第一章ー11 『間違いだらけの挑戦』

⚫『間違いだらけの挑戦』


 また新しい『昼』を終えて、再度『夜』がやってくる。

『夜』とは本来、心を安らげるための時間だ。

 ──だからこんなことは、本当は間違っている。

 しようたは、校舎の廊下を歩いていた。

 夜に、一人で。

 まったくもってありえない。完全な不法侵入だ。どんな罰を下されても仕方がない。

 ひたひたと自分の足音だけが響く。

 現在進行形で、正太は道を踏み外している。

 誰もいない、外から入る光でぼんやりと照らされる廊下は、異様に長く感じる。

 一歩一歩が重い。その間に嫌でも思考が駆け巡る。

 戻れ。まだ間に合う。間違っている。日常の世界に自分を引き戻そうとする警報音が延々と鳴り続けている。なのに足だけが、自分の意思に反して止まらない。

 まるで夜の魔力に、かれたように。

 異界に、引き寄せられるように。

 正太は夜の教室に足を踏み入れる。

 教室では、二人の人物が待ち構えていた。

 部屋の真ん中に置かれた卓上ライトが消え、教室の電灯がく。

 薄暗かった部屋が目が痛くなるほど白くなった。窓の外の闇が濃くなった気がした。

 正太を待ち構えていたのは、つきもりだった。二人がそろっているのは予想外だった。海老名は、あとで月森に呼び出してもらおうかとでも思っていた。

 電気を点けた海老名は、いらちを隠そうともせず、苦々しい顔をしている。

じま君……」声を上げようとした月森を「黙って」と海老名が制した。

 月森は大人しく口をつぐんだ。目を潤ませて、着席している。

「真嶋君」と海老名が切り出す。「夜に学校に立ち入っちゃダメ……って当たり前の話、理解してもらえたと思ったんだけど? ちゃんとした処分が、お望み?」

 海老名の言うとおり、道を外れた行いだ。

 だけど人に道を踏み外させる者が魔女とするなら、自分は魔女に出会ったのだ。


「今日、進路希望調査票を提出しました。も東京大学を目指します」


 昼間にはとてもじゃないが、東京大学なんて書けなかった。

 才能に愛されていない、九十九%側の人間が目指すなんて、ありえないんだ。

 今まで勉強をやってきたからこそ、身の程はわかっている。

 勉強に魔法なんて存在しない。あるのは現実だ。

 覚えたはずなのに忘れて、完璧だと思ったらミスをして、トリッキーな問われ方に混乱して、将来解けるようになるとも感じられない問題に直面して絶望する。

 その繰り返しだ。

 だから昨日の昼間、第一志望に『県立』と記入した。

 でもその夜に、書いた文字を消しゴムで消し去った。

 誰もいない夜に──自分だけの時間に。

「……一応聞くけど、なんで急に言い出したの? 元々は目指してなかったよね」

 詰問が始まる。これからが勝負だ。

 感情はまだ揺らいでいる。だから長々と理由を語るのは諦め、すくい上げたシンプルな言葉を口にする。

「本気の勉強をしたくなったんです」

 これまでも勉強はしてきた。

 でも、

 学びたいと切望して勉強をしたことは、なかった。

 自分はこれから初めて、本当の意味での『本気の勉強』に出会う。

 初めて本気の勉強をするんだから、自分がどれだけできるかなんてわからない。

 だから目標にそんたくは無意味だ。

 冷静になれと言う自分もいる。人に笑われ、バカにされるかもしれない。

 ただ少なくとも夜は、誰の目標も笑わないで受け入れてくれる。

「東大を目指すので……夜の教室を、にも使わせてください!」

 そう言えるのは、『夜』の自分だからだ。

 志望校を東大にすれば使わせてくれる──そんなルールが存在するのかはわからないが。

「そりゃ目指すのは、自由だけど」

 希望が見えた。

「じゃあ夜の教室で勉強を──」

「だったら普通に塾に行きな。家で勉強しな。この教室を使う必要は、なくないか?」

 完全な正論である。

「私がじま君を東大まで導くって言って。それで、必要な知識を夜に教える約束を」

「黙って、って言ったよ、つきもりさん」

 に叱られ、月森はしゅんとうつむく。助け船は期待できない。

「……えっと、今から目指すには月森みたいな人の才能を借りないと」

「なら、なおのことプロに教えてもらった方がいい。ふじはや高校の教師陣だけじゃ東大受験にこころもとないのは認めるよ。難関大に対する受験ノウハウないしね。だけど今は、ハイレベル塾もある。そういうところも検討すれば?」

