけられ、絢は机に突っ伏した。火が点いたような勢いで、泣き出す。
号泣する絢に、秀一郎は為す術がない。
「絢ちゃん!」杏が駆け寄ってきた。彼女も涙に濡れているのだが、気丈にも姉を慮って耐えている。
「絢ちゃん、お部屋に帰りましょう、後は警察に捜査を任せて、ここでは迷惑になるわ」
杏は優しい言葉を掛けたが、絢は突っ伏したまま「ぐおお」と、腕を一閃させる。
「……あんたら、が悪い、あんたら、がパパを死なせた、みんな、あんたら、のせい」
絢は語気荒く、腕をぶんぶんと振り暴れる。
「姉さん……ううう、あああ」
絢の姿についに杏の心も折れたようだ。その場にしゃがみ顔を覆い、肩を震わせる。
樋口賢吾の二人の娘の忍び泣く声は、遠くからパトカーのサイレンが聞こえ出しても、止まらなかった。
樋口杏による通報から一〇分、樋口邸は警察官に取り囲まれていた。私服、制服問わぬ警官達が屋敷内を歩き回り、庭では警察犬にジョンが吠えている。
「ええっと、その……」
私服の中年刑事が渋面になっていた。彼はこめかみ辺りの皮膚をぴくぴくと動かし、秀一郎に何を言おうか迷っている。
三田村秀一郎はその刑事を完全に無視し、樋口邸の広間のソファに身を投げ出している。
「すみません、秀一郎様は、その……考え事をなさっているようなので」
槙島姫希が取りなそうとしているが、その必要はなかった。
秀一郎はそこらの所轄刑事に、何かしてやる気にはなれない。
―どうせこいつに言ったところで無駄なのだ、捜査は警視庁がやるのだ。
警察機構のシステムを熟知する秀一郎は、所轄刑事程度に何の期待も関心もない。
ここで事件を解決しても、目の前の無名刑事の手柄になり、秀一郎の名はどこにもでないだろう。なら無意味に動くこともない。
所轄刑事は明らかに気分を害しているようだが、構わなかった。
刺すような視線をしばらく受け止めていたが、二〇分後、一人の制服警官が小走りで所轄刑事に近づいた。
「……有名探偵君」
所轄刑事の舌には明らかに揶揄があったが、どうでもいい。
「君が懇意にしている倉木警部がいらした、警視庁の倉木正義警部だ、それなら協力してくれるかね?」
秀一郎は返事をしなかった。無視をしたのではない、もう走り出していたのだ。
倉木警部は門を通過したところだった。秀一郎の姿に気付くとその場で飛び跳ねて、手を振る。
「やあ! やあ! 秀一郎君! 久しぶりだねえ」
秀一郎は倉木警部の前にたどり着くと、その赤ら顔に笑いかけた。
「お久しぶりなのだ警部、最近はどうなのだ?」
「む」と警部は太い唇を笑みにつり上げた。
「相変わらずの探偵口調と探偵装束、秀一郎はやはり変わらないなあ、わしは最近暇で困っていたよ」
そうだろう、と秀一郎は納得した。
倉木正義はもう五十代後半の中年で、身長は秀一郎よりも低く、逆に体重と横幅は秀一郎の二倍、不完全に禿げた頭と間が抜けた印象の容姿で、刑事と言うよりも町工場のうだつの上がらぬ社長、という姿をしている。見た者も完璧に油断させるが、実はそれでいい。
秀一郎にしてみれば、この警部はその役職にたどり着けたのが奇跡のような、無能で凡庸な男なのだ。
しかし人間欠点ばかりではない。もしそれだけなら倉木が三〇も年の離れた美人妻を、手に入れられる訳がない。
倉木正義はお人好しだ。掛け値なしの善人である。
だから秀一郎のような外部の、異質と行って良い者の言葉を聞いてくれるし、意見を尊重してくれる。秀一郎にとって与し易い大人だ。
「やあ姫希くん、今日も美人だね」
遅れてやってきた彼女は、何も語らず倉木警部に完璧な礼をする。
「それでえ」倉木警部は口調を改め、よれよれの茶色のスーツのポケットに手を突っ込む。
「殺人だって?」
大量の息と秀一郎に耳打ちをする。
「ええ警部、殺人なのだ、僕の目の前で」
「ぐふふふふ」と倉木警部は突き出た腹を揺らす。
「馬鹿な犯人だねえ、君と対決するつもりなんだなあ」
秀一郎はにやりとした。
「そうなのだ! 愚か極まりない……ところで」
不快を思い出す。
「さっきから僕に偉そうに話しかけていた所轄刑事、ムカつくのだ、無礼なのだ、この僕に嫌味を言ったのだ」
「ああ」倉木警部は大きく頷いた。
「そんな馬鹿者はわしが何とかする、明後日には寒い寒い北の派出所勤務だろう、君は何の心配もなく事件だけを考えてくれえ」
「さすが倉木警部!」
秀一郎と倉木はしばし見合って、「ふふふふふ」と笑った。
倉木警部を広間に案内すると、知らせを聞いたのか、絢と敏文を除いた樋口家の者が待っていた。
「ごほん、わしは警視庁警部の倉木だ、この事件の担当となった」
「うんまあ」亜沙子は煙を吐く。
「刑事さん、とにかく犯人を早く捕まえて頂戴、ワタシ、恐ろしくて心が安まりません」
「まあまあ、おばあちゃん、息子さんは気の毒致しました」
早速、倉木警部は失言した。
「うんま! ワタシが年寄りに見えるっての? このポリ公めが!」
「この人は被害者の奥さんです、亜沙子さん」
秀一郎の助け船に眉を跳ばし、倉木警部は頭を下げた。
「これは申し訳ない! わしは目が悪くてえ、……なるほど、良く見れば若々しいなあ、アソコさん」
「うんまー!」
亜沙子は頭から湯気が出る勢いだが、秀一郎にもどうしようもなかった。
「そ、それでえ」
倉木警部は悪くなった心証を改善したいのか、もう一度咳払いをする。
「この家の者はこれで全員ですかなあ?」
「いえ」素早く秀一郎が答えた。
「あと二人、長男の敏文さんと長女の絢さんがいるのだ、どこにいるやら?」
ハンカチを目元に当てていた杏が、それを耳にして口を開いた。
「アニキは……部屋、ゲームをするんだって」
「げ、ゲーム?」
杏の目に冷気が漂う。
「ええ、警部さん、兄は父が死んだのにテレビゲームで遊んでいます、何でも『理想の美少女』を作るゲームだとか」
「絢さんは?」
杏の感情の激発という面倒を避けて秀一郎が問うと、彼女は「うう」と泣き出す。
「察してよ探偵君! 姉さんはもうぼろぼろだよ。部屋で寝ているわ!」
そこまで早口で言うと、彼女も「パパ、どうして?」とハンカチに顔を埋める。
「し、秀一郎君、ところで現場なんだけど」
「ええ」戸惑う倉木警部に、落ち着き払って頷く。
「現場は出来るだけ保存しているのだ、僕が見ていた、誰も余計な物には触れていないし、死体も動かしてもいないのだ」
「うんうん」
倉木警部は満足そうな笑みを手で隠す。
「ところで秀一郎君」
倉木警部は短い歩幅で秀一郎に近寄って、ひそひそと尋ねて来る。
「密室だってえ?」
「はい、密室なのだ、警部」
「密室かあ?」
「密室である」
ぐふふふ、と警部は器用に口の中だけで喜ぶ。
「怪人だってえ?」
「怪人が出たのだ」
「ぐふふふ」樋口家の者達に楽しそうな姿を見せぬよう、背を向けた。
「怪事件だねえ、これは怪事件だ、密室、怪人、謎の死、不可思議だねえ、ぐふふふ」
「おい!」
と突然呼ばれたから、倉木警部も秀一郎も肝を冷やした。
「な、なんだねえ? ええっと……」
「冴だ、私は大岡冴、で刑事さんよぉ、犯人は分かったのか? ……てかこの家は安全なのか? ここにはテメエの身もテメエで守れないか弱い女子供がいるんだぜ」
自分を棚に上げた台詞だが、それに澄江がびくりとする。
「むうーん?」
倉木警部は困ったように、少し毛が残る斑な頭を撫でた。
「いや」冴の目つきは険しい。
「お前達は何のために来たんだよ! この家は女の方が多いんだぜ! ヘンな野郎もうろついていたし、ここにいて良いのかよ?」
冴の言葉は最もだった。正体不明の怪人から身を隠すために、屋敷から離れるのも手段だ。
「いいえ」
秀一郎は全て納得した上で、かぶりを振った。
「皆さんは普通にここで生活して欲しいのだ、犯人と謎はこの僕に任せるのだ」
好物を前にした子供のように、倉木警部は目を輝かせて見上げている。
「僕の目の前で殺人なんて許せないのだ! この事件はこの僕、三田村秀一郎が必ず解決してみせるのだ! 皆さん安心していいのだ、僕に分からないことはない!」
「おおお」
倉木警部が眩しそうに目を細めるが、どこからか「はあ」と吐息が漏れた。
姫希だった。
一連を聞き終えた彼女が、肩を落とすほど息をついたのだ。
「ふむ」と秀一郎は理解した。
―彼女も僕の行動に期待している、感動してため息をついたのだ、お母様の言うとおり、賢く頼りになる男はモテるのだ。
秀一郎は空咳をする。
「その一段階として、まず皆さんの部屋を調べさせてもらうのだ」
「ええ?」とさざ波のような声が上がった。
冴は不満そうに秀一郎を睨む。
「絢や杏の部屋もか?」
パチリと彼女は、拳で掌を殴る。
「も、勿論、それは警察にやってもらう、僕がデリカシーのない家捜しはしないのだ」
「うんまぁ、何でそんなことされなきゃならないの?」
案の定の質問が、亜沙子の口から出るから、秀一郎は胸を張る。
「賢吾氏の指は切断されていたのである、犯人が何故そんな事をしたのかまだ分からないのであるが、必ず意味があるのだ、僕はまずそれを見つけたいのだ」
「へっ」と嗤う。
「そんなもんさっきの奴、お前が取り逃がした奴が持って行っただろうが、家にあるかよ!」
「それはどうであるかな?」
秀一郎は挑戦的な目で、樋口家の人々を見回した。
意味に気付き、はっとしたのは澄江だった。
「そ、それってっー、わ、私達も疑われていっるって、ことー?」
「うんま!」
代表して亜沙子がブチ切れる。
「テメエ、何て事を言いやがる! 犯人はさっきの変な奴だわよ!」
「ふふん」と秀一郎は煙を蹴散らし、鼻を鳴らした。
「僕に小細工は利かないのだ、あの怪人がフェイクであることもある、……良くある手である、ともかく、それを確かめるためにも協力してほしいのだ」
「好きにすればいいだろ? オレには別に隠すことはない」
冴の言葉に、気分は良さそうではないが頷きが広がっていく。
「警部」と秀一郎は振り返った。
「うん、任せてくれ秀一郎君、今回もわしは君に従うよ、何て言っても君は天才だから」
首肯すると、秀一郎はそっと倉木警部の耳元に囁いた。
「それから、もう一つ頼まれて欲しいのですが……」
「うんうん、わかったよ」と倉木警部は孫のお願いを聞く老人のように、ぶるぶる顎肉を揺らす。
にんまり、と秀一郎は頬を弛緩させた。
梅雨の走りか陰鬱な空が広がっていた。
雨が降らないのが不思議なくらい黒ずんだ雲の下、肌にべたべたとまとい付く空気が滞留している。
じっとしているだけで首筋がじんわりと濡れていく。気持ち悪いトロピカルな色の花々を育てている植物園の温室に入ったようだ。
三田村秀一郎は不快な感触に、洋服の袖で首をなぞった。
広い庭のそこかしこに、喪服姿が見える。
樋口賢吾氏の死から二日、樋口邸は葬儀が行われていた。
と言っても故人の功績に比すれば、あまりにもささやかで参列者は三〇人程、そのほとんどが惚けて紛れ込んでいる警察関係者だった。
五指グループの創始者。このネームバリューは強大であり、実は嗅ぎつけたマスコミやら下心のある著名人などが、門の周りを回遊したのだったが全て排除された。
樋口賢吾は徹底的に、その最後まで合理主義を貫いた。
いつも『探偵』姿の三田村秀一郎と同じく頑なにスタイルを守る。
彼の書斎から生前書いたと見られる、『葬式・戒名不要』と記された『自分の死』を想定してある書類が見つかったのだ。
ご丁寧に『指令に背いた者は、故人を侮辱したとして懲戒に値する』という脅しも付加されていた。そうなると会社関係者は誰も参列できない。樋口賢吾には他に身内がいないから、自然に残された家族しか揃わない。
最も『葬式不要』の彼にとっては、家族の手のそれも不本意なのだろう。
今や未亡人となった樋口亜沙子は、こんな折にも二本のタバコをくわえて、式を仕切っていた。
苦々しい、といった表情を隠さない。というのも、樋口賢吾の死により手に入る遺産の一つがそうならなかったからだ。
具体的に言うと五指グループの三つの会社組織には、それぞれ賢吾氏に指名された後継者達がいた。というより、ここ数年は未だ四〇代半ばの若い彼等に、賢吾氏は全てを一任していた。
後継者達はさすがに辣腕だった。長を失って揺らぐと思われていた五指グループの少々の動揺を、各々力づくで抑えて見せた。
有能な者をいち早く起用し、自らの後任を定めておく、樋口賢吾は死して尚その非凡さを証明したのだ。
だがそうなると樋口亜沙子のもくろみ、賢吾氏の席にゆくゆくは敏文を座らせようと舌なめずりをしていたそれは、あっけなく無視された。何の下準備もしていないのに血族だから、と言って潜り込めるほどの安っぽい企業に、創設者の賢吾氏がしなかったのだ。
その事実を告げられたとき、敏文を背にした彼女の顎はだらしなく落ちた。
実際、亜沙子は賢吾の死から鼻白んでばかりだ。大々的な葬儀を計画すれば、完全否定するような文章が現れ、会社の事には首をつっこめず、最後の問題も中途半端になっている。
「うんまぁ!」と、彼女は見開いた目からもちろりと煙を漏らした。
樋口賢吾が生前に懇意にしていた弁護士・車恭一 は現時点での遺書の公開に難色を示したのだ。
「私たちは遺族よ! 権利があるわ! 渡せ! うりなりビョウタン!」
しかし車弁護士は、眼鏡のつるを掴んで亜沙子の暴言に断固として対した。
「故人からきつく言い渡されております、一週間、どんなことがあっても誰にも公表しないでくれ、と」
不思議な話だった。樋口賢吾は遺言を一週間、七日の間、誰にも見せるな、と車に告げていたようなのだ。
権利的にそんな要求がかなえられるのか微妙だが、七日、という無意味な程に短い時間故、車弁護士は賢吾氏の意思を尊重する、と亜沙子の嫌がらせにも首を縦に振らなかった。
納得するような亜沙子ではないのだが、たかが一週間、時間にして一六八時間、と娘達に説得されると「うんもぅ」と引き下がった。
確かに「たかが一週間」なのだ。
秀一郎は樋口邸の庭の片隅から葬儀を眺め、その意味を考えた。
彼は今日も喪服など着ていない。樋口賢吾がポリシーを堅守したように、彼もそうする。「礼儀知らず」と亜沙子はわざわざ口に出したが、『葬式不要』と断っている者の葬儀を強行する彼女の方が、礼を失している。
強いが快い風が走りぬけ、秀一郎は頭の上のディアストーカーを押さえた。インヴァネスコートの裾がはためき、体の中の熱気を持ち去っていってくれる。
秀一郎に気付いているのだろうが、喪服の一団は彼に近づかず、形式に則って式を進行させている。
「行かれないのですか?」
いつの間にか姫希が傍らに立っていた。彼女もいつものメイド服だが、そこは慮ったのか、派手な襟元をフォーリング・バンドで覆い、腕には杏から借りたリボンの喪章をしている。
「僕は茶番は嫌いなのだ、こんな葬式無意味である、出る価値などないのだ」
そう、これは犯人の目を意識した、一〇割の内の八割までも故人を思ったことではないのだ。そもそも棺の中に遺体もない。
賢吾氏はまさしく変死なので、更に詳しい事態の解明のために、帝国大学医学部で切り刻まれている。
なのに形通りの厳かさで、葬儀は行われていた。
「賢吾氏を殺した者は、得意な顔になっているに違いない!」
樋口絢への毒殺未遂からの一連を聞いた倉木警部は、集まった警視庁の部下達に断じた。「くだんの怪人めは、目的を達して安堵し、次には得意になり、騒ぎに興味を持つだろう、ならば我々は敢えて目に付くことをやり、その中にいればいい、そう犯人は現場に戻ってくる、特に今度のような自分の存在を皆に知らせたくて仕方のない奴は」
秀一郎は懐疑的な視線を、弔問者をいちいち疑う刑事達に向けた。
「犯人はそんなに愚かではないのだ、少なくとも、のこのこ葬式になんてこないのだ」
「倉木警部は常識的なお方です、まず捜査の基本を倣っているのでしょう」
「だが犯人は常識的ではないのだ」
秀一郎は姫希に答え、目を落とした。手入れの行き届いた芝生がある。杏の話では週に一度、庭師が入るらしい。毛布のようにふかふかとするにはそれなりの手間がかかる。
庭の隅にある雑多な草花もそれなのに規則正しく刈られていて、庭師のセンスの良さが分かった。心底どうでもいい。
実は彼は苛立っていた。皆の前で偉そうに宣言したものの、この二日捜査に進展がない。「ゆび……」秀一郎はぼそりと呟いた。
家中隈無く探しても、賢吾氏の切断された三本の指は見つからなかった。犯人が家の外に持ち去った、ということになる。
「何のために?」自然と浮かぶのはその問題だ。人間の指を何に使うのか、毒に汚染されているだろうそれをどうするのか、さっぱり分からない。
「ただ、理由はわかるのだが」
「はい?」姫希は不思議そうに目を瞬かせる。
「ああ、賢吾氏の指を切断した理由である、それはおそらく二つの理由があるのだ」
何の返事もない。おそらく彼女には理解できないのだろう、秀一郎ほどの頭脳からの言葉を簡単に理解できる者はいない。だがそれでも良い。彼は誰かに話したい気分だった。
「一つは、簡単に言って自分の存在の誇示なのだ、五指グループの長を殺した、こうやってその家族も狙う、との犯人の歪んだ宣言、もう一つは」
秀一郎は己の右手を持ち上げ、見つめる。
「凶器の秘匿……賢吾氏はやはり毒殺されていたのだ、しかしナイフからは毒物は検出されなかった、とすれば第二の凶器があり、それは指に使われた……つまり、賢吾氏は指から毒物を入れられたのだ」
実際、倉木警部をつてに司法解剖の情報を得たが、賢吾氏の遺体には指と目以外の傷はなく、胃袋からも毒は検出されなかった。
賢吾氏の指を切断したのは、凶器の特定を困難にするためだ、と秀一郎は推理していた。
―それしかないのである、それ以外に何の意味があるのだ。
「どんな毒を使われたか、……分かりましたか?」
秀一郎の様子をちらちら伺いながら、姫希が控えめに聞いてくる。
「ああ」と大きく頷いた。
「植物毒である、マチン科のツル性低木ストリキノス・トキシフェーラという植物からとれるクラーレ、という毒なのだ……残酷なものを使ったものなのだ」
「どうしてですか?」
「この毒のツボクラリンという成分は、筋肉を弛緩させて呼吸を麻痺させて殺すのだけど、死に至るまで意識をしっかりと持っていられるのが特徴なのだ」
「つまり……」
姫希はさっと青ざめた。
「賢吾氏は毒を注入されてから死ぬまで、はっきりとした意識があったのだ、自分がじわじわ死ぬのを感じていたはずである」
「……でも、そんなものどうやって」
もっともな疑問だ。それほど恐るべき植物が簡単に手に入れられる筈がない。
「だが、そうとも言えないのだ」
秀一郎は曇った空を見つめた。
「今のネット時代は異常なのだ、危険な麻薬でも種ならば手に入る、『研究材料』として、犯人はいろんな植物の種の中に紛れ込ませて日本に入れ、密かに育てたのだ」
「ごほん」秀一郎は咳払いをした。
「つまり少なくとも犯人はネット環境にいた、という重要な手かがりが掴めたのだ、冴え渡る推理である!」
「はあ」
姫希は元気がないようだ。恐ろしくなったのだろうから、明るい話題に転換を図ることにする。
「……姫希」
「はい」
「実は君に嬉しい二ユースがある、昨日お母様に僕が頼んだのだが、新しい調理器具を買って下さるそうなのだ、僕が必要だと言っておいた」
「…………」
「君は料理をするだろ? 僕のための料理をもっと早く、もっと美味しく作れるようになるのだ、君の喜ぶ顔が見たかったのだ」
―君も感謝するだろう。
とまでは、口には出来なかったし、姫希はにこりともしなかった。勿論、嬉しくなかった筈がない。一見して冠婚葬祭用と分かる黒いスーツを着込んだ男が、空気も読まずにぶんぶんと手を振って来たのだ。
「やー、天才探偵君」
蕪山孝美は力はないが、一応笑みらしきものを浮かべている。
「こんな形で再会したくなかったなぁ、全く残念だ」
ふははぁーと、大げさに肩を落とす。
「クライアント一人減っちゃったよー、明日からどうしよ」
