「探偵童話」~超絶神業天才完璧少年探偵・三田村秀一郎と闇姫ちゃん……違うんです! 別にミステリーをディスっていません。ただ変な話を思いついただけです。だから責めないでください! 

イチカ

事件編

プロローグ


「犯人は、あなたです!」

 屋根の上をぐるぐる回っていた稲妻が、激しく落ちた。

 唖然とする人々を満足げに見回した『探偵』は、薄い唇に拳を当てて咳払いをする。

「そんな……、何を突然……」

 幼い少年に突然指を向けられた女は、ゆっくりと首を振る。稲光が閃き、美しい顔がほのかに浮きたった。

「もちろん、理由はあります、証拠があるのです」

 彼女の否定に、未だ一〇かそこらの『探偵』はにやりと唇を歪めた。

「僕の推理によると……」

 時が止まったような屋敷の中、少年の朗々とした声だけが生き生きと流れ、それが進むに連れ、場にいる人々の顔色が変わっていく。

「な、なるほど……、そうだったのか!」

 唸るような声を上げたのは伯父だった。いつも来訪の折にぬいぐるみを買ってきてくれる、優しい人だった。

「つまり、殺人犯はこいつなんだな?」

 今はまるで悪魔でも見るような目つきで、女を一瞥する。

「酷い……人を殺すなんて」

 ミートパイの達人だった叔母は、いつもパイを取り分けてくれた白い手で口を覆っている。

「確かに、彼は卑劣な脅迫者です、しかしだからと言って殺していいという事にはなりません、あなたは絶対にやってはいけない事をしたんです!」

『少年探偵』が哀れっぽい目を女に向け、それが合図だったように大きな足音を立てて、『少年探偵』の左右にいた巨人のような警察官たちが、一歩踏み出した。

「待って! 待って下さい!」

 女は自分の窮地に気付いたのだろう、ふらりと下がった。その背後にいた『彼女』にぶつかったのは、その時だ。

「あ……ち、違うのよ、違う、違います! 私はそんなこと……」

 女は『彼女』に向かって、皆に向かって弁解しようとした。

「往生際が悪いぞ! この人殺し!」

 必死に自身の潔白を主張する女に、伯父の声が跳ねた。

「わたしは……」

 女が茫然と『彼女』を見つめる。力なく唇が何かを告げた。見開かれた目に涙がたまっている。

「嘘だろ……君のハズがない、そうだろ?」

 今まで成り行きの中凍りついていた男が、浅い呼吸を繰り返しながらかぶりを振った。

「当り前でしょ! 信じて、あなた!」

 男は答えられなかった、その前に伯父が「騙されるな!」と遮ったのだ。

「そいつがあの下らない男と昔、付き合っていたのは間違いない、探偵さんが写真を見せてくれただろう? その女は元々お前の、この家の財産が目当てだったんだ!」

「違います! 私はそんなこと……」

「嘘をつくな!」

 だが伯父に怒鳴られている女の言葉に嘘はない。『彼女』は知っている。女が溢れんばかりの愛情を、自分と男に向けていたことを。

 そのくらいのことは女を知っている者なら、誰でも分かるのだ、しかし、この場で証明してくれる者はなかった。

「違う……違う、違う!」

 近づく警察官におびえながら、女は後ずさった。

「さあ、とにかく署まで来ていただきましょう、奥さん」

 年かさの私服の警官が言ったとき、女はぱっと背後の扉から飛び出していった。

「逃げたぞ! 殺人犯が逃げた!」

 伯父は叫び、警官たちがつむじ風のような勢いで追った。

「刑事さん……」

「大丈夫だよ、もう彼女は逃げられない、しかし今回も名推理だったね」

『少年探偵』に中年の私服警官は白い歯を見せる。

「ありがとうございます、しかし、こんなの初歩の推理ですよ、僕に分からないことなんてありません」

「何かの間違いだ! あいつが……そんなことを……」

 頭をかく『探偵』の前で、取り残された男が苦悶の表情で頭を抱え、膝を折る。

「女は分からないものですからな……気を落とさずに」

 私服警官の言葉には憐憫が溢れている。

「どんな時でも女性とは不思議で、時に残酷なんですよ」

『探偵』が、バレンタインチョコも貰えないだろうモテ要素のない子供のくせに、偉そうな言葉を添えた。

『なにこれ?』

『彼女』はあまりの展開に、強張っていた感情が戻ってくるのを感じた。

『なんなのそれ?』

 腹の奥がムズムズとくすぐられているようだ。あまりにも意外な推移だった。

 だが『彼女』が笑い出すことはなかった。その前に再び雷が、やや遅れて警官たちの声が上がった。

「しまった! 僕としたことが!」

『少年探偵』と中年刑事が同時に走り出し、『彼女』も含めその場にいた者たちも続いた。

『彼女』がいつか友達を集めて行ったかくれんぼの時に、全く困ることのなかった広い屋敷を抜け、中庭に出る。

 ふりつづく小雨の下、密かに自慢だった庭の噴水の水が真っ赤に染まっていた。

 中心で水を吐き出し続けている白鳥のオブジェに、白っぽい塊がこびりついている。

 同じものが、噴水の水に浮かぶ女の後頭部から覗いていた。

「自殺か……」

 刑事が振り仰ぐ方向には『彼女』の部屋があり、窓が開け放たれていた。

『彼女』は思わず首をかしげた。

 何が起こっているかよくわからない。どうして、いつも傍らにいて微笑んでくれた女が、水面に力なく浮いているか分からない。

 どうして動かないのか、何故みんなが羨ましがった美しい顔から、表情が抜けているのか、星空のようだった瞳が瞬きもしないのか、分からない。

「わあああ!」

 遅れてたどり着いた男が絶叫した。

『彼女』は悪戯したり友達を傷つけた時、男に怒鳴られたこともあった。だがその時の声とは全く違う。

「彼を止めるんだ!」

 屋敷に飛び込む男の背を見て『少年探偵』が声を上げる。

『彼女』は本能的に駆けだした。

 何が何だかさっぱりわからない。ただいけなかった。このままではいけない。

『彼女』が向かったのは、女と男と三人でよく料理を作ったキッチンだ。

 ムシの知らせ、というやつだ。

 だがそこももう真っ赤だった。

 女のために作られたシステムキッチンは、鮮やかに彩られていた。赤のスプレーをまいたかのように、一面染まっている。

 中心に男は倒れていた。床を抱くようにうつ伏せだった。

 雷鳴がまた世界を白く浮かせる。

 男の首に突き立った包丁がギラリと光った。

『彼女』の全ては砕け散った。


 序


「何だこれは!」

 彼は木机を激しく殴りつけた。

 気配を察したのか、外から犬の鳴き声が上がった。少女たちの笑い声も弾ける。

 彼にとって何よりも宝だった者たち。それらを守るために、彼は時に鬼となり人道に背いた。

「何だこれは……」

 再び怒鳴ろうとしたが鋭い痛みが胸を突き、彼は激しくせき込んだ。

 湿った咳が永遠と続く。

 あまりの苦しさに蹲ると、拍子にハラリと数枚の紙が滑り落ちる。

 背信の証がはっきりと文字で記されている紙。

 止まらぬ咳の中、彼は必死に右手を伸ばした。

 やせ細った指がぐしゃっと紙片を潰した。


 問題編 『Q』 


 第一章

 

 三田村秀一郎は天才少年探偵だ。

 少なくとも新聞やら週刊誌には、そう紹介されている。

 天才、とマスコミ達に呼称されるのは少々面はゆい。だが仕方ない、事実に基づくものなのだから。

 彼の行くところ事件があり、常に秀一郎はその解決に奔走している。

 窃盗、詐欺、暴行、殺人、世界は犯罪でいっぱいだ。しかし、どんな難解で複雑怪奇な事件も、秀一郎の前では子供用のなぞなぞのように容易かった。

 だからいつも警察は彼を頼り、秀一郎も人のため、世の安寧のために捜査に協力した。

 探偵活動は十一歳からだから、足かけ五年だ。

 手がけた事件は百に届き、全てを解決してきた彼の名は自然と売れた。

『天才少年探偵』の誕生だ。

 確かに普通の高校生よりは刺激的な日々を送っているし、社会に貢献もしているから、感謝状も多い。だが別に特別ではない、脳みそに刻まれた知識が同年代を遥かに凌駕しているだけなのだ。

 最も、大多数の平穏な日々は三田村秀一郎と言えど、ただの十六歳だった。

 ヴィヴァルディの「春」が、心地よい目覚めを促してくれる。

 お気に入りのクラシック曲に包まれた秀一郎は、ベッドから半身を起こし、すぐに軽く目頭を押さえた。

 早朝の光が鈍い痛みとなった。夜更かしの後の朝は刺激的だ。

 だが仕方ない『探偵』を生業にする以上、無視できぬTVプログラムが深夜に組まれていたのだ。

 重い頭を振ってベッドから離れ一つ伸びをすると、「春」を奏でるFMアコースティックの最高級コンポのスイッチを切り、あくびを掌で受けながら自室を出る。

 途端に香ばしい、胃に文句を言わせる匂いを捉えた。

 それを鼻孔に入れると、一日の始まりを感じる。

 秀一郎は軽い足取りで階段を降り、リビングへと向かった。

「おはようございます、秀一郎様」

 予想通り、リビングの扉をあけると、彼女が深々と頭を下げていた。

「今日のお加減はどうですか?」

「うん……」

 秀一郎が曖昧な回答になるのも無理はない。彼の体調を案じてくれる同い年の少女は、びっくりするほどの美人なのだ。

 細かなウェーヴのかかったボリュームのある髪に、中世のお姫様を思わせる容姿。黒色のワンピースとま白いエプロンという基本的なメイド服ながら、テレビで人気を博する着飾ったアイドル達などかすんで見える程だ。

『天才少年探偵』だとしても普通の男子高校生だ、そんな少女に遭遇すると緊張してしまう。

 一緒に生活するようになってから五年も経つというのに、だ。

 彼女、槙島姫希は軽くうなづくと、さっとキッチン側に振り返りフライパンを片手に料理を再開した。

 ぼんやりと少女の動きと共に揺れるエプロンの結び目、大きなリボンを見つめていた秀一郎だが、気配は相手に伝わったようだ。

「どうしました? 秀一郎様」

 姫希が器用に片手でフライパンを動かしながら振り向く。

「い、いや……今日の朝ごはんについて考えていたのだ」

 秀一郎が誤魔化した。『探偵』ともあろうものが女性に見とれていた、などと認めるわけにはいかないのだ。

「今日は」

「おっと! 言ってはダメである、僕の楽しみを取らないでほしいのだ」

 秀一郎は掌を上げ、彼女の言葉をさえぎり、瞬く瞳に、にやりと笑って見せる。

「厚切りハムと半熟目玉焼き、トーストとイチゴジャムである」

「……はい、そうです」

 振り向かずに頷いた姫希が、フライ返しを持ったので、満足した秀一郎はテーブルの席に着いた。

 白いランチョンマットがあり、籐のバスケットには茶色の焦げ目がついているトーストが並べられている。その下に隠れるように、有名産地のイチゴを使ったジャムの瓶もあった。

 待つまでもなく、熱々の厚切りハムと目玉焼きが乗ったぴかぴかの白い皿が、秀一郎の前に置かれる。

「ありがとう」

 食欲をそそる匂いを吸い込み、礼を言うと、姫希はちょこっと微笑む。

「それより、どうしてメニューがわかったんですか?」

「簡単な推理である、ワトソン君」

 すぐにでも朝食に取り掛かりたい秀一郎だが、彼女の疑問を無視することなどできない。謎を分かりやすく説明するのもまた探偵の仕事であり、無知な者への義務なのだ。

「まずトースト、我が家の朝食は基本和食だが、昨日の夜、お母様が米の配達のことで電話しているのを聞いた、おそらく何やら不備があり配達が滞っていたのだ、なら朝に米を使い切ってしまうようなマネを君はしないのだ、次にイチゴジャム、今日は五月二十四日で、このくらいになると毎年伯父様から旬のイチゴを使ったジャムが届く、そしてイチゴジャムは意外と賞味期限が短いのだ、せっかく高名な産地のイチゴジャムなのだから賞味期限のうちに食べたいであろう?」

 まだ湯気の出る厚切りハムと目玉焼きを指す。

「目玉焼きだけど、君は料理の時に慎重になっていた、目玉焼きの卵を割らないように気をつけていた事が後ろからでも分かった、厚切りハムは一昨日お父様がワインを飲むときに大量に余ったのを覚えているのだ、目玉焼きだけじゃ彩りが足りない、そう思ったのだ、僕に分からないことはないのだ」

「なるほど……」

 ほうっと姫希は吐息をついた。

 何か言おうとした秀一郎だが、間近の彼女の瞳に言葉を飲み込む。

 磨き上げられた黒檀のような、天体望遠鏡で覗いた銀河のようなきらめきがあった。

 姫希はこうして秀一郎の推理を良く聞きたがる。純粋な知的好奇心からか、知識と閃きが織りなす神業に憧れているのか、彼女は常に秀一郎の傍らで推理に耳を傾け、その説明を請う。

 そして推理を解体して教えると、その麗しい瞳に独特の光が灯る。

 秀一郎にはその心理は分からないが、恐らく深い洞察からくる芸術のような推理に、感銘を受けているはずだ。

「しかし、相変わらず料理の腕は逸品であるな」

 彼の嗜好に合わせた半熟の卵焼きを頬張りがら、秀一郎は称賛する。

 姫希は桃色の唇から真珠色の歯を見せ、ほっそりとした腕を壁掛け時計に向けた。

「ありがとうございます、しかしあまり食事を楽しむ時間がありません」

 秀一郎ははっとした。いつもならすでに登校途中の時間帯なのだ。

「僕としたことが!」

 慌ててトーストを口に押し込む秀一郎を、姫希は生真面目な表情で見つめていた。


 梅雨も控えた季節ながら、五月の空は美しかった。

 水彩絵の具で描かれたような薄い青色が、どこまでも続いている。

 都会、としか形容の出来ないいつもの通学路を歩きながらも、つい心が浮き浮きしてしまう。

 早朝の爽やかな風を受けながら振り向くと、朝とは違い首元にリボンのついたメイド服の姫希が、靡く髪とスカートを押さえながら、ぴたりと着いてきてくれている。

「もっと早く起こしてくれてもいいのだが」

「もっと早く寝て下さればよかったのに」

 つい唇を尖らせた秀一郎に、姫希は肩をすくめて反撃する。

「だって僕は深夜まで起きていないといけないのだ、仕事柄……それも仕事と言ってもいい程の重要な用件がある」

「……深夜番組を見ることがですか?」

 図星だ。毎週日曜日の深夜一時二十五分という半端な時間、『探偵倶楽部』という視聴者参加型のミステリドラマがあるのだ。

 ドラマの中で起こった事件を、視聴者を探偵役として解決させる、という内容で、携帯電話を通して事件の犯人、証拠などをテレビ局が募り、正解者にはささやかな賞品が貰えるという、大がかりなクイズ番組である。

 秀一郎は当然毎回正解していて、景品は山と積まれている。英語で『名探偵』と彫られたチャチなバッジだ、必要には値しない。

 だが『探偵』という職業にある手前、秀一郎は見てしまう。

 使命だと思えるし、番組構成そのものが彼への挑戦に思えてならない。

「録画すればいいじゃないですか? 次の日ゆっくりと見られます」

「あの番組はけっこうファンが多いのだ、次の日、学校で得意になって内容をバラす目立ちたがり屋がいるのだ」

「だったら、もっと起床に問題意識を持ってください」

 ため息と共に肩を落とす秀一郎だが、それほど苦脳にはいない。

 彼は毎日余裕を持って登校しており、時間に多少遅れても遅刻に結びつかない。

 名探偵とは常に余裕を持っていなければならない。剣豪と同じで、あえて危険を回避する努力も必要だ。最も、遅れたら教師を待たせればいいだけの話ではある。

「お! 秀一郎じゃないか! 珍しいな」

 秀一郎と姫希が通う私立大堤高校の校舎が遠くに現れたと同時に、高い声で呼ばれる。

 同じ制服を着た学友たちの中に、見知った者がいた。

「おはようございます」

「ま、槙島さん……今日もあなたに会えてよかった、何もかもうち捨ててここに参りました」

 姫希の挨拶に、ジュリエットに傅くロミオのような事を言い出すバカは、秀一郎の知る中で一人しかいない。

「山本……朝から疲れるからやめるのだ」

 山本惣太は明るい茶色に染めた短めの髪を撫でる。

「言っておくが秀一郎、お姫様になにもしていないだろうな? もしお前のために我らの聖女が涙を流そうものなら、全ての男子生徒が殉教のため奔走するぞ、お前は地獄で自分の心臓をバーベキューに鬼と語らうのだ」

「山本……目が据わっているぞ」

 秀一郎は額の汗をぬぐう。

『お姫様』とは姫希のあだ名で、数ヶ月前彼女に一目会った山本が付けたものだ。

「私は『お姫様』じゃありません……」

 本人は本気で嫌がり、今も呟いて横を向くが、確かにこれほど端的に彼女を表すあだ名はない。

 山本惣太によるあだ名が、何のロビー活動もなしに学校の全ての生徒、そういう事柄に神経質な女子生徒にまで許容されるほどに、正鵠を得ているのだ。

「いやー、今日は朝から電車が遅れてブルーだったんだけど、最初にお姫様に会えるならそれもプラスだな」

「最初に会ったのは僕とである」

「人間、嫌すぎる記憶は忘れるものなのさ」

 と、山本は姫希の横にちゃっかり着いている。

 だが直後、山本ははあっと息をつき、秀一郎を見た。

「おい秀一郎、数学の課題はやったか? 俺はしていない、だから後で写させろ」

 あまりにも親しげな口調だが、山本惣太とは出会ってまだ二カ月ほどしか経っていなかった。

 彼は電車で一時間も離れた都外に住んでおり、高校に入る以前の面識はない。

 本人にそんな自覚があるか分からないが、ずうずうしい奴だ。

『行くべき学校を間違えたか……』と秀一郎は苦い顔になる。

 彼が大堤高校を選んだのは、徒歩でも通えレベルもまあまあだったからだ。実は秀一郎はその上の超有名進学高校も狙えたのだが、姫希が着いてこられないだろうと分析し、目標を落とし気味にしたのだ

