第二章ー3 『夜に学ぶ日々』

⚫『夜に学ぶ日々』


 夜の三年一組。

 本来、夜の学校には外部からの侵入に対するセキュリティが働いているらしい。

 だががそこを「ゴリゴリの賄賂でネゴってるから大丈夫」だそうだ。

 ……違法に変わりない気もしたが、大人の許可があるのでよしとしている(不安だ)。

 教室で先に待っていたつきもりに対して、しようたは今日の勉強の成果を報告した。すると。

「……じま君の狂気性を侮っていたかもしれないわ……」

「え、どこが?」

 言われたとおり、今日も真面目に『やれると思うすべての時間を勉強に充てて』いただけなのに。

「真嶋君……今日、勉強をしていなかった時間って、いつ?」

「朝起きて、顔を洗ってトイレに行って……からはリスニングしたからもう勉強してるか。トイレに行った時と、昼休みの食事中はしてなくて。家に帰ってからも食事中以外は勉強してた。あ、集中力が切れて『変換効率』が悪くなった時、五分だけ動画をた」

「……とにかくまとまった休憩時間は食事とお風呂以外なしね。普通はそうは言いつつ、『集中していない時間』が発生するのだけれど……。こなした量を見るに、本当に勉強をしてそうね」

「『夜』を取り戻すためだと思えば、これくらい当然だろ。夜を楽しめない人生なんて、生きている意味がないし」

「……さらっと言っているところに狂気を感じるのよ」

 夜の教室での勉強は、基本二十時から二十三時までと決めていた。そこから自転車で家に帰り、風呂に入って深夜二十四時過ぎには就寝できる。

 そして朝は七時半に起きる。

 机に座って勉強をしている時間は、学校の八時半から十六時半までの間で七時間(休憩を一時間で計算)、家に帰って夜の教室に行くまでの間で二時間。夜の三時間と合わせて計十二時間。さらにここにバス移動中の勉強や、食事中のながら勉強が加わる。体感では十四時間以上だが、実際は細々ロスが発生していると思う。

「……なんかさ、これまでも真面目のつもりだったけど、全然勉強してなかったなって思わされたよ」

 素直な感想だった。

「もし違いがあるとすれば『目標』の差だと思うわ。目標がなければ、人はどこへも行けないから」

 目指そうとするその場所に、でも本当はたどり着く気がない。そんな自分は、最後にどんな場所に行き着くのか。

「さあ、今日も勉強を始めましょうか」

 最初は勉強の仕方について月森の講義も多かった。しかし今は実戦に移っている。月森が用意してくれたプリントと、指定された参考書・問題集に取り組んでいる。

 ──参考書と問題集を駆使できれば、誰でも学力を上げられるわ。ただ自分に合ったものを適切に選ばなくてはならない。ありがちな失敗は、自分にとって難易度の高すぎるものを選んでしまうパターンね。

 過去のテスト結果と今のから月森に参考書と問題集を選んでもらった。

 それがとにかくしっくり、ぴったりくるのである。

 簡単すぎはしない。しかし難しすぎるわけでもない。解けそうに見える。でもぎりぎりでわからない。あとちょっと頑張れば届きそうな感じ。そして解けなくても解説を読めば、ああそうかと一人で納得できる。