「蕪山君、葬式に来たのであるか?」
年上に偉そうな秀一郎だが、当人は怒らなかった。
「ああ、賢吾さんには世話になったし、僕は彼の部下じゃないし、暇だし」
彼らしく最後に冗談を付けたが、やはり生彩なく再びふははぁーと嘆息する。
「人間は無力だなぁ、あの賢吾さんがねぇ……悲しいなあ」
それは本心のようだ、蕪山の目に多めの水分がある。
「タカミーは、どうして『探偵』をなさっているのですか?」
不意の姫希の質問を受け、しばし秀一郎と蕪山は彼女を見つめた。
「ええ?」と姫希は驚く。
「タカミー、て呼ぶんですよね?」
「あははは」蕪山は笑った。
「びっくりしたな、確かにそう言ったよね? しかし僕にそう言われて本当に『タカミー』と呼んでくれたのは君で二人目だよ」
それで活力が戻ったらしく、彼は背筋を伸ばした。
「ええっと、メイド子ちゃん、探偵になった理由だっけ? うん、それはね、何も能がなかったからなんだ」
秀一郎の気分は悪くなった。能なしが『探偵』などあり得ない。
―このボンクラ男、よりにもよって『探偵』をバカにしたのだ、崇高で神聖なるこの職業を、こんな低脳が。
「僕はね」
身近な殺意に、蕪山は気付かない。
「高卒で、アルバイトもそんなに好きじゃなくて、フリーターにもなれなかった、で、ある時、賢吾さんに会って、ちょっとした調査を請け負ったんだ、シロウトでも出来る、まあ電話帳調べみたいなことさ、意外と思われるかも知れないけど、企業が探偵を雇うのは珍しくないんだよ、今は紙の上の会社やら外面だけで何をしているか分からない会社、クレームを専門にして生きている人もいるからね、そういった人たちの調査、それから自然にこの世界さ」
―フン、しょっぱい仕事なのだ、コイツに相応しい。
「でも」珍しく姫希の視線は険しい。彼女もこの男が嫌いなのだろう。
「あまり良い仕事とは思えません」
秀一郎は絶句した。彼女が聖なる『探偵』業に嫌悪感を見せたのだ。否、これはあくまでもこの軽薄な男への嫌悪だろう。
秀一郎は理解して胸をなで下ろす。
「人のプライバシーを踏みにじり、家庭を壊すときもあります」
「そうだね」と蕪山は憮然とする。
「そう言われると一言もない……ただ、僕も人助けをしたかったんだ、役に立ちたかった、ほんのガキの頃からお世話になっていた樋口家の皆さんの」
「え」と顔をしかめていた秀一郎が気付く。
「蕪山君、君は昔からこの家の事を知っているのであるか?」
「ああ、具体的に言うと……僕が二〇そこそこで、まだお嬢様達がお漏らしをしていたころからか、あははは」
秀一郎の目の底が光った。
「蕪山君はどこまで知っているのだ? 今回の事件、怪人のこととか」
「ああ、それか……全く非常識だよね? この時代に『怪人』だぜ、しかもベージュのコートにマスク……変質者にはそうしろって図入りの教科書でもあるのかなあ、独創性の欠片もないよね、新型コロナのお陰で、マスク姿が変じゃなくなったのがイタいなあ」
秀一郎はさらに追求しようとするが、叶わなかった。
喪服姿の一団から二人の少女が離れて、彼等の方向を見ていることに気付いたのだ。
樋口絢と樋口杏。
数日で、ただの同級生から、被害者、被害者の遺族、へと目まぐるしく立場を変えた彼女達が、ふらふらとした足取りで庭を歩いてくる。
妹の杏が、ぼんやりしている絢の手を引っ張ってくる。
「……やあ、探偵君、姫希ちゃん、蕪山さん」
杏の口調は穏やかだった。嵐の中だろう心中のぶれを感じさせない。
「今日は父のためにありがとうございます」
杏は深々と礼をするが、絢はあらぬ方向を見ている。悲嘆故にか、彼女の顔には生気も色もなく、表情も乏しい。
「と、とんでもないのだっ、ぼ、僕は光栄に思っているのだ、樋口賢吾さんという希代の天才の葬儀に立ち会えて、うんうん、大人物を皆で送るのは正しいことなのだ」
「本当にそう思う?」
杏の片眉がぴくりと動く。
「もちろんなのだ、誓って嘘はない」秀一郎が真面目に誓うと、杏は破顔する。
「ありがとう、探偵君は優しいね」
つと視線が、黙って立っている長身の方の『探偵』に向く。
「ところで、蕪山さんと探偵君は何を話していたの?」
「うん、君のお漏らしの話」
「うえ?」と杏の声が上ずる。
「な、なによそのマニアックな話、私? どういうことよ?」
杏のつり上がる目には戸惑いも含まれているが、光と力が戻っていた。
「したじゃん、お漏らし、僕と公園に行くとき……言ってくれれば良いのに」
「うう」
蕪山の肩を落とすオーバーすぎるしぐさに、杏の頬が上気する。
「それっていつの話しよ! ……もう十年以上前でしょ? まだ私小学一年生だったわ!」
「いや、だけど『した』という事実は動かない、それをここでみんなに暴露してウケを狙っていたんだ、いやー、楽しい一時の話題をありがとう、君の失敗はその一点において生産的であったよ、グッジョヴ!」
次の瞬間、杏のほっそりとした脚が、蕪山の膝を鞭のように打った。
「うぎゃ!」蕪山はしゃがみこむ。
「こ、この無神経! こんな時に……みんなに言った? ううー……女心をさっぱり解しない奴……死刑よ、極刑に決定、私の中の陪審員の一致した答え、弁護人は作り笑いであなたを見送ったわ、従って覆ることはなし! 蕪山さんは執行人の私から、千回蹴られるの」
「ちょっとまて! 君は確か陸上部だな?」
「それが何よ?」
「は、犯罪だ!」
「ええ? なんですって?」
「聞け! そうやって蹴る態勢に入るな、……いいかい、空手やボクシングをやっているものは拳の使用を凶器を使った、と見なされる、従って陸上をやっているものは脚を」
杏の一発目の蹴りが蕪山の背中を打った。あと九九九発あるらしい。
「うわわー」と耐えられず彼は逃げだし、「鍛え抜かれた私の足により成仏しなさい!」顔を真っ赤にした杏は姉を置いて、追いかけていく。
「アホな奴である」
秀一郎は呆れて、庭で悲惨な目に遭っている蕪山を見下す。
「くすくす」
秀一郎は内心びくっとした。今まで全てに無反応だった絢が、突然笑ったのだ。
まだ危うい泣きそうな笑みだが、確かに彼女は口に手を当てて、細かく肩を震わしている。
「また、タカミー、杏ちゃんを、怒らせた」
姫希が安堵するのが分かった。絢も二日で少しは立ち直ったらしい。
「あいつが愚かなのだ」
絢はゆるりと首を振る。
「違う、よ、探偵君、タカミー、が杏ちゃんを、元気、づけてくれたんだよ」
―なるほど。
秀一郎は感心した。そういう見方も確かにある。あの下らない男にも役立つ場面があるのだ。
「杏、ちゃんはね……」絢は言葉を切り、遠くで行われている蕪山キックに目を細める。
「タカミー、が好き、なんだよ」
「うほ」秀一郎は声を出してしまった。
樋口杏の男を見る目は最悪だ。目の前の若い『天才探偵』を素通りして、幾つも年上の『凡人探偵』を見ていたなどあり得ない。昔からの付き合い、蕪山との親しさを恋とつなげてしまうのが、女の一番愚かなところだった。
蓼食う虫も好き好き、とはよく言う。ちなみに蓼とはタデ科の植物で、茎や葉が酷く辛いらしい。秀一郎は刺激物が嫌いだから、蓼食う虫とは話しが合わないだろう。
「タカミーは、昔から、側にいてくれた、いい人、杏ちゃんが、陸上部なのは、タカミーが、いるから」
絢の目が遠い光景を見つめている。
「昔、公園でよく、タカミー、と私たちで、鬼ごっこしたの、タカミーは、足早いから、絶対に、捕まらなかった、杏ちゃんは、『いつか私が捕まえる』て、言って、走り出した、の」
だとしたらもう追い越しているのだろう、蕪山は庭の隅まで逃走しているが、杏の脚の射程から逃れられない。杏の足は見事に弧を描いて蕪山に突き刺さる。
健康的な脚が、輝き弾けるような腿が躍動して、暴力へと完結する。そうとう痛いのだろう「ひー」という蕪山の切れ切れの声が聞こえてくる。
健康的な足に、足蹴にされる。蹴られる、足で踏まれる……。
―それも、いいであるなぁ。
「でも……」
涎を垂らす秀一郎に気付かず、絢の目元が陰った。強く唇を噛む。
「杏ちゃん、は、あんなことを……タカミー、言ってた、『杏ちゃん、から、目を離すべき、じゃなかった』て」
「はい?」
姫希は驚いたように聞き返した。何か話の最後の部分がおかしい。
だが、もう絢は語らず、じっと芝生を見つめていた。
「あ、あの、絢さん」とおずおずと姫希が尋ねようとしたが、絢は何もかも拒絶するように無言で姉の方向に進み出した。
まだ杏は蕪山を追いかけている。
「なるほど」
秀一郎は大儀そうに首肯した。
「どうやら、この家には思った以上の深みがあるようなのだ」
姫希は何も言わない。ただ眉を曇らせている。
「さて、ではその一つを調べに行こう」
秀一郎はディアストーカーのつばを持ち、被り直した。
遠目にも佐々木啓子と分かる子供連れの姿があった。
佐々木啓子を目にした途端、樋口亜沙子は煙を吹き出した。
鼻と口から、どう見ても健康に悪い公害指定確実な色のそれを、もくもくと立ち上らせる。
「うんまー!」馬がいななくように顎を引いて、彼女は叫んだ。
「よく顔を出せたわね、この泥棒猫!」
蛾の幼虫のような人差し指が、喪服の啓子を射抜くように伸びた。
「お、奥様、その……この度は」
「うんもー」と啓子の言葉は遮られる。
「あんたには関係ないのよ! ほっとけこのヤロウ」
亜沙子は顔をおぞましい形にしかめて、啓子から視線を外す。
「帰って頂戴! 帰れ、むしろ来るんじゃねーよ」
金切り声を聞いて、秀一郎は辺りを見た。
扮装警察関係者も含めて、皆我関せずという体だ。それもそうなるだろう、今の亜沙子は異常だった。
似合わない喪服なのに着飾り、化粧はより厚く、煙の中にそそり立っている。急造魔法陣から飛び出した悪魔も、これよりは麗しいはずだ。
賢吾氏の遺産について諸問題が滞っていることが、余程腹に据えかねているのだろう。
だとしたら逆に佐々木啓子の到来は彼女にとって幸運だ。ようやく苛立ちをぶつけられる相手が訪れたのだ。
「……せめてお線香だけでも」
必死に訴える啓子に、亜沙子がいやらしく微笑する。
秀一郎は咄嗟に首を竦めた。彼女の姿はCGで作られた洋画のクリーチャーに見える。次の瞬間、啓子をばくり、と飲み込んでも不思議に思わないだろう。
樋口邸の玄関前に現れたのが彼女一人で、連れてきた剣護という少年がいないのが微かな幸運であった。
「うんまあ、必死ね……仕方ないわよねぇ」
啓子を睨む亜沙子の目の端は黄色っぽい。
「まさか金づるがこんなに早くくたばるなんて、思わなかったんでしょう?」
「そ、そんな!」
「惚けるな、この寄生虫! 汚らしいゆすり魔めがっっ!」
一喝された啓子は身震いし、秀一郎はちびりかけた。(もちろん臆したのではなく、生理現象を忘れていたからだ)
―忘れていた忘れていた、じつはさっきからトイレに行きたかったのだ。
「ぶふふふふ」と亜沙子は口の奥の金歯を光らせる。
「残念だったわねぇ、これからもうっとウチの金を盗むつもりだったんでしょーう? あてが外れたわねぇ」
「そ、そんな事考えていません、私は」
「うまあ、お黙りっっ!」
亜沙子の周りには殺意に近い波動がある。
「あーのクーソガキを利用して財産を狙う魂胆なのは見ーえ見えよ! でもね」
ぴくぴく蠢く人差し指を、亜沙子は天に向ける。
「ワタシがそれを許さなーいっ! そうよ!」ぶるる、と彼女は身震いした。
「もし、仮に賢吾の遺書にあんたらのことが書かれていてもー、あのクソガキが賢吾の血を引いててもワターシが阻止する、肝に銘じなさーい、いい? この世には『金』のために何でもする輩がいるのよーぅ」
たくさんの警官の前で、樋口亜沙子は酷く物騒な発言をした。
「うんまー、いやだこーと、そんな奴らにあんたとあんたのクソガキちゃんが狙われないと、良いわねぇーえ」
遂にたまらず佐々木啓子は踵を返した。
「ぶはははは」という亜沙子の笑いに蹴られるようによろめきながら、樋口邸から遠ざかっていく。
秀一郎はその好機を逃さず、涙を隠す啓子に近づいた。
「佐々木さん、佐々木啓子さん」
秀一郎が声を掛けると、啓子は驚いたように濡れた目を見張る。
「は、はい、ええっと……」
「うむ、僕は『探偵』の三田村秀一郎なのだ」
尖るような秀一郎の胸を見ながら、啓子はしばし沈思する。
「……どこかで」
―どこかで聞いているのは当たり前なのだ、僕は有名人である。
「会いましたか? あなた誰です?」
秀一郎は不満を隠し、慇懃に頭を下げる。
「僕はこの事件を調べているのだ、樋口賢吾さんを殺した犯人を捜している」
佐々木啓子の目に、警戒が浮かんだ。手にしていたハンカチでさっと涙を拭う。
「いや、そんなに不審がらないでほしいのだ、僕はあなたにお話を聞きたいだけなのだ」
「はあ」
「ごほん」と秀一郎は咳をする。
「まず聞きたいのは、あなたと賢吾……樋口賢吾氏との関係である」
影のように付いていた姫希が、はっと息を飲んだ。ど直球の質問をするなど、彼女も考えていなかったのだ。
「ふう」と佐々木啓子は不満げだった。
「ただの、……本当にただの部下の妻です」
声は金属の棒のように緩急がない。
「だが」
秀一郎がさらに進もうとすると、啓子は桃色のルージュの唇を噛んだ。
「あなたも……ですか……、無理もないですね」
啓子は後ろを伺った。もう樋口邸の玄関にあるアーチから大分遠ざかっている。しかし彼女は聞かれないように気をつけている。
「あのですねえ、私は本当に賢吾様と何の関係もないんですよ、奥様は過敏に疑いすぎてす」
「では、どうして賢吾氏はあなたにお金を渡すのだ? 変ではないか?」
「秀一郎様!」
さすがに姫希が非難の声を上げる、しかし構わない。
「はあ」佐々木啓子は視線を下げ、とつとつと語り出す。
「……私の夫、裕樹は賢吾様を庇って死んだんです」
「うむむ?」秀一郎が返事に迷っていると、彼女はきっと顔を上げる。
「五指グループの一つに五指ファーム、というのがあるのはご存じでしょう? 企業が農業を推進して管理する、少し前それに農家が酷く対立したんです、彼等は勘違いをしていた、自分たちが奴隷にされる、と思いこんだんです……実際は彼等と対等な立場を築こうと賢吾様は腐心なされていたのだけど、それで急進的な者に賢吾様は狙われたことがあるんです……その時、身を挺して……代わりに死んだのが、私の主人の裕樹です」
啓子は流れるような言葉をここで切る。過去の話ではあるが、彼女の心にはまだ荒波が立っているようだ。
「全く勝手なモノよ! ぼんやりしていて全然そんなタイプじゃなかったのに、社長のために命をかけるなんてカッコつけて、それで逆に自分の家庭を苦しくしたら意味ないのに、男ってバカね、誰も誉めてくれないわよ!」
突如怒りを思い出したのだろう、頬を紅潮させる啓子だが、すぐに冷静さを取り戻した。
「でも……普通なら、主人の勝手な行動として一時期は愛想で讃えられ、後は忘れ去られるだけなのに、賢吾様は違った、産まれたばかりの子供を抱え残された私に頭を下げて、これから後、お金が必要ならいくらでも用意する、とおっしゃって下さったのです……確かに」
彼女は辛そうだった。
「確かにそれに甘えた私は愚かです、奥様達にとっては恩を笠に着る泥棒です、それは分かっています、ただ……息子に、剣護にちゃんとした教育を、母親だけだからって言われたくないんです」
「剣護君は、賢吾氏の」
「秀一郎様!」姫希は秀一郎の言葉を、口を覆うことで阻止しようとしたようだが、外れて彼のもみ上げを掴んでしまい、恐らく弾みだろう首が倒れるほどひっぱる。
「い、痛いのだ! ドジがすぎるのだ」
だが、啓子は意を悟る。
「ありません、DNA検査でも何でもしてください、あの子は正真正銘、夫・裕樹の子です、偶然に名前が同じになって話がややこしくなったんですよ、まあ賢吾様は剣護を可愛がって下さいましたから、疑うのも無理はないですけど」
「ほっほう……」
秀一郎が間抜けな返答をしてしまったのは、的が外れてがっかりしたからだ。ここは火サスのように最もドロドロした繋がりがあると考えていた。大体そうでなくては面白くない、『有名探偵』が出張る事件として、イマイチ色気に欠ける。
わんわん、ジョンが嬉しそうに鳴き、少年の笑い声も混じる。
「あの犬、ジョンが息子にすごく懐いたからなのかもしれません、どうしてだか分かりませんが」
啓子は吐息を落とした。
次に言うべき言葉が思いつかなくて、秀一郎がそのまま突っ立っていると、軽い元気な足音に乗り、剣護が駆けてくる。
「ようケッコ……泣いてんのか? カッコワル! また泣かされたのかよ? あのデブに」
「これ!」
鋭く啓子は叱る。
「人に悪口言っては行けません、それにあの人は私たちの恩人ですよ」
剣護は不満そうに母を見上げる。
「だって、いつもケッコに酷いことゆーじゃんか、アイツ嫌いだ、で杏ねーちゃん、絢ねーちゃんは? 萎びたおじさんは?」
啓子はまだこの子に、賢吾氏のことを告げていないようだ。
「僕、かけっこで一着だったんだ! おじさんと約束したんだ、誰にも負けないって、教えなくっちゃ!、もう一人でも大丈夫だったんだ、ずっとケッコを待てる」
啓子の手が、ふんわりと剣護の頭に置かれる。
「……賢吾様にはもう会えないの、ごめんね」
「えー! 何でさ! いつでも来いって言ったよ、萎びたおじさん」
「……萎びたおじさん、て言ったらいけません! 賢吾様は許したかも知れないれけど、私は許しません! 年上の大人に変なあだ名つけないの!」
「ぶー」
むくれる剣護の手を、啓子は大事そうに包む。
「今日は帰りましょ……ご焼香くらいしたかったけど、仕方ないもんね」
そのまま門に向かう母子に、秀一郎の髪を弾みで数本引き抜いた姫希が一歩進む。
「あの佐々木さん、これからどうするんですか? その、賢吾さんはもう……」
佐々木啓子は振り向いて、朗らかに笑う。
「心配して下さってありがとう、でも私が甘えていました、今日、それを思い知ったわ、これから私この子の為に何でもやります! 私だってまだ若いんだし」
遠い樋口邸へ目を細めた。
「……何だって出来る」
とどこおりなく、何の異常もなく葬儀が終わり、なんやかんやの煩わしい形式から解き放たれた樋口邸は、ぬるま湯のような倦怠の中に沈んでいた。
今や故人となった樋口賢吾のデザインした広間に、家族と大岡冴、伊木澄江も疲れを隠さず集まっている。
「うーん、普通に終わってしまったなあ」
彼等を遠巻きに見ている倉木警部は、消沈により一回り縮んでいる。葬式の中で劇的な事件が起こる図式があったようだ。
「犯人はきっと見透かしているのだ、そう言う奴である」
「でもさぁ秀一郎君、わしの判断も間違っては、いないよねぇ?」
「なかなか見事な作戦だったのだ、警部」
「ぐふふふ、ありがとう、君が言うんだから間違いない、ところで君は何か気付いたかね?」
秀一郎は眉根を寄せた。
「怪人は出なかったが、同じような奴がいたのだ」
「む」倉木警部が斑禿げを撫でる。
「変な探偵がいた、『蕪山』とかいう奴である、あいつは怪しい、僕より無能なのに樋口家に信頼されている所がおかしい、僕よりモテるなどあり得ない、樋口家の過去を知っているなど胡乱だ、無意味に杏さんに好意を抱かれている所が、ルーズな髪型が、目立つスーツが、何もかも怪しい、きっと怪人なのだ」
「ようし、わかった」倉木警部は手を叩いた。
「そいつはわしが調べよう、なーに、そんな奴、一つや二つ後ろ暗い過去があるだろう、別件で捕まえて、後は……ぐふふふ」
想像した秀一郎も「ぐふふふ」となる。
「んじゃあ、秀一郎君、後は頼むよう」
倉木警部は重すぎる瞼を落としたようなウインクを残すと、不安そうな警官達を連れて屋敷から出て行った。
「おいおい、マジかよ」冴は警官の背に不満を漏らしたが、秀一郎が言い放つ。
「この屋敷ほど安全な場所はないのだ! 何故なら、僕がいる!」
さすがの冴も、彼に反論するような具は犯さなかった。ただそっぽを向くだけだ。
―今にみているのだ!