 そこには少し無理をした山本が、滑り込んでいた。

「秀一郎様は課題を終えていません、私のを見てください」

「そんなお姫様! 恐れ多い……」

 だが山本はそうするしかないだろう、秀一郎は確かに金曜日の最後に出された数学の課題をやっていないのだ。

 難しくて匙を投げたのではない、むしろ反対だ。

 三田村秀一郎は『探偵』を志すと決めた時から猛烈に勉強に取り組み、数学はもちろん語学や心理学まで自得したのだ。

 私立高校の課題など、授業前の数分で解ける。

「なんだそりゃあ!」

 山本は喚く。

「お前……実は嫌味だよな、口調もヘンだし……服装も特別だし……」

 秀一郎は学校指定の学生服など着ていない。学校側の没個性化の指示を無視したのだ。彼は『探偵』としての正装、仕立てのいいスーツと蝶ネクタイ、その上からインヴァネスコートと、頭にディアストーカーという出で立ちである。これは秀一郎が『探偵』を始めたときからのもので、中学生の時も通した。もちろん、高校入学と共に教師陣との大論争になったが、高名な彼の父が「子供の個性の尊重」という当然の命題を叩きつけてくれたお陰で収まった。

 勝利は常識であるが、これはこれで季節によって酷く暑い。「脱げばいい」という愚問は鼻先で一蹴する。スタイルは脱げないのだ。

「……それにお姫様と五年も一緒だなんて羨ましい……否、恨む! 代わって欲しいよ」

 朝から不満たらたらな山本が、まだ高望みを続けていた。

「先程からいちいち気になっていましたが、お姫様ではありません」

 そっと口を挟む槙島姫希は、現在、秀一郎と住所を共にしている。

 秀一郎が『少年探偵』として活動し始めた頃、まだ幼い彼女の家で殺人事件が起こり、そこに居合わせたのだ。

 事件は秀一郎の卓越した推理で解決したが、その後は悲惨だった。

 両親は事件で喪い、親戚は彼女に冷たく当たった。

 話を聞きつけた秀一郎の父、弁護士である浩司が孤独な少女を引き取った。

 その当初、姫希は秀一郎にとってただの同居人だった。

 同い年の女の子。以上ではなく、忙しい彼に代わり宿題を解く者、それだけの認識であった。だが中学に入り、歳を経て行くと少女の際立った容姿が輝きだし、彼の心をひどく揺らす存在となった。

 当人はいつからか、衆議院議員で毎朝早くからいない秀一郎の母・美弥子の代わりに家事全般を引き受けることにもなっていたが、それについても隙を全く見せなかった。

「そういえば、秀一郎!」 

 姫希に一方的に話しかけていた山本が不意に顔を向け、夢想していた秀一郎は内心慌てる。

「お前知っているか?」

「何がだ?」

 山本は当てが外れたように唇を結んだ。

「通り魔のことだよ、最近多いだろ?」

 秀一郎は短く考え、思い出した。

「都内で女の子が狙われる……アレか?」

「確か一番最近なのは……代々木で中学生が襲われました、昨日の七時ごろです……被害者は運悪く首を狙われ、重体です」

 姫希がエプロンのポケットから手帳を出して、教えてくれる。

 山本の顔が曇った。何か言いたげに唇を震わす。

「……それについてとんでもないことをネットに書いたクソ野郎がいるんだ……」

 山本の目に怒りが揺れているのを見取り、秀一郎は怪訝に思った。

 事件は半年前に突然始まり、狙いは一人で帰宅する中高生の少女、アイスピックのようなものでいきなり刺すという乱暴な手で被害者は計四人、今までは死者は出ていない、という情報しかない。

 それ以外は敢えて警察も出してこないのだ。

 確かに卑劣で唾棄すべき犯罪だが、山本の表情の意味がわからなかった。

「さすがにネットはチェックしないよな……」

 ぶつぶつ口の中で呟いている。

「何である? 僕にも知らないことが何かあるのか?」

「ねーよ」という返答が返ってきたが、それが嘘であることは誰でもわかる。

 彼の頬がぴりぴりと痙攣している、激情を抑えている証だ。

 秀一郎は「ふーん」と頷き、詮索をやめた。

 こういう場合、言いつのるより待つほうが効果的だ。知恵のない者は入手した情報を黙っていられないのだ。案の定、校舎が近づいてくると、しばし無言だった山本が強い語気で囁いてくる。

「……お前さ、樋口さん、知っているか?」

「樋口?」

「ああ、樋口絢さんと杏さん」

「双子で私たちの同級生です、一年三組に絢さん、一組に杏さん」

 姫希に捕捉され、輪郭が形成されていく。

 確かに見知った少女たちだ。ただしクラスも違い、会話した記憶もない。

「あのなあ……」

 山本は呆れたように顔を覆う。

「確かに身近にお姫様がいると他に目がいかないかもしれないが、学校の女子くらいチェックしとけよ、男の常識だぞ」

「お姫様じゃありません」

「いいか! 樋口杏さんと絢さんは一卵性双生児で誕生日は一月七日、血液型はA型、杏さんは陸上部で短距離走者、趣味は格闘技、好きなものはカラオケ、嫌いな食べ物はなし、絢さんは部活動なし、趣味は読書、好きなものはゲーム、嫌いな食べ物は紅ショウガ、好きな動物は二人とも犬、嫌いな動物は二人とも鳥、お小遣いは月に二万、杏さんは主に貯金、絢さんはゲームソフトを購入する、シャンプーは二人とも行きつけのサロン特製のものを使う、入浴時間は杏さんが一時間、絢さんが三〇分、ブルーデーは……」

「ちょっと待つのだ!」

 慌てて山本を止める、何をいきなり言い出すかと思ったら、同級生の女子生徒の仔細な情報なのだ。

 姫希に目をやると、彼女は山本情報を無言でメモ帳に綴っていた。

「だから何だ? お前の変態的情報収集能力に感心すればよいのか?」

 いつの間にか増えた生徒たちの視線を気にしながら問うと、山本は先程までの勢いが嘘のように萎れた。

「……いや、あれだ」と、目を泳がせる。

「いやな噂……書き込みがあった……」

「書き込み?」

 秀一郎が眉をあげると、「ネットの掲示板に書くことです」といらない捕捉を姫希がしてくる。

「俺はそう思わないし、悪い中傷だと思うが……」

「だから何なのだ? はっきり言うのだ」

 秀一郎がいい加減苛立つと、姫希がそっと口を開いた。

「樋口さんには、二つ年上のお兄さんがいます、樋口敏文さん、フリーターらしいですが、彼が通り魔の犯人だ、と書きこんだ者がいます」

 唖然と山本が姫希を見つめた。

「さ、さすがお姫様」

「私はお姫様ではありません」

 秀一郎は落胆した。

「何だ、そんな事か……」

「そんな事ってなんだよ! どこかの馬鹿野郎が樋口さんたちのお兄さんを名指しで犯人扱いしているんだぜ? これっていいのか?」

「あのなあ山本君……」

 秀一郎は山本の内心を看破した。

「確かに僕は探偵である、知っての通り犯罪もいくつか解決しているのだ、しかしだ、だからこそネットなんかの信ぴょう性のない言葉に踊らされる愚かさも分かっているのだ、仕入れた情報が全て正しいと思わないほうがいい、愚か者の悪口など無視していればいいのだ」

 樋口姉妹の為に、二人の兄の嫌疑を解いてほしかったろう山本は、憮然とする。

「だけどさぁ、可哀想だよ、誰でも見られる掲示板に書かれて……きっと二人とも傷ついているハズだ、泣いているよ、いたいけな乙女が」

 それこそ泣きそうな声を出す山本に、秀一郎はため息をつく。

「分かった、今日にでもさりげなく水を向けてみるのだ、だけど二人が平気そうならいいであるな?」

 山本の顔がぱっと明るくなった。

「マジ! さすが天才! 頼むよ、いやー持つべきものは探偵だな」

 まさに跳び上がりそうな山本を脇目に、姫希がそっと顔を上げる。

「捜査するんですか? 樋口さんのこと」

「まだ決まっていない、ただその必要があればする、それが僕のスタイルである」

 胸を張る秀一郎に、姫希の唇も花が開くようにほころぶ。

「捜査ですか……分かりました、樋口さんたちへの根回しはしておきます、お昼でも一緒に食べましょう」

 頼もしい口ぶりに、秀一郎は彼女の笑みを見直した。


 私立大堤高校は外も内も特筆に当たらない普通の高校だ。

 上の下といった偏差値、運動部は県大会で万年三位、施設も灰色のコンクリで出来た三階建ての校舎と屋根の丸い体育館、申し訳程度の武道館と、何一つ目を引く物がない学校である。

 先にも述べたが、三田村秀一郎がこの学校に願書を送ったのは、まず徒歩で通えた事と、姫希に合わせたことによる。だから、服装などに文句を言われる筋合いはない、高名な『探偵』の入学に狂喜すべきなのだ。

 これだけは珍しいゴム敷きの校庭を横切りながら、秀一郎は目まぐるしく思考を回転させていた。

 樋口姉妹。

 彼女たちは秀一郎程ではないが有名だった。

『五指グループ』という巨大な企業の創始者を父に持ち、元女優の母から産まれた双子で、病欠しがちなのが絢・姉で、皆勤賞なのが杏・妹である。一年二組に在籍している秀一郎は、それほど姿を目にしたことはないが、

「二人とも顔は最高ランクで、どちらから告白されても人生最大の奇跡、ちなみに一年にしてはボディラインの発達が顕著」

 というのが山本情報である。

 そして二人を目にした時、山本の意外な慧眼を知ることとなる。

 数時間後の昼休みの時だ。

 暮春と初夏の間にある爽やかな日の、もっとも気だるい時間、秀一郎は二人に出会った。

「あんたが有名な探偵君?」

 腰に手を当てて挑戦的にこちらを見返す、背の高いショートカットの少女は樋口杏だという、その後に隠れ、ちらちらと怯えたように様子を窺っている、ロングヘアの少女が樋口絢だ。

 全く対照的な姿だが、一卵性双生児であることは間違いなかった。

 髪型や肌の日焼け具合には差があるものの、背格好は勿論、二人の目鼻立ちはそっくり同じ物だった。

 パッチリと大きな目に高く細い鼻、血色の良いサンゴ色の唇、山本が浮かれるのも仕方のない目立つ娘たちである。

 ちなみにその山本だが、姫希が根回しをした、秀一郎たちと樋口姉妹の昼休みの邂逅をどこからか聞きつけ、惚けた表情で着いてきた。

 今は感動に神に祈っている。

「……て、その服装は何? ……まあいいわ、用事は何かしら?」

 樋口杏は腕を組んで妙なことを言う。秀一郎は学校内ではコートと帽子は脱いでいる。確かに学生服とは違うスーツ姿だが、『探偵』ならば当然だ。秀一郎は構わない。

「話、というか意見を聞きたいのだが、その……お兄さんのことについてである」

 杏の細い眉が跳ねあがり、影のような絢は俯く。

 どこからか舌打ちが漏れる。

「アニキ? あいつまた何かやった? 嫌がらせされたのなら謝るし、強請られたのならお金返すよ」

 うんざりしたような杏に、秀一郎は微かに迷った。

 樋口杏はどうやら兄の素行の悪さを知っているようだが、想定しているのはあくまでも単純な犯罪についてのことだ。

 通り魔の犯人と言われている、とは思ってもいないだろう。

「とにかく、私もアイツのことはあんまり考えたくないんだ、そちらの被害を教えてよ、出来るだけのことはするから」

 周りの生徒の視線に気づいたのか、杏は声のトーンを下げる。

 秀一郎はまだ決めかねていたが、斜め後ろの姫希が助け舟を出してくれた。

「お話はお食事と一緒にしましょう、昼休み、長いと思っているとあっという間に終わりますよ」

 にっこりと笑む彼女を、杏は仔細に観察している。

「あんたがお姫様……本当だ、そうとしか言いようがないわ、すごい美人ね……どうしてメイド姿なのかわからないけど……」

 感心したように頷き、隠れるような絢も肯定の瞬きする。

「私はお姫様じゃありません」

 山本は何やら騒がしく喜んでいるが、構わず秀一郎は三人を見比べた。

 樋口姉妹は確かにスタイルも良く、今時のモデルといった感じの美人だ。だが姫希はあくまでも深窓の傾城の美姫で、比べるにも時代背景が、土俵が違うように思える。

「いいよ、アニキのことなら仕方ない、他の奴らの目にはうんざりだからね」

 その間に話はついていた。樋口杏は絢の手を握ると、くるりと踵を返して歩いていく。

 秀一郎は、妹に引っ張られながら時々振り返る絢に、特別に微笑んでやりながら続いた。

「ここは昼、穴場なんだ」

 と杏に案内された場所は生徒会室だった。

 普段は生徒会役員達が使用する部屋だが、確かに昼休みは無人だ。

「適当に座ってて」と長机を示すと、絢をパイプ椅子の一つに座らせて、杏は部屋を出ていった。

 途端気まずくなる。

 妹がいなくなると、樋口絢は困惑したように秀一郎たちを見まわし、一言も発しない。

「絢さんだよね? ゲームとか好きなんでしょ?」

 妹に比べて病的にまで白い肌色の絢は、山本が切り出した雑談にこくこくと頷いている。

「俺もさーよくやるんだ、ロープレとか、今何やっているの?」

 絢は答えてくれなかった。大きく目を見開いて首をかしげるだけだ。

「じゃ、じゃあ本とか読む? 最近読んだ本で面白かった奴教えて! 俺、今活字に飢えているんだよねー」

「……題名、言っても、きっと、分からない」

 さすがの山本の攻勢も折れた。

 次の話題への移行を拒否するかのように、絢はスカートから携帯電話を出していじくりだす。

 山本の顔色が悪くなったが、絢は気にせず真剣な面持ちでスマートフォンの画面を見つめている。

「おまたせ」

 沈黙が重く感じられだした頃、生徒会室の扉が開き、大きなバッグを抱えた樋口杏が姿を現した。

「あ! 絢ちゃん、またソシャゲ? 人がいるんだから話していればいいのに」

 姉の様子に眉を顰める杏に、絢の言葉は短く小さい。

「知らない、怖そうな、人だもの……話すの、イヤ」

 山本はがくっと机に突っ伏した。

 なんやかんやの努力は実を結ばなかったらしい。秀一郎には関係ない、モテない男が努力するのは当然なのだ。

 ちなみに秀一郎自身は彼のお母様の言によると「かなりモテるはず」なので、危機感を持っていない。

 そう、姫希に限らず樋口姉妹等の女子生徒達は、学校からも一目置かれている有名な少年探偵に、好意を持っているに違いないのだ。

 樋口杏は重そうなバッグをどっかと机に置き、チャックを開いて中身を取り出す。

 漆塗りの重箱がそっくりそのまま現れた。

 手元にある姫希手作りの弁当の四倍はある大きさだ。

「そ、それは?」

「え? お弁当でしょ? 何か?」

「い、いや」と鼻白む間に、重箱は机に並べられていた。

 一段目にはおにぎりがぎっしり、二段目には卵焼きやらミニハンバーグがどっさり、三段目にはフルーツがわんさか詰め込まれている。

「二人一緒なんであるな?」

「ええ、作ってくれる澄江さんの負担にならないように、一緒の学校だし学年だし、面倒にならないでしょ? だから多いように見えて実は二人で食べるから普通なのよ」

 どう見ても六人分以上はあるけど、と秀一郎は指摘しない、ただ違う所に引っかかった。

「へえー、お弁当を作ってくれる人がいるということであるな」

 姫希がちらりとこちらに視線を走らせるのを感じる。そう言う秀一郎も彼女に任せているのだ。

「ええ、私のウチ、ママは何にもしないから、女優だからだって」

 杏は事もなげだが、絢の表情は一瞬硬化した。

「てかさ、探偵君の口調、ヘンだよね……?」

 杏の台詞に教室内は静まりかえった。

「え! 私がヘンなの?」

 皆の注視を受けた樋口杏は、驚いたように瞬きを繰り返す。

「さ、とにかく、食べよ」

 妹を救うためか、絢が不意に箸で卵焼きを取る。納得していないような顔だが杏も続く。

「今日もおいしいね……」

「うん、やっぱり、澄江さんは、料理うまいね」

「おにぎりはやっぱり梅干しだね」

「私は、ツナマヨも、好きよ」

「ハンバーグおいしそうね」

「エビフライは、ちゃんと、四本ずつよ」

「ああん、この唐揚げよく揚がっている」

「白身魚の、焼き具合も、ちょうどいい」

 秀一郎は茫然と、凄まじい勢いで隙間が増えていく重箱を見つめた。

「うん? どうしたの探偵君? 何かほしいの?」

 視線に気づいた杏が顔を上げる。

 絢は露骨に顔をしかめ、腰を浮かして重箱に覆い被さり隠している。

 樋口姉妹のボディラインが豊かな理由を、垣間見た気がする。

「いや、僕には最高の昼食があるのだ」

 絢の険しい視線に気後れし、秀一郎は姫希製の弁当に箸を入れる。

 確かに樋口姉妹の弁当も美味そうだが、秀一郎には姫希が作ってくれるいつもの物で十分だった。庶民の出である彼女らしく少々質素だが、栄養価も考えてあるし、何より量がちょうどいい。