「月森に、勉強の可能性を見せてもらえたんです。だから月森じゃないと……」

 彼女の前で勉強する必要がある──どうすれば、この気持ちは伝わるんだろうか。

「なんで月森さんにこだわるの? まさか月森さんのこと……狙ってる?」

「ね、狙っているとかじゃなく……。ただ……力になれたらとは……」

 海老名は月森の事情を知っていそうだが、確かめていないのではっきりとは言えない。

「……力になってくれるのはうれしいよ」

 の攻撃的なトーンが一瞬だけ和らぐが、

「でも別にこの場所じゃなくたっていいはず。だよね?」

 だからといって海老名は手を緩めてはくれない。

「東大を目指すなら真っ当に目指せばいい。つきもりさんの力になるのは別のやり方でもいい。こんな非合法なやり方に頼らずとも。なんか、夜じゃなきゃダメな理由でもあるの?」

 夜じゃなきゃダメな理由は──論理的にうまく話せない。胸がぎゅっと詰まる。

「……月森さんにも話は聞いてる。ここ数日のことなんだよね? そんな一時のノリと勢いみたいな、生半可な覚悟で東大なんて言い出すのはよくないよ」

 ──生半可なつもりはない。首の後ろがじわじわと熱くなる。

「一年で東大合格なんて、ドラマの世界では簡単に言ってるけど。だったらなんで、うちみたいな普通の公立高校から東大合格者が全然出ないの、って話で」

 ──不可能に近いのはわかっている。喉の奥がちりちりと痛む。

「志を高く持つのはいいけど、東大にこだわらなくても。いい大学は他にもあるし」

 ──東大なんて、こだわらなくてもいいものだ。頭が真っ白になる。

「君には、どうしても東大を目指さなきゃいけない理由がある?」

『昼』にその理由はない。『夜』にも……本当はない。なら目指さなくていいだろ?

「理由は──」

 分相応に生きる。分不相応に高望みして失敗を繰り返す父を反面教師に。『昼』は真面目に。『夜』に息継ぎをしながら。なるべく安全な海路を泳いでいく。それが自分の、もっとも幸せな生き方だから。

「──

 必要なんだよ、だから。

「じゃあ理由って」

『夜』のもっと奥にその理由はある。真っ黒に塗られた世界をのぞいた先にある。

 そこには──『闇』が待っている。

「この女が……!」

 海老名は目を丸くする。驚いている。そりゃそうだろう。急にキレたみたいな。危ないやつじゃないか。でも止めないし、止まらない。

「別に俺は分相応に生きられればよかったんだよっ! それでっ!」

 大声を張り上げ、胸の中にある塊を夜に吐き出す。

「俺にも可能性があるかもって、思わせるなよ!? 思ったら、それを夜にずっと抱えなきゃいけないだろ!? 下手をしたら一生だ! もしかしたら……頑張れば東大に受かったかもしれない……。俺の分相応は……! そんな妄想が離れなくなる!」

 分相応の基準が、どこかわからなくなった。

「可能性があるのに挑戦しなかったら……嫌でもよぎるだろ!? 『あの時ああすれば』『もしこうしていれば』……そんな後悔をずっと俺に抱えさせんのかよ!?」

 昼は別に気にならない。真面目に忙しく過ごしていたら、時は過ぎていく。

 でも、夜になると。

「夜になると……夜に一人でいると……ずっとそんな想像がぐるぐる頭の中で回るんだよ! おかげでちっとも夜が楽しくない! 俺の夜が! 大好きな夜が!!」

『もしも』が邪魔して、焦燥感に駆られ続ける。今、この手のひらの幸せが逃げていく。

 そんな夜を、これから永遠に過ごし続ける? 耐えられるはずがない。


「だから俺は……本気で東大を目指して勉強をして、


「は……え?」が間の抜けた声を出す。理解不能だと言いたげだ。「東大に行く才能がないって証明……って行く気がないってこと?」

「行く気はあります。でも才能がないので、受からないと思います」

「……おお? 受かれば、行く? でも受からないから結果行かない……ということ?」

「はい」

「……どういうモチベーション? 勉強続く?」

 海老名は完全に戸惑っている。

「できます。だって手を抜けば……ずっとついて回る。『あの時ああすれば』とか『もっと頑張れば』とか。一生そんな後悔を抱えるのだけは嫌です。俺はここで最大限の努力をします」