秀一郎は密かに男女を睨んだ。
「さて!」警察の姿が消え、不安と虚脱感の錘に囚われた樋口家の面々に、秀一郎は敢えて明るく振る舞った。
「ここは安全なのだ、だからいつもどお」
「うもーう!」
突然黒煙が上がる。
今まで床にたたきつけられた粘土のようにへたり込んでいた樋口亜沙子が、突然、そう言う機械のように凄まじい勢いで、煙を放射した。
「な、なんなのだ?」
彼女は他人の狼狽など気にせず、どたどたと床を鳴らして姿を消し、皆が数分呆然としていると帰ってきた。
「ま、ママ……」杏の声は喉のところでつっかえている。
亜沙子は着替えていた。喪服から、誰もが目をそむける深紅のワンピースに変わっていた。化粧もし直したらしく漆喰の壁のように白い。
一見すると化粧というより特殊メイクじみている。
「ぶふふふ」と亜沙子は笑い、体重を二割は増量させただろう重すぎるアクセサリーを鳴らす。
金銀パールプレゼント、ではないがそれらすべてを下品に盛って彼女は形成されていた。毒々しい輝きに、秀一郎の目が疲れる。
「ど、どうしたのよ?」
代表した杏の質問は「ぶふふふ」にかき消される。
「ぼ、ボクはゲームがあるから」いやーな予感を抱いたのだろう、敏文がソファから起き上がった。そのままそそくさと広間から出ようとチャレンジする。
「待ちなさぁい、敏文ちゃん、ここにイテねー」
亜沙子は許さなかった。聞いたこともない猫なで声で、皆を戦慄させる。
「お客様が来るのっふ」
秀一郎は亜沙子のウインクを見て、昼間に食べたパスタの味を苦みとして喉元に思い出す。
「何言っているの? ママ! パパのお葬式の後よ!」
「そうよーう、だからもう関係ないの、何しようが私の勝手、この家の全てが私のモノ」
ゆっくりとタバコをくわえる、一本、二本と順にだ。
誰もが無意味に顔を見合わせた。彼女の言っていることが分からない。しかし、状況は待ったなしで動き、樋口邸に来客を告げるチャイムが鳴り響いた。
「ぶはーいっ!」
乙女のように瞳を輝かせて、亜沙子がスカートを翻した。
秀一郎は振り向いて、皆が等しく眉間に皺を寄せているのを確認した。
そこに「だれ?」と書かれているかのようだ。
亜沙子が誇らしげに連れてきた人物は、諸々の懊悩をぶっ飛ばす威力があった。
「Hey! 初めましてかな?」
二メートルはあろう長身の男だった。しかし彼の特徴はそれではない、彫りの深いバタ臭い顔に浮かぶ偽善的な微笑でもなければ、出過ぎた腹でも不自然に白い歯でも、この季節にこんがりと焼けた肌でもなかった。
アメコミヒーローのように全体の印象を真四角にしている、盛り上がりすぎの筋肉だ。
男はまるでゴムを何重にも巻き付けたような、発達した膨らみきった筋肉をうんざりするほど強調している。
まだ時に冷える梅雨の時期だというのに、タンクトップと膝下で切られたGパンという姿で、ぱんぱんに張りてかてかと光る筋肉を、これでもか! と誇示している。
「むむん」と、衝撃に動けない皆の前で、正体不明の男は、天井に二つの拳を突き上げ両腕の力こぶを強調する、『ダブルバイセップス・フロント』というポーズを決めた。
「Hey、そうです、私が白井純一です」
「うんまー、ステキ! イカしてるぅ!」
隣にいた亜沙子が、他の家族の沈黙の中、ぴょんぴょん飛び跳ねた。
「そして、僕が白井飛勇だよ、美しい父の美しい息子さ」
秀一郎ははっとした。あまりにもインパクトの強い純一に目を奪われ、その背後にいた少年に気付かなかった。白井純一の影に隠れるように、しかし決して地味でなく、冴と同年代らしき少年が立っていた。
秀一郎が狼狽えたのが面白かったのか、猫のような目をした端正な容姿の少年・白井飛勇は、女形のような仕草で口元を手で覆い「うふふ」と笑う。
「誰だおまいら?」
誰もが遠慮して口ごもった疑問を、敏文が簡単に形にする。
「Hey、敏文、私は……」
純一はポーズを変える。上にあった拳をそのままの形で突き出た腹の横に下げる『ラットスプレッド・フロント』だ。
「Hey、この美しい筋肉を見て分かるように、美しい筋肉をした白井純一だ、神田ボディビル選手権、八年連続三位の美しい筋肉、触ってもいいぞ」
狭くて微妙な栄光を自慢げに語り、純一は胸の筋肉をぴくぴく動かす。
「ふざけんな、キモイ! で、何でここにいるんだよ!」
敏文にしてはもっともな疑問だ、思わず秀一郎も頷いてしまう。
「Hey、それは」今度は体を斜めにして、膝を支点に脚をくの字に曲げ、片手でもう片方手首を掴む『サイドチェスト』を決めた。
「美しいからだ!」
「……バカにしているのか?」
いちいち敏文らしくなく正論だ。
慌てたように亜沙子が敏文の前に進む。
「うんまぁ、敏文ちゃん、知らなかったの? 言ってないものね、この人が新しいパパよ」
「ええ!」
絢、杏姉妹の見事なユニゾンだった。
当然だ、父親の葬式の日にいきなり出てきた筋肉男を新しい父親と説明されて、納得する頭の緩い奴はいない。
「うふふふ」
一連を見ていた飛勇が愉快そうに形の良い唇を撫でた。敏文はそれでキレた。
「ふ、ふざけんなこのキモども! そんなワケにいくか!」
「Hey、そう言うなよ敏文、素直になって私のことを『お父さん』と呼び、この筋肉を崇め讃え、筋肉の美しさに感動しろ」
「ボクの名前を呼ぶな! キモキモムキムキ」
純一の笑み、口元を歪める微笑は変わらなかった、ただ目が金属のような冷たい光を帯びた。つかつかと敏文の前まで歩く。
「Hey、敏文、醜い、ぞ」
「ぐええ」純一に突然顔面を殴られ、敏文は喚いた。
「お、オマエ! ボクを殴ったな! 許さない、泣いても許さない」 よろめいた敏文は、すぐに態勢を立て直しごそごそとズボンのポケットを探る。
「どうだ!」
が、皆彼の手にあるものを見て、首を捻った。安っぽい筆、習字などで使う毛筆を握っている。
「おおおおお、みんなバカにしているな、むふふふ、ボクは実は時代劇ファンでもあるんだぞぉ」
敏文が軸をくるりと回すと、筆先から鈍い色の太い針が突き出る。
「ふむ」と秀一郎は理解した。
―『時代劇』とは悪者を一撃で殺していく裏の殺し屋の番組であるな、それにしても、あんなえげつないアイテム、どこに売っているのだ?
「むふふふふ、ツーハンだぞぅ、ボクがよく見るアニメサイトは、僕たちの為の護身グッズの情報に溢れているんだ」
テレパシーなのか敏文は謎を解明してくれた、そのまま太い唇を舐める。
「と、敏文ちゃん、やめて」
亜沙子が悲鳴を上げるが、純一の太い腕が彼女を止める。
「Hey、敏文、お前の醜さには呆れるな」
「てめ!」
敏文は針を振りかぶり純一に突進した、簡単に武器を持つ手を掴まれ、その場に背中から倒される。
「Hey、敏文、これから私のやり方を教えてやる、これからは万事こうやる」
純一の拳が動けない敏文の顔面にヒットした。二回、三回、四回、と鈍い音が続き、敏文は鼻からも口からも血を垂れながら、目を回してぐったりする。
だが純一は辞めない。顔がどす黒く変色し、こめかみで太い血管が蠢いていた。
「ま、ママー!」
敏文は恥も外聞もなく泣き出した。
「うまあ、ゲロ格好いい、ゲロ惚れー」
亜沙子は純一にうっとりとしている。
「ちょっと……」今まで展開に全く付いてこれなかった杏が、すっと立ち上がった。
「やめてよ! アニキ、死んじゃうよ!」
「黙れ! 私のやり方に文句は許さない! 女は叫ぶな! みっともない」
純一の恫喝に、杏は息を飲みその場に凍り付いた。
「ち」と舌打ちし、冴が腰を上げる。
「やめろオッサン、そのゲスを殺すのはオレだ」
「む」純一がようやく動きを止め、細めた目で値踏みをするかのように、彼女の上から下までをなぞった。
「ほう、なるほど、軟弱者ばかりと思ったが、なかなかと見た、しかし残念だな、君の筋肉高度は良く見積もっても一〇、私の筋肉強度は一〇〇だ、勝てない」
「ほざけ!」
冴はボクシングのようなファイティングポーズを取る。
「Hey、カモン」
純一は体の下に敏文を組み敷いたまま、人差し指と中指を曲げて冴を挑発する。
「てめえ!」
冴は飛びかかった、場慣れした見事な動きだ。しかし純一は彼女の拳を顔面すれすれでかわし、次の瞬間、頬をひっぱたいた。
冴は力無く尻餅をつく。
「くそ! ちくしょう」
赤い頬をさすりながら、彼女は立とうとする。
「だめだよ」
その前に冴の肩は、後ろから飛勇に押さえられた。
「何だよてめえ、離せ! 殺すぞ」
「僕にはわかる、本当は君はそんな娘じゃない、そんなことしたらだめだよ」
「うるさい!」振り向きざまの冴の拳を、飛勇は簡単に避けた。
「父さんもダメだ、この子はこれでも女の子だ」
「何!」
純一は口を大きく開いた。
「それは、ダメだな」
「うん、ダメだよ、女の子の顔を殴ったらだめだよ」
「そうだな飛勇、女の子は顔じゃなく、見えない服を着た場所を殴るんだ」
「うん、そうしたら誤魔化せる」
「何言ってんだ!」
冴が再び飛勇を攻撃しようとするが、その前に彼は一歩踏みだし素早く彼女を抱きしめた。
「うわわ、何をする!」
「うふふふ、君は本当は可愛い娘だろ? 僕には分かる、そんな格好しているけど僕には関係ない」
飛勇は含み笑いしながら、手で冴の体をなぞっていく。
「僕は女の子の感触が大好きなんだ、うんうん、君は意外に女の子らしい体つきだね?」
「や、やめろ! 離せ、触るな、離せったら、……やめて! いやっ!」
飛勇のデリカシーのない手の動きに、冴はついに高い声で泣き声を上げた。
―セクハラに泣くとは、男女も女々しい女であるな。
「ふむ」秀一郎は腕を組んだ。
何やら空気が悪くなっているが、どうしようもない。これは樋口家の問題であり、彼は野蛮な暴力が嫌いなのだ。
もしやろうとしたら、恐らく筋肉男もセクハラ野郎も敵ではないだろうが、『探偵』は野蛮ではいけない。
だから必死に抵抗する冴の姿を、黙って観察した。
「……女の子が、離して、て言って、いるん、ですよ?」
秀一郎は驚いた。いつの間にか姫希が進み出ていた。声にどこか冷酷な響きがあるような気がしたが、空耳だろう。
「うふふふ」
ぱっと飛勇は身を守るように蹲る冴から離れ、姫希の正面に立つ。
「ふーん、さっきから気になっていたけど、このメイドいいね、僕に相応しい、僕が貰ってあげる、君、良かったね」
ぼかっ、という音と共に、飛勇が仰け反った。
逃れようとした姫希の手が、何かの弾みで飛勇に当たったようだ。
「ぐふ! 僕が殴られた? 音速拳まで避けられる僕が? まさか光速? 君は……痛い、痛いよ、父さん! この娘が人体の急所たる人中を殴ったよ、痛いよ!」
「……すみません、手を出したら人体の急所たる人中に当たってしまいました」
ぺこりと素直に姫希は謝った。
「Hey、きさま!」
敏文を捨てた純一が猛烈な勢いで、姫希に近寄る。
「私の息子を殴ったな? 女の分際で、それはダメだ、女は黙って男の言うことを聞け、黙って殴らればいいんだ、逆らうなんて、おい、それはダメだ」
彼女の前にそびえ立ちながら、純一は首を振る。
「ダメだ、ダメだ、ダメだ」
秀一郎は焦った。姫希を助けなければならない、しかしその方法がなかった。
白井純一は真にマッチョだ、マッチョというのはスペイン語の『マチョ』から来ている、意味は『雄の~』という形容詞で転じて『男らしさ』そして『男性優位主義』をも指す。つまり白井純一はマッチョの中のマッチョ、マッチョ故にマッチョになった筋金入りのマッチョ、否、マッチョになったからマッチョが目覚めたマッチョなのか。秀一郎は混乱を何とか静めようと必死だった。
―な、何にせよ暴力は……野蛮である。
「……目薬……目薬の薬液を……全部……瞬間接着剤に代えた……使いたい……やってやりたい……きっと楽しい……試す時が来た……くすくすくすくすくす……」
恐怖に彼女も錯乱しているのだろう、ぼそりと訳の分からぬ事を言う。
「こ、こいつ……」
純一が、立ち止まって緊張したように瞳を広げた。
「むう……」
険しい顔で何か考えて出す。か弱い女の子に暴力を振るうのを躊躇っているのだろう。
「待つのだ!」
秀一郎はぶるぶると揺れる足を制して、一歩踏み出した。
「……なんだお前?」
「ぼ、僕は『有名探偵』なのだ、僕の助手が無礼をした……それは謝る、だがそれ以上彼女に何かすると僕が……僕のお父様がゆ、許さないのだ! そ、そう僕には警察関係者の知り合いがたくさんいる、ここでの暴力は絶対に公にして、決して許さない、僕のお父様がゆるさないのだ、徹底的に裁判で争う……ちなみに僕のお父様は弁護士なのだ、きっと知り合いと大弁護団を結成してお前を社会から抹殺する、僕のお母様は……代議士である! 公権力によりお前なんか潰してやるのだ」
樋口邸の皆が沈黙した。数秒、どこか間の抜けた時間が流れる。
「ふん」と純一は姫希に背を向けた。
「まあいい、つまらん喧嘩は下らんしな、Hey、『探偵』とやら、お前達はもう消えろ、この家にはいらない、今すぐにだ!」
「ダッメです!」
はらはらと見守っていた澄江が驚く。
「もう夕食のっ下準備、しってしまいました、探偵さんの分っもありまっす、予定変更不可でっす」
頬を歪める純一だが、すぐにわざとらしい微笑に戻る。
「なるほど分かった、なら今晩が最後の晩餐だ、Hey、『探偵』精々味わえ、そしてお前は口調が変だ!」
秀一郎は唇を噛みしめて純一を睨んだ。
「すみません、つい」
足音なく戻ってきた姫希が、髪を揺らして秀一郎に頭を下げる。
「いいのだ、男女を助けようとした君はなかなかなのだ、しかしその君を僕は身を挺して助けたのだ、君の為に勇敢にもあの筋肉男に立ち向かったのだ、僕としては君の為なら暴力も辞さないつもりであったが……まあ、屋敷は出なければならなくなった、その前にやることは山積みである……うん? 何をしているのだ?」
「いえ」姫希、唇をほころばせる。
「目薬をしまっているんです、使いたかった」
「ふむ?」
姫希は疲れ目らしい。
三田村秀一郎と槙島姫希は故樋口賢吾の部屋にいた。彼の終焉の地ともなった不吉な場所だ。
夕闇が迫る時刻、当然シャンデリア風の電灯はつけていたが、場所の言われ、殺人が行われたという事実が、部屋をどうしようもなく冷え冷えとさせていた。
「ふむ」と秀一郎は唇を曲げ、樋口賢吾の机を見つめる。
彼と姫希はこの後の夕食が終わったら、この屋敷から追い出される。樋口家の人々を護るために昼は秀一郎、夜は姫希が共々寝ずに丸二日も警備したというのに、増えすぎた猫を、ダンボールパッケージにし雨中に放るような酷い扱いだ。
秀一郎には落ち度はなかった、彼の助手がしくじったのだ。勿論、それについての恨み言はない。『天才』ではない人間はよくある失敗だ。賢い彼女はそれで学んでくれるだろう。
残った少ない時間をちょっとでも有意義にするために、彼等は事件現場を訪れているのだ。
しかし警察が何もかもを持ち去ったために、その部屋にはもう事件に関与した大部分の物がなかった。
樋口家への脅迫文もなく、机の血も、賢吾の遺体もない。
痕跡が辛うじて残るだけだ。
「そもそも……」
秀一郎は腕を組みながら誰ともなく呟いた。
「この事件には謎が多いのだ」
姫希は何も返さないがそれで良い、秀一郎は語りかけるように頭の中を整理するクセがあり、彼女も知っている。
「まず、そもそも最初にどうやって絢さんを狙ったか? 青酸カリは一人分以下、少なすぎる、次にどうやって賢吾氏を殺したか? 凶器もなく、出入りする事は出来ない、切断した指はどうしたのか? やはりあの怪人が持って行ったのか? しかし……」
わんわん、部屋の気配に気付いたジョンが喚き、秀一郎は苛立ってカーペットを蹴った。
思考を中断して、頭を掻きながら何となく机の引き出しを開ける。中の書類も押収されたらしく、ドライバーがごろごろと転がるだけだ。
「…………」
そのまま踵を返し、壁に立てかけてある破壊された扉に近づいた。
冴のハンマー攻撃により歪んでいる。破片やら釘はその下にまとめられていた。
秀一郎の目が鈍い光を捉えた。手を伸ばして真鍮のドアノブを掴んだ。
―あの時……。
記憶が巻き戻り、光景が蘇る。
ドアノブは取れてしまったのだ。それで完全に外から開かなくなった。
彼の手の中のドアノブは、奇妙な形にひしゃげていた。
「うむ」
秀一郎は唸って振り返り、じっと見つめている姫希に笑みを作った。
「犯行文……アレを作ったのはやはりワープロ、ワープロソフトを使用したパソコンらしいのだ、フォントの特徴、インクの種類から判別できたが、どこにもある量産品である」
彼女は全く違うことを考えていたようだ。憂いの帯びた瞳をついと落とす。
「……あの人……あの酷い人は何なのですか?」
どうやら彼女は白井純一にまだ憤っているらしい。
「いきなり出てきて、皆さんにあんな暴力……ゆるせません」
「ふむ」秀一郎は了解した。
「あれは恐らく敏文君、絢さん、杏さんの本当の父親だろう」
「え!」
「ああ、君には言ってなかったか? 司法解剖でいろいろ分かったのだ、まず樋口賢吾さんは肺癌で、あと三ヶ月もつかどうかも微妙だったらしいのだ、そして彼は無精子症であった」
「そ……れは」
「そう、彼が家族、息子と娘と思っていた三人は赤の他人である」
「そ、そんな」
「ふむ、本当なのだ、亜沙子さんが認めたのだ」
秀一郎は顔をしかめる。亜沙子はタバコを吹かしながら「もうん? それがどうしたというの? 失礼なポリ公ども、犯罪ではないでしょ? それとも捕まえる?」と開き直ったらしい。
倉木警部は苦々しげに言ってたが、あの女なら何重もあり得る。