 しばらく普通の昼食風景が続き、重箱が大分軽くなっただろう後、突然樋口杏が口を開いた。

「あーあ、朝練の時もいいタイムでなかった……このごろスランプ、イライラするよ」

「短距離であるな? 部活、陸上なんであろう?」

 話の切っ掛けを窺っていた秀一郎は、その機会を逃さない。

「そ、百メートル、なんでかなあ? 中学の時までずっと一番だったのに……」

 杏は苛立たしげに足音を立てる。

「スランプは、伸びる、前兆なんだよ、だから、杏ちゃん、諦めないで」

「わかっているって!」

 姉の励ましにも気分は晴れていないようだ、杏はこつこつと指で机を叩いている。

「ううっ」

 と、その時絢が顔をしかめる。

「どうしたの? 絢ちゃん」

「これ……」

 彼女はハンカチを取り出して口を覆い、箸で隅の卵焼きを指す。

「紅しょうがの、味がする……もうっ、澄江さんたら! 私、嫌いだから、入れないでって、言ったのに……」

「だからきっと一度入れて取ったのよ、私には分んないなあ」

 杏は指摘された卵を口に入れ小首をかしげるが、絢は不機嫌そうに黙る。

 秀一郎はぺちゃぺちゃという日常会話を止めるために、敢えて「ごほん」と咳ばらいをした。

「あ、ごめん!」

 杏は素早く察してくれる。

「アニキのことだよね? 探偵君」

「うん、樋口敏文さんだ、どんな方なのだ?」

 絢は眉根を寄せてむっつり下を向くが、杏は肩をすくめて、

「ザ・ダメ人間」

 と切って捨てる。

「パパにいつも頼ってばかりで、ママも甘やかすから何にも出来ない奴、高校にもいかないで毎日キモイ姿で遊んでいる、しかも小学生の頃……」

 兄の説明なのに容赦ない杏の舌鋒が不意に止まり、彼女は力なく首を振った。何かひどい思い出があるようだ。

 とにかく話しを聞きたいので、秀一郎は違う方向から攻めてみる。

「パパって、樋口賢吾氏? 五指グループの」

「他にいないでしょ? あのね、みんな五指グループの創始者、とかパパを持ち上げるけど、私たちにとってはただの父親だよ、優しくて……厳しくは無いな、考えたら私たちも甘やかされたわ、よくこんなに健全にまっとうにまっすぐ正しく育ったものね」

 杏は胸を張るが、絢は寂しそうに呟いた。

「でも、パパ、最近、体の具合が悪いんだって、何か辛そう」

「そうね……何でもないって言ってたけど……ヘンな咳しているよね」

「ヘンな咳? タバコの吸いすぎであろう? お父さんはタバコ吸わないであるか? もしくはお母さん、どちらかヘビースモーカーであると思うのだ」

 何てことのない指摘に絢はぎょっとし、杏が聞き返してくる。

「え……確かにママが吸うけど、どうして知っているの?」

 秀一郎はにやりとした。

「杏さんの制服である、タバコの匂いがしたのだ、僕は見逃さない」

「やだ!」

 杏は制服の袖を鼻に近づける。

「もう、ママったら! 恥ずかしいなあ! 禁煙してって言っているのに、大体……」

「それで」と秀一郎はまた逸れだした話題を修正する。

「お兄さんに最近変わった所はないである? 具体的に言うと半年くらい前からである」

 からん、と絢が箸を落とした。酷く顔色が悪く見えるが、元々なのか分からない。

 杏は眉根を寄せてしばし考えている。

「半年かぁ……そうだなあ、確かにそのくらいからあいつ、時々外出するなあ、夜中まで、どうせくだらないことだから詮索もしていないけど」

「なるほど」

「で、何故そんなこと聞くの?」

 秀一郎は、ここで思い切ってネット掲示板の書き込みについて、切り込むつもりだった。 

 だが、言葉を紡ごうとした途端、「ううう!」といううめき声が上がる。

 樋口絢が喉元を抑えていた。

 今度は何が嫌いなんだ我が儘娘め、と一瞬考えたが、彼女の苦しみは偏食によるものにしては激しかった。

 絢は首を掻き毟りながら、その場に倒れる。

「絢ちゃん!」

「絢さん!」

 杏と姫希が同時に立ち上がるが、秀一郎はその頃にはすでに彼女に駆け寄り、抱き起していた。

 ぐにゃりと絢の頭が下がる、秀一郎はそれを起こして、昏倒している彼女の口腔内を開く。

 酷く出血していた。

「これは……」

 呟き、急いで姫希に振り返る。

「救急車と水を沢山!」

「はい!」

 と姫希があわただしく生徒会室を飛び出していく。

「ど、どうしたんだよ?」

 あまりのことにようやく硬直から解けた山本が、後ろから恐る恐る訪ねてくる。

「杏さん! 絢さんを!」

 混乱している杏を一喝して、彼女の震える手に絢を任せると、弁当が詰められていた重箱に近寄る。幾つかの残った食材の中に、かじられた跡のあるハンバーグを見つけ、箸を使って慎重に取り出し、欠片を食べる。

 強烈な苦みが口の中に広がり、すぐにぺっと吐き出す。

「おい、秀一郎?」

 山本の声を無視した秀一郎は、意識のない絢の名を必死に呼ぶ杏に声をかけた。

「あまり彼女に顔を近づけてはいけないのだ」

「え?」

「シアン化水素は、肺からの吸引が最も危険なのだ」

「し、あん?」

 秀一郎は落ち着き払って頷いた。

「俗に言う青酸カリである、ちなみにアーモンド臭と良く言われるが、それが分かる程吸い込んだ時は結構危険である」

「え……?」

 茫然とする杏を置いて、秀一郎は持ち歩いている白手袋を嵌めると、重箱を調べた。

 多人数用の高価な漆塗りの物で、食べ残しがある意外、これといった異常は無い。

 次にそれらが入っていたバッグを手にする。

 持ち上げた拍子に、ハラリと白い紙片が落下していった。

 かがんで拾うと、明らかにワープロを使った機械的な文字が目に入る。

『罪深き五指の一族の一人、ここに鉄槌を下さん』

 廊下から慌ただしい足音が幾つも聞こえる。姫希と、彼女に顛末を聞かされた教員たちだろう。

 だが秀一郎は構わず「ふっふーん」と鼻から息を出した。

 ―天才探偵であるこの僕に挑戦するとは、中々いい度胸であるな。

「絢ちゃん! 絢ちゃん! 姉さん……誰か!」

「お、おい、どうしたんだよコレ? 秀一郎! どうすりゃいんだよ!」

 杏と山本が泣き喚くが、そんな事はどうでも良かった。

『天才少年探偵』三田村秀一郎は混乱状態の中、一人にやりと笑った。    


 第二章

 噂に違わぬ豪邸が目の前にあった。

「うーむ、見事なチューダースタイルであるな」

 三田村秀一郎は感心して傾斜のある切妻屋根を見上げた。 

 彼が樋口賢吾の邸宅に槙島姫希と訪れたのは、事件~樋口絢が何者かに昼食の弁当に青酸カリを入れられて殺されかけた~から二週間経った金曜日の午後だった。

 幸いにも一命を取り留めた絢の見舞い、というのが名目だ。

「まあ、僕に言わせると結果は分かっていたのであるがな」

 もちろん、その理由を姫希に語って聞かせた。

「青酸カリというのは簡単に人を殺せる毒ではないのだ、そもそも青酸カリは凄まじく苦い、食物に混入しても致死量前に吐き出してしまう事が多い、今回がそうであった」

「絢さんは運が良かっただけではないんですね?」

 ほっとしたような姫希に、秀一郎は片目をつぶった。

「むしろ運が良かったのだ! この僕が現場にいたのである」

 そして、二人は折を見て、東京の一等地にある彼女達の家に足を運んだ。

 樋口家邸宅の姿に、秀一郎はしばらく驚きと感動に時間を忘れた。

 チューダー様式と言われる後期ゴシック様式の屋敷は、少年探偵とその助手を棒のように立ちつくさせるほど、見事な建物だったのだ。 

 中心に石造りの扁平アーチがあり、そこから二階建ての母屋がある。それを挟むように左右に尖塔があった。

 二階の窓のいくつかはステンドグラスになっており、屋根には猛獣を模したオブジェが等間隔で並んでいる。

 壁は薄茶色のスクラッチタイル張りで、よく手入れされた柔らかそうな芝生と建物はよくマッチしていた。見上げていると異国に迷い込んだのでは、という気分になる。

「……まあ、我が家と良い勝負であるな、君も知っている通り僕の家も洋館である、旧ハッサム邸を代表とする英国コロニアムスタイル、知っていたか?」

 見とれている様子の姫希に、秀一郎は咳払いをした。

「まさに洋館、という風ですね」

 姫希は秀一郎には答えず、フリルのついたエプロンを揺らして、それだけ現代的なインターホンに体を向けた。

「……ところで知っているか? 不吉な伝聞があるのだ」

 彼女の反応がいまいちだと気付く秀一郎は、囁くような口調を作った。

「なんのことですか?」

「ふむ」と秀一郎はもったいぶって頷いた。

「この屋敷、実は不吉な噂があるのだ」

「うわさ?」

 煌めく瞳を見張った彼女の反応に満足し、秀一郎は教えてやった。

「人食い屋敷、というありがたくもないあだ名が付けられている」

「人食い? どうしてですか? こんなに堂々とした立派なお屋敷なのに」

「ふむ」再び言葉を切り胸を張ると、姫希の黒いワンピースに包まれた肩が震えたように見えた。恐らくは語感に秘められた不吉さにおののいているのだろう。彼女は繊細なのだ。

「この屋敷に住む者は必ず悲劇に見舞われるのだという、まず戦前、屋敷を建てた家族はその後、皆一度にこの近所で死んだそうだ、次の所有者は家族の争いにより孤独死をして、三代目の所有者はいつの間にか家族共々屋敷から消えていた、そこまでの経緯で名付けられたのが『人食い屋敷』である、そして次、今の所有者が樋口賢吾氏になるわけなのだ」

 聞き終えた姫希はぎゅっと握っていた拳を開く。今更ながら探偵の側にいることに安心したはずだ。

 何と言っても。

「今の住人である樋口家にもそのジンクスが巡ってきたんですね、絢さんに」

 秀一郎は重々しく頷いた。彼は忘れていない、この事件については明らかな悪意がある。

 犯人からのメッセージがあるのだ。

 面白い、と秀一郎は思う。何と言ってもそれは彼に対する挑戦なのだ。秀一郎は改めて『探偵』たる自分の服装をチェックした。蝶ネクタイの曲がりを引っ張って直す。

「一つ聞いていいですか?」

 インターホンを押したというのになかなか開かない鉄門を前に、姫希が尋ねてくる。

「秀一郎様は今回、どのようなご用で樋口さんの家にいらしたのですか? お見舞いでいいんですか?」 

「もちろんそれだけのつもりはないよ、僕には分かるのだ、かぐわしき事件の匂いがする、今度ここから事件が起こる、それが分かる、だから来た、僕は事件を解決しなければならない『探偵』なのだから」

「なるほど」という姫希の吐息混じりの言葉は、槍が連なるような門の開閉音にかき消された。

 古風な見た目にそぐわず自動化されている門は、音もなく外側に開き、中に立っていた少女がゆっくりと現れた。

 樋口杏である。

「お久しぶり探偵君、お姫様、今日はありがとう」

「私はお姫様ではありません」と言う言葉は上がらなかった。それどころではないのが杏の様子から見て取れたからだろう。

 樋口杏は疲れているようだ。

 最初に出会ったときの溌剌とした輝きが薄れている。

 心なしか頬は痩せ、顔色も悪いように見える。だが最大の違いは表情だ。

 初見の時の挑戦的な眼差しはなく、不安を抱える者の力無い笑みに変わっていた。

「絢さんはどうですか?」

「うん」と杏の目元が陰った。

「探偵君のお陰で大した事にはならなかったんだけど、ね」

 秀一郎は了解した。察するまでもない。命を狙われている、と言う事実は人を恐れさせ疲弊させるのだ。 

「警察はどうしたのだ? 姿が見えないようだが」

 秀一郎の質問に、杏の眉が一瞬逆立った。

「一〇日くらいはいてくれたんだけど、絢ちゃんが退院してきたら帰った、悪戯だろうって」

 杏は平静を装っているが、その裏にある憤りが伝わってきた。

「そ、そんな……」

「心配しないで、お姫様、私達みんなで何とかするから」

 微笑むが、杏の無理は見て取れた。

「ふむ、僕に任せてくれ、馬鹿な警察とは違うのだ、僕は幾多の事件を解決した探偵だ、君たちの力になれると思う」

「ありがと、探偵君、でも今は絢ちゃんを励ましてやって、あれから何か塞ぎ込んでいるんだ、まあ無理もないけど……さあどうぞ」

 杏は一歩横にずれて庭の先の建物に、指先を向けた。

「しかし、不思議であるな」

 屋敷に至る砂利道を歩きながら、ふと秀一郎は呟いた。

「え、何が?」

「いや、犯人はどうやって絢さんを狙ったのか」

「え?」

「秀一郎様」と姫希が遮ろうとするが、彼は服装同様スタイルを貫いた。

「考えてみれば、弁当に毒を入れられる隙は限られているのだ、作った時と運ぶとき、それに置いてあるとき、だが最後の二つは実は考えにくい、リスクが高すぎるし食材に混ぜるのは難しい、杏さん、あの時何か不自然な点はなかったのか? 弁当を開くとき」

 秀一郎が思い出すのは、生徒会室で重箱を開ける杏の姿だ。

「うーん、何も、いつもと同じだった……て、探偵君!」

 杏は首を傾げた後、はっとして秀一郎を睨み付けた。

「それって澄江さんが犯人だ、と言っているの? そんなことあるワケないじゃない!」

 探偵は平気だった、変わらぬ平坦な口調で続ける。

「澄江さん、とは伊木澄江さんであるな、樋口家にいる料理人、ふむ確かにそんな訳はないであるな」

「え」

「もし澄江さんが犯人ならこんなまどろっこしいマネはしない、食事全般を任されているのだ、何も弁当でなくとも良いだろう、それより僕が疑問なのは、どうして絢さんだったのか、ということだ、考えてみてくれ杏さん、君たちの弁当は二人分を一つに入れている、なのにどうして絢さんを狙えたのか」

「……そうよね、どうして?」

「わからない」秀一郎は簡単に肩をすくめる。

「少なくとも今はまだ、だがすぐに分かる、それが僕だからである」

「はあ」と毒気が抜かれたような杏は、二人を連れエントランスに入ろうとした。

 わんわん、と不意に太い唸り声が上がる。

「うむ」と秀一郎は眉を顰めた。

「犬を飼っているんですね?」

 嬉しそうに姫希が尋ねると、杏は唇をほころばせて道筋を変えた。正面玄関の横の芝生を横断し、塔の下に誘う。

「ジョン、て言うんだ、昔からいるの、雑種だけど大きくてね」

 確かに杏に案内された庭の片隅には、白い大きな犬がいた。しかし秀一郎と姫希の視線はふわふわした毛の犬ではなく、人間の大人ほどあるその犬に抱きついている少年に向いていた。

