第二章ー1 『夜の秘密授業』

⚫『夜の秘密授業』


「祝! ようこそ、夜の教室へ!」

 しようたが夜の教室に入ると同時に、パン、パンとクラッカーが鳴った。

 ひらひらと色とりどりの紙吹雪が舞う。

「そんなことより先生に呼び出されたんだよ!」

 海老名から許可が下り、つきもりと夜の教室で勉強を始めようとした矢先だ。

「待ってじま君。まさかリアクションしないの? 準備に準備を重ねた私の苦労はどこへ?」

「いきなり重大なことを言われたんだ……!」

「えっ、本気で? このかつこうも……?」

「次の中間テストで、俺が学年五位以内を取らなきゃいけなくなったんだ!!」

「私のパーティーメガネとさんかくぼうとテカテカジャケットもスルーするつもり?」

 月森が派手派手しい格好をしているようだが。

「ちょっと邪魔なんで一回やめてもらって」

流石さすがに泣くわよ!?」


 ──放課後、正太は海老名から英語準備室に呼び出された。

 ふじはや高校には教科ごとに準備室が存在し、校舎内の各フロアに点在している。

 正太のクラスのフロア端にも英語準備室があった。あまり人の出入りがないのでただの物置という認識だったのだが……実は海老名が個人利用しているらしい。

 鎮座する冷蔵庫。棚にはホットプレート、トースターなどの調理器具。箱買いされたお菓子や飲料水。生活感がありすぎだ。

「いやぁ、めたね。揉めた。大揉めだよ」

 ワークチェアに座った海老名が、くいと金色の眼鏡を持ち上げる。

 実は正太が進路希望調査票に『東京大学』と書いたことは、職員室に一波乱を起こした。

『悪ふざけじゃないのか』『でもこういうことする子じゃない』『浪人前提はよくない』『浪人しても無理だからやめさせるべきだ』などとかんかんがくがくだったようだ。

「しかし最終的に、真嶋君の第一志望東大は正式に受理された」

「おお! ……ほっとしました」

 しようたが胸をなで下ろすのにはわけがある。夜の教室を使うためにから提示された条件があったのだ。

 それは『学校内で東大志望者として認められていること』。

 実際「口だけ東大志望の状態じゃ認められない」というのは正論なので、妥当な判定基準だと思う。

「なんとか『本人に意欲があるならまずは邪魔すべきじゃない』で議論は着地したから。わたしも結構援護したよ。いやぁ、頑張りすぎて変に思われたかも」

「あ、ありがとうございます」

 正太は頭を下げる。夜の海老名は教育者とは思えぬ振る舞いだったが、昼間に会うと、適度にフランクで生徒人気の高い先生に見える……気もする。

「でも流れで、次の中間テストで学年五位以内に入らないと、東大受験は諦めさせるってことになったから」

「…………はい?」

「じゃあ頑張って五位以内とってね、よろしく~」

「ちょ、ちょっと待ってください! 五位って!? うちの学年五クラスだから実質クラス一位じゃないですか!? しかも一位は確定してるし!」

 不動の一位はもちろんつきもりあかりである。

「実質残りの四枠に滑り込めって話になるか」

「学年で三十番から五十番をうろうろしてる僕が、一カ月と少し後の……五月末の中間テストでいきなりそんな順位になれるわけが……」

「それくらいやってくれないと。東大なんて箸にも棒にもかからないよ」

「ぐっ……」

「だいたいじま君、東大に合格できない証明をするんじゃないの? まさか記念受験して玉砕するまでが、挑戦なの?」

「いや……そういうわけじゃ……」

 東大に届かない証明を終えたら、最後は県立とか、公立を受けるものだと思っている。

「どこかで引き際を考えるわけだ。だったら途中に関門を設けた方がいいよね?」

「それは、そうなんですが……。一カ月後は早すぎる気が……」

 せめて自分が全力を出し尽くして戦い切った、と言えるところまでは行きたい。

「大丈夫。月森さんに確認したら、『余裕ですやぁむにゃむにゃ……』って言ってたし」