「賢吾さんは……それを?」
「知っていたと見る方が妥当である、何しろ自分の事に関する詳細な診断書が机にあったそうである」
「はあ」と姫希は目元の陰りが濃い、悲しそうな表情になるが、実は秀一郎は半ば予想していた。彼女のそんな顔も彼にはお気に入りの一つなのだ。
「秀一郎様」
「ふむ」
「その事は……どんなことがあっても、杏さんや絢さんに言わないで下さい」
「むふ? だがどうせいつか亜沙子さんか筋肉男が話すのだ、ならば」
「言わないで、下さい、わかり、ましたか?」
彼女は妙に文節を切る。言い含めるているようだ。
「ふ、ふむ?、まあ、その何となくなのだ」
「……お返事、ちゃんと、言葉に、して下さい」
「わかったのだ、今何もかもがクリアになった、よく分かったのだ、言わない、ここに誓うのだ……いいであるか?」
妙な迫力を感じた秀一郎は掌を見せて外国風に誓う、姫希は納得したようだ。
「……探偵君……いる?」
タイミング良く、悪く? 杏の声がした。
「ここだ杏さんか?」
姫希の物言いたげな視線があるが、秀一郎は誓いを忘れていない。
「調べ物なのだ」
「さがしちゃったよ……」
やってきた杏の表情は暗かった。父の葬儀の日に訳の分からない筋肉男が現れ、母に「新しい父」と一方的に言われたのだ仕方ない。しかもそれが本物の『父親』である。
秀一郎ははたと口元に拳を当てた。言うところだった、姫希との約束を忘れたわけではない、真実を追究する『探偵』としての宿命が、勝手に唇を動かそうとしたのだ。
「ごめんね」
杏は震える声で謝った。
「お茶もあげられなくて」
―謝るのは当然である。この家は僕を蔑ろにしているのだ。
秀一郎は大きく首肯した。姫希の一件の後、雰囲気を変えるためだろう澄江が無駄に明るくティータイムを告げたのだ。
亜沙子は「ぶはははは」と不気味に笑い、秀一郎らに特製のポインセチアティーを出そうとした。それはそれで興味深かったが、純一が手を振った。
「そいつらに妙な物をやるな、この家の管理は私がする、余計なことをするな!」
ぼふっと、皆の驚愕の中、純一の太い腕が亜沙子の腹を殴る。
「ああ、この痛みも、ステキ……」
そんな亜沙子に秀一郎らは構わなかった。
ただ杏は酷くショックを受けているようだ。
かつてあんなに勝ち気で挑戦的だった杏の視線が、おどおどと揺れている。
ここ数日で彼女が受けた精神的な痛手の大きさを物語っている。姉が殺されかけ、怪人の存在を知り、父が死に、新しい父がやってきた。
少女の繊細な感性は、圧力許容量を超えたはずだ。
「あの変な男……ごめんなさい」
彼女はぶつぶつと呟き、何度も何度も謝罪する。
「杏さん、いいんですよ、私たちは気にしていませんから」
姫希が優しく答えると、杏は目元を拭う。
「ありがとう、姫希ちゃん……ごめん、て私らしくないね? あーあ、また蕪山さんに笑われる……イヤだなあ」
「その時は、またタカミーを蹴っちゃって下さい」
「え」と杏はしばらく目を丸くして「あははは」と蕪山のように笑い出す。
「そうだね! ようっし蕪山め! 見てなさい!」
「……で、何であるか杏さん?」
蕪山の話題を終わらせたくて、秀一郎はせかす。
「ああ! 澄江さんが夕ご飯だって! 最後なのは残念だけど、またすぐ呼ぶから」
「ご飯……行くのだ!」
伊木澄江の料理の腕はすばらしい。秀一郎は父や母によく高級料理店に連れていって貰うのだが、タイヤメーカーに高位ランク付けをされた店よりも、彼女の作る食べ物はおいしかった。
秀一郎の口の中には早くも唾が溜まり、それが唇の端からこぼれたが、秀一郎は冷静に紳士的にハンカチを取り出して拭った。
鼻歌交じりの秀一郎は、食堂ではたと立ち止まることになる。
樋口家の食事は一階にある食堂で、皆で取ることとなっている。食堂と呼ばれている部屋は長方形で、やはり長方形の大きなテーブルが置かれている。
秀一郎は無表情を心がけ、自分にあてがわれた椅子に向かった。
じろり、と遠慮も好意もない視線が追う。
ここ二日、それほど親しくない敏文と亜沙子がいても食事はそれなりに楽しかった。彼等を視界に入れなければ問題ないし、向こうもそうしていた。が、その均衡は完全に崩壊していた。
いつも開いていた上座の賢吾氏の席に、偉そうな白井純一が座っているのだ。隣には飛勇が陣取り、二人とも嘘くさい微笑みを貼り付けている。
同じテーブルについている敏文が心穏やかなわけがない。『敵愾心』という題名で作成されたような何もかもつり上がった表情で、燃える怒りのオーラを出している。
食器を並べている冴の表面は変わらないが、逆に彼女の内心が分かる。
気配が伝わっているのだろう絢はじっと顔を伏せて一言もなく、杏も誰も見ないように気を配りながら席に着いた。
亜沙子は子供達の様子に頓着せず、光を見るように純一に目をすぼめている。
「食事でっすー、探偵さん、お席っにー」
変わらないのは澄江だけだが、彼女の額にも尋常じゃない汗が光っている。実は緊張しているのだろう。
白井親子と樋口家は水と油、といった風で相性が最悪だった。
彼等が打ち解けるよりも早く、鳥と魚の友好関係が結ばれることだろう。
秀一郎は渋い顔になる。彼は食事とは雰囲気を楽しむ物と認知していた。これほど絶望的な空気では、澄江がどんな伝説の料理を作っても味も分からない。
姫希が口元を引き締めながら着席するので、秀一郎も渋面で椅子に近づいた。
「Hey! 待て! 探偵」
腰を落とそうとした瞬間、純一が鋭く止めた。
ずずずっと彼は席を立ち、テーブルにそって周り真剣な様子で近寄ってくる。筋肉の塊の長身の男がのっしのっしと迫る。秀一郎の背骨がびりびりと痺れた。
「かっこいい……かっこいいな」
「ふ、ふむ」屈みそうだった秀一郎は、少し胸を張った。
―ようやく僕の本質に気付いたか、そう僕は凡人の目には格好良く見えるのだ。
「この椅子、とてもかっこいい」
純一は秀一郎の椅子の背もたれを掴み、しげしげとそれを睨めた。
初日、まだ賢吾氏が生きていたとき、彼によって秀一郎にあてがわれた来客用の椅子だった。
何でも著名なデザイナーが設計したと言う、で包み込むほど柔らかい革張りの、異常に背もたれが高い椅子だ。
これまでの二日、秀一郎は何も感じず座っていたが、純一には感じるところがあったらしく、好物を前にした子供のように嬉しそうだ。
「かっこいい、艶が格好いい、かっこいいぞ、これ、かっこいい、高そうでかっこいい」
賞賛の後、純一は探偵に気付く。
「Hey! これはお前のようなかっこ悪い坊やには似合わない、私が座る、いいな?」
純一の目に、再び金属のような色があると見て取り、秀一郎は嫌々認めた。
「うむ、そうであるな、僕何かよりも、似合っているである、そうであるな、僕は普通の椅子でいいのだ、ふむ、好きにしろ」
「ああ?」
「……どうぞ、格好いい椅子はあなたにピッタリです、イヒヒヒヒ」
満足そうに純一が鼻息を吹いた。
「よし運べ」
「はい」と秀一郎がにへっと笑うが、純一は目尻を上げる。
「Hey! お前じゃない、敏文と絢と杏、お前達だ」
「え?」
名指しされた三人は目を丸くする。
「Hey! 私をバカにするな、お前達は実は私に不満を持っているだろう、良い機会だ、言うことを聞かせてやる」
「な、なんでさ!」
杏がテーブルを叩いて席から立つが、純一は冷然とした笑みを閃かせ、彼女の顔程ある拳を作って見せた。
「Hey! 俺のやり方はさっき教えたな?」
「…………」
三人は身じろぎした。純一のやり方、暴力先行という理不尽な方針は目にしているのだ。
「……やります」
それでも持ちこたえ睨み返した杏だが、危機を察したらしく、絢が素直に応じた。
「杏ちゃん、やろ」
絢は歯を食いしばる妹の肩にそっと触れ、自ら大きな椅子の背もたれを掴む。
「……わかったわよ、アニキ!」
杏も疲れたような表情で続き、「くっそー、ぷー」と敏文は腰を上げた。
秀一郎が座っていた椅子はかなり重かったらしく、三人がかりでも辛そうだ。特に病み上がりの絢は、苦しそうな息を何度もつく。
「私も……」と見ていられなかった姫希が手を貸し、ようやく椅子は動き出した。
秀一郎はもちろん手伝わない。『探偵』は引っ越し屋ではないのだ。大体、今度のことで呼ばれたの敏文ら三人であり、秀一郎はこれでも『ゲスト』なのだ。
―早くして欲しいのだ、料理が冷めるであろう。
秀一郎の興味はすでに、機会を窺っている澄江の料理に向いている。並べてある皿やスプーンを見る限り、どうやら最初はスープらしい。
全く無意味な椅子交換が終わると、純一は満足したように、秀一郎から取り上げた椅子に座った。満面に笑みを浮かべ、鼻をひくつかせている。
「ちくしょうー、ぴー!」
汗だくの敏文がよろよろと席に戻ると、興味深げに観察していた飛勇がくすりと笑う。
「お、オマエ! なーんだよ? 殺すぞ! ぷー」
「Hey、ダメだ、敏文、それはダメだ」
簡単に純一の大きな手に阻止され、敏文の怒りに殺気がこもりだした。
「さっ、皆っさん」
狼狽を隠すような作り笑いで、澄江がお玉を取り皿にスープを注いで行く。
「お食事っの時は、喧嘩っはしないよっうに、おっいしい物もマっずくなっりまーす」
言うまでもなく、もう料理を楽しむ雰囲気ではない。
だが秀一郎は雑念を振り払う。これが終われば屋敷を出るのだ、食事くらい楽しまなければ損だ。
それについては純一も同様らしく、スープの匂いを、体を仰け反らせるほど目一杯吸い込んでいる。
「今日っは、まっず、エンドウ豆っのスープっでーす」
うんうんと彼は説明を聞く。
「所で、ミルクはあるかね? 私は食事の後、プロテインを飲まねばならない、うん、プロテインだ、筋肉に栄養を与えるプロテイン、その為にミルクがいる、うん、プロテインの為にミルクだ、ミルクにプロテインをさっと入れる、筋肉のためにプロテイン」
純一が片腕で力こぶを作ると、澄江は何度も頷いた。
「は、は、はっいー、お持ちしっます」
いやらしい笑みを浮かべた純一は嬉しそうにスプーンでスープを掬った。
ずるずると飲みこみ、椅子にもたれた。
「ふむふむ、なかなかだな、このスー……へべべっ」
べしゃと笑顔のまま、純一はスープ皿に顔を突っ込んだ。
「え?」とその場にいた誰もが、男がスープに顔を浸している妙な光景をしばし見続けた。「ぶはぁ!」最初に動いた、異常に気付いた亜沙子が慌てて彼を起こす。
白井純一の見開いた目はもう微動もしなかった。スープまみれの顔面は弛緩しきっていて、だらしなく重力にたわむ。
秀一郎が席を蹴り、「ぶばばばば」と取り乱す亜沙子に構わず、彼の首に触れた。
「死んでる……のだ」
誰かが悲鳴を上げた、杏か絢か、冴だったもしれない。とにかくふれ切った高周波のような、耳の奥を痛くするような叫びだ。
「ぶそー! ぶそよ! ぶそ! ぶそ!」
亜沙子はもはやぴくりとも動かぬ純一の死体にしがみつき、訳の分からぬ事を口走っている。
秀一郎はその時、輝きに気付いた。純一の着席している椅子の背もたれだ。よくよく目を凝らすと、純一の頭辺りが触れていた場所に小さな針が煌めいていた。
「こ、これは?」
「はははは」と狂ったような笑い声が、突如空気を震わす。
秀一郎が思わず振り返ると、冴が笑っていた。目に涙を溜めながら、天井に向かって大きな口を開けて哄笑している。
「兄ちゃんだ!」そしてまた「ははははは」とジャングルの鳥のようにけたたましく笑う。
「兄ちゃんが復讐しているんだ! みんな死ぬ! 兄ちゃんが殺す! この家の者を殺すんだ! そうでしょ? 兄ちゃん、そうよね?」
秀一郎の下顎は『あんぐり』と関節が外れそうな勢いで落ちた。賢吾氏の葬式に突如現れたマッチョなマッチョ思想(マチズモ)男が、いきなり樋口家の全権を握る発言をし、その日の内に死んだのだ。にわかに理解できない。
立ちつくす秀一郎は、呆れたような飛勇の呟きを聞いた。
「ダメだよ父さん、それはかっこわるいよ」
第五章
知らせを聞いた倉木警部は、文字通り飛んできた。
「どぐは? これはどうしたことだ秀一郎君」
血走った目に、秀一郎は不機嫌に答える。
「どうもこうもないのた、見たとおり彼がやられたのだ」
「やられたって……いや、わしはその、君を」
「間違ってもらっては困るのだ! 警部!」
秀一郎は不満そうに唇を裏返す倉木警部を、言葉で激しく打擲した。
「僕は誰も事件を防ぐ、とか、誰かを守る、とは言っていないのだ! ただ事件を解決すると言ったのだ、それにこの白井とかいう筋肉は完全な計算外、そう、僕のせいではないのだ」
「うむーん」
倉木警部は汗まみれの額に手をやる。
「す、すまない、いや、これはわしの勘違いだった……いや、君があまりにも自信タップリだから……つい」
もごもごと倉木警部が弁解するから、秀一郎は舌打ちをする。
―とんでもない勘違いなのだ、僕はただの『高校生』なのだ、少し頭の良いだけの、格好良い『高校生』にすぎないのだ、なのに警察が何もかもを負わせるなんて間違っている。
秀一郎は横目でしょんぼりしている倉木警部を突いた。
最も、彼等は樋口家の者達の厳しい視線に晒されている。
「どうしてよ! 探偵君、安心だって言ったじゃない」
倒れた絢を介抱している手を止め、杏がきつめの口調で問う。
「ボクは言ったんだぷー、アイツはダメだって、でもいいんだー、死んだのがクソバカ野郎だ、ボクは結構だね」
ただ、続く追求はない。絢はソファに伏せっていて、亜沙子は三本タバコをくわええて煙の中でくすんでいる。冴もぼんやりと床で膝を抱えていて、澄江は慎重に彼女に言葉をかけている。
「もう安心だって、言ったじゃない!」
「い、いや杏さん、違うのだ、僕は事件を解決」
杏の眉尻が跳ね上がる。
「そういうのって、言い訳って言うのよ!」
秀一郎が苛立つのは、背後で倉木警部の頷く気配がするからだ。
「僕は白井なんて知らないのだ、責任持てないのだ、僕が言ったのはあくまで」
「だから!」
杏は真珠色の歯で唇を噛んだが、それ以上秀一郎との口論は続かない。煙の塊だった亜沙子が不意に「うぎゃああ!」と叫んだからだ。
「うぎゃあ、うぎゃあ、うぎゃあ!」
「ど、どうしたのよ? ママ、ねえ!」
「うぎぃやぁあ! 死んだ! 死んでしまった、純一サマが! ワタシの恋、二〇年の誓い……マイラブ、Oh、No」
ぶるぶると頬の肉を震わせる。
「くすくす」父を目の前で失った飛勇が、自分だけ傍観者のように悠然と笑った。
「うんぎゃー、テメ、何がおかしい! コラ」
亜沙子はその胸ぐらを掴もうとするが、飛勇は華麗に避け、腰を曲げた勢いのまま彼女は床に転がる。
「醜い女はアウト! 触れるな汚い」
「うんまー!」
亜沙子はそのまま床に顔をこすりつけて号泣する。
「純一サマー! うがーん! うがーん!」
「か、怪人!」
ソファの絢が寝たまま飛び上がった。
「怪人が、怪人が、怪人がくるよぅ! 私たちを、裁きに、来るよぅ」
どうやら騒ぎで起きてしまい、夢と現実を混同しているようだ。
―しかし、寝ている態勢から三〇センチは跳んだのだ、絢さんなかなかの腹筋であるな。
「……か、怪人……ん」
「絢ちゃん、大丈夫だから、たんて……私がいるから大丈夫」
杏が、小刻みに震える姉の体を抱きしめ、頭を優しく撫でる。
「……ひどいですね」
姫希が呟いた。
「そうであるな、人は死を意識すると脆いのだ、自分で自分を追いつめていく、ふむ、勉強になるであるな」
「人ごと……」
「ふむ? 何か言ったかい姫希?」
「独り言です」
警官が現れ、小走りに倉木警部に近づき何やら書類を渡す。
「う、うん」
生気のない様子の倉木警部が、片頬を震わせた後、説明する。
「ガイシャの事が分かったよ、簡単に割れた」
何か釈然としない、と言った体の倉木警部だが、秀一郎は無視する。
「うおほん、名前は……ダウニー・ジュンイチ……どうやら父がアメリカ人らしい、年齢は四三歳、住所は千葉県の松戸市、ボディビル愛好神田二丁目大会で三位、定職なし、前妻の間に子供一人、名は飛勇」
「ふむ」倉木は投げやりだが、秀一郎には実に興味深い情報だった。白井純一の正体がハーフのダウニー・ジュンイチということは樋口姉妹はクォーターと言うことだ、あのモデル体型と日本人離れした容姿の理由が分かる、ボディビル選手権の自慢はより狭い範囲で、定職無し、ということは何者かに養われていた、おそらく亜沙子が賢吾氏に内緒で送金していたという所だろう。
「しかし」
倉木警部は鼻息を吹かした。
「あの体で三位か、なら二位と一位はどれだけマッチョなんだか?」
「違うのだ、警部」秀一郎は軽く首を振った。
「うむむ? 何がだね秀一郎君?」
「ごほん」秀一郎はわざと少し間をおく。
「恐らく純一氏……ミスター・ジュンイチほどの筋肉の持ち主はそうそういないのである、マンガの超人みたいな体型であった」
「だが……実際は狭い地区の町大会で、たかが三位だぞう」
「そう言う大会しか出られなかったのだ、仕方なく三位にしてもらったのだ」
「ううむ? 何故だい?」
相手がおっさんなのでいまいち乗らない秀一郎だが、子供のような倉木警部の目に、説明してやる事にした。
「彼はドーピングしていたのだ、ステロイドホルモン剤などを使用して不自然な筋肉を作っていた、ボディビルの世界にも近年ドーピング禁止の風潮が広がったのである、ナチュラル・ボディビルというトレーニングによって生み出される筋肉を評価するようになったのだ、だから彼のような薬の権化はメインに行けなくなったのである」
