第二章ー8 『中間試験』

⚫『中間試験』


 朝、最寄りのバス停でに会った。

 バスに乗り込んで一緒に二人席に座ると、麻里はすぐに日本史の教科書を取り出した。

「あー、やばいやばい! 全然覚え切れてないよ~」

 麻里は暗記マーカーで彩られた教科書を赤シートで隠して読み始める。

「暗記系科目が初日とかないよね。最終日にした方が平均点も上がるのに。ねえ、ここって……あ、正太ちゃんは世界史だった」

 しようたも世界史の教科書を取り出し、ぱらぱらとめくる。しかしすぐ閉じて窓の外を見た。

 殺風景な畑の奥に見える青々とした山に焦点を当てる。酷使しがちな目がやされる。

「正太ちゃんは教科書読まなくていいの?」

「え? ああ。昨日の夜も見たし、朝もちょっと確認したし」

 ──前日はしっかり眠ること。直前はかず、自分のコンディションを最上に持ってくることだけを意識すること。

「……なんか、余裕ある?」

 が眉間に深いシワを寄せて聞いてくる。

「そうかな?」

「あるよ! その受け答え方とか! いつもテスト前はすごい不安そうに教科書開いているイメージあるよ!」

 そう言われれば、これまでの自分は直前まで時間を使って、頭から記憶がこぼれ落ちないようにするのに必死だった。

「……なにがあったんだ? あ、やっぱりつきもりさんへの憧れが──」

「アベマリ、覚えなくていいの?」

 正太は話題を変える。

「ああそうだそんなことよりだ! ってその余裕がなんか……モヤる!」


 教室に足を踏み入れると、すがわらと目が合った。

『覚えてるよな?』と言いたげな顔でにやついてくる。

 忘れては……いないらしい。

 ぐもと一緒にした宣戦布告以降、直接絡む機会はなかったし、避けていた。

 もし負けたら土下座……だっけ。本当にさせられるんだろうか?

 波風を立てずに生きてきたはずが、いじめに遭ってしまうんじゃ……。

 ……いや、気にするのはやめよう。

 大切なのは、今の自分の全力が出し切れるか、否かだ。

 まとわりつく余計な妄想を振り払うため、月森の姿を見た。

 月森は色素の薄い長髪を垂らして、机に突っ伏している。つまりは、いつもどおりだ。

 しかし今日はテストだから時間になったら起き出してくるはずだ。

 昼ふかし──彼女にとっての夜ふかし、つまりは徹夜が始まる。

 天才だ。周囲をめている。異質な存在として見られている彼女が、実は彼女なりの苦労をしているのだと知ったら、周りはどんな反応をするのだろうか。

「真面目君は調子どうなのー? あ、この前ノート貸してくれてサンキュー」

 後ろの席の男子に声をかけられた。

「僕? 調子は、悪くないよ」

「お、その言いぶりは結構勉強してんなー」

 勉強は一応しているんだけど──きっと昔の自分なら濁した言い方しかできなかった。

「勉強してるよ」

 しようたの言葉に、ちょっとびっくりしたような顔をされる。

 そんな返答だとは思わなかった、と言いたげに。

流石さすがっ、真面目君! ……でも、キャラそんな感じだっけ?」


 開始時間二分前になって、監督の先生が問題用紙を配り始める。裏返しのまま後ろへと回していく。

 一時間目は、数学だ。

 ──学校の試験は、時間が足りないことはないわ。あるとしたら、エビ先生の英語くらいね。まあ例外は脇において、とにかく時間はゆっくり使っても大丈夫だから。

 頭の中で、つきもりのアドバイスをはんすうしながら、その時を待つ。

 会話がやんだ。

 せきばらいをしたり、鼻をすすったり、シャーペンの芯を出したりする音が時折聞こえる。

 正太はシャーペンにしっかり芯が補充されていることを確認する。万一机から落とした際に焦らないよう、消しゴムも二つ用意しておく。

 チャイムが鳴った。

 同時に教師も「始めっ」と声を発する。

 クラス中が一斉に用紙を裏返す。

 カリカリというペンを走らせる音が教室中に響く。

 一人分の音なんて高が知れているはずなのに、その音が幾重にも重なると、周りを威圧するほど大きく聞こえる。

 独特の空気感。まるで自分だけが取り残されているような感覚。みんなは答えがわかって書き進めているのに、自分だけが立ちすくんでいる。その空気に飲まれてしまうことが少なからずあった。……これまでは。