 一〇歳くらいの利発そうな少年が、自分より大きい犬の頭を撫でていた。近くに長身の女性も目を細めて立っている。

「ジョン、ジョン、いい子!」

「確か君には弟さんはいなかった、と記憶しているが」

 迂遠な物言いに杏は肩をすくめる。

「いないわよ、あの子は……その、まあ知り合い」

 杏はどこか気まずそうだ。

「杏お嬢様、今回は申し訳ありません」

 Tシャツとジーパン姿のボーイッシュな印象を受ける女性が気付いて、高い背をかがめるように杏に頭を下げる。

「やめてください、啓子さん」

 杏は狼狽したように手を振った。

「ご迷惑だとは分かっているんですが……」

「いいえ」と杏は悲しそうな表情の女性に、勢いよく首を振る。

「私はいいんです、父も納得していることです」

 その言葉では女性を慰める事は出来なかったようだ、彼女は唇を噛み俯き、杏との間に重い空気が漂った。

 ジョンに顔中を舐められた少年が「あははは」と元気な笑い声を上げるが、それすらもそらぞらしく感じられた。

「可愛いですね、犬」

 姫希が諸々を考慮した明るい声で言うと、杏ははっと彼等を思い出し、「まあね」と微かに笑う。

「でもねえ、この犬私達には懐かないんだ、近づこうとすると……」

 杏は一歩ジョンに踏み出した。

 途端、今まで少年の手の中で甘えていた犬は警戒心を露わにして、白い目を剥きだして杏をぐるるると威嚇する。

「ほらね」

 杏は秀一郎を見る。

「どうしてだか知らないけど、ジョンは拾ってきたパパとこの子、剣護君にしか懐かないの」

 わんわんわんと怒ったようにジョンは鳴き出した。すごい力なのだろう、首輪についている鎖がピンと張る。

 少年が「こら、めっ」となだめ、女性も慌てて杏と犬の間に入るが、機嫌は直らない。

「これ、ジョン……」

 不意に上から枯れた声が掛けられ、ぽとりと何かが落下してきた。

「ああ、パパよ」

 秀一郎達の驚きがおかしかったのか、杏は口を押さえて頭上の塔にある窓を指す。

「あそこの部屋でね、ジョンが煩いと鶏肉で黙らせるの」

 確かに、いつ飛びかかってくるか分からないほどの臨戦態勢だったジョンは、何もなかったようにその場に伏せて、おやつにかじり付いている。

「変な犬でしょ?」

「犬がヘンなのではない、犬好きがヘンなのだ」

「は? 何言ってんの探偵君」

「僕は犬が嫌いなのだ、エサをやる相手に尻尾を振る姿は見るに堪えない、その点猫は違う、まるで僕のように誇り高い」

「私は犬の方が好きですが」

 姫希は秀一郎の言葉に構わず、少年を背中に乗せ、おやつを食べているジョンに、手を伸ばす。

 ぐるるる、とまた唸られて残念そうにひっこめた。

「私も犬派だな、お姫様と同じ、ただジョンは懐かないよ」

「そのようですね、所でこんな折ですけど、お姫様じゃありません」「あ、そうだね、嫌味なあだ名だわ、じゃあ……姫希ちゃん、でいい?」

 姫希は微笑んで頷く。

「お姫様以外なら何でもいいです」

 三人はしばらくそのままジョンの旺盛な食欲を、何ともなしに眺めていた。

「あの、杏お嬢様……」

 息を殺して三人を伺っていた女性が、少年の手を取りおずおず口を開く。

「私たちはそろそろ……」

「えー!」と不満そうなのは少年だ。女性の回りをぐるぐると走る。

「まだジョンと遊びたいよケッコ! 遊ばせろよ!」

「じゃあ、また遊びにいらっしゃい、剣護君」 

 杏が微笑むと、少年は「うん」と力強く頷いた。

 女性は再び深く頭を下げ、手を振る少年を引いて門へと歩いていく。

「あの人達は誰なのだ?」

 見送る杏の背は壁のように固まっているが、構わず秀一郎が尋ねる。

「佐々木さん、佐々木啓子さん……パパの知人」

「あの子供もケンゴ、というのだな? そう言えば君たちのお父さんも樋口賢吾であるな?」

「偶然よ」

 杏は一言で問いをはじき返すと、「さあそろそろ家に入りましょう」と歩き出した。


 エントランスのアーチをくぐると濃い茶色の木扉があり、杏は体全体を使ってそれを押し開いた。

「全く、いちいち重いのよ、ささ入って」

 言われたとおりに樋口低に入った秀一郎は「ほう」と感心してしまい、しばし帽子を脱ぐのも忘れた(これは礼儀を重んじる三田村秀一郎にとって、かなり珍しいことである)。

 樋口家は外観を裏切らず内装も優れていたのだ。

 扉と同じ色の木で出来た玄関と廊下は、丁寧にニスが塗ってあるらしくぴかぴかで、クリーム色の布に覆われている壁には、いかにも高価そうな絵が飾ってある。

 所々には木の台が直立していて、上に赤いビロードに乗せられたクリスタルの置物があった。

「豪華ですね」

 姫希が素直に嘆息すると、杏ははにかんだ。

「なんか色々めんどいだけよ、気にしないで、絵も置物のパパの趣味だから」

 秀一郎と姫希は来客用のスリッパに履き替え、杏に広間へと案内される。

「絢ちゃん、起きているかな? 二人が来てくれたこと教えてくる、座っていて」

 だが革張りのソファに座ることは出来なかった。

 杏が出て行く前に、一人の女性が左右に揺れながら現れたのだ。

「うんまー、誰この人達? 杏、教えなさい」

 悪役プロレスラーのようにでっぷりと太った女性は、口と鼻から大量の煙を吐きながら秀一郎達を睨め付ける。  

「ママ!」

 秀一郎はその呟きを聞き、太った女性が樋口絢、杏姉妹の母親・樋口亜沙子だと分かった。

 ここに来る前に樋口家の家族構成を姫希に調べさせたのだ。コーヒーを飲みながら調査結果を聞いた秀一郎だが、しっかりと頭の中に図式が成り立っていた。

 しかし、想像とは大分違っていた。

 樋口姉妹は大食いだがスレンダーな美少女達だ。その母親も元女優と聞いていたから、さぞかし美人かと思いきや、まるで干からびたひきがえるのような姿だった。

 皺を隠す為の厚化粧と、大きな口を誤魔化すようにこぢんまりと引かれた真っ赤な口紅が、逆に無惨で不気味なほどだ。

 全く似合っていない高級そうなワンピースの布地が目一杯引き延ばされているを見、生まれ変わってもあのワンピースにはなりたくない、と本気で思う。

「誰なのぅ? このヘンな奴ら」

 自分の姿を棚に上げ、亜沙子はぶふっと煙を吹く。

「ママ、この二人は私たちの友達、絢ちゃんのお見舞いに来てくれたの」

「そぉーう」

 樋口亜沙子は余程のチェーンスモーカーなのか、二本タバコをくわえていた。火のついた一本が鼻の真下、ついていないものが唇の右端にあり、見ていると短くなった正面のタバコを乱暴に灰皿に叩きつけ、蠢く口により右のタバコが真ん中に移動し、金色のライターで点火され、どういう意味なのかもう箱から一本出して唇に足される、といった具合だ。

「……なにガンつけてやがる」

 慌てて秀一郎は目を逸らす。恐れたのではない、礼儀としてだ。

「うんもー」と亜沙子は煙に顔を燻されながら、火の点いたタバコを突きだした。

 苛立っているようだ、指輪が輝く芋虫のような指を、せわしなく動かす。

「うんもー、またあの女来たのよ! 佐々木とかいう奴、しれっとウチの金を盗っていく、全く泥棒女め、いつまで昔の恩義を盾にとるのかしら」

「ママ、佐々木さん達はこの不況で苦しいのよ、許してあげて」

 似ても似つかない杏が苦しそうに言うと、亜沙子はじろりと血走った目で娘を睨む。

「だからなによ! 苦しいから他人の金をアテにするなんて、やっぱり泥棒でしょ」

 杏は黙った。そうするだけの迫力が亜沙子にはある。

 しかし、と秀一郎は呆れた。

 元女優、という肩書きが本物だとしたらいったいどれだけ怠惰な生活を送るとこんなになるのだろう、彼は未だに若々しい母親を思った。

 ―やはりお母様は特別なのだな。

「うんまー、本当は金が欲しいだけのくせに言い訳ばかりで、アイツの亭主がウチの人を助けたのはずっと前なのに、それを笠に着て、うんももー、汚らわしい!」

 秀一郎に言わせれば、ここで身もだえする亜沙子の姿こそ汚らわしい。

「でも」

 不意に亜沙子の語調が変わった。厚い唇が粘土のように歪む。 

「あのガキがウチの人の子供だ、とか言い出して財産狙っているとしたら、法律上はそうなっていないので無駄だけど、それなりのことはするわ、わざとらしくケンゴなんて名前つけやがって」

「ママ!」

 杏が慌てて亜沙子の煙を払う。

「友達の前なのよ! ヘンなこと言わないで」

 亜沙子の濁った目がぎろりと秀一郎に向く。

 さすがの探偵も言葉が見つからなかった。そもそも、まるでアラジンのランプの精霊みたいに煙の中に佇む人河馬に、日本語が通じるか分からない。

 なるほど、と秀一郎は妙なところで納得した。これほどの煙を発するのだ、杏の制服がタバコ臭くなるのも道理である。

「全く、後で塩でもまいておいて頂戴、おおやだっ! 貧乏人め」

 亜沙子は毒づくと黄色いタバコの箱を取り出し、すぐにくしゃっと潰す。

「冴! どこにいるの? 冴!」

 金属を床にたたきつけたような金切り声に、玄関とは反対側の扉が勢いよく開き、「はい!」と秀一郎達と同年代くらいの少年がやってくる。

「このグズ! 言っておいたでしょ! 私のタバコは切らすなって」

 吊り目が印象的な少年は、現れた途端にベリーショートの頭に亜沙子の拳を食らう。

「申し訳ありません」

 少年は無表情にぺこりと頭を下げた。

「彼は?」

 秀一郎がひそひそ尋ねると、杏は驚いたような顔になる。

「え? か、れ? ああ、見えないもんね、あの子は大岡冴ちゃん、ちなみに女の子だから」

「ふほ!」と秀一郎は声を出していた。

 女の子にはとても見えない。髪型は坊主に近く、着ている物も革のジャンパーとパンツ、手首やら耳やらにはシルバーアクセが煌めいている。 

 硬派で喧嘩上等のパンクロッカー、という姿だ。

 杏によると秀一郎達より一年上らしいが、ふわっとしたスカートを履いている姫希とは、同年代とも同性とも思えなかった。

 まあじっくり観察すると、唇や目元に男にはない艶があるようだが、昔のアニメでブルドッグがしていたようなトゲトゲのついた首輪をチョーカーにしている少女など、秀一郎にとって女ではない。

「ちょっとした事情でウチにいるの、まあママの身の回りの手伝いをして貰っているわ」

 杏は再び苦しい説明をする。

 学校はどうしているとか、あれでは奴隷だ、とか疑問はあるが、他人の家なので秀一郎は黙った。

 亜沙子は全く女子気のない冴をしばし小突き回すと、突然振り向いた。

 秀一郎は内心怯んだが、彼女の視線は彼ではなくその傍らに向かっている。

 ずんずんと音を立て、ぶーふーと煙を吹き亜沙子は近づいた。姫希にだ。

「うんもー、あんたっ! そこのメイド!」

 亜沙子は覆い被さるように、姫希を凝視している。

「私は可愛いですって顔ね? ムカツクわ、ムカツクー!」

「すみません」

 姫希が謝ると、亜沙子の目つきが険しくなる。

「このヤロウ、いい根性しているわね!」 

 秀一郎はどう助けようかと考えたが分からず、姫希を信じて任せた。

「いい」と亜沙子は指輪が三つ付いた人差し指を立てる。

「私はこれでも女優だった頃、役のためにアンタみたいな小娘をぶっ殺した事があるのよ、あまり目の端をちょろちょろしないでね」

 鼻から黒い煙がゆらゆら漏れる。

「ママ! 姫希ちゃんは友達なのよ! 絢ちゃんの為に来てくれたの」

「うんまー、確かにあの子最近おかしいからね……いいわ、しばらく目の端にいても許す、でもしばらくよ」

「ありがとうございます」

 頓着しない姫希の謝辞に亜沙子の目が再び鋭くなるが、不安な秀一郎に構わずフンと背を向けた。

「私は部屋にいるから、適当に会ってとっとと帰りなさい、冴!」

「はい」と冴がその背中に続く。

 亜沙子は突き出た尻を大きく振りながら歩いて行き、秀一郎はその姿に丸底フラスコでの化学の実験を思い出した。

「あ、そうだ」 

 ぴたりと亜沙子の体が止まり、肉厚の首が捻られる。

「杏、お父様にお茶を、と澄江さんに言って頂戴、ただのお茶じゃなくて私の考案したハーブティー」

 秀一郎は戦慄した。その時の亜沙子の笑みがあまりにも醜く歪んでいたからだ。適当に粘土を潰してもあそこまで芸術から遠ざかれないだろう。

「ぶふふふふふ」と亜沙子は今度こそ冴を連れて、屋敷の奥へと消えた。

「ごめんね姫希ちゃん、ママちょっと怖い人なんだ」

 亜沙子が去ると杏は姫希に謝る。

「あんた可愛すぎるから、きっとジェラったんだよ」

「うふふ」と姫希は口元を抑える。

「謝らなくていいですよ杏さん、お母さん、可愛い人ですね」

「え!」と杏とついでに秀一郎も目を丸くする。 

 亜沙子からは『かわいい』の『か』の字も見いだせない。『かわいそう』の間違いか何かしらのしがらみによる苦しいお世辞だろう。

 だが杏はそれに気付かず首を傾げた。 

「もしかして……あんた……ううん、そうよね、何でもない、違うよね、あんたは見かけ通りお姫様だもんね?」

「私はお姫様ではありません」

 杏は半ば口を開き、しばらく黙った。

 秀一郎は居心地が悪くなったのに気付き、素早く広間を見回す。

「興味深い部屋であるな」

 無理に口にしたが社交辞令は二割程度だ、あとは本気の感想である。

 樋口屋敷の広間は、色々と面白おかしかった。

 大きな窓の隣にアンティークの柱時計が置かれ、大理石のテーブルを囲むように黒革のソファがある。玄関側の扉の横にはタイタニック号にも乗るはずだった、自動音楽演奏装置のオーケストロンが自然に設置してあり、亜沙子が消えた扉の傍らには動物や楽器などを象ったクリスタルが並べられていた。

 杏がぱっと顔を輝かせる。

「そうでしょ! みんなパパが海外から買ってきてくれたんだよ! パパはお仕事でよく外国に行くんだけど、私と絢ちゃんを寂しくさせたからって、必ずおみやげを買ってきてくれるんだ」

 彼女は軽い足取りで木の台に近寄り、クリスタルの置物を手に取る。

「ほら、これが私達のオキニ、可愛いでしょ、名前はしっかー」

 杏が持っているのは鹿の形のクリスタルだ。縫いぐるみでもないのに名前、しかも途轍もなく下らないそれを聞いたような気がするが、気にしない。

「バカラであるな、けっこう値が張るのだ、ちなみに僕のお父様もバカラは好きで、良く買ってきてくれた、そう僕の家のグラスは大抵バカラなのだ、趣味がいいのだな」

「そうですね、とても趣味がいいいですね、ほら、人を殴るのにもちょうど良さそうですし」

「そうだね、形といい重さと言い、こう持って人間の急所たる頭のてっぺん、聖門にぼかっ! ……て、あんまり笑えないよ、そのジョーク、お姫様には似合わないし」

「私はお姫様ではありません」と杏に応じながら、姫希は頬を赤らめて俯いた。

 秀一郎は「うむ」と納得した。彼女は杏の事を慮って冗談を言ったのだ。もとより姫希が人を殴るなどあり得ない。

 母親の事を気にする杏のために無理をする。やはり彼女は清廉なる槙島姫希だった。

「んじゃあ、絢ちゃんとこ行ってくるわ、ちょっと待ってて」 

 姫希のお陰で活力を取り戻したのだろう、杏は陸上選手のフォームで走っていく。

 秀一郎はその隙にオーケストロンや柱時計、クリスタルについての大いなる蘊蓄を、待っているのだろう姫希に披露しようと思っていたが、数秒で杏が疾風のように帰ってきた。少し息を切らせているが、謎に包まれた速度だ。

「絢ちゃん起きてるみたい、何か声かけてあげて……」

『何か』という部分に引っかかる秀一郎だが、杏の元気がまた萎んでいるので追求しない。

 ひどく落ち込む杏に促され、秀一郎と姫希は広間を出た。

 絢の部屋は一階で、彼等が通された広間から比較的に近かった。先程の杏のスピードの理由が分かる。

「これで世界の謎が一つ消え、僕の知識の幅がまた広がったのだ、僕の限界がまた一つなくなったのだ」

「え? 何のこと? 探偵君」

「うむ、独り言である」等と遣り取りをしている内に、『AYA』というプレートが貼られている扉を前にしていた。

「うぐぐぐぐ」

「ん?」

 秀一郎は耳を疑った。喉の奥から絞り出しているような声が聞こえたのだ。

「うぐぐぐぐ」

「何か聞こえませんか?」

「姫希、空耳である」

「違うんだ……あれ絢ちゃん、ごめんね探偵君と姫希ちゃん、絢ちゃんに会う前に約束してくれる? あまり今の状態を学校で言わないって……その一応今後の事もあるから」

 秀一郎はまだ開かれていない絢の部屋の扉を見つめた。声は中から漏れてくる。

「わかった、約束しよう、これは大変なことなのだ、この僕が約束したからには、秘密は地球がなくなっても、墓の中に厳重にしまっておく」

「……う、うん? 地球がないならお墓もないよね?」

 杏は下らなくも言葉のあら探しをしているが、一応納得したのか一つ頷き強めにドアをノックした。 

「うぐ?」

「絢ちゃん、探偵君と姫希ちゃんが来てくれたよ」

 何の返答もなかった。しばらくそのまま待ったが、やはり絢は出てこない。

「ふう」と杏は片手で顔の半分を覆う。

「困ったなあ」

「お加減が悪いのですか?」

「うーん、もう体は良い見たいなんだケド、その……」

 姫希の心配に杏が答えている間に、また「うぐぐぐぐ」と始まる。「まあ、いっか、何せ墓場までだもんね?」

 杏は秀一郎をちらりと見て、無言で扉を開いた。

 その向こうは真っ暗で、秀一郎は突如現れた闇に飲まれるような錯覚に、冷たい汗をかく。

 樋口絢の部屋は大きく、壁掛けテレビと勉強机、衣装ケースとベッドがあるらしい。らしい、という注釈が付いたのは、それらがあることを、後で杏から聞いたからだ。 

 すぐに分からなかったのは、彼女の部屋が散らかり放題だったからだ。

 読みかけの雑誌やマンガは裏返しで広げられ、それが下着の類であれ衣服はよれよれと落ちている。さらに酷いのはゲームなのか映像ソフトなのか、音楽CDなのか判別できない丸い記憶媒体が、ケースにも入れられずに床の模様のように散らばり、お菓子の袋が何重もの層を作っていた。

 唖然する秀一郎の足元には、ジュースの缶が幾つも転がり、カーペットに染みを作っている。

 ―樋口絢は片づけられない女なのだな。

 秀一郎は数秒のタイムラグの後、理解した。もし彼女にラブな山本がこの現状を知ったら……まあ変わらないだろう。

 ただ現時点で彼等の前にあった最も大きな異常は、部屋が汚い、という些末な問題ではなかった。

 樋口杏は、ゴミだらけの部屋の中で電灯も点けず、一心不乱にパソコンに向かっていた。「うぐぐぐぐ」と信じられないスピードでキータッチをし、ぼんやり光るディスプレイの匂いを嗅ぐように顔を近づけ、また「うぐぐぐぐ」とタイピングに戻る。