「しかし、どうしてダウニー・ジュンイチがドーピングしていると分かるのだね?」
「ああ、それは一目で気付いたのだ、まず筋肉の付き方が異常である、いかにハーフ、他の人種の血が入っているとはいえ、あんな焼いたマシュマロみたいに体は膨れないのだ、それに彼は腹が出すぎていたのだ、ドーピングの副作用で内臓が肥大していたのである」
「ほ、ほほう」パチリと警部は手を叩いた。
「さ、さすが秀一郎君、いや一瞬でも君を疑ったわしが愚かだった、君はすごい!」
秀一郎は鼻を上げて「常識です」と切る。
「ところで警部、本題なのだ」
一転声を潜め、横目で冴を観察する。彼女はずっと床に座ったまま顔も上げない。
「うん、大岡冴だね」倉木警部は警察手帳を取り出した。
「彼女は空手道場に通っている、あとは買い物で必ず値切る、浮いた金で密かにケーキを買って食べている、一番好きなのはチョコクリームケーキだ」
「……それだけであるか?」
秀一郎は失望を隠さなかった。
「誰かを叩いたとか、ガラスを割ったとか、犯罪性のあることはないですか?」
「う、うん、道場での態度も真面目で、子供を不良から守ったこともある」
秀一郎の目に喜びが走る。
「その不良は殴られたのであるか? 怪我でもすれば訴訟に持って行ける!」
「う、うん、残念ながら、彼女の一喝で逃げたようだ」
「はあ……ちっ」
「……あの、それって、何のお話ですか?」
いつの間にか聞いていた姫希が、大きな黒瞳を秀一郎にじっと向けている。
「いやね、秀一郎君から大岡冴をけちょんけちょんにする情報を」
「警部! 姫希、えーと、その……である、うん! 僕は犯罪性のある者の予防を考えていたのだ、つ、つまり犯罪を未然に防ぐために公権力を使い、人々の安寧を」
「……そうですか、ご苦労様です」
どこか突き放された気がするので、秀一郎はたじろいで話題を切り替えた。
「そ、それで周りに配置した警官達は何と?」
倉木警部は鼻の下を指でこすった。
「純一氏の事件の前後、辺りに怪しい者はいなかった、樋口家の関係者も見ていないそうだ」
「なるほど、で椅子は?」
「まだ科研に行ったわけではないから詳しくは分からんがあ……毒物が塗られていた、で決まりだろう」
「うむ」満足そうに秀一郎は頷いた。
「あの椅子には直前まで僕が座っていたのだ、だとしたら細工できるのはこの家の誰か、ということである」
「ぐふふふふ……やっぱりか、来たねえぇ、秀一郎君、家の者が犯人かあ」
「そうなのだ、やっぱり、そうなのだ」
「ぐふふふふ」と秀一郎と倉木警部は笑い合う。
「この椅子に僕が最後に座ったのは今日の昼、葬儀の前、細工はその後になら誰にでも出来る、ただし、家の者という前提がいるのだ、怪しい者は亜沙子さんが追い返したり、警察が見逃さなかったはずである」
倉木警部は嬉しそうに、併せた手を勢いよく揉みまくる。
「ほうら! やっぱりわしの行動は正しかったよう! 何より君の役に立ったねえ」
「うんうん、全くそのとおりである、警部は正しかったのだ、よくやったのだ」
そして広間の所々にいる樋口家の者達を見渡した。
樋口絢はソファに寝ている、樋口杏は絢の隣で姉の額を撫でている、樋口敏文は携帯ゲームの画面を一心不乱で見つめている、樋口亜沙子は車にひかれたひきがえるのような姿で転がって、タバコをくちゃくちゃ噛んでいる。それを指さして白井飛勇は嗤っている。大岡冴は床に座り込んで首を振り続けている、伊木澄江はいつもの元気もなく、ぼんやりと宙を見ていて時々冴に話しかけるも、拒絶されている。
そう、この中に犯人がいるのだ。
―すぐにあぶり出してやるのだ。
秀一郎が舌なめずりをしながら上目遣いで観察していると、何の前触れもなく、すっくと冴が立ち上がった。
今まで伏せて隠していた顔には歪な笑みがあり、目がぎらぎらと乱反射している。
「はははははは」と彼女は笑い出した。腹に片手を当て「ははははは」と音程の上下する笑い声を長々と響かせる。
「なーにがおかしーんだー」
敏文がやっていた携帯ゲーム機を投げ捨てて、食ってかかった。
「怖いくせに……」
冴の目が妖しく輝く。
「な、なにー?」
「ははは、兄ちゃんがこわいんだ!」
敏文の鼻の穴が広がる。
「こ、コイツ、おかしくなったぞー、訳が分からなーい」
冴が一転、襲いかかる寸前の獣のように歯を剥く。
「分かる! 私には分かるもん! これは兄ちゃんの復讐だもん! あんた達に蔑ろにされた兄ちゃんが怒っているのよ! ようやく戻ってきたんだね、兄ちゃん、私だよ冴だよ、どこにいるの? かくれちゃいや」
確かに冴の様子は変だった。口にする言葉も妙に舌っ足らずで、他の者も怪訝な顔で彼女を見上げた。
「兄ちゃん……コイツに殺されたのが許せないんだね!」
冴の指が、敏文を射るように伸ばされた。
「な、なにをう!」
敏文は色をなして冴に飛びかかった。細い体を押し倒して頭を拳で何度も殴る。だがすぐに下から腹を蹴られ、形勢が逆転する。
冴の華麗とも取れる連打が、敏文の顔面やら胸やら腹に決まっていく。
「ぷぎゅ、ぷぎゅ、ぷぎゅー」
攻撃するたびに妙な音を出す敏文の姿が、徐々に崩れていく。容赦ない拳や蹴りで体が傷ついていくのだ。
「や、やめんか!」
躍り上がった倉木警部が一喝し、数人の警官が二人を引き離した。
「こ、このヤロウ、僕にこんなコトしたなぁ、今まで我慢してやったが、もー犯す! オマエなんか滅茶苦茶にして捨ててやる!」
「……てめえ」怪我の功名か、殴られた衝撃で冴が普段の彼女を取り戻していた。怒りに燃える目に見慣れた力がみなぎり出す。
「やれるならヤってみろ! このぼんくらデブ! そのまえにオレが殺してやるからな、人殺し!」
「違う! ちがうんだー」
警官の腕の中の敏文が、顔の肉を振るった。
「アイツはボクが殺したんじゃないんだー、ボクは、ボクはね……アイツは自殺だったんだ、そう自殺、ボク関係ないんだ」
「まだそんなことを! 殺してやる! 離せ!」
「やめてよ! お願いだから!」
呆気にとられていた杏が二人の、警官達に羽交い締めにされている敏文と冴の間に入った。
「冴ちゃんお願い、今は落ち着いて! お願いだから一度落ち着こうよ、アニキも」
涙ぐむ杏の必死の説得に「うう」と冴の瞳が落ち着きかけたが、敏文は愚かだった。
「バーカ! 死んだ方が悪いんだもーん、ぷー、負けだもーん」
冴は素早かった。体を屈めさせ警官二人から逃れると、動けない敏文の顔面に刈り上げた頭を突っ込ませた。
「ぶほぅ」芸術的なヘッドバッドに敏文の口から破片が飛んだ。
―ほほう、歯が飛んだ、これはいい物を見たのである、携帯で動画録画するべきだったのである。
もはや嵐のように手の付けられない冴に反射的に杏がしがみついた、その後は警官達がわらわらと彼女の上に乗り、ようやく動きを封じ込める。
「うぎゃー! ママー! 男女がー」
亜沙子は血まみれの息子に呼ばれたのに、ぴくりとも反応しない。
「マイ・ラヴァ……」と煙を吐くだけだ。
倉木警部が秀一郎に、困惑してみせる。
言うまでもなく彼は呆れていた。たかが二人ほど死んだだけでこの騒ぎ、所詮樋口家の者達は凡人の集まりだ。
―処置無しであるな。
秀一郎はそっぽを向いたが、その腕がぎゅっと掴まれる。
「……たん、てい、くん」
ぎょっとする秀一郎だが、ぶっ倒れそうになった素振りをおくびにも出さない。それが絢だと瞬間的に分かったからだ。ただ、微笑んでやろうとした口元は、凍った。
樋口絢もまた変わり果てていた。目の下は隈で縁取られ、頬は白く、長い髪がほつれて何本も顔にもかかっている。少し元気の良い幽霊といった体だ。
なのに彼女に捕らわれた腕は、痺れたように動かない。
「な、なんであるか絢さん……そんなに強く掴むと、腕が痛いのだ」
聞こえなかったのか絢は無反応で、青白い唇をちょこっと動かした。
「はなし、ある、きて」
それだけ言った彼女は、秀一郎の手を掴み直しふらふらと歩き出す。
秀一郎は姫希に目配せして、無言で従った。
背後の樋口家大騒動は『探偵』が取りなす必要のない低次元の諍いだから、放っておく。
秀一郎を連れた絢が足を止めたのは賢吾氏の部屋だった。父親が無惨に殺された場所、彼女にとって辛いはずだろうに、樋口絢はそこを選んだ。
一つには『探偵』には無関係な色々なごたごたにより、そこら中に警察官が突っ立っているからだ。ここに至る前、食堂やら自分の部屋やらを目指したようだが、結局厳めしい顔をしている警官から逃げるように向きを変えた。
「探偵、くん」
薄暗い賢吾氏の部屋で、絢は瞳を刃物のように輝かす。
「な、なんであるか? 絢さん」
秀一郎は半歩下がった。彼女には今までなかった迫力がある。先程、大岡冴はついに心が折れたが、同様に彼女の芯も軋んでいるようだ。
ただ、単純に外側に向かっている冴とは違い、内側に内側にひびが入っているようなので、秀一郎も危ぶんでしまう。
「も、もしかして体の調子が悪いのであるか? ならば、ふむ、倉木警部に車を手配させよう……ふむ、あ、安心したまえ、この僕が杏さんたちを」
「探偵、君!」
「は、ははい」
「黙って、聞いて、下さい」
「わわっかりました!」
秀一郎は見開かれた絢のつるつるした目に、愛想笑いをした。
「この事件……は、全部、私たちが悪いの、私たち、樋口家の、みんなが悪いから、起きたの」
「え」と姫希が両手を頬に当てる。秀一郎は無言のまま顎で絢を示し、彼女の横やりを阻止しようとした。こんな精神状態の娘に余計なことを言うと、何されるか分からない。
「本当、よ、姫希ちゃん」
ぎこちない、油の切れた自動人形のような動きで、ギギッと体を姫希に向ける。
「本当、なの、うう、本当、ぐぐ」
絢はそのまま頭を抱え、顔をしかめた。
「絢さん!」
「だ、だ、大丈夫、それより、聞いて」
近づく姫希を手で制し、絢はもぐもぐと言葉を紡ぎ出した。
「私たち、は、悪なの、樋口家は、悪いことを、たくさん、して来たの」
「悪、であるか?」
「うん、怪人が、私たちを狙うのは、当然なの!」
「ふ、ふむ」
「本当、なの! 信じて!」
絢の声はずたずたに切り刻まれていて、秀一郎は密かに汗をかく。
「それは、敏文さんの事ですか? 冴さんのお兄さんと、でも」
「それだ、けじゃない! 姫希ちゃん、それは、一つにすぎ、ないの!」
絢は片手を額に当て、何か考えをまとめている。
「うん、まず、最初から、話すね、うん、それが、一番、うん、そうだね、うん、そうする、うん、それが一番よね、うん」
一人で納得し完結し、彼女は語り出した。
「昔、パパが、すごく貧しかった、ころ、社会に、出てすぐ、占いを、してもらった、の、その時、占い師に、『あなたは大成功するけど、そのかわり必ず誰かを犠牲にする、その報いは影となっていつかやって来る』て、言われた、らしいの」
『ふうう』と絢は言葉を切り身震いした。
「そしてそれは本当だった、最初は、パパ、仕事の最中、佐々木、裕樹さん、を犠牲にした、次は、ママ、女優の頃、ライバルの、人を犠牲に、した、そして兄さん、冴ちゃんの、お兄さん……大岡学さんを、そして……杏ちゃん」
「ちょっと待つのだ!」
秀一郎は遮った。絢が挙げていく人々の逸話は聞いていたし、何となく予想出来た、しかしその中に樋口杏が入るとは思っていなかった。
「杏? 樋口杏さんが何かしたのであるか?」
「うぐうう」絢は泣き崩れた。赤いペルシャ絨毯に蹲り、細い指で両肩を抱く。
「そんな……何かの間違いでは?」
姫希が問うが、彼女はいやいやをするように勢いよく否定する。
「……本当、昔、タカミー、と公園に、行ったとき、杏ちゃんは、人を、殺した、私、タカミーと、見た」
秀一郎は絶句した。彼の中の樋口杏は、少し気が強いが爽やかな印象の美少女だ。清潔で活動的で、暗い影など微塵もない。
「タカミーが、『目を離すべきじゃなかった』て」
賢吾氏の葬式での絢の言葉を思い出す。
「呪われて、いるよう、怪人が来る、よう、怖いよう、怪人が」
ひたすら絢は繰り返す。
「ふむ」秀一郎は何か釈然としない。彼女の恐怖が過剰に見えた。
「……幾つか質問していいであるか?」
姫希が絢と目線を合わせてその場に座り、落ち着かせようと手を取ったのを見計らって、秀一郎は口を開いた。
「まず、敏文さんだが、冴さんのお兄さんに何をしたのだ? そもそも彼女は何故、この家にいるのだ?」
「それは」その後、呼吸が喉につかえたのか、「ひっ」としばらく硬直する。
「兄さんが、冴ちゃんの、お兄さんを、いじめて、自殺させて、冴ちゃんの家族から、訴えられ、て、パパが、守った、んだけど、代わり、に冴ちゃんの家、族、が壊れて、しまったの」
「なるほど、しかしである」秀一郎は悩んだ。そこら辺の事情にはリアリティがあるが、亜沙子の女優のライバルを殺した発言と、杏の殺人の部分は飲み込めない。
「私、見たの、杏ちゃんは、公園の池に、友達を、突き落として、殺したの! 嘘だと、思うなら、調べて! 八年前、駒河公園」
「八年、前よ」内心を察したのか、語気荒く絢が繰り返す。
「ふ、ふむ、わかったのだ、こ、興奮しないで欲しいのだ 」
しかし、絢は焦点の合わぬ目で辺りを窺い、早口で核心に入った。
「そし、て、兄さ、んが、兄、さんが、通り、魔なの」
「うへ?」
秀一郎は顔面の半分を弛緩させてしまった。突如、絢はとんでもない告白をする。
「絢さん、滅多なことを言ってはダメです」
彼女の傍らでその体を案じていた姫希がそっと咎めると、絢は唇をぐぐっと噛む。
「本当、なの、実は、いつ、話そうか、考えていた」
ふっと悲しい笑みになる。
「街で、女の子、を襲っている、犯罪者は、兄さん、樋口、敏文、アイツ、あのヤロウ」
「だが……」
「見たの、私、パパも悩んでいて、兄さん、の部屋、に錐、みたいな、血だらけの、ヘンな武器、あった」
秀一郎の反論を、絢は苛々したように先回りする。
「で、では、通り魔は、巷を騒がす通り魔は、間違いなく樋口敏文さんなのだな?」
「うん」絢は躊躇なく、迷いなく認めた。
「兄さん、は、最近、その時間、家にいない、調べたら、分かる」
「当然である、姫希」
秀一郎は頬に熱が上がるのを感じた。久しぶりに高揚感に襲われる。
「はい」
姫希は素直に返事するが、何か思い悩んでいるようだ。しかし今は行動する時なのだ。
「すぐに倉木警部を呼んで来るのだ、詳しく調べて貰うのだ、もしかしたら、この事件の背後には意外なものがあるかもなのだ」
「はい」と姫希は絢の傍らから離れ、部屋から出て行った。
「うぐぐぐく」まるで上から抑え付けられているかのように、絢が這い蹲っている。
―なるほど、そう言うことであったのか。
ようやく納得する。彼女の過度の恐怖の理由は『怪人』に狙われる、というよりも身内に犯罪者、異常犯罪者がいるかもしれない、との疑念なのだ。
真実を知る事に恐れ、黙っている罪深さに恐れ、ここまで傾いでしまった。
「か、怪人が、来るよう、人殺しの、私たちを、裁きに、来るよう、どうしよう、どうすれば、いいの?」
蚊の鳴くような声で、絢は誰かに問うている。
「けだ、もの、ども、め、罪、深い、悪、魔め、怪、人に、裁か、れろ」
追いつめられた苦しみからか、何かを罵りだしたが、秀一郎は顎を摘んで関わらない。
―ふふむ、可愛い女の子を上から見るのもまた一興である。
『探偵』は精神科のカウンセラーではない、事件を解決することが先決なのだ。何にせよあやふやだった事件にようやく道が見えてきた。
秀一郎が考えねばならないことは多かった。
そのまま数分、彼等は待った。
「秀一郎くーん」と呑気に倉木警部がやってくる。
「ようやく来たのであるか警部、事件はかなり進展したのだ! 僕の知らないことはない、やはりこの事件は僕に相応しい、凄い物だったのだ」
「はあ」口を開きっぱなしの倉木警部はだらしない。
「そりゃあ、さすが君だ……まさに神算鬼謀、響きが胃腸薬みたいだねえ、で、いつの間に、そんな事になったんだねえ?」
「な、何を言っているのだ警部、姫希は何も言わなかったのであるか?」
きょとん、と倉木警部が首を掻く。
「姫希くん? わしは君の姿がないから探しに来たのだが」
「ふえ?」
胸中に寒風が吹き荒れた。優秀な助手がどこにもいない。
彼の大事な少女が、彼の言いつけを守らない。
「そんなことはないのだ!」
つんのめるように駆けだした。
姫希は秀一郎の願いを、要請を何でも聞いてくれた。
宿題をやってくれた、メイド服も着てくれた、夏場のアイス等ちょっとした買い物も、快く引き受けてくれる。今日はカレーが食べたい、蕎麦が、パンが、という些細な頼みも笑顔で頷いてくれる。秀一郎に大事な意思表示、本心を語らないのは恥じらう年頃だからだ。キスをお願いしても何となくはぐらかされる理由もそうだろう。姫希は秀一郎を慕っているはずなのだ。そんな彼女がこの重要な時に独断で動くはずがない。
「秀一郎くーん、どうしたんだーい?」血相を変えた秀一郎に驚いたのだろう、倉木が続いてくる。
「わし走るの苦手なんだよー、運動と野菜と魚は嫌いなんだよー」
肉しか食べないようだ。だが今は些事などどうでもいい。有象無象など消えてもいい。ただ彼女、いつも清廉で美しい彼女の姿を探す。
広間に突入するが、冴と澄江、亜沙子と杏がいるだけだ。
「ど、どうしたの? 探偵君、絢ちゃんは?」
訝しむ杏の質問に答えている暇はない、すぐに秀一郎は広間に背を向け、食堂に向かった。
時間故、そこはがらんとしていて人影はない。
その時、秀一郎の脳に清水のような冷えた思考が流れた。
先程広間には誰がいた、誰がいなかった。
―敏文!