「昼間は寝ぼけて確実に判断が狂ってますよ、それ!」

「さあ、東大に行ってくれよ真嶋君! そしてわたしの転職の役に立ってくれ……フフ」

 海老名が東大を目指す生徒をひそかに支援する理由。

 それはひねくれた生徒が見たいから……だけじゃなくて、もっと別の理由もあった。

『わたしはド田舎地方高校から、学校初の東大合格を出したカリスマ女教師として一般企業へ華麗なる転職を果たす!』

 そう叫んだ時のは完全なドヤ顔だった。

 なんとも俗っぽい理由だ。が、それくらいメリットが目に見える方が信じられる。

 まあ、転職の意思を悪びれることなく披露する教師はネジが外れていると思うが……。

 つきもりが夜の教室を使用できるよう手を回す、代わりに、合格した暁には月森が『先生のおかげです』と証言しまくる、という契約を結んでいるらしい。

「これでやっと低賃金ブラック職場ともおさらばだ」

「……ひねくれてねじ曲がった生徒が見たいんじゃないんですか?」

じま君。好きなことだけじゃ食べていけないんだよ。世の中、金だよ金」

 高校教師としてはあるまじき発言だ。

「中二みたいなことをずっとやってられないのが、人生なんだ」

 語る海老名の言葉が少し引っかかる。

「中二って……ああ中二病ってことか。リアルでも使うんですね」

「え……もしかして古い? わたしって、もうおばさん……? ……やっぱ転職だ!」


「──ということがあって」

「らしいわね。でも、その程度のハードルは越えていかないと、東大には届かないわ」

 学年五位は『その程度』のハードルになるのか。

「私からあらかじめ一つだけ。私は、真嶋君が東大に合格するための方法を教える。少しスパルタになるかもしれないわ」

 月森の脅しに、思わず背筋が伸びる。

「だからもし嫌になったら、いつでも自分の意志でやめていいから」

「俺が折れたら終わりってことだな……」

 中途半端な努力では自分の限界にたどり着いたとは言えない。

 あらためて覚悟を決めよう。

 これから勉強が始まるのだと、しようたは二人で使うには広い教室を見渡す。

「ところで、黒板の輪かざりってなんのために?」

「……今さら触れられても逆に恥ずかしいからやめて……」

 なにか月森に悪いことをした気がする。

 先ほどおかしなかつこうをしていた月森は、今は普段の制服姿になっていた。

 時間がないから早速始めましょう、そう言って月森は教壇に立った。

 正太は月森の正面、前から二番目の席に座る。

 窓の外は、当然とっぷりと日が落ちている。

 夜の窓ガラスが鏡になって、月森と正太二人の姿が映し出される。

 二人だけの教室で、秘密の授業が始まる。

「最初に、一番大事なことを伝えるわ。すべての勉強、そして帰結する『学力』を示す公式よ。つまり『学力』の……正体ね」

 つきもりが黒板に大きく文字を書いた。


『勉強時間×単位時間当たり勉強量×変換効率(素質・状態)=学力』


「これが学力のすべてよ。これ以上でも、以下でもないわ」

 学力を分解して考えてみるなんて発想、持ったことがなかった。

「勉強時間。これはいいわね。かけた時間が長ければ学力は上がる。でも中には勉強時間だけ増やせばいいと思っている、大間抜け野郎がいる。特に指導者でそう考えているのは万死に値すると言ってもいいくらい」

「……つ、月森? 急に口が悪くなってるけど……」

「あ、ごめんなさい。ついおもいがあふれて」

 内に秘めたるものがあるようだ。

「次、単位時間当たり勉強量。ここを勘違いしている人が多いわ。一時間の勉強で、数学の問題を一問しか解かなかった人。一時間の勉強で、数学の問題を三問解いた人。学力は同じだけ上がる?」

「……いや」

「同じ『一時間の勉強をした』でも、人によって量がまったく異なるわ。一時間に一問しか解けない人の二時間よりも、一時間で三問解ける人の一時間の方が総量は勝る。『勉強時間が短いのに、勉強ができる人』の多くは、ここの量が優秀なの」