 今の一冊をやり終わったら、一歩進んだ自分が想像できる。

 このレベル感が絶妙なのだ。簡単すぎてもつまらないし、かといって難しすぎるとやる気を失う、ちょうどよい難易度のゲームをやっている感じだ。

 特に夜に勉強するのは、最高によかった。

 明らかに自分は夜型だと、あらためて気づいた。朝より昼より、夜の集中力が増す。

 夜は、外が静かなのがいい。昼は外でうごめく人々で騒がしくて落ち着かない。

 夜は、あかりをけないでいると余計なものが目に入らないのがいい。すべてが明るいと見たくないものが目に入って、気が散ってしまう。

 さらに夜の学校だと、なおのことはかどる。

 狭いイメージしかなかった教室。でもそれは人が多すぎるせいだった。二人きりで大胆に使うと、広々しているし、なんでもできそうな気がする。

 顔を上げると、いつもは目に入る人の背中がない。

 整然と並ぶ机と、その先に見える黒板。

 人のことなんて、誰も気にして見ていない。それはわかっていても、いつも他人の目に映る自分が気になる。

 だからやっぱり、夜がいい。暗がりの中では人がぼやけた輪郭で見えるから、昼より肩肘を張らなくてよくなる。

 その意味では一人でいるのが、一番いい。

 でも本当は、一番じゃない。

 しようたの席の斜め前方では、つきもりが自分の勉強に取り組んでいる。

 教材の準備から、講義までしてもらい、至れり尽くせりはありがたいが、月森の勉強の邪魔になっていないか心配もしていた。

 だが正太の自走が始まれば、自分の時間も確保できていそうなのでよかった。

 一人でいながら、でも誰かとほんの少し離れてつながっているのが、いいんだ。

 正太は文字を見すぎて疲労のまった目をぎゅっとつぶって回復させる。

 休憩、終わり。

 続きを始めよう。


 二十三時前、正太が帰り支度を始めると。

「今日は、私も一緒に出るわ」

 一緒に夜下校をするのは初めてのことだった。

 正太は夜の登下校に自転車を使っている。ということで、一緒に学校を出た月森が歩く隣で、しようたは自転車を手で押して歩く。

 夜の通りを出歩く人はいない。住居はカーテンが閉まっていて、たまに隙間から漏れる光だけが人の存在を教えてくれる。

「いつも夜の教室から何時頃に帰ってるんだ?」

 ふと尋ねる。

 正太が来るより前に教室にいて、正太が帰ってもまだ居残っているのがつきもりだ。

「日が昇る前までには」

 ……相当遅いことだけはわかった。

「ところでじま君は、毎夜家を抜け出して大丈夫なの?」

「父親は東京で夢を追ってる……話はしたよな。母親は、水商売やってるから。夕方仕事に出て、明け方に帰ってくるんだ」

「そう、夜は一人なのね」

「月森は、家族になんて言って出てるんだ?」

「私の家は大丈夫よ」

 感情のないきっぱりとした言い方に、踏み込んでほしくなさそうな雰囲気を感じる。

「……勉強は、学校の方がいいもんな」

「そうね、エビ先生に感謝ね」

 東大合格者を輩出して転職に利用したいから──。ひねくれてねじ曲がったやつが好きだから──。そう言って夜の教室を手配したという。彼女と月森の関係にも謎は残るが。

「そうだ、俺も月森との約束を果たさないとな」

 忘れてはいないが、後回しになっていた。

「約束?」

「夜の学校で一緒にいて、不眠症改善のきっかけを探すってやつ」

「ああ……そうだったわね」

「そうだったって……忘れてた?」

 なんだか気が抜けた。

「いえ、単に……結構……満足していて」

「満足?」

「同級生とひさびさに話せて、勉強を教えられて、真嶋君もちゃんと取り組んでくれて。家に帰って学校に行くまでのほんのわずかだけど、まだ夜のうちに家で寝られたりして」

「おお。それは、いい兆しなんだな」

 正太はただ勉強をしているだけだが、それでプラスの効果があるのならよかった。

「……気になったんだけど、テストの時はどうしているんだ?」

 正太の認識では、月森はテスト中の最初だけは起きて解答をし、終わり次第眠っている。

「テスト前日だけは頑張って徹夜して起きている……のと同じようなものね。何日かだけなら、徹夜もできる。当然、集中力は低下しているけど」

「つまり……いつも万全な状態でテストを受けてはいない、と」

「そうなるわね」

 その状態で学年一位、また外部模試でも圧倒的な結果を残しているつきもりの持つポテンシャルが恐ろしくなってくる。

 彼女が昼間に起きられて全力を出せるようにする……、それが目指すべきゴールになるんだろう。だからそのためにも。

「……ちゃんと次の中間で学年五位以内に入るよ……」

「え? 今なんて?」

「い、いや……なんでも」自信のない小声は、月森の耳には届かず夜風に紛れたらしい。

「……また明日も明後日あさつても、夜の教室に行くから。……知り合いに見つかったり、警察に補導されないようにしながら」

 帰りが遅い時、夜間はいかいが誰かにとがめられないかびくびくしている。

「今日、まさしくその対策について教えたかったのよ。そろそろじま君が心配する頃だと思って」

 なぜわかる。まあ、月森はしようたの思考回路くらいお見通しか。

「じゃあ今から警察の主な巡回ルートを教えるわ。これで安心ね」

「……なんで知ってるんだっけ?」

 安心のレベルが高すぎて逆に不安になった。

「今の時間、ちょうどこのあたりに──」

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