 長い髪を振り乱しパジャマを着崩して熱中する姿は、学校での大人しい清潔な姿からは想像も出来ない。ただこれから後は、彼女に会えばこの姿を想像してしまうだろう。

 杏が躊躇するわけだ。もしこの姿を樋口絢ぞっこんラブの山本に見せたら……まあ、変わらないだろう。

「そんな、うそよ、だって、ちがうわ、いいえ、でも、きっと、しかし、もしかして、だとしたら」

 声もない秀一郎達の前で、絢はぶつぶつと呟きだした。あまりの危うさに杏がゴミを避けながら近づく。

「ちょっと! 絢ちゃん!」

「ぐわ?」

「ぐわ、じゃなくて! ほら、みんな心配しているんだよ!」

 ぼんやりとした絢の目に、ようやく秀一郎達の姿が入った。彼女は数回瞬き「うう」と頷いた。

「……探偵君か、久しぶり、元気だった?」

「え、ええ絢さん、僕は至って元気であった、君はどうかな?」

「うん、お陰で、助かった、ありがと」

 埃の匂いを嗅ぎ、頬がぴくぴく動くのを止められない秀一郎に、絢はもっそりと頭を下げる。

「い、いや、なに気にすることはないのだ、大体犯人が愚かなのだ、青酸カリの使用法を間違えるとは、全く笑ってしまう、むやみに食事の中に」

「秀一郎様!」 

 姫希にとがめられ、絢の顔色が白っぽくなっているのに気付く。

「あ、いや……深刻に考えるな、よくある事だ」

「……探偵君は、よく、毒を飲まされるの?」

 絢の鋭い切り返しに秀一郎はよろめいて一歩下がった。目玉を動かして話題を探す。

「う、うん、まあ人並みに、それにしても……その」

 思いつかない。ゴミだらけの部屋からは何のインスピレーションも湧かない。

「おお、いいパソコンだな」

 意外なヒットだった。絢の顔が輝いたのだ。

「うん、パパが、このあいだ、買ってくれた、最新」

 ディスプレイに視線を戻し、パジャマで包まれている胸を張った。

「探偵君、知ってる? ウナギと梅干しの、食べあわせは、逆に良いんだって」

「もちろん、梅干しは胃酸を濃くしウナギの油分の消化を助けてくれる、あれは夏に油っぽい物を食べ過ぎるなっていう意味なのだ」

「へえ」絢が横目で見てくる。

「なら、しゃっくりが、止まらなくても、死なないって、知ってる?」

「うむ」秀一郎は常識だった。

「しゃっくりは横隔膜の痙攣である、命には関わらない、最も脳卒中や心臓病などの手術の後は気を付けねばならない」

「むう」絢は椅子を回して、正面から秀一郎を睨んだ。

「んじゃあ、昔の、西洋の騎士は、甲冑が重すぎて、馬に乗るとき、滑車を使った、って知っている?」

「それは嘘なのだ、西洋甲冑、板金甲冑は確かに重いがよく考えられて作られており、動くことはそれほど苦ではなかった」

 きょとんとしている絢に、咳払いをする。

「ネットの知識は完全ではないのだ、あまり過信してはいけないのだ」

 こくん、と素直に絢は首肯した。

「探偵君、さすがだね、私、感心した、しゃべり方は、ヘンだけど」

 秀一郎の頬が笑顔の形に上がったまま、固まった。

「と、ところで、学校はいつからこれるんですか?」

 姫希の取りなしに、気まずい話題は逸れた。

「来週の月曜日、から、どうしよう、大分勉強、遅れた」

「大丈夫だよ絢ちゃん、私ノート取ってあるから」

「私も、得意な科目だけなら教えられます」

「ありがと、杏ちゃん、姫希さん」

 少女達が会話をしている中、ふと秀一郎は先程から絢が夢中になっているパソコンの画面に、興味が湧いた。

 ―何を調べているのであろう。

 雑学を夢中に収集しているとは思えなかった。

 秀一郎は軽い気持ちで体を伸ばし、絢の肩の上からディスプレイを覗いた。

「きゃー! いやー!」という黄色い悲鳴が上がった。

「探偵君!」と杏は怖い顔をし、「秀一郎様」と姫希も眉根を寄せる。

「な、なんなのだ、ただ何をしているか知りたかったのだ」

「女の子のパソコンの画面に興味を持つなんて、あんた変態? このスケベ! 覗き趣味」

 杏は語調はきつい。

「いや、それほどの問題ではないような……」

「秀一郎様、もっとデリカシーをお持ち下さい、女の子のパソコン画面を覗くなんて」

 姫希にもぴしゃりと言われ、秀一郎も「わるかった」と消沈する。

「……さっきの言葉、は撤回、あんたキライ」 

 雑学合戦で絢から得た信頼も、すっかり霧消した。

 ぷいと秀一郎から顔をそむけると、彼女は再び熱心にディスプレイを注視する。

「うぐぐぐぐ」と始まったから、額の汗を拭って杏に小声で尋ねた。

「の、覗くのは悪いようだが、聞くくらいは良いであるか?」

「なに?」

「絢さんは何を調べているのだ?」

「うーん」

 杏は血色の良い唇を尖らせた。

「それなんだけど」

 声のトーンを落とし、絢に気付かれないように口元も隠す。

「通り魔事件、ここ最近起こっているあれについて何か調べているらしいの」

「通り魔?」

「そ、この間ついに大怪我した娘が出ちゃった奴、パソコンのサイトに書き込まれる最新ニュースを熱心に調べているのよ」

「なぜなのだ?」

「しらないわよ」杏は不機嫌そうに呟いた。

「とにかく、絢ちゃんは……その、ど、毒……で倒れて、目が覚めたらすぐにアクセスし出した、暇つぶしかも」

 杏はまだ何か言い足りなかったようだが、それ以上続けられなかった。

 突然「ああ!」と絢が大声を出して、今まで座っていた椅子を蹴って、雑誌の散らばるベッドにダイブしたからだ。 

 驚愕する三人の前で、彼女は何かから隠れるように毛布をかぶる。

「ああああ!」

「ど、どうしたんですか? 絢さん?」

「か、怪人! 怪人が来るよー、私達を、裁きに、怪人が!」

「秀一郎様?」

 喚く絢に手が付けられなくなり、姫希が珍しく助けを求める。

「怪人? なんのことだ?」

「いるじゃない! 窓の外に! 怪人が、怪人が来る!」

 だが絢の示す窓からは、オレンジに陰る夕暮れの庭が見えているだけだ。

「何を言っているのだ?」

「探偵君……」

 杏が青い顔で秀一郎の袖を掴む。

「言ったでしょ? あれから絢ちゃん少し……って」

「そうか」と秀一郎は震えている毛布の塊に、同情の視線を向けた。

 命が狙われている、という事実に十代の少女の精神が軋んでいるのだ。居もしない犯人の姿に怯えている。

「絢さん、どんと安心するのだ、この僕が」

「うるさい!」

 力づけてあげようと思い立った秀一郎だが、好意は叫びにより弾かれた。

「アンタは、他人だ! これは、私達の問題、怪人、怪人がー! 来るよう」

 あまりにも無惨な絢に、秀一郎は尚も声を掛けようと口を開くが、その前に杏が立ちふさがった。

「ごめん、探偵君、この後は……わかるでしょ」

 結局、ベッドで泣き叫ぶ絢をそのままに、三人は廊下に出た。

「絢さん、何を言っているんですか?」

 絢の部屋を出てすぐ、ぽつりと姫希が尋ねる。

「わからない……聞いても訳が分からない、怪人が私達、樋口一族を罰しに来る、とかそういうことを延々と言うのよ」

「怪人、か」

「どうしました? 秀一郎様」

「いや、彼女の言っていること、まあ不思議じゃないのだ」 

「なに? 探偵君、あんなバカ話が間違ってないって言うの? やめてよ! 絢ちゃんは心が弱いから追いつめられてるのよ」

 もの凄い剣幕の杏が顔を近づけるから、秀一郎は仰け反る。

「き、聞いてほしいのだ、いいか、君も知っているとおり、絢さんを狙った犯人から犯行声明のようなものがあった」

「知っているわ、バカみたいな文面でしょ、だから?」

「だから、それを書いたのが『怪人』だ、と絢さんは言っているのではないか? 確かあれは五指グループの者への犯行予告のようなものだった」

「むう……じゃあ絢ちゃんは……」

「あるいは彼女は本当に怪人の、そうと言うまでもなく犯人の影に気付いているのではないか?」

「でも秀一郎様」

 反論したのは姫希だった。

「ではどうして警察や家族に相談しないのですか? そこまで絢さんが気付いているなら、まだ、いくらでも手が打てます」

「それはまだ分からない、だが焦る必要など無い、じきに何もかも明るみに出る」

 ここには『探偵』三田村秀一郎がいるのだ。とまでは続けない、分かっているはずだ。

 杏は何故か納得しなかったらしく、表情を変えて口を開こうとした。

 が、廊下の向こうから近づいてくる者に気付いて、顔を伏せる。

「探偵、とかいう奴がいるらしいんだが」

 坊主……ベリーショートの女の子・大岡冴は大股で歩いてきた。

 ジャラジャラと、体中に付いたシルバーアクセが音を立てている。

「僕がそうだが」

 と秀一郎が手を挙げると、「へえ」と遠慮ない奇異の目で上から下まで観察してくる。「変な格好しているし、何かバカっぽいな」

 とんでもなく無礼な感想だった。だが、弁護するかと思われた樋口杏は何も言わず、下を向いたままだ。

「オレは……まあ名前はいいか、賢吾さんが呼んでる、顔を貸せや」

 男っぽい誘いだ。親指を立てて背後を指す仕草も様になっている。

「パパが?」

 ようやく杏が顔を上げた。驚きに目を見開いている。

「ああ、問題があるのか? お嬢様」

 挑発するような冴の口調に、雇い主の娘であるはずの杏は慌てて否定した。

「そーかい、んじゃ、そーいうことだ、付いてきてくれ」

 胴体に斜めに巻いた鎖を鳴らすと、冴はくるりと背中を向ける。

 突然の事に秀一郎は正直迷ったが、杏が祈るような目で見ているので決心した。

「分かった、行こう冴さん、姫希」

「ううん?」

 冴は振り向き露骨に顔をしかめる。

「オレの名前知ってやがるのか……は、いいとして、そちらのイケ女も連れて行くのか?」

「イケ女?」

「ああ、これは誉め言葉だよお嬢ちゃん、イケてる女ってことだ、しかし困ったなあ、賢吾さんは『探偵』だけを連れてこいって言ってたからなあ」

 女性らしさの欠片もない仕草で、冴はぼりぼりと頭を掻く。

「それは杏さん達に付いてくるな、という意味ではないのか? 何にしろ僕を呼ぶなら姫希も連れていく、ダメなら行かない」

「私はいいですよ、イケ女だし」

 うっすらと微笑する姫希だが、秀一郎は強く拒否した。

「意味が分からないのだ! イケ女なのに『行けない』では洒落にもならない」

「わかったよ、まあいーか、関係ねーな」

 冴は舌打ちすると、意外にあっさり姫希の同道を許す。職務怠慢が目に余る。

「んじゃあお嬢様、友達借りてっから」

 気安く杏に声を掛けた冴だが、秀一郎は杏を見る彼女の目が冷ややかであると見抜いた。

「ええ、探偵君、姫希ちゃん、後でね」

 杏は硬い笑みで手をにぎにぎとする。

 冴は秀一郎達に顎をしゃくると、その後振り返りもせず、かなりの早足でずんずんと屋敷を進んだ。男の秀一郎さえも付いていくのに苦労する。

「おい、大岡さん」

 昔の特撮の悪役のような漆黒のジャンパーの背、意外に小さな冴の背中に秀一郎は問いかける。 

「大岡冴」

「なんだよ、人の名前を勝手に呼ぶな」

 振り返らず歩みも止めず、冴の返答は拒絶感に満ちている。

「聞きたいことがあるのだ、大事なことだ」

「うるせーな、オレには言いたいことはねえ」

 口の悪さ際限なしだが、彼の方は向いてはくれる。もっとも秀一郎の言葉に応えたのではなく、鋭く睨み付けるためだった。

「君にも大いに関係あることなのだ」

「ったく、探偵ってのは本当に何でも聞きたがるウザイ奴らだな、テレビどおりだ」

 驀進していた足を止めて、体を横向きにさせる。

「で、何だって? オレと戦いたい奴は誰だ?」

「戦いたくないのだ、野蛮な思考である」

「ジョークのわからん奴」

 片方の唇をつり上げる冴だが、秀一郎ふと気付いた。

 大岡冴は確かに格好や態度は限りなく男っぽいが、顔の作りは各部位がこぢんまりとしていて少女らしかった。可愛い、と言っても差し支えはない。

「何ガンつけてんだ、ちぎるぞ!」

 罵倒された。何を「ちぎる」のかは聞かない。ただ下品だと冴をより軽蔑するだけだ。

「君はこの家の……娘さんが命を狙われる事について、何か心当たりはないか?」

「あるね」

 即答だ、しばし唖然としてしまう。

「な、何でなのだ?」

 冴は目と眉をつり上げ、しばらく無言で秀一郎を見ていたが。顔をさっとそむけるとぼそりと言葉を残す。

「……人殺しだからだ、兄さんを」

 聞き取れたのはそこまでだ。勿論秀一郎は食い下がる。

「どういう事なのだ? 話して欲しい、僕は君の味方だ、君が苦しんでいることは何となく分かる」

 秀一郎は穏やかな口調を作る。こうして大抵の者は『探偵』に心を開いていく。この目の前の少女も硬い守備を解いてくれるはずだ。

 そう、『探偵』は人の心を掴まねばならないのだ。

 現実に、冴は何か言いたそうな真面目な、切ない顔で見てくる。きっと秘密を教えてくれるだろう。

 ぼぐっと秀一郎の口に、冴の頭が激突した。

「むが!」歯が軋み鼻の奥がかっと熱くなる。激痛に秀一郎はそのまま尻餅をついた。

「うぐー」と両手で口元を押さえる。

「うるせえこの覗き趣味! 関係ないのにわかったような事言うんじゃねえ! 誰でもそんな手に落ちると思うな」

 秀一郎に頭突きを食らわせた冴は、彼を見下ろして嘲笑う。

「な、なんだと」

 秀一郎も怒りに震えた。

「こ、この女子力0! 僕にこんなことしてタダで済むと思うな!」

「お! やるか?」

 冴はシャドウボクシングのように、その場で数度、拳を突き出す。「野蛮なマネはしない、しかし君の雇い主に言いつける、君は解任だ、クビだ、仕事を失い後悔するがいい! それだけじゃない」

 秀一郎はぜえぜえと息を継ぎ、この愚かな女に自分の運命を教えてやった。

「僕は警察に知己が多い、どうせ君みたいな者は何か脛に傷があるはずだ、それを暴いて捕まえてもらう、終わりだ、君は終わりだ!」

「はっ」と冴が唾を吐くから、秀一郎はより燃えた。

「言っておくが僕のお父様は力のある弁護士だ、そしてお母様は政治家だ、何なら君に権力の怖さを教えてやるぞ! 終わりだ君は終わり、僕をバカにした奴は終わりなんだ!」

「ゲスい奴」冴は哀れな者を見るような目つきになる。

「なに!」

 秀一郎はさらに激高して悪口を舌に乗せたが、「くすくす」とどこからか笑い声が聞こえたような気がして飲み込んだ。

 顔を巡らせると、姫希が複雑な顔で手を伸ばしている。

「秀一郎様、どうぞ」

 荒い呼吸をしながらそれを取った。彼女の柔らかい手に触れると、嘘のように精神が落ち着いていく。笑い声は気のせいのようだ。

「とにかく、僕は許さないからな!」

 冴はオーバーに肩をすくめると、また背を向けてすたすたと歩き出した。

 もう話しなどない秀一郎は黙って続く。

 冴は秀一郎の怒りなど意に介す風もなく、肩で風を切って廊下を歩き、螺旋階段を上り、一つの大扉の前まで来ると、コンパスのような乱れのない半回転をして、彼等に向き直った。

「ほれ、ここが樋口賢吾さんの部屋だ」

 そして仕事は終わったと、秀一郎達の横をすり抜ける。

「ああそうだ」

 冴の顔に嘲りが閃く。

「さっきの事だけど、もし告げ口しようと言うなら……マジでぶっちぎるからな」

 秀一郎は答えない。押し殺した声の恫喝に臆したわけではない。シカトだ。

「……まあ、どうせこの家の奴らは、オレを辞めさせる事なんか出来ないだろうけどな」

 大岡冴の姿が消えてしばらく、秀一郎はまだ余熱のように残る怒りを無理に静めた。

 咳払いをすると、スーツの折れを確認して居住まいを正す。

 目前の大扉からそうしなければいけない空気、が流れているのだ。

 慎重に、丁寧に彼は扉をノックする。

「どうぞ」

 すぐに低い声が返ってくる。

 そして三田村秀一郎は手を伸ばした。ネジさえも磨き上げられた真鍮製のドアノブだ。傷一つない丸い感触が心地よく掌を冷やす。

 百科事典のように分厚く重い扉は、滑るように案外簡単に開いた。


 第三章 

 五指グループとは、広大な農園の管理運営機構『五指ファーム』、日本各地に食材を新鮮なままで届ける『五指運送』、そして海外からの食物の輸入を引き受ける『五指インターナショナル』の三つの会社組織の総称であり、近年ますます競争の激しくなる外食産業を生産、物流、輸入仲介と三方向からバックアップする巨大な企業である。

 居酒屋チェーンからファミリーレストラン、有名ラーメン店にまで多大なる影響を与え、小さな地元スーパーでさえ五指グループがないと立ち居かなくなるという、日本の『食』の根底を一手に握りしめる、国内農業をマーケティングサイクルの一つに組み入れた先進的視野を持つ精鋭集団だ。

 それが誕生してから日本の食糧自給率は二パーセント上昇し、世界各国の珍しい食べ物も、極普通の家庭の食卓に顔を出すようになった。

 その創始者、たった一代でそこまでのシステムを構築したのが樋口賢吾である。

『探偵』三田村秀一郎は勿論、その姿を知っていた。樋口賢吾が有能な経営者として経済雑誌だけでなく、テレビの討論番組、中高年向けのファション雑誌にも登場しているからだ。

 ただ、普通の高校生が目にする機会は少ないだろう。当然、秀一郎は『普通』ではない。

 ―探偵たるもの、それがつまらない情報誌であろうとも目を通すものなのだ。

 秀一郎は密かに胸を張るが、回転椅子に身を沈めている樋口賢吾を生で見たとき、彼の胸の奥はささくれ立ち、自然と背が丸まった。

 五指グループの長は、噂以上の人物だった。

 椅子の肘置きを掴んでいる何気ない仕草ながら、雄弁な秀一郎の舌を完全に硬直させる。 

 値踏みするかのような鋭い目の閃きが、『探偵』の心を圧迫した。

「きみが有名な『探偵』君か」

 錆びたような掠れた声はそれほど大きくなかったが、秀一郎は鼓膜が震える感覚を味わった。 

「は、はい、そうなの……そうです、ぼ、僕がその探偵です」

 えへら、と秀一郎は思わず意味もなく笑ってしまう。

「うーん」

 と賢吾は鷹揚に頷いた。

「私も娘から聞いていた、同じ学校に『有名人』がいると、なるほどなかなかの切れ者のようだ」

 秀一郎は恐縮して、後頭部に手を置いた。

「そんなぁ、樋口賢吾さんの方が有名ですよ、ほらネームバリューの価値が違います、エヘヘヘヘ」

「面はゆい言い方だな、今の私は同級生の父だ、『樋口の萎びたおじさん』とでも呼んでくれていいんだが」

「とんでもないです! 僕は礼儀をわきまえています、あの樋口賢吾さんをそんな風になんて! それにまだまだ若いですよー、どうしたらそんな素敵に歳を取れるのでしょう?」