今頃、秀一郎は思い出した。あの下劣な男は常にじっと、姫希を見ていた。獲物を狙う蛇のような目をいつも彼女に向けていた。
「きゃー! いやー!」
最悪を想像した秀一郎だが、それを証拠づけてしまう悲鳴を聞いた。
彼の助手・槙島姫希。いつも泰然とした姿からは想像も出来ない声なのだが、間違いなく彼女だ。
「ひぃい、でらいかんがや!」
秀一郎はどこかの方言を交えて走った。
樋口敏文の部屋は二階にある。秀一郎は二段飛ばしで螺旋階段を上ると、走りづらいスリッパを前方に蹴り捨てて、いつか杏から説明された場所に向かった。
心臓が真空パッケージされたように痛んだ。彼女の身に危険が及ぶ、彼女が助けを求めている。その様子を想像すると、下品故に記すことの出来ない一部分が縮み上がった。
―お母様にしか見せたことのない部分が寒いのだ。……辛いのだ、冷やっこいのだ……これはこれでいい感じ……。
秀一郎は激しく頭を振り邪念を捨てると、敏文の部屋の扉に飛びついた。
「あけるのだ! うぎゃぁぁあ! あけろぅ」
真鍮のノブを回しても開かない、鍵がかかっている。
「ひ、姫希に何かしてみろ! 許さないのだ! 許さんぜよ! 許さんばい! 許さんでぇ! 消す! 人間社会から抹殺する! もうありとあらゆる手を使って、お前を消してやるのだ! 人権だろうがじゃんけんだろうが関係ない! うぎやぁぁあ、開けろ! 僕がまだ冷静で話が通じるうちにだ! うぎゃああああ、べけべけ、ごむせらない、どかのかしす」
「ど、どうしたんだね? 秀一郎君」
追いついた倉木警部が、不思議そうに聞く。
「どばば?」
「ええ? 何て?」
「ぐりこー、でけんまも」
「はあ? い、いや、し、秀一郎君?」
「どどめき、おにばば、あずきあらい、すなかけばば、ころぼっくる」
「し、秀一郎、冷静でなくなっている! 話しが通じないぞ、何を並べているのだ?」
がちゃ、鍵が開く音がする。
「ぬらりひょーん!」秀一郎はドアノブに飛びついた。
慌てて扉を開くが、がしっと何かにつかえた。敏文の部屋はご丁寧にも鍵とチェーンで二重にロックされていて、解錠されてもすぐには開かない。
「ねこまた! おんもらき! ごずきー!」秀一郎は無理に扉を開こうと何度も力任せに引き、金属と木がぶつかり合うがんがんという音が連続で上がった。
「落ち着くんだ秀一郎君、一度扉を閉めろ」
倉木警部が背後から秀一郎の肩に手を置き、もう一方の手でばたりと敏文の部屋の木扉を閉める。
かちゃかちゃと鉄がかみ合い、今度こそ扉が大きく開かれる。
「秀一郎様」
悄然と姫希が出てきた。よろよろとよろめき、そのまま倒れかける。
「めずきー! 否、姫希!」
秀一郎は慌てて彼女を抱きとめた。
心が折れかける。
姫希の服装は乱れていた。清潔な真白いエプロンは大方破れ、引き裂かれた黒色のワンピースから、華奢な腕が覗いていた。
顔色は悪く、顔をしかめ唇を強く結んでいる。
「ど、どげんしたと? な、なにがあったのだ?」
喉の奥がひんやりするが、聞かずにはいられない。
「……あぶなかった」ぽつりと姫希が漏らした。
秀一郎は彼女を抱えたまま、開かれた敏文の部屋を覗いた。
天を向く足先が見えた。さらに一歩踏み出すと、樋口敏文が部屋の真ん中で大の字に倒れている。
「どどど」混乱する秀一郎に、姫希は悲しそうに目をつぶり自らの足で立つ。
「私も馬鹿でした……どうしても手を貸して欲しい、と言われ敏文さんのお部屋に、そこで……」
「ぐぬぬー!」
秀一郎は激情のまま敏文に近寄り、太い首で張る襟元を掴んで引き起こす。
「きっさまー! この破廉恥漢めが!」
「おぼっ」
敏文が激しい息づかいの中、微震する目で秀一郎を見た。
「何をした! 僕の姫希に何をした!」
ぶるぶる敏文の頬が横にぶれる。
「な、何もしてないよー、……何かしようとしたけど、出来なかったぷー!」
「嘘をつくな!」
「本当だおー、ボクはただ萌えメイドちゃんに結婚を申し込んだぷー、まま、ちょこっと強引だったぷー、したら萌えメイドちゃんがいきなりボクの頭、人体の急所たる頭のてっぺん、聖門を殴ったんだ! あれで」
敏文の指す所にはクリスタルの置物、いつだか杏に説明された『しっかー』が転がっている。
「いたいよー、おーう、あれでなんべんも叩いたよー、躊躇なくぶんなぐったぁー」
「ふざけるな!」
目から炎が出そうな怒りを秀一郎は覚えた。
姫希がそんな野蛮なことをする訳がない、おそらくこれは『緊急回避』というやつで、彼女は身を守るために偶然近くにあった物を使ったのだ。
「すみません」廊下で彼女は深く頭を垂れる。
「怖かったのでつい、人体の急所たる頭のてっぺん、聖門をクリスタルで叩いてしまいました」
「ううむ」一部始終を聞いていた倉木警部が重々しく頷く。
「君は悪くないよ、これは正当防衛だ、日本の法は君の味方だ」
「当然である!」
姫希の身が無事だったので、秀一郎にも冷静さが戻る。
「だが、ではどうして彼女の服が破れているのだ? 敏文、この僕に嘘を付いているのであるな?」
「ちがうよう!」
敏文は涙ぐんで否定した。
「ボクを殴って倒した後、メイドちゃんが自分から服を破いて叫んだんだよう!」
「ふふふ」秀一郎は冷笑した。敏文が愚かだった。
そんな低レベルな言い訳を誰が信じるというのだ。
「本当だよう! だいたい、どうしてこの部屋にクリスタルの置物があるんだよう、あれは広間にあっただろう? メイドちゃんがいつの間にか持っていたんだにゅー、この部屋にはないだろう?」
秀一郎は言われて敏文の部屋を見回し、脱力感に襲われた。
彼の部屋は絢とは違った意味で散らかっていた。
そこらに美少女ゲームが積み重ねられ、棚には美少女フィギュアが所狭しと並んでいる。誰が着るのかメイド服やらセーラー服が壁に掛けられ、めくれあがったベッドのシーツにも等身大の美少女がプリントされていて、抱き枕など美少女柄で女の子の形だ。
『痛車』、というものが巷にあるが『痛部屋』ともあるらしい。
「探偵、君、どうした、の?」
突如血相を変えて消えた彼を心配して追ってきたのだろう、絢がまるで壁にすがりつくように立ち、敏文やらと見比べていた。
「絢さん、何でもないんですよ、気にしないで」
気丈でどこまでも慈愛に溢れる姫希が、絢を傷つけないように進み出て誤魔化すが、秀一郎は敏文に言わねばならないことがある。
「いいか敏文! 今後姫希に近づいてはいけないのだ! もし僕の命令を破ったら、許さないのだ、そう僕の……お母様が許さないのだ! お前を公権力で消してやるのだ! そうなのだ、お前なんか殺してやるのだ! ……お母様が、生かしておかない、それが最もいい方向なのだ」
「こわいよー、おーう」
秀一郎の『探偵』恫喝が敏文には利いたらしい、その場でむせび泣きだした。
「萌えメイドちゃんこわいよー! 怖い子だよー ぴー」
「貴様!」と再び秀一郎の心が燃え上がるが、今まで息を飲んで見つめていた絢がふっと倒れかけたので、それどころではなくなる。
「絢さん」姫希が素早く彼女を支える。
「早くお部屋に、秀一郎様」
秀一郎は姫希に手を貸して、彼女を部屋まで運んだ。
槙島姫希はやはり素晴らしい人物だ。自身があれほど危険な目にあったのに、絢の事をこんなに慮る。絢を部屋まで送る道中、思わず姫希を見つめてしまう秀一郎に、彼女はにっこりと笑ってくれた。
―姫希は聖女なのだ。
そして秀一郎は満足そうに頷く。
だとしたら聖女に自分は『選ばれている』のだから。
「ところで秀一郎くん」
姫希が絢を部屋のベッドに寝かしつける間、倉木警部が耳打ちしてきた。
「ジュンイチ氏を死に至らしめた毒が分かったぞう」
「なんですか? つまりやはり毒が……」
「うん、君の言うとおりだね! さっすがだー、やはり君は天才だあ」
「それほどでもないのだ……まあ、僕以外には分からなかったのであるが、でどんな毒です?」
倉木警部は警察手帳を睨む。
「ううううむ、アルカロイド性で、げげげ」
不意に秀一郎は妖怪マンガを思い出した。
―妖怪は好きである、ビバ妖怪。
「……違うのだ、警部、はっきり言って欲しいのだ」
「ゲ、ゲルセ……ミュウム」
ははーんと頷く。
「それはゲルセミウム・エレガンスであるな?」
顔を真っ赤にしていた倉木警部が、音を立てて息継ぎをする。
「むう、そうだ、言いにくいねえ、苦しかったよう」
「うむ」秀一郎は鷹揚に返事をする。
「植物毒、しかも世界最強クラスのそれである、人間など数ミリグラムで死ぬ、なるほどミスター・ジュンイチがひとたまりもなかったわけであるな」
「ら、らしいね? さすが秀一郎君、博識、博学、拍手喝采」
警部ギャグは無視だ。
「しかし、ゲルセミウム・エレガンスは北アメリカに多いが日本にはない、少なくとも近代は確認されていない」
横目で目をぱちくりさせている倉木警部に、胸を張った。
「……ちなみに正倉院の宝の中から発見されたそうである、昔はあったのだ」
「おおお」ぱちぱちと乾いた拍手が起こるが、倉木警部のそれでは嬉しくもない。
「やはり何者かがネットを駆使しているであるな」
「ううーむ、現代通販社会は闇だね、わしも掃除機買ったら必要もない電卓が四つも送られてきた」
「そうである! それは抱き合わせと言っても過言ではないのだ!」
秀一郎はぐっと拳を握り、熱い息を吐いた。
「その分安くすれば良い物を、意味のない品々をつけ微妙に価格を調節しているのだ! 我々は断固としてそのような偽サービスと戦っていかなければならないのだ! これはもう宿命である」
「さ、サービスという名の、だ、抱き合わせ販売、断じて許せんねえ!」
倉木警部も怒りに口から泡を吐く。
「ところで警部、調べて欲しいことがあるのだ」
「む、何かね? 君の頼みはなんでも聞くよ」
秀一郎は辺りを窺った。絢の部屋に隣接する廊下、彼等以外誰もいない。
「八年前の事について調べて欲しいのだ、この近くの駒河公園で誰かが……子供が殺されたか、それに……」
事もなく倉木警部は承諾した。そしていくつかの情報交換をする。
間もなく姫希が現れた。
「絢さんは寝ました」
と言う彼女はいつの間に着替えたのか、新しいメイド服になっていた。
「んじゃあ秀一郎君、わしは捜査に行く、後、周りに四人ほど警官を配置しておくから、何かあったら声をかけてくれ」
よれよれと倉木警部の背中が遠ざかっていく。
秀一郎は今後について少し考え、広間へと歩き出した。皆に確認しなければならないことがある。絢の言葉の裏付けが必要だった。
「おい! お前!」
広間に入ると緊張した面持ちの冴が待っていた。彼等の姿を目にすると、肩をいからせて大股で近づいてくる。
「ひやあ、殴らないで!」
秀一郎が顔を腕で防御すると、冴は彼を無視し背後の姫希に声をかける。
「だ、大丈夫だったのか? あのクソ敏文に襲われたんだろ? その……」
どうやらすでにその話題が皆に行き渡ったらしい。もう一人広間にいる澄江も不安そうに見てくる。
槙島姫希ははにかむ。
「ありがとうございます冴さん、心配して下さったんですね?」
「いや」冴はしどろもどろになる。
「あ―あのクソやろうは私も、オレも苦労していて、何と言っても女には危険な家で……」
「だからそんな髪型なんですね?」
冴の目が見開かれた。さっと瞳を落とす。
「こ、ここここれは、趣味、かっけーだろ?」
姫希はゆるりと首を振った。
「いいんです、冴さんのこと、私なんとなく分かりました」
そしてびしりと指を指す。
「あなた、実は『女の子』でしょう?」
姫希の言葉の意味が秀一郎には分からない。冴が『性別』的に『女』であることは周知のはずだ、何を今更指摘するのだろう。
「うっふふふ」と、澄江が笑い出した。
「バッレちゃったね? 冴ちゃん」
「言うな! 澄江さん」
すがるような冴の口調に、澄江はとぼけて続ける。
「実はっね、私の料理、半分冴ちゃんっが作っているんっだよ」
口辺を弛緩させる秀一郎の前で、冴の頬が上気する。
澄江の、あの凄まじく美味な料理に冴も手を加えていたのだ。
―……やはりな、どうも僕の口には合わなかった訳である。
「敏文さんから身を守るためにわざと男っぽくして、心の底の乙女を隠していたんですね? 本当は女の子らしく優しいのに」
「ううう」
「とっても可愛いですよ」
「うううう」
「冴さん、実は『イケ女』?」
一方的に姫希に追いつめられていた冴が、ようやく抵抗する。
「ば、馬鹿にしているでしょう? わた……オレを苛めて楽しいのか?」
「いいえ」
弱々しい冴に、きっぱりと姫希が否定する。
「もういいんじゃないか、と思います、本当の自分を出しても」
「だって……敏文が、イヤらしいから……イヤらしいのは、いやなの……」
冴はすっかりしおらしくなっている。秀一郎は思い出した。そう言えば彼女は飛勇の何でもないセクハラ攻撃に耐えられなかった。
―なんだこいつ。
秀一郎は軽蔑を隠さない。大岡冴は実は『メガガーリッシュ』なのだ。普段の態度はその分の演技、下らなすぎる。
「大丈夫です!」
姫希は口元を押さえ笑みを隠す。
「今の冴さんなら楽勝です、あの人意外によわよわですよ」
「むふ?」秀一郎は不思議に思った。まるで敏文とリアルファイトしたような言い方だ。そんな事はなかったはずなのに。
「で、でも……」
冴はもじもじと胸の前で手を併せる。
「ところで」一連に馬鹿馬鹿しくなった秀一郎が、ついに割り込んだ。彼にとっては冴の本性などどうでもいい。
「この折なので聞きたいことがあるのだ、冴さん」
「う、うん、なに?」
冴は驚くほど素直に応じ、逆に秀一郎が引いてしまう。
「ああ、い、いや、敏文さんが、昔、君の兄さんにしたことについてだが」
「秀一郎様!」姫希が批判するが、それは聞かねばならないことなのだ。
冴の様子は変わった。きらきらしていたフェミニンな目に、カミソリの刃のような危殆な光が戻る。
「あいつは……わた、オレの兄さんを殺したんだ!」
「うん、それを詳しく知りたいのだ」
「ああん?」つり上がった目で睨んでくるから、秀一郎は礼儀正しく視線を逸らした。
「いいぜ、教えてやる! 隠すことじゃねー」
どこか投げやりに、冴は吐き捨てた。
「あれは七年前になる、オレが十歳の頃だ、オレには一つ年上の兄さんがいた、学って名前だ……オレが言うのもなんだけど、兄さんはモテた、まあ小学生だから、足が速いとか面白い、とかくだらねー理由だろうけど、とにかく女子生徒からいろんなモノを貰っていた、それが面白くなかったのが同じクラスの樋口敏文だった」
ぶるり、と冴の体が震えた。嫌悪にか頬が凍り付く。
「……兄さんは、兄さんは大人しくて優しかった、私が覚えているのは兄さんの笑顔だけで、仲のいい兄妹だった、その頃までお風呂も一緒だったもの、でもある時から兄さんは、お風呂でよく顔を拭くようになった、あの時の私は気付かなかったけど、泣いてたんだと思う、敏文のやつにイジメられて、そしてある日、学校の屋上から落ちて死んだ」
「自殺したのであるな?」
「違うわ!」
秀一郎は首を竦めた。
「兄さんはそこまで弱くはなかった、ただじっと耐えていたもの、だけど敏文は兄さんのランドセルを学校の屋上の、柵の外に置いて、取りに来た兄さんを蹴ったんだ……あいつもまさか落ちるとは思わなかったんだろうけど……兄さんが足を滑らせたんだと思うけど、それはやっぱり『殺人』だ、兄さんは敏文に殺された……」
冴の瞳が濡れる。彼女は涙を拭うが、それはこんこんと湧き出すようで「ちくしょー」と彼女は呟いた。
「そ、それでどうしたのであるか?」
「知り合いづてで真相を知った父さんと母さんは戦う事を決意したんだ、だって敏文のやったことは悪質すぎる、刑事裁判でせめて事件にしようとした、少しでも敏文に罪を考えて欲しかった……そこに登場したのが樋口賢吾だった、有名な人権派弁護士やら少年法擁護派弁護士どもで大弁護団を作った、私たちは結構がんばったんだよ、みんなで力を合わせて、知っているかな? 裁判の資料って代金は自分持ちなんだ、それを何回も何人分も、弁護士費用も嵩んで金持ちでもなかった私たちはすぐに苦しくなった、無神経な奴らは『過ぎたこと』とか『子供の喧嘩』とか言って陰口を叩いて、私たちは社会から孤立していった、悪いのは敏文なのに、私たちは被害者なのに、兄さんが死んだのに、何故かみんな私達を非難するんだ、そして……そのうち父さんも母さんもおかしくなって……もう疲れたんだと思う、きっと参ってたんだよ……だから母さんは雇っていた弁護士と駆け落ちしたんだ」
はっと姫希が息を飲むんだ。冴はもう滂沱の涙を隠さない。
「……父さんは、父さんはもうおかしくなった、ある日出て行ったきり……私は、私は何もかも失って、ただ呆然としていた、そこに樋口賢吾が現れた……噂を聞きつけたんだって」
冴の眼には、怒りと憎しみがない交ぜになっている。
「ああ、そうだ! 私は復讐を決意した、樋口家に何かしてやろうと思った、だから私が一番動機がある、疑われるのは当たり前だ、空手だって色んな事を想定して習ったんだ……でも」
「でも……でも……出来なかった、憎かったし敏文も嫌いだ、けど、けど私は……」
冴は震える両手を見つめる。
「弱いから」と彼女は言い切れなかった。その前に姫希が抱きしめたのだ。
「な、な、な」突然の事に冴が言葉を失う。
「違います、あなたは『弱く』ない、あなたは真っ当なんです、何よりも潔癖なんです、だから樋口家の皆さんに何も出来なかった、亜沙子さんにこき使われても、そして敏文さんが危険になったら、あなたは純一さんとも戦った、あなたは『弱く』ない、羨ましいくらい優しい人です……そして、私と同じ」
秀一郎は驚いたが、すぐに納得する。
そう槙島姫希、彼女も冴と近しい境遇なのだ。
幼い頃に母親が恐喝していたかつての恋人を殺めてしまい、その後父が自殺、それ故に秀一郎の家に来たのだ。その事については彼女は、秀一郎とその家族に感謝しているだろう。ただ確かに大岡冴の境遇と一致していた。
「あなたは自分を偽り姿を変え、ずっと復讐を考えていた、ずっと耐えてきた、そこが悲しいくらい私と同じ、でも、冴さん、あなたは私と違って歪まなかった、結局、誰かを傷つけることが出来なかった、それは決して『弱さ』といいません」
姫希は多少自らを卑下して彼女を慰めている。そう言うことが出来るのが彼女の美点だ。
「そうっよー」
聞くとなしに聞いていた澄江が笑顔を弾けさせる。
「冴っちゃんは優しくっていいっ子よ! 髪型っや服装でっみっんな誤解するっけど、それっだってポッズだっし」
「ちが、わた、わた」
冴があわあわと全身を使って否定するが、姫希に抱かれているために身動きが出来ない。「うっふふふ」と澄江が笑うが、次は彼女だ。
「うぼあっふ!」
秀一郎が質問する前に、亜沙子が乱入してきた。
機関車のような待ったなしの足取りで、口には四本のタバコが揺れていた。
「うぼあっふ、メイド! テメエ敏文ちゃんを殴ったんだってな!」