「老婆心だが……もうちょっと、肩の力を抜いて考えてもいいんじゃ……」

「でも、どこかでやらないといけない気がするんです。俺の人生の中で、一度は。本気で努力をしないと……」

 そう、これはいつか必要なことだったんだ。

「自分の無能の証明ができない」

 避けては、通れない。

「ネガティブというか……。いや……ある意味、ハングリー……? うん……でも『ここで全力を出さないと死ぬ』って切迫感がありそうなのは……伝わった」

 ほんの少しだけ、風向きが変わる。

「それって悪くないんだよね。安直な憧れだけだと、人は妥協しがちだから」

 ぶつぶつと海老名がつぶやく。

「あれに似てるな、『まではこの競技を全力でやり切ります。それでプロになれなかったら辞めます』みたいな。そのやり切る競技の対象が、東大受験」

 そんなにかついいものじゃないと思うが、に落ちる部分はあった。

「かもしれないです。もし東大に合格できて、自分の力が認められるなら……俺はその時初めて、この町も出ていける」

 逆にそうじゃなきゃ、自分はずっとこの町で生きていく。それが自分の分相応だ。

「……うん、実際いいんだよ。ちゃんと戦って、負ける。それは尊いんだ。戦わなければ、確かに負けない。でも自分と向き合う機会を逸する。本気で勉強で戦ったやつにしか『自分は勉強ができません』って言う権利、本来はない」

 うんうんとうなずきながらは言う。

「勉強だろうが『小説を書く』だろうが『バンドをやる』だろうが、挑戦はいいことだ」

 ……まさか、全部を吐き出してしまうとは。しかも分析されているのが恥ずかしい。でもそんな清く明るい挑戦じゃないんだ。この気持ちは、この自分だけの気持ちは、理解されるはずない。

「ただ初めから負け前提だって言い切る奴はなかなかいないよなぁ」海老名の顔が喜色に包まれていく。「あるんだろ切望感が、絶望感が」

 むしろ生暖かく笑われるだけなんだ。他人に、大人に、この気持ちはわかるはずがない。

「そいつがわたしに──わかるなんて

 海老名がくつくつと笑いを漏らす。

「それは、お前だけのものだろ。他の誰のものでもない」

 瞳に浮かぶ愉悦の色は、とても教育者のものとは……思えない?

「いやぁ、ひねくれているな。ねじ曲がっているな。『闇』を抱えているな、きっと。じゃないと出ないよ、その切迫感。できないよ、その目。正直、嫌いじゃない。いや嫌いじゃないどころか大好きさ! 面白いよ本当に、なあ!」

 漆黒の髪をかき上げる。金色の眼鏡が光る。白衣が誘うように揺らめく。

 海老名はただ純粋に楽しんでいるようにさえ映る。

「そんな君には……夜の教室が必要なのかもな」

 しんえんにつながる扉が開いた──そんな気配を感じた。

 夜を越えた闇がそこにある。

 その暗闇の先には、なにが待っているんだ?

 ごぉうごぉうと、うなりを上げる風が闇の奥からやってくる。

「って言ってるけど、こんな動機の子に教える気あるの、勉強?」

 海老名とともに振り返る。

 座っていたつきもりが立ち上がっていた。

 暴風吹き荒れる暗闇の世界に、一筋の光がはっきりと差す。

「ええ。動機はどうあれ、彼が覚悟を持って勉強をする意志は伝わったので」

 黄金色の少女が、静かな、でも業火のごとく強い意志を感じさせる口調で、言う。

「ならば必ず、

 宣言が光の矢のようにしようたを貫いた。

 青みがかった瞳には一切の迷いが見られない。

 ただひたすら純粋に──東大にに勉強を教えられるか?

 なにかがズレてないと、無理だ。

 そのまっすぐすぎる姿は、異様にも映る。

「あっははははは! はっははははははっ! いいな! 最高だよお前ら!」

 手をたたきながら、おなかを押さえながら、今度こそが深夜の教室で大笑いする。

「わたしはひねくれてねじ曲がったやつらが大好きなんだ! そういう奴らに会いたくて教師になったようなもんさ! リスクを背負ってもやるがあるね!」

 まさか夜の教室の使用に関して、まともに許可が取れているとは思わない。

 そう、だからこの教師ものだ。

「いいよ、二人で夜の教室から東大を目指せ! 願わくば、二人とも東大に合格してくれ! わたしは心の底からそんな未来が迎えられることを期待しているよ!」


 これはきっと初めから間違っている。

 いびつで異様な、夜にとらわれた世界で始まる、受験物語。

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