 ふふふ、と賢吾は喉の奥で笑う。

「君は面白い子だね、娘の話ではヘンなしゃべり方、と聞いていたが、そうでもないし」

「娘さんには実にお世話になっています! いやーお二人ともあなたに似て非常に美人で、もう僕クラクラです、イヒヒヒヒヒ」

「ところで、隣のお嬢さんは?」

 秀一郎が説明しようとしたが、その前に姫希は丁寧に頭を下げた。

「槙島姫希、と申します、お嬢さん達のお友達……まだ知り合い、という所です」

 姫希は礼儀をわきまえずいつもどおりの口調と態度で、秀一郎は内心ひやりとする。

「まきしま、ひめき……」

 案の定、賢吾は猛禽のような鋭い視線になる。

「おそろしいな……」

「はい? なんでしょう?」

 とにっこりと彼女が聞き返すと、賢吾は咳払いをして秀一郎に向き直った。

 秀一郎は内心身構えた。賢吾の動きは年相応の緩慢さなのだが、白刃を前にしたような緊張感がある。 

 だが言葉はすぐには紡がれなかった。不意に彼は咳をし出し、身を折ったのだ。

 湿ったような咳が長く続き、姫希が駆け寄りその背を撫でる。

「大丈夫ですか?」

「……すまない、迷惑を掛ける」

 その時、ようやく秀一郎は気付いた。樋口賢吾の姿が、彼の知る物と若干違うのだ。

 いつか見た雑誌の写真と違う。

 酷く痩せていた。頬はこけ唇も鈍色だ、辛そうにつむる瞼も落ちくぼんでいる。

 あまりの威圧感により見逃していたが、回転椅子に座るのがやっと、という具合にも見えた。

 彼の年齢は五六歳だと知っているが、それより二十近くも年を取っているようだ。

「お加減でも悪いのですか?」

 姫希が背中をさすりながら尋ねると、賢吾は強く首を振った。

「そんな事はどうでもいい、それよりも……」

 鬼火のように目が光る。

「どうしてこの家に来た? 探偵三田村君」

 秀一郎は狼狽した。どこかに詰問の響きがあったのだ。

 思わず意味もなく辺りを見回した。  

 樋口賢吾の部屋は、焦げ茶色の壁に囲まれたシックな所だった。

 左側に天井まで届く書架があり、いろいろな言語の本が並べられている。右側には西洋の古城を描いた油絵が掛かり、その下に最新式の大きなパソコンが置いてある。

 真正面には樋口賢吾氏と回転椅子、その背後のすべり出し窓に面して木の机が見える。

 余計な物を極限まで切り捨てた印象が強く、樋口絢の部屋と対極に塵一つもない。足下の毛の長い赤いペルシャ絨毯も徹底的に掃除されているようだ。

 わんわん、秀一郎が困っていると外からジョンの声が聞こえた。

 咳の収まった賢吾は身を起こすと、後ろの机の上にある銀色のトレイから、白い鶏もも肉を掴み、秀一郎に背を向け窓から放る。

 ジョンは静かになり、再び賢吾の目が秀一郎を捉えた。

「ええっと」乾いた唇を舐めながら、秀一郎は言葉を選ぶ。

「ぼ、僕は、その……偶然、お嬢さん、絢さんの、その事件、現場に遭遇致しまして……絢さんの倒れる姿を見てしまった物ですから……どうなったかと」

「ほう、ただの見舞いかね?」

 姫希がゆっくりと秀一郎の傍らに戻ってくる。それを待って頷く。

「そうです、そのとおりです」

「……そうか」

 賢吾は疲れたように、椅子の背もたれに横たわった。

「で、あれはどうかね?」

 細い指で目頭を揉む賢吾に、秀一郎は即答を躊躇った。

「そ、そうですね、自分が狙われた、ということにストレスを感じているようです、しかし、それほど深刻ではないようにも思えます、普通に会話できましたし」

 わんわん、とジョンが催促してくる。

 賢吾は再び鶏もも肉を掴んだ。 

「可愛い犬ですね、僕も犬は大好きです、エヘヘヘヘ」

 姫希が何故か上目遣いでこちらを見てくるが、秀一郎は気にしない。

「ああ」と賢吾は肉を落として頷いた。

「一〇以上前にダンボールに捨ててあったのを私が拾ってきた、妙な犬でな、何故か私にしか懐かない、まああの大きさだし、番犬にはもってこいだろうが……私とあの子にしか懐かないのでは扱いに困るな、最近私にも時々吠えるのにも参るし」

 向き直った賢吾の視線は、秀一郎ではなく、ここにない遠い物を見ているようだった。

「ところで、君はこれが何か分かるかね?」

 そのまま賢吾は、机の上に掲げてある絵を指さした。

 白い紙に右手をデフォルメしたような絵があった。

「はい、五指グループの社章にも使われているマークです、よくCMにも流れています」

「そうだ、だが意味は分かるかね?」

 秀一郎は首を捻った。天才探偵とは言え分からぬ事があるのだ。

「分かるわけないな……済まない、これはそのまま右手だよ」

「はあ」

「意地の悪い答えだったな、ほら」

 と賢吾は自らの右手を開き、秀一郎達に向ける。

「親指は父親、人差し指は母親、中指は兄、薬指は姉、小指は子……つまりファミリーだよ、五指グループの五指は幸福な家族、という意味なんだ」

「なるほど、感心しました、だから樋口氏は幸福な家庭の一家団欒の為に食物関連の仕事をなさっているのですね、いやーさすがです! イヒヒヒヒ」

 賢吾は困ったように苦笑する。

「私はそんなに偉い人間ではない、確かにこの事業を志した動機は近いがね」

 彼は横を向き、下半分が開いている窓から外を眺めた。

「私が作った五指グループ、主に青果部門が充実している事を知っているだろうか? 青果……果物だ、私はね探偵君、幼い頃に父を失って母の手一つで育てられた、その母も成人して間もなく他界してしまったが、とにかく幼い頃、家の中で私は孤独だった、母は朝から晩まで働きほとんど会話も出来ず、しかし収入は少なく日々も辛い、そんな中、私は植物図鑑で海外の色とりどりの果物の存在を知ったよ、甘そうで柔らかそうで、勿論そんな物はとても口に出来ない、ずっと憧れていた、美しい果物達に」

「だからスターフルーツなどの珍しい果物を日本で栽培しているんですね! 夢はかなった、ということですか」

 感激する秀一郎だが、賢吾の目は寂しそうだ。

「いいや、夢は違う、私もそれらを口に出来るようになってから気付いたのだが、私は本当は、そんな美味しい果物を父と母に食べさせたかったのだ、早くに死んでしまった父、働きづめの母に食べて貰いたかった、美味しいと喜んで欲しかった……」

 賢吾は自らの右手を愛おしそうに眺める。

「母もいない孤独な夜、私はずっとこの手を見つめていた、お父さん指にお母さん指、私はそれで寂しさを紛らわせたんだ」

 しばらく賢吾は何か楽しいことでも思い出そうとするかのように、瞼を閉じた。

 秀一郎は困った。そんな話しをされても何と言っていいか分からない。どうして初対面の娘の同級生にそこまで話すのか。

「……だから、私にとって家族は特別だ」

 目を開いた賢吾は、頬を引き締めた。自然に秀一郎の背筋も伸びる。

「妻と息子と二人の娘……私にとって宝だ、何物にも代え難い」

 賢吾の唇が強く結ばれる。

「その為に、家族を護るために私は酷く狡い事をしてきたよ、後ろ指も指された物だ、だがそれでも構わなかった、私にとって家族は全て、血を分けた家族は何よりも優先されるのだ!」

 あまりにも重い緊張感が、秀一郎の周りにあった。空気が全てガラスになったかのように、隅々まで張りつめる。  

 賢吾の光る目に秀一郎の背骨が痺れてきた。冷たい汗が肩胛骨辺りを流れる。

 幾多の凄惨な事件を耳目にした探偵は、一人の痩せた男の前で金縛りに合っていた。実際、内臓器官さえも停止しそうだ。

 秀一郎は永遠にさえ思える時間、指一本も動かせない。

 だが壮絶な雰囲気は、一瞬のうちに破壊された。頓着しないノックが上がり、誰も答えないのに、扉が勝手に開いたのだ。

「おっ茶でーす! お待たっせしましたー」

 お盆を持った中年の女が、にこにこ笑いながら入ってくる。

「澄江さん」賢吾は打って変わって穏やかな顔になり、はあ、と息を吐く。

「ノックという物は、返事を待たないと意味がない物なのだよ」

「すっみませーん! 今度は気っを付っけまーす」

 と澄江は自分の頭を拳で叩くジェスチャーをする。

 賢吾は相好を崩す。

「ああ、この人は我が家の優秀な料理人、伊木澄江さんだ」

 安堵していた秀一郎は、スリッパを鳴らして入ってきた女性が、樋口姉妹の会話にも出て来た料理人だと知った。  

 髪を後ろで束ねた、エプロン姿のよく似合う穏和そうな婦人だった。

「探偵さん達にもおっ茶でーす」

 と秀一郎と姫希にもお盆を差し出してきた。

「ありがとうございます」と乗っていたティーカップを取るが、賢吾の声が切り込むように入る。

「それは私と同じ物かね?」

 秀一郎は密かに驚いた。賢吾の目が、お茶の種類を尋ねるにしては深刻な光を湛えているのだ。

「ちっがいまーす」

 澄江は変わらず陽気だ。

「旦那様のお茶は、奥様特製のやっつでーす、探偵さんのはたっだの紅茶でーす」

「そうか」

 賢吾の口元に笑みが戻る。

「うん? ……私は家族を愛しているからな、妻特製のお茶を誰かに飲ませたくないのだよ、意外と嫉妬深くてね」

 秀一郎の物問いたげな視線に気付いたのだろう、賢吾は肩をすくめる。

「そう、妻特製のポインセチアティーは私だけの物だ」

「そうだっ! 旦那様ー、蕪山さんが来ってまーす、どうしますっかー?」

 お盆を脇に挟み、澄江はぽんと手を叩いた。 

「ああ」とお茶に口を付けながら、賢吾は細い腕を突き出し、左手首の時計を一瞥した。

「あと五分したら通してくれ、その頃には娘の友達との話も終わるだろう」

「はっいー、では皆さん、飲み終わったら廊下に置いておいてくっださーい」

 最後まで朗らかに澄江は出て行った。賢吾はしばらくその背が消えた扉を見つめている。

「……そう、色んな物を犠牲にした、色々な人々をな、罪深いと思っている」

 秀一郎は渡された紅茶を一口飲んでみた。

 アップルティーだ。それもそこらの安物ではなく、本物のリンゴのような瑞々しい香りが鼻孔に満ちた。

 その間、賢吾は左の掌を持ち上げていた。

「私は自分の家族の事ばかり考え、このようにもう一方には違う家庭があり、違う家族がいることを失念していた……いや、見ないようにしてきた、全く愚かな話だ」

 秀一郎は殆ど聞いていない。樋口賢吾はいつの間にか目の前の彼等を忘れ、自分自身に語りかけているように思えたからだ。 

 何が言いたいのかも、いまいち秀一郎には分からない。

 突然、賢吾が口を覆った。 

 再び咳が続く。姫希が寄ろうとしたが、彼はそれをもう一方の手を振り制止した。

「失礼ですが、お体の具合は大丈夫なんですか?」

 姫希が微かに眉尻を上げる。

「……綺麗なお嬢さんに心配して頂けるだけで光栄だよ、気にしないで欲しい」

 軽い台詞だが、それ以上の問いを許さぬ頑なさがある。それでも姫希は全く怯むことなく口を開こうとしたから、秀一郎が手で制した。

「若い者が年寄りを甘やかせすぎては困る、逆に弱くなっていくものだ」

 咳が止むと、賢吾は口を拭いながら冗談めかせる。

「さて、娘の容態を聞いたし、私の詰まらない話も聞いて貰った、君たちには退屈だったろうが、私には有意義だった、客も来ているらしいので君達は娘の、絢の所に戻ってくれ、あの子についていてやってくれ」 

「もちろんです、お嬢さんは僕の大切な友達ですから」

 秀一郎は愛想笑いに終始する。

「ところで」

 ずっと気にしていた、ここに入る直前に決めた主題を口にする。

「あの男女……冴という女の子の事ですが」

「うん? 冴ちゃんがどうかしたかね?」

「あいつ……彼女は、その、とても個性的で、何というかウザ……この僕に失礼な……」

 必死で言葉を選ぶ秀一郎に向かって、じっと動かない姫希の視線があった。

「冴ちゃんは良い子だよ、ちょっと奇抜な服装だが、若い者の個性は大切だ」

「そうですね! 僕もそう思いました! ええ、僕はまた一人良い友達を得るようです」

「そのようだね、ところで君達は今日は暇かね? もう日が落ちている、よければこの家に泊まっていってくれないか?」

「はい?」と秀一郎は聞き返す。

 賢吾は目を細めた。

「いや、最近の絢が心配で、その友達である君たちに、あれの心を癒して欲しいと思ったんだ」

「……ですが」

 姫希は困っているようだ。

「娘さん達は年頃ですし、その、男性の秀一郎様を泊めるなんて」

「その点は心配していない、君たちを信じている」

「わかりました!」秀一郎は叫んでいた。

「僕達が出来る限りのことをします、絢さんの為になら何でもします! きっと彼女も傷を忘れることが出来るはずです、そのためにも……あ」

 秀一郎は弾みそのまま口走りそうな自分に気付き、慌てて舌を止める。

「何かね? 遠慮はいらんよ」

 賢吾は敏感に、秀一郎の様子に気付いた。

「はい、ええっと、大変失礼なのですが、その一応お聞きしようと思いまして……この家の者を憎んでいる、とかそういう不埒な輩は……いないですよね?」

「いるともさ」

 事もなく彼は認めた。

 虚を突かれ固まる秀一郎に、賢吾は苦い顔をする。

「成功者は妬まれる物だろう? それに私は罪深い身だからな、命を狙われたこともある、だが誰だか、などとは聞かないでくれよ、見当もつかん、さあ話しは終わりだ、澄江さんの料理は本当に絶品だ、楽しんでくれると嬉しい、食事の時には来客用の椅子を用意させる、絢のことくれぐれも頼むよ」

「はい」と返事して秀一郎はそのまま部屋を辞そうと踵を返した、姫希も当然続く。しかし、その背にうって変わった力無い声がかけられる。

「槙島さん……だったね? 君には聞いていなかった、何をしに来たのか?」

 姫希は、くるりと体を賢吾に向ける。

「私はあくまでも秀一郎様の助手、いえ、それもおぼつかない見届け人です、何も致しません」

 樋口賢吾はどこか安心したように、顎を下げ椅子に沈んだ。

「そうか、なら……頼む」

「はい」  

 こうして天才探偵三田村秀一郎と、五指グループ創始者・樋口賢吾の初めての会合は終了した。

 廊下に出ると秀一郎は、胸郭の中一杯の息を吐く。

「なかなかの人物であるな、噂以上と見たのだ」

「……口調……いえ、何でもないです」

 姫希は俯いて何か考えている。

「しかし、僕を大変に買ってくれた、娘さんに近づくことを許してくれた、僕の才能に気付くとは、やはり天才経営者である、ううん天才は天才を知るのだ」

「今日はここに泊まるのですか?」

「そうであるな、僕は頼られることに慣れているからな、そうしようと思う、何か不都合であるか?」

「いえ、このような時のために、着替えなどは持って参りました」

「さすが僕の助手だ」

 賛辞に姫希は微笑み、そう言った張本人たる秀一郎の胸が何故か高鳴った。

「いや、実際僕は君を高く評価しているのだ、先程は賢吾氏に控えめなことを言ったようだが、君は十分優秀な助手である」

 姫希は何か言いたいのか口を開いたが、辞める。理由は秀一郎にも分かる。人の気配がするのだ。

「おう、ゲスい探偵か、ウゼーな早く消えろ」

 秀一郎の気分を簡単に悪くする言葉と共に、大岡冴がやってきた。

 一人ではなく、長身の男性を連れている。澄江の言っていた賢吾の客だろう。

「おや?」とそれなりに顔かたちの整った、二十代後半くらいの男性が声を上げる。

「君はもしかして、有名な少年探偵ではないか?」

 秀一郎は冴を無視して、一八〇センチ以上はある男性に焦点を合わせる。

「そうである、僕が三田村秀一郎だ、あなたは?」

「あはは、そうかー、いやー感激だなあ、有名人と出会えて……僕は蕪山、蕪山孝美、タカミーと呼んでくれ」

 明度の高いスーツを着た蕪山とかいう男は、馴れ馴れしく手を差し出す。見上げる形となった秀一郎は大いに不満だったから、わざと鷹揚にその手を掴む。

「タカミーは無理なのだ、僕は君を知らない」  

「君」という呼称は年上には失礼だが、蕪山は自己を知っているらしく、不機嫌にはならなかった。

「そうだね、僕は五指グループ……樋口家に雇われた探偵だよ」 

 蕪山は無造作ヘアーを掻く。

「探偵……ですか?」

「ああ、お嬢さん……て、美人だねー、今度デートしない? お小遣いあげようか? て犯罪か?」

 蕪山は「あははは」と軽薄に笑い、姫希も両手で口元を押さえるから、秀一郎の心はより荒れる。

「で、君は何をしに来たのだ?」

 秀一郎が背後に反るように胸を突き出し尋ねると、蕪山は人差し指を唇に当てる。

「依頼内容を他者に漏らさない、これ探偵の常識」 

 そして「あははは」とまた笑う。

 秀一郎は舌打ちした。どうもこの男が気にくわない。

 茶色ががった髪、着崩したスーツ、軽佻浮薄と言った体が信用ならないのだ。何よりも一七〇センチもない秀一郎よりも、女の子にモテそうだ。

「ところで君たちも賢吾さんに雇われたのかい?」

「違うのだ、僕は平凡な依頼は受けない、それは君たちの仕事だ」

「あははは、そうだねー、君みたいな天才は天才的な事件を頼むよ、そうじゃないと僕ら凡人はメシを食いっぱぐれる、でもまあ、お近づきに一つだけ忠告しておこう」

 蕪山は表情を改めたが、秀一郎は聞く必要を感じなかった。

「樋口賢吾氏には気を付けろ、陰口じゃないよ、あの人は人を操るのに長けた、君とは違うタイプの天才だ、お陰で僕なんて散々だよ、とほほー」

 わざとらしく嘆く彼に、また嫌味でも言おうとした秀一郎だが、冴の冷たい眼差しに気付いた。

「おい、私のことを賢吾さんに言いつけたろ?」

「な、な、何のことなのだ?」

 ふん、と冴は鼻で笑う。

「分かりやすい奴だな、て、お前マジでゲスいなあ」

「なに!」

 秀一郎の悪感情が蕪山から冴に向かいかけた時、その蕪山が手を振った。

「若い者同志で喧嘩するなよ、少なくとも僕の前では、だって何かあったら僕のせいになるだろ?」

「うるせーな! へっぽこ探偵! あんたが無能だから絢が傷ついたんじゃねーのか?」 

 冴の舌鋒は容赦ないが、蕪山は全く応えずオーバーに嘆く。

「だからこうして謝りにきたんだよ、あいかわらず冴ちゃんはきついなあ、せっかく可愛いのに、ぐはっ!」

 冴の肘が、蕪山の鳩尾に突き刺さる。

「ば、バカ言うな! こ、この野郎、今度そんな事言ったらちぎるぞ!」

「……む、無理だね、僕のは意外に力強い、こっそり見せてあげようか?」

 どうしようもない下ネタに、冴は顔中を真っ赤にして蕪山に襲いかかった。

 しらけた秀一郎は姫希を小声で呼んでから、「うわわー」と蕪山の悲鳴が上がる惨劇に背を向けた。

「面白い人ですね」

 広間に続く廊下を歩きながら、くすくすと姫希が笑った。秀一郎は顔をしかめる。

「ただの凡人探偵なのだ、浮気調査くらいしか能のない輩であろう、確かに背は高いが、僕ならばあと二、三年で抜くだろう、もしそうでなくとも、すでに知能であんな男を圧倒しているのだ、僕の方が魅力的とお母様なら言ってくれるだろう」