「やっぱり才能が必要って話じゃ」

「いいえ、ここはやり方の話よ。先に三番目ね。変換効率には、残念ながらじま君が言う『才能』、つまり素質も含まれるわ。一を聞いて十を理解する子もいるから」

「……認めるんだ、勉強の才能を」

 少し意外だった。才能は皆平等と言うものだと思っていたから……。

「生まれ持っての素質はあるわ。ただし、素質は定数で変えられないから無視。考えても無駄でしょ?」

 月森は合理的に切り捨てる。

「その代わり自分の『状態』は意識して。例えばいくら勉強を進めていても、眠くてしきもうろうだと変換効率はゼロよ。学力は上がらない」

 とにかく大事なのは、と月森は続ける。

「『勉強時間×単位時間当たり勉強量×変換効率=学力』の要素分解を意識しつつ、学力最大化を図っていくこと。しっかり頭にたたんで」

「は、はい」しようたはノートにメモを取る。

「じゃあ一つずつ確認ね。ここからは、真嶋君の本気度もかかわってくるわ。はっきり言うけど、今から東大を目指すなんてちやだし、かなりめているから」

「話が違う!? 誰でも受かるんじゃないのか!?」

 いきなりハシゴを外された。

「本気で、かつ最大限効率よく、すべてやり切る必要があるということよ。残りの高校生活を全部、受験にささげるけれど、構わない?」

「ああ、それはもちろん」

「…………躊躇ためらいが一切なかったわね。高校最後なんだから、青春したいとか……」

「全然ない」

「……この濁りのない目は、エビ先生も納得するわね」

「なにが?」

「一応心配されたでしょ、二人きりになることを」

 そういえばが『不純異性交遊は禁止だぞ。夜の教室に忍び込んで二人でチョメチョメなんてうらやま……じゃなくて! バレたら擁護しきれないから』と言っていた。

 ちなみに『抜き打ちで見回るからな!』ということで、海老名も夜の学校にちょくちょく顔を出すようだ。

「でも俺たちは、勉強するんだろ?」

 自分たちの関係は、たぶん教師と生徒のものに近い。

 ならいいわ、と納得したらしいつきもりが続きを話し始める。

「まず『勉強時間』。これはじま君がやれると思うすべての時間を勉強に充てて」

「目標時間は?」

「睡眠時間だけは削らずに、やれるかぎり。まずはやってみて」

 しようたはそのとおりにメモをする。

「次、『単位時間当たり勉強量』。時間だけじゃなく量を意識する。基本的に『机に座っているけど頭が働いていない時間』はゼロにして。例えば、数学でわからない問題が出て詰まったら、考えずに答えを見る」

「えっ……考えなくていいのか?」

「数学の基礎知識がすべて身についたあとなら別だけど、前段階なら無駄よ。考えているようで、実際は固まっているだけでしょ?」

 考えているようで、実際は固まっているだけ……心当たりがありすぎる。

「基礎となる暗記を必要としない科目なんて皆無よ。英語は言わずもがな。国語だって語彙力から始まる。応用段階に入る前は、わからなければすぐ答えを見て、覚える」

 考えることこそ勉強と思っていた。でも月森に言わせれば違うようだ。

「学力向上に寄与する形で問題を何問解けるか、重要になるのはその考えよ。そして最後は『変換効率』。真嶋君は『集中の度合い』、あとは体調やメンタルを含めたコンディションを気にして。一切頭に入らないのなら、勉強なんてしない方がいい」

