第一章ー10 『己が生きるべき世界』
⚫『己が生きるべき世界』
朝学校に行く、真面目に授業を受けてまっすぐ帰宅する。家でルーチンをこなし、『夜の息継ぎ』時間に入る。
ツイッターを開く。ひさびさにポエムアカウントに投稿した。一件だけいいねがついた。
音楽を流しながら、途中だった文庫本を読み終えた。
そして眠りに就く。
何日か繰り返すうちに、やっと普段の温度を取り戻していた。
元の、いつもどおりの毎日が流れていく。
真面目に過ごしながら、ちゃんと夜に『息継ぎ』も用意する。正しい生き方だ。
今思えば夜の教室に不法侵入するなんてこと、よくもやっていたものだ。
それこそあまりに無謀だ。
真面目に、着々と積み上げてきた生活を危うくすべて失いかけたのだ。
あの夜はどうかしていた。バカげた夢を見ていた。
そう、夢と思った方がいい。すべてを忘れて、元の世界に戻ろう。
英語の授業で
ちなみに英単語の小テストは十九点でクラス最高だった。起きていれば満点確実の学年一位が眠っており、白紙だったためだ。満点じゃないのが、悔しかった。
相変わらず
クラスの誰も月森に話しかけることはない。それは
夜に出会った彼女との関係は、夜だけのものだった。
机に突っ伏したままの月森の表情を
誰も月森の本当の姿を知らないんだろう。
クールだけど意外と表情豊かであることも、
お
勉強の可能性への熱い
本当はクラスメイトに関心を持っていて友だちがほしいと思っていることも、
それらすべては夜に隠された秘密だ。
休み時間の今、目に映るのは、丸まった彼女の背中と、光を浴びてキラキラと輝く長髪だけで──。
「おーい、また月森さんを見つめてるぞー!」
「この間もなかった? ……まさかっ!?」
麻里が
「やめときな、正太ちゃん。今までこんなことなかったから応援してあげたいけど。いくらなんでも
「……は?」
「
「違うって」
「美人はそりゃ遠くから眺める分にはいいけど、実際隣に並ぶとキツいと思うよ。嫌でも自分と比べちゃうじゃん。正太ちゃんもまあ悪いとは言わないけど……ねえ」
自分と月森はあまりにもかけ離れた存在である。
「
考え方は絶対に違う。見ている地平も違う。
他の人間よりも月森に近づいてみて、だからこそより強く、その違いを感じ取っている。
「ていうかその紙、調査票じゃん? 正太ちゃん、まだ出してなかったの?」
「いつも真面目に頑張ってるし、県立を目指してもいいと思うけど。今の段階から安パイの公立にすべきか迷ってる?」
順当に行くなら公立。チャレンジ目標なら県立。
それが
「月森さんはどこの大学志望するんだろうね? ……って前も言った気がするなこれ」
「あれか、数年に一人は出るっていう東北大学合格コースか。旧帝大! すごすぎ!」
「僕らとはレベルが違うから……。もっと……上かもね」
「もっと? それより上って……どこ? うーん……東京大学?
自分たちにとって東大受験なんて、雲の上で行われる戦いだ。
おとぎの国の登場人物でもないのに、別世界に迷い込んではいけない。それは人生を台無しにする愚行だ。戦って勝者になれる人間と、敗北すべき人間は決まっているんだ。
正太はシャーペンを手に取り、用紙の上に滑らせる。
「お、第一志望は県立か! うん、それがいいと思うよ!」
自分の生きるべき世界をはっきりと書き記す。
下校して家に入ると、母が入れ替わりで出勤するところだった。
「おかえり。今日は学校どうだった?」
玄関でヒールを履く母が聞いてくる。
「いつもどおりだよ」
「そう、今日も勉強、頑張っているのね」
「頑張って……というか真面目にやってるよ」
なんとなく「頑張っている」とは言えなかった。少し前までは、言えた気もする。
「もう三年生で受験だものね。塾は、本当にまだいいの? その分のお金はお父さんからも絶対にぶんどるから」
母は鼻息荒く言う。
「……うん」
「最終的に受けるのは県立でも公立でも、どっちでもいいけど。学部を決めたら教えなさいね。じゃあお母さん、もう行くね」
「……うん。いってらっしゃい」
制服から家着のスウェットに着替え、正太のルーチンが始まる。
米をといで炊飯器をセットする。
風呂掃除をする。
ダイニングで今日出た宿題と、予習を行う。
健康のための筋トレをする。
ニュース番組を見ながら夕食を取る。
ほとんど無意識で
時刻は夜の二十時だ。
自室に入って、椅子に体を預ける。
パソコンを立ち上げて、ネトフリの動画を
ラジオのタイムフリー配信でも聴こう。アプリを立ち上げる。どれにしようか……迷うが……どれの気分でもなかったのでやめた。
マンガにしよう。買ってまだ読めていなかった単行本を開く。前から好きな作者が描く、魔法少女ものの新作だ。絵に勢いがあって、テンションも高くて、センスも独特で面白い。でも面白いのに……いつものようにマンガの世界にのめり込めない。掛け時計の秒針音が、やけに耳障りだ。
いつもは時間が足りないくらいにあふれる夜にやりたいことが、今日は見つからない。
夜の時間が『息継ぎ』にならない。
原因は……わかっていた。
昼の決断が、小骨のように喉の奥に引っかかっている。
でも、もう決めたのだ。だから迷う必要はない。
挑戦はしない。
無謀なことはしない。
それは凡人にとって当たり前の選択だ。
そう思うのに、あの決断は誤りじゃなかったのかという考えが何度も頭をもたげてくる。
目を
彼女になんて、出会わなければよかった。
自分は、分相応に生きるのだから。
今日は早く眠ろう。
さっさと明日の『昼』を始めてしまおう。
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