「しかし……不思議ですね」

「何がなのだ?」

「いえ、樋口賢吾さん、初対面の子供相手に語りすぎです、それに異性の友達を娘に近づけすぎではないですか?」

「ふむ」秀一郎は彼女に分かるように姿勢を正し、蕪山とやらよりも上の頼もしさをアピールした。

「僕だからである、僕が有名で信用できる者と彼にも分かったのだ、話しは天才同志にしかわからない苦労を理解して欲しかったのだろう」

「そうですね」姫希は目が笑い、秀一郎は満足する。

 槙島姫希もまた、秀一郎を高く評価している者の一人の筈なのだ。

 そんな会話をしながら気分良く歩く秀一郎だが、記憶を遡って着いた広間への扉を開けた途端、緊張した。

 先程も通された樋口家の広間に、緊迫というには火薬臭すぎる空気が漂っている。

 樋口杏は顔を真っ赤にして、柳眉を逆立てていた。

「だから! 今までどこ行っていたのか言いなさいよ!」

 その灼熱した言葉と、剣先のような視線を受けているのは太った青年だった。

「言う必要ないねーん、へへーん、ボクは自由人だからねー」

 ぎりりと、杏の奥歯の音が鳴った。

「全くオマエには萌え要素がないんだなー、絢ちゃんと大違いだ、こんな妹はいらん、残念ぴー」

「あんたなんか兄でも何でもない!」

 杏の怒鳴り声で確認するまでもなく、この太った男が問題の樋口家長男・樋口敏文らしい。

「ふむ」と息を潜めて部屋に入り、秀一郎は頷いた。

 樋口姉妹の麗しさからは想像できない……残念な外見だ。

 顔は丸く鼻は団子のようで、唇は大きく厚い。しかし彼の問題は元々の顔かたちではなかった。どういった趣味なのか、上半身は藍色のジャケット、下半身はスカートのような裾の開いた物を着ている。両方ともどこか安っぽい作りで、アニメかマンガのコスチュームに見える。

 だとしたらこの男は、常時コスプレをしていることとなる。

 残念すぎる。

「おお? おおおおおお!」

 樋口敏文の、油分に七色に汚れた眼鏡が光った。

 また何か言う杏を乱暴に突き、どすどすと秀一郎に近づいてきた。

 どうやら彼も探偵ファンらしい。このように秀一郎はどこに行っても歓迎されるのだ。

「萌えっ娘ー、萌えっ娘メイドー! 萌ええー」

 彼は秀一郎の直前で向きを変え、傍らの姫希の正面に立ち、わなないた。

「君何? どこから来たの? どうしているの? 名前は? 歳は? 生年月日は? 動物占いでは何? メイド服どこで買ったの? 携帯番号は? メルアドは? 下着の色は? いくら欲しい? 処女? 明日暇? 何万でならOK?」

 万人に穏和な姫希の顔も引きつり、一歩後退した。

「明日映画にでも行こーうよー、ボク色んな物買ってあげるからぁ」

「おい!」

 姫希が困惑しているようなので、秀一郎は声を荒げた。

「どんなアニメが好き? ボクは君ならアヤナミよりも、シオリやユウの服装が似合うと思うんだけど」

「うう」と姫希が泣きそうな顔になり、秀一郎は怒りのあまり敏文の肩を掴んでいた。

「なーだよオマエ? 馴れ馴れしく掴むなーよ」

 ようやく彼は秀一郎の存在に気付いたようだ。乱暴に手を振りほどかれる。

「キモイなあ、触るなよ男が、ボクに触って良いのは、萌えている女の子だけなんだー」

「アニキ!」

 杏が駆け寄ってきて、姫希と敏文の間に滑り込んだ。

「この子はあんたなんかが汚して良い子じゃないんだ! 私の友達だよ! 何かしたら許さない!」

 杏は低い声で恫喝する。敏文は妹の顔をしげしげと見た。

「うわ! マジで青筋とか立ててる! キモー、やっぱりオマエは萌えない……んだっ!」 

 ぼこっと鈍い音と共に、杏の体は傾ぐ。 

 敏文が妹の杏を殴る所を始終目撃した秀一郎は、もちろん腹が熱くなった。ただ暴力で対抗するのは野蛮なので黙る。

「杏さん!」

 姫希は、茫漠たる表情になった杏の体を支える。

「萌えない妹なんて、生意気なだーけ」

 敏文は細い目をさらに細め、荒い鼻息を吐く。

「ぎゃああ!」と次の瞬間彼は仰け反り、両手で目を覆って蹲った。

 何が起こったか? まさに天罰と呼ぶに相応しい偶然だ。

 しつこく姫希の腕を掴もうとした敏文の顔に、避けようとした彼女の手が偶然当たり、眼鏡がずれ、反射的に出されたもう一方の手の二本指が、偶然彼の顔面、偶然に目に突き立ったのだ。

「うぎゃー!」と敏文は悶える。

「萌え子メイドちゃんがー! 萌え子メイドちゃんがー、ボクに目つぶしくらわせたー!」

「ふざけるな!」

 秀一郎は怒声を上げる。

 そんな野蛮極まりないことを、姫希がする訳がない。

「……すみません、避けようとしたら、当てってしまいました」

 案の定、彼女は深々と頭を下げた。

「痛いよーう、おーう!」

 状況はさらに悪化する。敏文の叫びを聞きつけて、二本タバコの亜沙子が、煙に包まれながら現れたのだ。

「うんまー、何をやっているのあんた達」

 灰色の息を吐く亜沙子に、敏文が飛びつく。

「ママー! 萌え子に、あの子にやられたー!」

「うんまー!」亜沙子の鼻と口から、一気に黒煙が吹き出る。

「てめえ! なにしてくれてんだこのヤロウ! 殺すぞ! 私は自慢じゃないが、役を争った小娘どもをことごとく殺ってきんだ!」

「ママ、それはダメだよ、あの子はボクの物になるんだ、ボクの玩具、ボクの萌え妹、ボクだけのメイド、だから苛めないで」

「うんまー」亜沙子は厚い両手で、敏文の大きな顔を包みこんだ。

「何て優しいんでしょう敏文ちゃん! こんな目に遭ったのに許してあげるなんて……私の自慢……」

 呆然とその気分の悪い光景を見ているだけの秀一郎は、ふと姫希の声を聞いた。

「……お城……砂浜で……子供が丹精込めて作ったお城……滅茶苦茶に踏みつぶしてみたい……くすくすくす……」

 おののく秀一郎だが、すぐに了解した。これは彼女のジョークだ。あまり上手くないところが、真面目すぎる彼女らしい、下手な冗談だ。

「探偵君、姫希ちゃん」

 立ち直った杏が、亜沙子と敏文親子の粘つく視線を背中で遮る。

「ごめん、本当にごめん、こんな事になるなんて……私」

 涙を浮かべる杏に、秀一郎は相応しいウィットに飛んだ慰めの言葉を掛けてやろうとしたが、今は体調でも悪いのか浮かばず、口を開け閉めする。

「うんまー」亜沙子はさらに非難しようとするが、驚きに宙の煙を飲み込んだ。

 幽霊のような足取りの絢が、音も気配もなく部屋に入ってきたのだ。顔色は悪く、唇は細かく震えている。

「兄さん……」

 さすがの敏文も、しばし固まって絢を見つめていたが、

「おおおお、萌えてる方の妹」

 とすぐ吠えて、彼女に抱きついた。

「……お話が、あるのだけど、いい?」

「萌えてるほうー、萌えてるほうー」

 杏の時とは違い敏文の目尻は下がり、唇もだらしなく開かれる。

「何だ何だ? お兄ちゃんに言えー、萌えている方」

 遠慮のない敏文の手が、絢の胸やら腰やらを撫でる。

「触るな、キモイ、やめて」

 絢はぶつぶつ呟くが、敏文は考慮しない。

「萌えなー、萌えなー、こっちの妹はいいなー」

 敏文の手の中で、絢は顔を歪めて身を捻る。

「……秋の終わり、落ち葉の季節……枯葉だらけの森に火を点けてみたい……きっととても面白い……くすくすくす……」

 姫希はまた口の中で冗談を言っているが、彼女の肩はがたがたと震えている。恐らく恐ろしいのだ、セクハラばかりの敏文が。

 慈愛に溢れる彼女じゃなかったら、怒りに震えていることだろう。

「やめてよアニキ! 絢ちゃんいやがってる」

「煩い! 萌えない方、また殴ーるよ」

「やめてったら!」

 悲鳴のような杏の声と、扉ががちゃりと開く音が重なった。

 秀一郎が振り返ると、冴に伴われた蕪山がいた。賢吾との話しが終わったのだろう。

「あららー、地獄絵図だね」

 目を尖らせる冴とは違い、あくまでものほほんと感想を述べた蕪山は、背中を丸めて早足に広間を通過していく。

「それじゃあ、僕は巻き込まれるのがイヤなので帰ります、これからここで何が起こっても僕の責任ではないです」

 ちらりと秀一郎を見る。

「君に会えて嬉しかったよ! さよーならー」

 蕪山の背中がまだ視界にある内、立ちつくしていた冴が突如ずんずんと、絢を触る敏文に近寄った。

「なーんだ? 男女」

 ぼこっ! と冴の刈り上げ頭が敏文の顔面にヒットした。

「うぎゃあ!」

 敏文は鼻面を押さえ仰け反り、瞬きする間に押し倒されて、冴に踏みつけられていた。

「や、やめて冴ちゃん!」

「うんまー! 使用人の分際で何をするの? 冴!」

 杏と亜沙子は口々に制止するが、憤怒の形相の冴は全く聞かなかった。

「このクズ野郎! 人が嫌がることをするな! 自分の妹苛めて楽しいのかよ!」

「ふむ」秀一郎は感心して観察した。

 ―嫌な女だが、男気はあるな。 

 結局、嵐のような蹴りはその後しばらく続き、危殆を感じ取った姫希が背後から彼女を押さえる。

「もういいでしょう? 冴さん、敏文さんも懲りてますよ」

「ぶぎゅー」と敏文は鼻血を吹き出し、おろおろしていた亜沙子が横に屈む。

「敏文ちゃん! まあ、何てこんな事に」

 はあはあ、と冴は荒い呼吸を繰り返す。

「うんまー冴! 拾われた恩を仇で返したわね! 出て行きなさい! この家から今すぐ消えなさい! このゴクツブシめが!」

 血まみれの敏文の頭を持ち上げながら、亜沙子は叫んだ。 

「やだね!」ぺっと唾が吐かれた。

「あんたらにオレをどうにか出来る訳がない、あんたらがオレを拾ったのには理由があるからだ、そうさ、兄さんを殺した事を言いふらされたら困るんだ、そいつが!」

 冴の繊細な指が、真っ直ぐ敏文を指す。

「……兄ちゃんを殺した」

 大騒ぎだった樋口家に沈黙が降りた。杏と絢が凍り付き、亜沙子は言葉もなく冴を睨む。

「ち、違うー」

 渦中の敏文は、がばっと半身を起こした。

「ボクじゃない! ボクのせいじゃないんだー」

 血と涎を飛ばしぶんぶんと頭を振るが、目はぎょろぎょろと泳いでいる。

「ボクはアイツがちょっと生意気だから、ちょっと悪戯しただけだー、死んだのはアイツだ、ボクじゃない!」

「てめえ!」

 冴がボクシングみたいに拳を構えて、敏文に一歩踏み出す。

「やれやれ」と秀一郎はうんざりした。

 ―また暴力か、これだから頭の悪い野蛮な輩は。

 内心飽き飽きして、成り行きを見守る。

「もうやめてよ!」

 逃げようと這う敏文と、冴の動きが止まった。

 杏が、ガラスをたたき割ったように軋んだ、狂気じみた叫び声を上げたのだ。

 目に涙を溜め、両手を強く握りしめている。

「もうやめて……ウンザリだよ、どうしてみんな喧嘩ばかりなの? どうしてこの家はこんなに争いばかりなの? もうイヤ!」

 杏は顔を覆うと、陸上部の脚力を発揮し走り去っていった。

 残った面々は、気まずそうに互いの顔を見比べる

「ボクは疲れたから寝るー、夕食まで起こすなー」と最初に逃げたのは敏文だった。

 すぐに亜沙子はタバコを二本くわえ直す。

「うんまあ……今回は許すわ冴、私も部屋に帰るから着いてきなさい」

 冴は唇をぐっと噛みしめている。

「うんもぅ、聞こえなかったの? 冴! ……本当に追い出されたら、行くところもないくせに」

 葛藤していた彼女は、ふっと一度強く目をつむり「はい」とだけ言い残して亜沙子を追った。

「絢さん!」

 姫希が声を上げたのは、絢がふらりと揺らめいたからだ。

 すんでの所で踏みとどまる。

「大丈夫、姫希ちゃん、ごめんね、みんな酷くて……」

 微かに微笑むが、絢の顔色は病人のそれだ。だが秀一郎は違う物に気を取られていた。

 ぴかぴかの大理石のテーブルに、ポップすぎる色が混ざっていた。

 亜沙子が忘れたのだろう、黄色いタバコの箱だ。

 ―アメリカンスピリッツであるな。

 今のところ意味があるか分からないが、探偵は亜沙子のタバコの銘柄を覚えた。

「寝ていた方が良いですよ、皆さんお部屋に戻ったようですし、私達の事は気にしないで下さい」

「うん、ありがと、姫希ちゃん……兄さん、お話が、あったのに、でも、今はいいや」

 絢は小さく頷くが、部屋に戻らず悄然とソファに腰を落とした。

 かなり辛そうだ、やはり精神的なダメージは大きいようだ。否、それが蓄積しているはずだ。命を狙う者がいるという事は、こうして、その事実だけで被害者を苦しめる。

「秀一郎様」姫希が囁いてきた。

「どう思います? この一家」

「歓迎だね」

 姫希の黒目が大きくなる。

「うむ、事件というものは何もない所には起きないのだ、こうして異常な者達が集まった所で起きる、やはりこの家は事件の匂いがする、ならば解く僕としては歓迎である」

「見ているだけで……」

「うむ、まず観察することが大切なのだ、渦中から一歩引いて冷静に観察する、これが僕なのだ」

 姫希は瞳にいつもの光が宿った。秀一郎に向ける光、彼がこうして探偵の理論を語るときにある、尊敬の念を集めたのだろう輝きだ。

「私、やっぱり、少し寝る、ごめん」

 その間、絢はソファから立ち上がりふらふらと歩いていく。

「……ついて行かなくていいのでしょうか?」

 はらはらと見送る姫希の傍らで、秀一郎は気付いた。

「絢さん!」

 びくり、と彼女は止まった。

「タバコ、どうしました?」

「え」と絢はちらりと横目で見てくる。

「テーブルにあった奴です」

 秀一郎の指の先にある大理石のテーブルには、もう何も置かれていない。

「しらない! 私、知らない、探偵君、考え違い、じゃね」

 逃げるように絢は出て行った。探偵と探偵助手だけが取り残される。

「ふむ」と秀一郎は静かになったのを機に、じっくり考えようとした。 

「お茶でっすー」

 明るい声で静寂は破られた。澄江が山盛りのマカロンを乗せたお盆を抱えていた。

「あっれれー、皆さっんはー?」

 にこにこしている澄江に、姫希が無言で首を振った。

「まったですかー?」

 と澄江は残念そうに、お盆をテーブルに乗せた。

「手作りですかっら、用意するのに時間が掛かったんでっすよー」

「これ、澄江さん一人で作ったんですか?」

 姫希が呆れるのも無理はない。澄江の持っているお盆には四〇個近いマカロンがある。

「ちっがいまーす」

 と言い、彼女は珍しく狼狽した様子で両手で口を覆った。

「ああ、わったしったら、ほんっとおしゃべりっ、忘れって下さーい」

 秀一郎はそんな些末な問題など、どうでも良かった。

「澄江さん、聞いて良いか?」

「はっいー」

「あなたはいつからこの家にいるのだ?」

「六年になっりまーす、敏文さんが十一歳、絢ちゃんと杏ちゃんが九歳の頃っでーす」  

 澄江には全く屈託がない。

「では知っているのであるな? 冴さんの言っていたこと、敏文さんが人殺し、とは何であるか?」

 始めて澄江の言葉が詰まった。彼女はぎょっとした表情になる。「……言えません」口調が変わった。直った。

「私もこの家に勤める者です、あまり家の中の事をよその人に口外するわけには行きません、察して下さい」

「僕は探偵である、知る必要があるのだ」

 ずいっと迫るが、澄江はゆったり見返した。

「必要はありません、樋口家の事は、樋口家の皆さんで解決していく事です、探偵さんには関係ありませんよ」

 秀一郎は憤った。この世に彼に関わりのないことなどない。しかもそれをこんな中年女に指摘されるなど屈辱だった。

 ―この僕の事を何も知らないな、素人め!