 と、不意に月森が口をつぐむ。不安げな表情で正太を見てくる。

「……勉強、楽しくなさそうだって思った? 東大に一年足らずで合格するためには、受験に特化したやり方になって……」

「望むところだよ。東大を目指して全力を出せなきゃ意味がない。それに……」

 不思議な感覚が湧き上がっているのを、しようたは感じていた。

「今、わくわくしてるんだ。俺の学力、もっと上がるんじゃないかって。今までそんな風に思ったことなかったのに……。いや、勘違いなんだろうけど」

 優秀な生徒にコツを教わったからって、調子に乗りすぎだろうが。

「その感覚、忘れないで」

 つきもりは嫌に真剣な目をしていた。

「そのベクトルが上向きの感覚、その上昇気流は、勉強を続ける上で一番大事だから」

「わ、わかった」圧に押されながら正太はうなずく。

「じゃあ具体的な勉強方法に移りましょうか。まずは伸ばすのに時間のかかる英語と数学に集中。他は後回し」

「ちょ、ちょっと待ってくれ!」どんどん進む月森を一旦止める。

「質問がある時は手を挙げて」

 正太は手を挙げる。月森は形にこだわるタイプらしい。

「はい、じま君」

「英語と数学に集中するのはいいんだけどさ……。今回のハードルは、中間テストで学年五位だから、そのための対策は別途するんだよな?」

「中間テストに向けた対策はしないわ」

「え!?」

「真嶋君。あなたはテストに小手先の策を弄するレベルにないわ。というかほとんどの人がそうよ。サッカーでたとえるなら、試合時間の九十分を走り切れないのに、みんなは相手を抜くフェイントの練習をしたがっている。そっちが楽しいのはわかるわ。でも試合で勝つには、まず走れるようにならないと。ひたすらに、学力という体力をつけて」

 早速、宣言どおりのスパルタだ。

「……魔法の勉強法でもあると思っていた?」

 おののいたのを気取られたのか、月森が聞いてくる。

「いや……むしろ才能がない俺でもできそうだから、安心してる」

 それは本心だった。高度な手法を提示され、お手上げになるわけではなさそうだ。少なくともまだ、自分の限界に向かって戦える。

「そうね。才能は必要ないから。やろうとしていることは、とてもシンプルなのよ。合格点到達に向けたプランと効率のよいやり方は、進捗を見てフィードバックしつつ私が完璧にする。その上で真嶋君は勉強時間を引き上げ、すべてやり切る。一時間当たり効率が二倍の勉強を、人の二倍の時間すれば、四倍速で成長できるでしょ」

「なんというか……ストロングスタイルだな」

 正太が言うと、にやりと月森が笑みを浮かべる。

「勉強はね、方法さえ間違えていなければ、やればやるだけブチ上がるから」

 ぞくっときた。しようたも自分が笑顔になっているのに気づく。

 なんだろうな。この夜の感じ。

 夜に立てる作戦は、無謀でもなぜか実行できる気がしてくる。むしろ無謀であればあるほど一層やる気が出てくる。

「やってやるよ、俺の限界まで」

「プリントも、たくさん用意しているの」

 ずっしり。

 という擬音がぴったりなプリントの束が、机の上に置かれる。

「……すごいな。こんなに、用意してくれてるのか?」

「ええ。いきなり見せると、驚いて、引いてしまうかと思ってたんだけど……」

 うつむき加減でちらちらこちらをうかがってくるつきもり。基本はいたく強気なのに、時折こちらの反応を不安げに気にするのはなんだろうか。

「いや……ありがたいよ。こんなに用意してくれるなんて……」

 素直に感動した。気を引き締めなければと思う。

「月森って、重いよな」

「ぐっ……! ……クリティカルなことを……言わないで」

 胸を押さえる月森。

 予想以上のダメージである。なにか嫌な思い出でもあるのだろうか。

「いや、悪い意味ではなくて……」

「……どうせ私は重い女よ」

 キッ、とにらみつけられた。

「でもじま君も重いでしょ? 『この女が俺の「夜」に入り込んでくる』、だっけ? 私を夜に想像しまくっているということね」

「そ、それは……言葉のあやというか……」

 痛いところを突かれてしまった。

「…………ねえ、やめましょうか? お互いに『夜』に秘密を持つ者同士……」

「…………それがいいな」

 休戦協定が結ばれる。

「真嶋君。……一緒に、夜を越えられるといいわね」

 月森の『夜』の不眠症問題は、間違いなく越えるべきものだ。月森が望みどおり昼の世界に舞い戻れたらうれしい。

 だが正太は『夜』をおだやかに過ごしたいだけなのだ。そのために今戦っている。

 夜が越えるべきものかはわからなくて、正太は返事をしなかった。

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