荒い呼吸故にか、タバコにはめらめらと赤い炎が燃え、口と鼻からは黒煙が吹き出している。
「すみません」
姫希は冴を離すと、くるりと向き直り丁寧に礼をする。
「う、うんまー! こいつ! しゃあしゃあと、ワタシ分かっていたわ、あんたとんでもない女狐ね! ぶっ潰す」
亜沙子の迫力に負けた秀一郎は、彼女から姫希を守るために無理に質問を続けた。
「すすす、澄江さん!」
「はっいー?」
「こここ、今度は、ああ、あなたの番なのだ! 答えて欲しいのだ、ここにいる理由である」
「うんま?」
案の定、亜沙子の動きが止まり、耳がぴくぴく動く。
「あなたは佐々木裕樹さんのお姉さんだ、倉木警部に調べて貰ったのだ」
「秀一郎様! 何て事を! どうしてここで?」
姫希が珍しく声を荒げた。しかし彼女のためだ。
「うんまま? それて、どゆこと?」
混乱する亜沙子の前で、伊木澄江はにっこりとする。
「あっら、私もバッレまっしたか?」
「うんが? 何を言っている探偵ボーイ?」
「ふむ」秀一郎がわざと間を置くから、亜沙子が犬歯を剥き出した。
「や! はい言います! ええっと、伊木澄江さんの『伊木』という名字は亡くなった旦那さんのもので、旧姓は『佐々木』……賢吾さんを庇って死んだ佐々木裕樹さんの実のお姉さんです」
「てっへ」
澄江がちょっと舌を出して、自分を叩くようなポーズを取る。
「…………」
「こ、これは倉木警部に調べて貰ったのだ、澄江さんの立場がどこかグレーだったのだ」
無言の亜沙子に秀一郎が言い訳すると、突如空気が振動した。
「うんばっはっは」
亜沙子が河馬のように大きく口を開けて笑い出した。
秀一郎は戦慄したが「うんばっはっは」という笑いはしばらく続く。
「うんま、なんだ、そういうことじゃねえか!」
しばらくの後、笑いを収めた亜沙子は目の涙を太い指で取った。
「うんま、簡単じゃねえか! つまり『犯人』はこいつら、絢の弁当にドク入れたのも、純一さまを殺したのも、うんがっふ、こいつらじゃねえか! クソ馬鹿らしい! 何みんな悩んでんだ?」
もくもくと煙が立ちこめる。亜沙子が何か話すたびに大量の有害物質が吐き出される。
「うまま、探偵ボーイ良くやったわ! 最初はイヤだったけど、アンタには高額報酬を約束するわ、さすが『天才少年探偵』ね」
「まあ、僕でないと分からなかったであるな」
亜沙子の目がかっと見開かれ、太い唇を苔だらけの舌がなめ回した。
「うんぶぶ、澄江、冴、覚悟しな、今までアンタらを飼ってやったのはジジイがそう言っていたから、でも今はアイツはいない、そしてテメエらはワタシの大切な純一さまを殺した、ワタシの夢を壊した……金が入ったらどーうなるか、楽しみねぇー」
亜沙子は尻を振りながら向きを変える。
「うぶぶぶ、楽しみねーえ、金があれば」
ジロリと再び澄江達に目線を走らせる。
「うんま、ぶっつぶす」
一言残して、再び機関車のような断固たる進みで広間から消えていった。
「秀一郎様! どうして亜沙子さんの前であんなことをおっしゃったのですか? ばかなんですか? ばかばか」
亜沙子が消えると途端に姫希が怒りに肩を振るわせ、秀一郎に詰め寄った。
とても不本意だ。秀一郎は彼女を守ろうとしたのだ。
「いいんです」
普通の口調で澄江が間に入る。
「私はじつはもうここを辞めようと考えていました……賢吾様もいなくなってしまったし、探偵さん、私にも賢吾様達を殺す動機がある、とおっしゃりたいのでしょ? 弟の復讐」
「そうである」
澄江は困ったように笑う。
「まあ、さすがにそれは考えませんでしたけど、私も実は樋口家に潜り込んだ口です」
彼女は宙空に頭を傾ける。
「弟、裕樹と私は歳が離れた姉弟でした、だからあまり仲良くもないし啓子さんも私の顔を知らない、でも弟が気が弱いくせにお人好し、ということだけは分かってました、私の主人が事故で亡くなって、その後にすぐに弟、裕樹が死んだとき、私は疑いました、あの子が人の身代わりになれる訳がない、そんな勇気があるはずがない、と、だから樋口家に来て証拠を掴みたかった、弟が盾にされた、という証拠、でも」
はあと澄江は息をついた。
「やっぱり自分の意思で賢吾様の身代わりになったんだ、って分かるようになりました、樋口家の面々には、そりゃあ人間的にちょっと……という方もいらっしゃいますが、基本的に賢吾様は善人です、人のことを考える優しいお方です、裕樹が身を挺したのもなんとなく分かる気がします」
「そうなのよね」
相槌は意外なところから上がった。冴だ。
「私もそう、復讐の為に来た私に賢吾さんは優しかった……怖いくらい、私は丸め込まれるのが恐ろしくて、賢吾さんの口添えによる高校進学を断ったの、それだけじゃない、賢吾さんはここに来てすぐに私に頭を下げたの、床にひざまずいて、『私の非道を許してくれ、家族の為なんだ』って、なんだコイツ、てその時は思ったけど、今考えると、賢吾さんには優先順位があったんだと思う、まず家族……だから他人には酷いと思えることをするんだ、家族のために」
「そうね」澄江も認める。
「私にも謝って下さった、最初から私のバックボーンをご存じでした、蕪山さんが調べたんだろうけど」
「とにかく、私は確かに樋口家に思うところがあったけど、もうそれは良いと思っている、絢や杏も妹みたいだし……まあ向こうは付き合いにくそうなんだけど」
冴は明るい女の子らしく快活に笑う。つられて澄江も「うふふふ」と口を押さえた。
秀一郎は「うーむ」と考える。この二人の女、樋口家に恨みないし不審を持っていた二人の告白を信用して良いのか、急に訪れた日だまりのような温もりが何か面白くない。
「……まあ、信じるかどうかはそちらに任せるわ、だけど私には動機はあるけど、やってない、だから証拠も何もない、疑うなら前にも言ったけど気の済むまで調べて」
澄江も冴に同調した。
「いや、僕は基本的にあなた達を最初から疑っていなかったのだ、みんないい人だと信じていたのだ」
秀一郎は慌てて手を振る。
今は誤魔化す時だ、とにかく二人の正体と話は聞いた、次は……。
「うむ?」
秀一郎は広間を見回す。
「どうしました? 秀一郎様」
「そう言えば杏さんはどこなのだ?、さっきは居たようなのだが、飛勇とかいう奴も居ないのである」
ああ、と澄江が答える。
「杏さんはさっきトイレに行きました……飛勇さんは……いない?」
冴の眉が曇った。
「いいの? あいつすっごくエロいよ、て、このへぼ探偵! 女の子放っておくなんて」
苛立たし気な冴の非難を避け、秀一郎は早足で広間を出た。
杏には聞かねばならないことがある。
姫希と廊下に出てすぐ、彼女は見つかる。ついでに飛勇もだ。
樋口杏は廊下の隅で体育座りをしていた。飛勇は彼女の隣に座り何か囁いている。
「杏さん」
秀一郎が声をかけても、彼女は動かない。傍らの飛勇がぎょっとするだけだ。
「杏さん、聞いているのであるか?」
「なによ?」
聞き逃すほどの小さな返事だ。
「何でこんな所にいるのだ?」
秀一郎は廊下を見回した。
「いいでしょ……私の家よ」
「まあ、そうであるが」
秀一郎は困惑した。杏の様子がおかしい、声に抑揚がなく、ごっそりと感情が抜け落ちているようだ。
「ええっと」
「探偵君、悪いけど隣のボンクラ、どこかにやって」
飛勇は微笑を崩さない。
「さっきから私を誘惑しているらしいんだけど、メンドい」
「そんなー、僕は君の美貌にもうくらくらなんだよー、そうさ僕は君に出会うために世界をさすらってきたんだ、無明の世界に降りたただ一つの光、それが君だ」
「メンドい」
姫希が音もなく飛勇に近づく。
「う、うう? 何かな? 美しい方」
飛勇は姫希が苦手らしい、途端笑みから輝きが失せ、飽きずに流れていた言葉も滞る。
「消えて、下さい」
らしくない一方的な言葉だ。
「う、うん、そうだね、わ、わかったよ」
飛勇は微かに白い歯を見せて立ち上がる。
「い、いや、勘違いしないで欲しいんだけど、僕は、その彼女を慰めていたんだ、決して下心が」
姫希が手をさっと挙げる。
「ひやあ」
飛勇は反射的に鼻と口の間、かつて偶然彼女に殴られた人中部分を隠した。
「ひややあね」
小走りで飛勇が去る。その後ろ姿を見て杏が「くす」と漏らす。
「姫希ちゃんが怖いんだね、まあそうね、でもありがと、アイツ本当にメンドい奴」
「どうしたんですか? こんな所で」
姫希の質問は無駄だ。先程『探偵』が聞いたことと同じで、彼女は木で鼻をくくるように答えなかった。
「いやになったの、みんなと居るのが」
「どうしてですか?」
「なんか……私、勘違いしてた事が分かった」
杏は虚ろにつま先を眺める。
「私……自分達が他人に迷惑かけているなんて思っていなかった、冴ちゃんや澄江さんのこと、何も知らなかった」
「聞いていたんですね」
姫希と同じく秀一郎も気付いた。どうやら彼女は先程の冴と澄江の身の上話を耳にしてしまったらしい。話し込んでいた広間に入りづらかったのだろう。
「ずるいよね? 私たちばかり毎日幸せで、どっかりご飯食べて、冴ちゃんや澄江さんにとって私たち『敵』なんだよね」
「いいえ、それは違います、冴さん達は本当は、あなた達ともっと仲良くしたかったんです」
「どうしてよ! だった私たちのせいでみんな不幸になったのよ!」
「じゃあ、杏さんは冴さん達、嫌いですか?」
「そんな訳ないでしょ! ……でも嫌われている、て思ってた、何でかなー、て考えててさっき理由が分かった」
「杏さん」
姫希が微笑みを引っ込めた。真剣に言葉を紡ぐ。
「冴さんや澄江さんは自分の感情や過去の拘りを捨てたんですよ、簡単な事じゃなかったでしょう、でも今お二人はあなた方を憎んでいません、なのにあなたが今度は彼女達に壁を作るんですか? ようやくこの家を受け入れようとしているのに、あなたは一人でいじけてお二人から遠ざかるんですか? 亜沙子さんの非道な仕打ちを看過するんですか? だとしたら、私あなたを許しません、ええ、私が憎みます」
「え」と杏が姫希を見上げた。
「ようやく仲良くなろうとしているのに、そう願っているのに、一人の勝手な思いこみで拒否するなら、そんな人に私は用はありません、あなたも消えて下さい」
「う」
杏は言葉もないようだが、それは秀一郎も同じだ。あの姫希、あの優しい彼女の台詞とは思えない、こうやって杏を逆療法で治すつもりなのだろう。
「ほん、き? だね、はあ、姫希ちゃん、本当は怖いんだね、なるほど『お姫様』じゃないわ」
「はい」姫希は慈愛に満ちた菩薩のようだ。
「私は『お姫様』ではありません」
「で、でも」杏はまだ暗い影の中にいる。
「わ、私、ダメかも……聞いちゃったから、ママは説得できるけど、私自身が今までのように冴ちゃんや澄江さんに接する事が出来ないかも、よそよそしくなってしまうかも」
杏は怯えていた。素直な少女だからこそ自分を偽れないのだ。姫希は細い顎に指を触れ、しばし考えた。
「うん、いい手があります、うん、これしかない」
「どうするの?」
「家を出るんです」
力無くすとんと杏が頭を倒す。
「無理だよ、私、何も出来ないもの、すぐ一人暮らしは無理」
「だから、一人暮らしではありません」
「え」
「まず、お風呂に入ります」
「は?」
杏が小さく首を傾げた。秀一郎も意味が分からない。
「いろんな所を洗います、そしていろいろ女の子に必要な準備をして、タカミーを部屋に呼びます」
「え!」
「そして、襲ってしまうんです」
「え!」
「あの人もきっと適当な感じだから、その、持っていないでしょうけど、それはこちらで準備してあげて、首尾良く終わったら、最後に魔法の一言『責任取ってね』これで完了」
「そ、そそれって、も、もしかして?」
「はい」
秀一郎が理解できない話題を、二人の少女は続けていた。
「こ、こわー、ほんとに怖いわ、そ、そんなこと、考えてたの?」
「はい、四方丸く収まり、杏さんはタカミーの家に」
「出来るかな? わ、私、蕪山さんに嫌われてない?」
「杏さんのまぶしい美脚なら」
「おおお!」
杏が吠えて立ち上がった。目に恐ろしいほどの力がみなぎっている。
「見ていろ! 蕪山! 乙女の本気、その目で見るがいい! 私を本気にさせたのが運の尽きなのだ」
ぼんやりしている秀一郎の前で、突如元気を回復させた杏が、勇ましくスマーとフォンを取り出す。
操作して耳に当て、しばらくして電話の相手に怒鳴った。
「すぐ来い蕪山! これは果たし状だ! 否! お前に拒否権はない、眠い、とか言っている暇はない、そうだ! 来たらいいことがある! それは、えええっと」
杏の目が泳いだ。
「そ、そうだ! 料理、私がお前にしこたま手料理を食べさせてやる! あ、貴様切ろうとしたな? 無礼者! いいかこれから……二時間後! 来ないと二千回キックだからな!」
ぶちり、と電話を切り、自分で驚いてしばし立ちつくす。
「わわわ、私、とんでもないことを……」
「逃げられませんね」
「うううう、そ、そうだ! 料理、余計な手間を付け足してしまった、やらねば」
「待つのだ杏さん!」
ぶつぶつ呟く杏に、秀一郎は話しかける。彼は聞きたいことがあるのだ。
「秀一郎様!」
姫希がずいっと秀一郎の目を眺めた。
「子供だからって、『探偵』だからと言って、何でも聞いて良い訳はないんですよ、何でも言って言い訳がない、分かっているとは思いますが、杏さんがそんなことするわけないでしょ? そうですよね? 秀一郎様」
「う、うむ」
絢から聞いた杏の殺人の話を聞こうとした秀一郎だが、簡単に屈する。
「そ、そうであるな、アレは気のせいであるな、僕もそうだとは思ったのだ、うんうん、そうである」
「何の話し? 探偵君」
「何でもありません、それより料理は澄江さんに習わないと、出来ないんですよね?」
「そ、そうだった! 二時間か……微妙だ、くっ蕪山め、面倒くさい奴」
杏は澄江のいる広間に駆けていった。何もかも蹴散らす勢いだ。「はい、一件落着です」
姫希は嬉しそうにぱちりと手を叩いた。
「うむ、そうであるな」と答える秀一郎は、彼女の知らなかった一面を見た気がした。
―うーん、女の子は神秘である。
と、廊下にジャズの名曲が流れる。夜のストレンジャー、秀一郎が最も好きなハードボイルドを連想させる歌だ。
「携帯電話である」
秀一郎はお母様にねだって買ってもらった最新型のスマートフォンを、ポケットから取り出して、着信メロディーに震えるそれを耳に当てる。
「しゅ、秀一郎君」
倉木警部だ。
「どうしたのであるか? 慌てているのであるな?」
「い、いや、君にも関係あるかと思って電話したんだあ、その、すぐに一報が流れるとは思うが、わしは早く君に知らせたかった」
秀一郎は焦れる。
「だから何なのだ? 警部」
「う、うん、残念なことだが……最後に通り魔に襲われた娘が、たった今亡くなったそうだあ、悲しいねえ、辛いねえ」
「うむ」秀一郎は唇を曲げた。
絢の話では通り魔は樋口敏文らしい、ならば彼がついに本当に『殺人犯』になった、ということだ。
秀一郎はこのニュースが現時点で樋口家に関係するか分からず、唇を歪めるだけだった。
杏が突如思い立った料理、時間故に夕食になるだろうそれは難航した。
快く澄江と冴も手伝いを了承したのだが、時間が経つに連れ二人の額に汗が目立ち出す。
どうやら樋口杏には決定的に『料理』のスキルが足りないらしい。
秀一郎は飛勇しかいない広間に見切りを付けて、キッチンでの大格闘の様子を眺めていたが、物事が上手くいかず荒れている杏に見つかった。
「探偵君! 何でそこにいんの?」
「うむ、他に、その居場所が、ほら僕ほどの者になると自由時間はむしろ苦痛なのだ、常に何か思考していないと、脳が錆びるのだ」
「ならアニキとママと絢ちゃんに知らせてきて、んー、てかジャマ! そこにいると出来る物も出来ないの」
―出来る物なんてないのである。
とは反論せず、いささか気分を害しながら言われたとおりにする。それも上手くいかない。
敏文はしっかりと鍵とチェーンをかけて自室に籠もっていた。
ノックし何度か呼びかけると、鍵だけが外れ、
「なんだよー?」
と、顔が出るのがやっとの隙間が開く。チェーンの方は外すつもりはないらしい。
「杏、さんが料理をしているのだ、今日の夕食には無能『探偵』蕪山もくるのだ」
「知らないぷー、勝手にすれば」
敏文は冷たく突き放した。
「ボクは傷ついた、メイドちゃんに『敏文様許して下さい、私はあなたの奴隷です、滅茶苦茶にして』と言ってもらわないと許さないんだ、大体聞いたぞ、あのキモムキムキは毒殺だって言うじゃないか、パパもそうだった、ならボクは事件が解決するまでここにいるぷー、警官が買ってきた物しか食べないぷー」
油だらけの眼鏡が七色に輝く。
「私は、そんなこと言いませんよ」
ひょっこっと姫希が顔を覗かせると、敏文は目に見えて怯えてがちゃんと扉を閉めた。
「勝手にするぷー」
扉越しの言葉に秀一郎は容易く諦めて、亜沙子の部屋に向かった。
一階の彼女の部屋は両開きの扉があり、その左右に二人ずつ警官が立っている。倉木警部の命令で外にいた警察官を、強引に引き入れたのだ。
―困った人であるな。
倉木警部は基本的に秀一郎を信頼している。だから殺人が起きた場所の警備も少ない、そこに『探偵』がいるのだから当たり前だ。
しかし、亜沙子はその全員をここに集めていた。
目を逸らす警官四人に構わず亜沙子の部屋を叩き、不機嫌そうな彼女に趣旨を説明する。黒い煙に亜沙子が隠れた。
「うんまー、何馬鹿なこと言っているのぅ? 探偵ボーイそれ正気? 冴と澄江が犯人なのよ? あいつらが関わった食べ物に手を触れられるワケないじゃーない」
五本目のタバコをくわえる。
「うんも、それより早くあいつらの尻尾を捕まえて頂戴! それまでワタシはここで警官に守られて、安全な出前だけで生きるわ」
またも拒絶された秀一郎は帰り道、姫希にこぼす。
「全く、あいつらは似たもの親子であるな? 公僕を使いっ走りに利用して」
「今更ですが、変な人に頼らず公の組織に面倒を見てもらうのが一番安全、と気付いたんですね?」
「ふむ」と認めた秀一郎だが、ふと、それはどこか彼を批判した言葉のような気がして、彼女を二度見してしまう。
姫希が普段通りの笑顔だから、自分が一瞬でも疑ったことを激しく恥じた。
最後に訪れた樋口絢の部屋でも実は同じような断りを予感していたのだが、違った。
「わかった、行く、ちょっと待ってて、先に行って」
起きたばかりなのか目を真っ赤に腫らした絢は、濡れた海草のような髪を揺らして、頷いた。
「まあ、まだ時間があるのだ……その時に来ればいいのである、用意して」
暗に姿を整えろ、という秀一郎の言い方だったが、絢は気付いたのかどうか分からない。
秀一郎が目の前にいるのに人形のように表情もなく、何もないあさっての場所をじっと見つめていた。きょうび人形さえもっと人間らしい表情だろう。敏文の部屋に行けば分かる。
かくして任務を終えた秀一郎はキッチンに戻ろうとするが、必死の形相で食材と戦っている杏……むしろ食材に圧倒的に負けている彼女の苛立ちに、また巻き込まれるのが億劫だと思い直し、いつもの広間に足を向けた。