「とっいう訳でーす、せめて探偵さん達は、食っべてくっださーい」

 がらりと元に戻り、澄江は秀一郎達の為にマカロンを皿に載せ替える。

「とっころっで、探偵さんもしゃべり方ヘンでっすねー、キャラ作りっでっすかー?」

 ぽろりと、秀一郎の手の桃色のマカロンが落ちた。

 

 澄江のマカロンは美味しかった。確かに彼女は料理の腕が一級だ。亜沙子と敏文が肥え、絢と杏のボディが爆裂している理由がよく分かる。

 秀一郎は大体、こんな最近になって認知された女々しいケーキモドキはキライだった。

 だが、澄江のそれはケーキの方がマカロンモドキなのでは? と思わせるほどふかふかで品良く甘く、口内の唾液を無意味に吸収しなかった。

「とてもおいしいです」

 姫希は花が開くように微笑む。

「あっりがっとー」

「だが」と秀一郎は指摘した。

「お母様のケーキも美味いのだ、君は食べたことがあったっけ? 僕のお母様も料理の達人である」

 秀一郎はその点についてもう少し力説しようと、身を乗り出した。


「ぐぎゃー!」

 屋敷の隅々まで染みる、悲鳴にしては千々に千切れた酷い響きが突如上がった。

 秀一郎は一拍置いて、目を見開く姫希と澄江を見た。

「あれは絢さんだ、行こう!」

 床を蹴って絢の部屋へと向かう。進むべき道は分かっていた。 

 樋口邸は廊下が錯綜しているが、秀一郎は一度行った場所を正確に記憶できるのだ。

 探偵故に、と秀一郎はいつもその能力を説明する。

 細い筋肉しかついていない秀一郎の脚が、誰よりも速く絢の部屋の前に立った理由だ。

「絢さん! どうしたのだ? 開けてくれ」

 ぶるぶる揺れる心臓を隠すように胸に手を置き、ノックする。

「ぐー!」

 言葉にならない返事だ。だがそれで幾分余裕を取り戻し、秀一郎はドアノブを握る。

 そのままで待った。背後から追って来てくれるだろう姫希達だ。

 ―もし犯人が中にいて僕が襲われたら、誰がこの家での犯罪を解くのだ? 危なかった、僕だけが入ってはいけない。

 彼女は澄江を伴ってすぐに姿を現してくれた。

「何今の? そこで姫希ちゃんと会ったんだけど」

 怯えたような表情の杏も合流している。

 秀一郎は安心して扉を開けた。

 ついさっき見た樋口絢の散らかった部屋がある。ゴミだらけで、何もかも出しっぱなしだ。

 絢の姿がない。最初は見えなかった。すぐに気付く。

 ベッドの上の毛布ががたがたと震えていた。

「絢ちゃん!」 

 杏が秀一郎を押しのけ、毛布の塊に近づいた。

「何があったの? 叫んだ、よね?」

「あう、あうあうあうああ」

 絢はかなり混乱しているようだ、毛布から蒼白な顔を覗かせたが、言葉は滅茶苦茶だった。

「う、うん、怪人が? いたの?」

 杏が何度か頷く。

「ああう、あうあうあうあああ」

「窓の外に?」

「……言葉が分かるのか?」

 秀一郎が目を瞬かせると、杏は「何を当たり前なことを」といった表情になる。

「ああう、あうあうあうあうあう」

「怪人が、窓から覗いていた、と言っているわ」

「あうあうあうあ」

「怪人が来たって? 絢ちゃん?」

 絢はそのまま力無く、べしゃっ、と潰れるように倒れた。

「うんまー、何言ってんの? この娘?」

 声と共に空気が煙る、亜沙子もいるようだ。

「怪人……」

 秀一郎は口の中で呟き、そのまま部屋の中を進む。彼女が言う窓からは薄くらい庭しか見えない。

 何という気もなしに、秀一郎は窓から外を覗いた。

「ふげ!」らしくない声を上げてしまう。

「どうしました?」と姫希が聞くが、それどころではない。秀一郎は窓を勢いよく開けると、そこから庭に跳んだ。

「絢さんの言うことは本当なのだ! 遠ざかる人影があるのだ!」

 ざわっと室内の面々が緊張した。皆、絢の言葉を真に受けていなかったのだろう。

「うんまー! 何それ! どういうこと?」

 亜沙子の金切り声を振り切るように秀一郎は、人影を追った。 


「怪人とは、全く興味深いである」

 柔らかな芝生を踏みながら、三田村秀一郎はつぶやいた。

 視線のずっと先の人影は、ロングコートでも羽織っているのか、上が最も細く足元に向かうごとに幅が広くなっている、細長い三角形のようなシルエットだ。

 ただ、今はまだそれしか分からない。

 当然門は閉まっているから、怪人は鉄の槍を並べたような門をよじ登っていた。

「舐めているであるな」

 怪人の動きは緩慢だった。追跡されているとは気付いてもいないようだ。

 好機である。敵が隙を見せるときに一気に勝負を付けるのが勝ちパターンだ。

「ふむ」ただ、ここで秀一郎は後悔した。怪人に逆に襲われる、という可能性とは違う、もう一つ無視できぬ問題に気付いたのだ。

 こんな絶好の機会なのに、コートと帽子、インヴァネスコートとディアストーカーの探偵二大セットを忘れ、あろうことか靴を履いてこなかったのだ。彼の足にあるのは樋口家に入るときに渡された、来客用の革のスリッパだ。

 コートと帽子は置いておいても、これで追跡は難しい。秀一郎は舌打ちした。

 ―イギリスでお父様が見立ててくれた、ジョン・ロブの靴を忘れたのだ。

 秀一郎の為に作られた世界に一つの靴の代わりは、「走る」という行動を全く考慮されていないスリッパだ。むしろない方が上手く追跡できるだろう。ただそれを脱ぐ、という選択肢はない。

 ―靴下を汚すのはお母様にしかられるのである、それに。

「クギでも踏んで怪我をしたら、姫希が悲しむのである」

 だから秀一郎はそのまま怪人に迫った。門を越えるのに手こずっている隙に近づくと、コートの色が灰色だと確認できた。

 ―もう少しである。

 だがそう思った瞬間、怪人が気付いた。フードに包まれた顔が秀一郎に向いたのだ。  

 好機! と秀一郎は目をこらした。しかし怪人の顔は木のうろのように闇に塗りつぶされており、容貌どころかそこに顔があるのかさえも分からない。

 慌てた体で、怪人は門を跳び降りた。

「しまったのだ!」

 秀一郎は勢いをつけて門に飛びつく。

 苦労して体を持ち上げると、コートの裾を大きくはためかせて疾走していく怪人の、後ろ姿があった。

「マズイのだ!」

 日頃ほとんど使用していない筋肉が痛むのを無視し、門をよじ登り道に跳ぶ。

 スリッパしかない足にアスファルトの硬い感触が響いたが、耐えて秀一郎は走り出した。 

 怪人の姿はまだ辛うじて視界にあった。

 秀一郎は全力で追跡した。彼が本気で走ることはほとんどない、そんな安っぽい探偵ではないのだ。ただし今はそんなことは言っていられない。

 怪人との差は縮まらなかった。

 怪人はマントのようにコートを靡かせながら、スポットライトのような街路灯の光に浮き、すぐに闇に消える。光に浮き、闇に消える。

 そんな明滅を数度繰り返しつつ、確実に秀一郎から距離を稼いでいく。

『田中接骨院』という看板が巻かれた電柱に差し掛かり、すっと横道に入った。秀一郎がそこに到着すると、ついに完全にいなくなっていた。

 はあはあ、と秀一郎は肩で息をしながら気配を音で探ろうと、神経を集中する。

 近所の猫の気配、犬の遠吠え、遠くからの車の音……がくり、と頭を垂れた。

 無駄だった。都会の夜は賑やかすぎる。足音もない怪人を聴力で追えるはずがない。

「くそっ」

 地団駄を踏もうとしたが、足のスリッパが破れかけているので辞めた。無意味に苦痛を味わう必要はない。

「秀一郎様」

 としばらくして姫希が走ってくる。ちゃんと靴を履き、彼のジョン・ロブを手に持っているのが彼女らしい。

「どうでした?」

 秀一郎の側まで来ると、辺りに視線を走らせる。

「いや……スリッパでなければ簡単に捕まえられたのだが、アヤツなかなかの怪人である」

「はあ……」と姫希が拍子抜けしたような声を出したので、付け足した。

「ふむ、なかなか凄い奴だった、この近辺の道に精通していたし、この僕に隙を見せなかった、飛びかかろうとしたが……恐らく僕でも格闘では苦戦しただろう、武術の覚えがあると見た、まさに怪人の中の怪人であった、怪人の中でも上位の怪人であろう、他の怪人からも一目置かれた怪人ということである、帰ったら僕の怪人ファイルに入れておこう」

「……靴です」

 秀一郎は汚れたスリッパから、大切な靴に履き替える。

「だが、無駄とも言えないのだ」

「はい?」小首を傾げる姫希に、秀一郎は電柱の真ん中辺りを指した。

『田中接骨院』という看板は、街灯のお陰で闇の中でも確認できる。

「あの看板、どこら辺にある?」

「え、ええっと、そうですねそんなに高くもないですが、私達よりは上ですね」

 姫希の答えに、秀一郎は満足そうに「ふむ」と頷いた。

「怪人の頭は、あの看板の端に届いていたのだ」

「え」と姫希は顎に人差し指を当てる。

「それは、つまり……」

「さあ、帰るのだ、絢さんに話を聞きたい」

 出来るだけ颯爽と、さっきの怪人のように服をはためかせ、秀一郎は踵を返した。


 樋口家に戻ると、そこには先程までの安寧はなかった。

 安全と思われていた場所に、実は正体不明の人物がうろついていのだ、しかたない。

 秀一郎は真顔の澄江に出迎えられ、そのまま広間へと導かれた。

 毛布にくるまった樋口絢がソファに座り、杏がその体を支えていた。

「怪人、マジいたのか? オレ、絢が夢でも見ていたのかと思ったぜ」

 冴は秀一郎に気付く。

「おい、で、どうだった? 怪人て誰だよ?」

 秀一郎は唇を強く結ぶ。見抜いた冴は落胆を隠さなかった。

「何だよ、逃がしたのか? 何が探偵だよ、オレが追いかけるべきだった」

「うんまー」亜沙子はタバコを二本ともくわえているが、どちらにも火が点いていない。

「とにかく、警察に連絡するのが一番だわよ、こんなガキに期待しても無駄、無駄」

「僕もそう思うねー」

 起きたばかりなのか、目を腫らした敏文が血走った目で秀一郎を睨む。

「絢さんは、他に何か言ったのであるか? 怪人のこと」

 雑音を無視した秀一郎に、杏は目を伏せた。

「だめ……絢ちゃん、あれからこんな感じ、ショックだったんだよ」

 涙ながらに杏が姉を抱きしめるが、絢は魂でも落っことしたように無表情で、口を半ば開き、瞬きもなく見開いた目もどんより曇っている。

「何か温かい物でも持ってきましょうか? ホットミルクとかなら精神も落ち着きますよ」 

 澄江は己で作ったキャラ設定を無視し、真面目に提案する。

「お願い」杏の目礼に澄江が動く。

「ちょっと待つのだ!」

 ここで秀一郎は気付いた。重大な不自然がある。

 人が足りない。

 驚く皆を見回して、はっとする。

「賢吾さんは? 賢吾さんはどこなのだ? この事態を知らないのか?」

「え」と誰かが言った。互いに見合い首を捻っている。

 秀一郎は苛立った。無意識に右手親指の爪を噛む。

 樋口賢吾は『家族の為』と自身がどれだけ彼等を思っているか、初対面の秀一郎にも説明した。だが、その家族の絢のあれほどの悲鳴でも姿を現さない。

 嫌な感じがする。ただ、これだけで取り乱しては行けない。探偵なのだから。

「悲鳴が聞こえなかったのであるか? 確かに賢吾さんの部屋は遠いし、壁も厚い……誰か連絡はしたのであるか?」

「あのう」と澄江がゆったり手を挙げた。

「私が先程、知らせに行きました、変な人がうろついているから、気を付けて下さい、と」

「で、彼に会えたのであるか?」

「はい?」とキョトン顔の澄江に、秀一郎の声は荒立つ。

「返事はあったのであるか? 賢吾さんを確認したのか?」

 澄江は思わぬ剣幕に首を竦めて「いいえ」と答える。

「ではおかしいではないか!」

 秀一郎の視界が点滅する。赤だ。

 家族思いの父親がいない、娘の無事を確認しに来ない。返事もない。

 ―いかん、焦ってはダメなのだ。

 秀一郎は目頭を摘んだ。 

「……うんまぁ」

 やっと亜沙子はタバコに火をともす。

「あのジジイはこのごろ体調が悪いらしいから、それで」

「ならば余計心配である!」

 探偵の言わんとしていることに最初に気付いた、察したのは絢だった。

 ぼんやり明後日の方向にあった瞳に生彩が戻り、杏の手を振りほどき彼女は立ち上がる。

「パパ?」

 だっ、と絢は走り出した。ひらめいたスカートがあっという間に部屋から消える。

「僕らも行くである!」

 秀一郎は数瞬遅れて続いた。うんざりだが駆け出すと、唖然としていた他の者も続いてきている。

 だが、この時点ではまだ事の重要性に気付いていないようだ。

 背後に視線を流すと、亜沙子は不機嫌そうだし、敏文はにやにや笑っている。

 ―僕としたことが。

 秀一郎は歯がみする。

 あまりにも頭のイカレ……現実離れしている樋口家の面々に当てられていた。彼等が命を狙われていた、ということ。現実に娘の一人には危害が加えられていた、という要の部分を失念していた。要塞のような樋口邸を見て、ここなら安全だ、と勝手に思いこんでいたのだ。

 実際に『怪人』はいた。本当に辺りをうろついていた。絢の言葉に偽りはない。

 怯えて訴えてきた言葉は真実で、幻でも思いこみでもなく現実た。

 賢吾の扉の前にはもう絢が立っていた。

「パパ……パパ、開けて、絢です、開けて、パパ」

 彼女はドアノブをがちゃがちゃと回している。

「絢さん?」

 秀一郎が声を掛けると、彼女は恐ろしい物でも見たかのようだった

「だめ、探偵君、開かない、鍵が掛かっている、中から、返事もない」

 一息で説明すると、再び彼女はノブ回しに熱中する。

「賢吾さん、賢吾さん、無事であるか?」

 体を打ち付けるように、秀一郎は扉を叩いた。二回、三回、連続で拳を打ち付けてみる。 

 つやつや光るオーク材の扉はびくともせず、やはり返事はなかった。 

「うんもー、どうしたの?」

 たどり着いた亜沙子は、大儀そうに嘆息する。

「姫希!」探偵の要請に、麗しい助手はすぐに反応した。

「この部屋の鍵、スペアキーはありますか?」

「ないよ……姫希ちゃん、パパの部屋の鍵は内からしか掛けられないし、外せない……」

 杏はようやく事態を飲み込んだらしく、徐々に顔色を漂白していっている。 

「パパ、パパ、ねえ、開けて」

 涙声で絢が哀願するが、立ちふさがる木扉は動かない。

「絢さん! 代わるのだ!」

 秀一郎は真鍮製のノブを掴む絢に叫んだ、が。

「ああ!」絢が喘ぎ、呼吸の仕方を忘れたかのように喉を鳴らす。

 その手にはノブがあった。彼女はすっぽりと取れた真鍮の塊を呆然と見つめていた。力を込めて回している内に抜けてしまったようだ。

「くそ! なのだ!」

 と秀一郎は絢からノブをひったくると、それを元の穴に差し込んだ。

 回しても滑るような感覚しか伝わってこない。勿論、扉も開かない。 

「賢吾さん! 開けるのだ! もう中からしか開かないのだ!」

 返事を待つ間もなく、「どけ!」と秀一郎は押しのけられた。

「でい!」冴が見事な跳び蹴りを見せた。恐らく武術の心得があるのだろう。

 が、扉の方が圧倒的に頑丈だった。彼女の蹴りを易々と跳ね返す。

「ちくしょう! ふざけんな!」

 逆に痛めた足を庇っている。

「ぶふふふ、何してんのー?」

 まだ深刻さに気付かぬ、脳への電気信号の巡りが悪いのだろう敏文が嘲笑う。

 構っていられない。

「秀一郎様、あれ!」

 扉を為す術なく見上げる彼の腕を、瀟洒な手が掴んだ。

 姫希が見ている方向に視線を転じると、そこは廊下の端で、細長い物が立てかけられていた。

「金槌?」しかも人間の半分くらいはある、本格的な解体用のそれだ。

 秀一郎は固まった。理解できない。

 ―どうして廊下にこんな物があるのだ? さっきは無かったのである。

 が、遅れて気付いた冴は些細な問題を無視した。跳ぶように近寄り、ひっつかんで振り向く。

「どけ! 怪我するぞ!」

「うんまー! あんた、何する気? この家の物は皆、高価なのよ!」

 亜沙子の煙を払うかのように、冴は金槌を振り抜く。

 べきり、とさすがに扉が変形した。

「うおー!」

 と吠えた彼女は、それをもう一度掲げ、力を込めて叩き込む。

 皆、何も言えない。否定的だった亜沙子さえ鬼気迫る冴の様子に気圧されて、大口を開けるだけだ。

 それでも五度、彼女は同様の動作を繰り返した。やっかいな木の扉はそれでようやく壊れた。

 中心から歪み、端の蝶番が吹っ飛び、屋敷を揺るがすような音を立てて文字通り、ばたりと倒れる。

 全ての力を失ったようにへたり込む冴を置いて、秀一郎は突入した。

 床を覆う破壊された扉を踏み、樋口賢吾の部屋に入る。

 そこには……。

 わんわん、ジョンが吠えていた。異常に気付いたのだ。

 屋敷の、そして主人である樋口賢吾。

 天才探偵三田村秀一郎は、足が銅で固められたかのように、ただ立ちつくした。


 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る