 不安がある。でも同時に……今回は、期待もしている。だって月森があれだけ言ってくれているのだ。

 不安と期待がごちゃ混ぜになっている。どちらの感情が勝っているのか、それともまったく別の感情に陥っているのか、自分でもわからない。

 わからないが、体の芯が小刻みに揺れている。

 試験って、こんなに心が震えることだったんだ。

 ──テストが始まったら、まず一度深呼吸して。

 月森の声を思い出して、深呼吸する。

 正太は最初に自分の名前を記入した。

 ここにいるのは、自分と、戦うべき問題用紙だけだ。

 目を閉じる。

 蛍光灯の光でどうしても真っ暗にはならないが、それでも闇を感じられる。夜が近づく。

 深い闇に沈み込むような感覚が生まれて、雑音が消える。

 余計な感情は、すべて忘却した。

 ──まず問題用紙全体を確認すること。見直し含め所要時間の目星をつけること。

 問題用紙全体を確認する。

 見るだけで、解法パターンが判別できる問題が複数あった。点数を取らせてくれるための基本問題だ。

 残りはぱっと見だけでは完全な解法はわからない。だがとっかかりはありそうで、歯が立たないわけじゃない。部分点は間違いなく取れる。

 ──テスト問題は、習熟度に合わせて点数がばらつくように基本は作られているわ。特に数学はわかりやすいはずよ。ざっくりで構わないから簡単なものと難しいものは判別して、まずは簡単なものから解くといいわ。

 大問の二問目が、すぐに解法が浮かび、かつ時間がかからないものだった。

 まずはこれを軽くクリアする。

 ──勢いさえつけば、あとは全体を見ながら順番にやっていく。

 また解法の見当がつく問題を見つけ、先に倒す。

 言うなれば彼らは、歩兵だ。油断しなければ負けることはない。ミスで足下をすくわれないようにだけ、気をつけて。

 ──見せつけてやればいいわ、じま君の力を。

 次は少し考える必要がある、中量級の騎馬兵に戦いを挑む。

 流石さすがに騎馬兵だけあって、焦って剣を振るおうものなら、空振りになって無駄に時間を消費する。じっと見極める。隙をうかがう。よく見ると、単調な動きをしている──そこか。

 急所を突けばあとは一気に答えまでたどり着ける。

 騎馬兵を倒してしまえば、あとは重量級の戦車しか残っていない。

 戦車は巨大だ。とても人の手だけで倒せるとは思えない。真正面からは。

 ──学校のテストでトリッキーなものは出ないわ。だから今の真嶋君なら必ず倒せる。

 戦車を細かなパーツの集合体と見なして、部分部分に狙いを定める。よく見れば、側面はかなり単純な構造だった。そこを解き明かせば、中身があらわになる。構造が、見えた。分解してしまえば基本の組み合わせでしかなかった。

 目の前の問題にしっかり向き合っている。

 なのにまるで鳥の視点になったかのように、戦場全体が見えている。

 正面の敵と戦いながら、後方の状況まで把握できている。

 敵をほふる。

 戦場の大地を、自由に駆け回る。

 しようたを止められるものはなかった。

 前進を続ける。

 ペンを滑らせるのが気持ちいい。

 もっともっと進みたくなる。

 問題が怖くない。

 むしろもっと敵に出てきてほしいとさえ思う。

 すべての問題が、一度片付く。

 戦場に立っている者は、しようた以外にもういない。

 その戦場で、正太はくるりと振り返る。

 まだ終わりじゃない。徹底的にミスをつぶす。

 さあ、せんめつ戦だ。

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