大きな広間はもう飛勇しかいなかったが、口を利かねば苦にならない。向こうも愛想笑いを浮かべるだけで近づいてこないので、そこで料理と呼ばれる科学の冒涜行為の完成を待つことにした。
数分待つと玄関からチャイムが鳴り、秀一郎達が立つまでもなく不安一杯といった蕪山が入ってくる。
「やあ」
声が沈んでいる。
「タカミー、せめてもっと良い服を着てきたらどうですか?」
蕪山がらしからぬよれよれのスーツを着ているのを、姫希が目ざとく非難した。
「折角の大事な……お呼ばれなんですから」
「そのことだけど」
蕪山は何か苦悩していた。彼はしばらく黙り、それがあまりにも切迫していたから、遠くのジョンの鳴き声も聞こえた。
「……料理って本当?」
「はい、杏さん張り切ってますよ」
「それじゃあ、みなさんまた」
姫希が蕪山の袖を素早く、むずと掴む。
「何で帰ろうとしたんですか?」
蕪山は何かを思い出したらしく、怖じ気づいている。
「料理? そんな器用なことをあの子が出来るはずがない、君たち、悪いことは言わない、逃げなさい」
「……タカミーは女心がさっぱりですね」
「メイド子ちゃん、ここは年長者の言葉を信じるところだ、僕は君たちより杏さんを知っている、そうだ! みんなで逃げよう、明日の朝日を病院以外の場所で見よう」
「だめです」
にべもなく姫希は蕪山の手を抱えて、取り押さえた。
「メイド子ちゃん、君は鬼か!」
「いいえ、これは善意です、タカミーはこれからそれに慣れていかねばならないんです」
「はい?」
「いいえ、こちらの話しです、飛勇さん」
「は、はい」
感心なさ気だった飛勇が、姫希に呼ばれた途端、背筋を伸ばして直立する。
「杏さんに知らせて下さい、タカミー……蕪山さんが来たと、逃げるかも知れないけど、そしたら一緒に蹴りましょう、て」
一つ頷いて飛勇が走っていく。
「鬼! 悪魔! キングギドラ! 可愛い顔して君には情けという二文字はないのか?」
「心地よい響きです『お姫様』より余程いい、ちなみに私には『情け』はありませんが、タカミーは『情けない』がありますね?」
「上手いこと言ったつもりか! 妖怪変化」
秀一郎の腸が熱くなる。
―妖怪? このボンクラが妖怪の何を知っているのであるか? 妖怪の深遠なる世界をたった四文字にまとめるなど、やはりボンクラはボンクラなのだ。
「蕪山君!、君は『妖怪』と一括りにするが、それは何を指している」
「蕪山さんっ、丁度良いとっころに! ご飯でっすよ」
秀一郎の妖怪談義を遮り、無駄に明るい澄江が顔を出した。
「す、澄江さん、あなたと僕との友誼に賭けて教えてくれ、それは『料理』か?」
「…………」
「な、なんでそんなに悲しそうな顔になる! な、なぜ涙を流す、あ! 十字を切ったな、仏教徒だろ! 離せメイド子! 僕はまだ現世に未練たらたらな、修行の足らない凡人だ」
蕪山が抵抗していると、澄江の横から冴が現れ、全く感情を見せずゆらゆらと彼に近づいていく。
「いけません」気配を察したのだろう姫希は叫んだ。
「ボディはこれから酷使するからやめてください、殴るなら顔です」
「……それって有名な台詞だけど、逆だよね?」
「うるさい、オレは全面的に杏の味方なんだ」
ぼかぼか、と蕪山は数発殴られ、ぐったり静かになる。
「話は聞いた」
冴は振り返り眩しく親指を立てる。
「オレ達の身の安全と、何よりも杏の為、コイツは連れていく」
「はっい」
ずるずると蕪山は冴と澄江に引きずられていく。
「さあ、秀一郎様、私たちも行きましょう」
姫希が言うが、秀一郎は迷った。何か割が合わない気がする。
「姫希、僕らはもしかして『とばっちり』を受けていないであるか?」
「気のせいです」
彼女がきっぱり言うならそうなのだ。秀一郎は納得して続いた。
秀一郎が食堂に入ると、もう蕪山は座らされていた。力なく頭が横に傾いでいる。
作り笑顔の澄江がかたんかたんと皿を置いて行く。
「……その、料理は何なのだ?」
立ちこめる異様な空気に、秀一郎は動揺を隠す。
「骨付きジャガイモの刺身よ」
こっちは太陽のような笑みで杏が答えた。手に大きな寸胴を抱えている。
「刺身なのに寸胴にあるのだな?」
イメージが繋がらなかった。むしろ聞いて後悔した。
「あ、あんまり気にしないで下さい、秀一郎様、料理は……きっと……心……」
珍しく姫希が言いよどむ。
「……もしかして何か『誤算』があったのではないか?」
「ありません……予想以上……いえ」
ずどん、と杏がテーブルに寸胴を置くと、皆一瞬頬を強ばらせた。 言い出した姫希が、弱々しく頭を垂れている。
秀一郎は嫌な予感に唾をごくりと飲み込んだ。他の者達も気のせいか戦々恐々としているようだ。
テーブルについているのは蕪山と姫希と秀一郎、そして飛勇で、冴と澄江は手を細かく震わせて杏を手伝っている。当然、亜沙子と敏文はいない、そしてまだ絢も来ていない。
「かかかか、蕪山さん」
寸胴を置いた杏が、目元まで赤くしながら口を開いた。
「なんでせう」
蕪山には生気がない、幽霊のようだ。
「ごごごご、ご飯が、おおおお、終わったらららら、わわわわ、私のへへへ部屋にに、きききき来てください!」
「なぜ?」
「……ベベベ、ベッド、の上の時計を取り替えたいんです、そそそ、それからベベベ、ベッドの横にあるタンスの、上に置きたい物があり、ベベベッドの下の、絨毯を換えたいし、ベベベッドを……動かしたい、から手伝って欲しいんです」
「いいけど……」
蕪山が何かを確かめるように、杏を見上げた。
「ななななな、なに? 何かヘン?」
「杏ちゃん、ほっこりしているよね? お風呂入った? 食事前なのに」
「ああああ、なな、慣れない事をしたら、ああ汗をかいてててて、別に企んでなんていないからら、別にじっくり洗ってなんていないからら」
「はあ」
との遣り取りの間、音もなく絢が入ってきた。変わらず病気のような姿で、目だけが、ぎらぎらしている。
彼女が着席したのを見計らい、料理が皿に注がれた。
「ふが」と秀一郎は焦った。
何やら奇妙な現実が広がっているのだ。杏の料理はまず得体が知れない。スープなのか固形なのか、それから分からない。
何やら塊が皿にある、半分溶けている感じだ。色は濃い緑色、軍隊で使われる色、そして匂いは……「うぶ」と秀一郎は鼻を押さえる。
大量殺戮化学兵器でさえ臭気だけはもっとマイルドだろう、思わず彼は疑った。
―これは毒であるな? ならば一連の犯人は杏さん?
だがこの後、宿命としてそれを口にしなければならない。
秀一郎は躊躇した、制作した本人以外皆躊躇している。横目で確認すると、姫希も青ざめていた。
気のせいか、少し気が晴れた。
「これって……じょうだ……すみません、食べます」
飛勇は得意のKY能力で軽い口を開くが、重々しい姫希の一睨みで黙った。
「ねえみんな、初めて作ったんだけど、どう?」
などと杏が機嫌良く見回すから、逃げ場がなくなっていく。
秀一郎は銀のスプーンでそっと掬ってみた。磨き上げられた銀が一瞬のうちに黒ずむ。
一度目をつぶった後、決心した秀一郎は舐めて「うが!」と悲鳴を上げた。
劇物だ、どうやって市販の食材でたどり着いたか分からないが、それは劇物だ。大体、見た目もそうだがこの物体X(料理でたまるか)は味が分からない。辛すぎて苦すぎて酸っぱすぎて、結局痛点を刺激する。
道ばたに落ちている小石でも、もっと上等な味付けをされているはずだ。
ぶれる視線を上げると蕪山が死んでいた。もうそう表記しても良い。不運にも彼には一番大きなものが行ってしまい、苦痛もそれに比して何乗(倍ではない)にもなったはずだ。
「か、考えたら」
姫希の声も音程が上下している。
「た、食べ物に味があるなんて……おかしいですよね? 食事はエネルギーに変わる物を取り込む行為なので……その、栄養があれば……味は……味なんて……味ごとき……二の次……三の次……ううう、ごめんなさい、考えが至らなかった、私が悪いんです」
彼女の泣き顔を秀一郎はしばらくぶりに見た。
「おかわり」
全員の視線が集中する。
「え、なに? みんな、どした?」
スポットライトを受けたように皆の目を独占した絢が、驚いたように照れた。
「どうだった? 絢ちゃん」
何も知らぬ杏が感想を求めると、彼女は少し考える。
「まあまあ、でも、量が、足りない」
杏は皆が等しく戦慄する量を、絢の皿によそった。
「そうだね、ごめん、今度からもう少したくさん作るから、今日はこれだけで許して、みんなのおかわりなくなるから」
今度はない。少なくとも秀一郎の未来はそんな世紀末の筈がない。
「探偵君、ほら早く食べなよ、冷めちゃうよ」
秀一郎の様子に杏が気付いた。無体な発言だ。冷めるわけがない、何故なら物体Xはあるだけで周りの空間を焦がしている。
秀一郎は苦悩した。ここ最近で最も脳を回転させた。どうしたらこの場から逃れられるのか、毒物、というのは例えそうと知らず作ってしまっても罪にならないのか、誰か蕪山を病院に連れて行け。 幸運の女神が落ちてきた。突然激しく食堂の戸が叩かれ、二人の警官が入ってきた。
「ど、どうしたのだ?」
他の者が心痛でもう反応さえも鈍いから、秀一郎が代表する。
「そ、それが……」
制服姿の警官は、何か言いあぐねて唇を無意味に動かす。
秀一郎は警官達は亜沙子の部屋を守っていた、と思い出した。
「亜沙子さんに、何か?」
「へ、返事がないんです、その、しばらく前から」
秀一郎に促されてようやく一人が答えた。
「ふむ」と秀一郎は勢いよく立ち上がった。食事中にいきなり席を後にするのは無礼であり、彼も心苦しいのだが仕方ない。そう、本当は食事していたいのだが、それは仕方ない。
秀一郎は騒然とする食堂を後にした。姫希を伴い自然と早足となる。
亜沙子の部屋への道中、警官達から詳細を聞く。
彼女は数時間前まで煩く「あれがほしい、これを持ってこい」と命令していたが、ぱたりと止んだらしい。最初は安堵した警官達だが、静けさに徐々に不安になり、数分前に声をかけてみたが、返事がなかった。入ろうにも鍵が閉まっていたので、合い鍵を求め食堂に来たのだ。
姫希はすばやく彼の傍らから外れる、杏達に合い鍵の場所は教えられている。
秀一郎は警官を引き連れ、亜沙子の部屋へと向かった。
到着すると、おろおろしている残り二人を無視して、躊躇なく拳を打ちつける。
「亜沙子さん、僕なのだ、どうかしたのであるか?」
返事はない。秀一郎は何度かそれを繰り返す。
「秀一郎様、鍵です」
亜沙子の反応が得られないうちに、姫希が走ってきた。
警官達に戸惑いがある。何が起こったのか分からないのに勝手に鍵を開ける。たしかに警察には出来ない、しかし秀一郎は警察官ではない。
簡単に解錠すると扉を開いた。
「……うむ」
さすがの秀一郎も、下肢から力が抜けていく。
亜沙子が返事できるはずがない。何も頼まなかったのは何ももう必要ないからだ。
彼女はもう死体なのだから。
黒い唇を泡だらけにして仰向けに倒れていた。余程苦しかったのか、両手の指がくの字に曲がり、喉は掻きむしられたのか血まみれだ。
血管が浮き出た眼球はこぼれ落ちる限界まで剥き出され、低い鼻からは黄色い鼻水が吹き出されている。
これ以上ないくらい無惨な……酷い死に方だった。
秀一郎は手袋を嵌めると、彼女に近づいた。様子から何となく死因は分かる。
背後で警官達が喚き出すが、それはもう遅い。
手を伸ばして亜沙子の体の回りに落ちていた白い棒、いくつものタバコを拾う。曲がり、噛みつぶされ、口紅がついたその中に、目標を見つけた。
一本だけ真白い、新しく長いタバコ。
「これである」
秀一郎はつまんで、隣で息を潜めている姫希に見せた。
「タバコ、ですか?」
「そうである、あまり顔を近づけてはいけないのだ、これには恐らく青酸カリが注入されている」
亜沙子の部屋は大きな天蓋付きのベッドが置かれ、その横にウォーキングクローゼットへ通じる扉がある。しかし何よりも彼が注目するのは、隅の壁に乱雑に積まれたタバコの箱だ。皆同じメーカーで、明るい黄色のパッケージに目がちかちかする。
「実は青酸カリはいつぞや絢さんがやられたように、食物に仕込むのは難しいのだ、簡単に吐き出されてしまう、がこのようにタバコに仕込まれると回避不可能な猛毒となる、タバコが燃焼すると炭酸ガスと水が発生し、それらと青酸カリが反応するとシアン化水素が発生する、シアン化水素は肺からの吸引が最も危険である、気付いたらもうおしまいである、犯人は学習したのだ」
「しかし」
姫希は辺りを窺った。
「誰が?」
「うむ」そして秀一郎は混乱にある警官達に振り返った。
「下っ端ども! すぐに敏文さんの部屋に行って欲しいのだ、彼を確認したい……下っ端ども! 言うことを聞くのだ!」
四人の警察官が秀一郎に注目する。
「下っ端……」中の一人が呻くが、秀一郎は構わない。
「早く行け! 給料泥棒」
警官達のこめかみ辺りはひくついているが、彼等は従った。
「全く使えない、四人も張り付いてこのザマである、僕ならば犠牲者は一人も出さないのだ」
秀一郎が心づいて窓やらをチェックしていると、乱れた足音が帰ってきた。
「た、大変です! 有名探偵さん」
「うむ?」秀一郎が眉を上げると、敏文の部屋に行っていた警官が顔を赤青に点滅させていた。
「扉が開きません、樋口敏文さんの部屋が開きません」
秀一郎は忌々しげに舌打ちしたが、当たってもしょうがないので腰を上げた。
敏文の部屋の前に行くと、一人の警察官が困ったように突っ立っていた。
「どうしたのだ?」
「あ、開かないんです! 中から返事も帰ってきません」
「ふむ」
秀一郎はそんなに年が変わらない警官を退け、乱暴に扉を蹴る。
「敏文さん、冗談をしている暇はないのだ、一大事である、開けてくれ」
数秒待っても応答はない。秀一郎はしたり顔の警官にむかついた。
―こいつも倉木警部に言って寒村にでも飛ばして貰うのだ。
「敏文さん、いるのか? あけるである」
面倒になり姫希に目配せをする。彼女は手に持ったスペアキーの束から一つ取り出すと進み出て鍵穴に差し込む。
「秀一郎様……開いています」
一度手首を捻った姫希が、怪訝そうに振り返る。
「ふむ?」
秀一郎はドアノブを掴む。だが開かない、敏文の部屋の扉は内に開くタイプだから、何かが引っかかっている可能性もある。
「下っ端、手伝うのだ」
警官の顔色が変わるが、秀一郎は構わず扉を押した。警官と姫希も手伝う。
何か重い物の感触があるが強引に力を入れる。
ゆっくりと扉が開く。が、すぐにつかえた。敏文はチェーンをしたままなのだ。
「わあ」と扉に張り付いていた警官が驚いた。少しだけ開いた隙間から中を覗いたのだ。
「どうしたのだ?」
秀一郎は同じようにチェーン施錠の間から中を見渡し、呼吸を忘れた。
敏文が倒れていた。扉につかえていたのは彼自身の太った体だったのだ。
「敏文さん! どうしたのであるか?」
ぴくりとも反応がない。
「いかんのだ!」
秀一郎は警官にチェーンを切る道具を要請した。彼は首を捻る。
「持っていないのであるな? この税金泥棒! 姫希」
「はい」
と有能な助手が返事をする。
「杏さんにでも尋ねてくれ、そう言った物があるか」
「はい」
だがそれは結局なかった。だから敏文の部屋を開けたのは、押っ取り刀の倉木警部が到着した後だった。
ばちん、と専用のハサミで金属チェーンを切断して、敏文の部屋にようやく入れる。傍らには倉木警部もいるた。
「やや!」と早々に彼は喫驚した。
樋口敏文は死んでいた。やはり毒殺らしく喉元を手で掴んでいる。自らで首を絞めているようだ。
後は口元の泡、目開いた目、苦痛に歪んだ頬、亜沙子と大差ない。ただ吐瀉物で周囲のカーペットは汚れていた。
秀一郎はすばやく窓に近寄る。しかし窓は閉め切りカーテンが引かれ、当然鍵がかかっていた。敏文の死体にもう一度視線を転じても、彼の近くにはお菓子の袋と転がった空き缶があるだけで、毒物のキャリアになった物が分からない。
「全て押収しろ」
倉木警部は当然の命令をして、迷っていた警官達がお菓子の袋、飲みかけのジュース、落ちたフィギュアまでも丁寧に運んでいく。
「それはないのだ」
秀一郎はぼそりと呟く。
「どうしてだねえ? 秀一郎君、彼は亜沙子さんと同じく、何かに毒を仕込まれていたのではないのかねえ?」
「警部、亜沙子さんとは違うのだ、お菓子の袋を見たのであるか? ジュースの缶はどうであった? あれらを細工するのは難しいのだ、特に今回の場合、細工した物を渡すのはほぼ不可能、敏文君のお菓子は警官が買ってきたものである」
「しかし、この部屋は完全に閉じられていた、扉の鍵は開いていたがチェーンがかかっていた、敏文君は君の話によると相当まいってて、誰かが渡した食べ物を食べるとは考えにくい、大体、その痕跡もない」
倉木警部の言葉は最もだ。ある意味、この部屋も最初と同じ密室だ。
「まいったなあ」
倉木警部は斑の頭に手を置いた。何か言いたげにちらちら横目を向けてくる。
「ま、まあ、たしかにわしの部下四人も役立たずだがねえ」
そのとおりだ、全て屋敷を警護していた四人が悪い。こうもやすやすと犯人に隙を突かれるなど話しにならない。しかしこれで犠牲者は樋口賢吾、ダウニー・ジュンイチ、樋口亜沙子、樋口敏文の四人になってしまった。大量虐殺だ、声明文を書いた犯人は今頃さぞや愉快だろう。しかし。
しかし、しかし、しかし。
秀一郎はその時、笑った。
にやり、と。
「う、うん? 秀一郎君?」
「なるほどである」
秀一郎は運ばれていく敏文の死体から、目を離した。
「なるほどである」
「何か分かったのかねえ? 天才の君だからあ」
倉木警部はどこかよそよそしい、しかし今回だけは許した。何故なら今、彼はすこぶる機嫌が良いのだ。
「全て分かったのだ、僕の頭脳は何もかもつまびらかにしたのだ」
「おおお!」
倉木警部の目つきが変わった。粘つく流し目から、憧憬と崇拝の上目遣いに変わる。
「本当かね? いや、わしはそうじゃないかと思っていたが!」
「ふむ」
秀一郎は胸を張って大儀そうに頷いた。
「僕としたことが、少しばかり惑わされすぎたのだ、実は単純明快な事件であった」
「すでに過去形!」
倉木警部は揉み手で近にじり寄る。
「で、誰? 誰かね? 教えてよう」
「ぐふふふ、警部それは……」
考え直す。
「いや、まだ証明していないのだ、まだ言わないのだ」
倉木警部はカニが歩くように手足を振る。
「もー、教えて教えて教えて! 知りたい知りたい知りたい! 秀一郎の意地悪」
そして二人で顔を合わせ「ぐふふふふ」と笑う。
「どうしますか? これから」
秀一郎はもう少しそうしていたかったのだが、姫希が語勢を強めて切り込んできたので仕方なく辞めた。倉木警部に向き直る。
「用意して欲しい物があるのだ」
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