第一章ー9 『二度はあっても、三度はない』

⚫『二度はあっても、三度はない』


 夜の町へ飛び出すのは、これで三日連続だ。

 母は仕事でいない。とはいえ、制服姿で自転車をかっ飛ばす姿を近所の人に見られるのは具合が悪い。

 だから公道に出てペダルを踏み込む瞬間が、一番ドキドキする。

 家の前の通りを抜ければ、もう安心だ。近所の人にも、もう見つからないだろう。

 ゆるやかな下り坂で自転車が加速する。

 同じ道でも、昼と夜では表情が異なる。

 普段はそれなりに交通量がある場所も、夜になるとぐっと人の気配が減る。

 出会うのは、ヘッドライトをこうこうと照らす車くらいだ。

 車が一台通り過ぎると、人と車の姿が見当たらず、道路は自分専用になった。

 しようたは道路の真ん中を突っ走っていく。自転車のライトだけがずっと先まで伸びていく。

 無意味にハンドルを左右に切る。暗闇を照らす光がゆらゆらと揺れる。

 この夜を支配しているのは自分であるかのように、錯覚する。

 足の回転数を上げる。また一段ぐんと自転車が加速した。

 どこまでも走っていきたい衝動に駆られる。

 こんな自由を感じられるのは、昼間を真面目に勤め上げたあとの夜だからだ。

 昼にやり残しがあると、思う存分夜に羽を伸ばせない。だから今日も、学校から帰宅後はルーチンをこなした。食事の準備をし、風呂を掃除し、宿題と予習をやって、軽い運動をしてから、夕食を取った。

 昼は真面目に完璧に。だから夜に解放感が生まれる。昼は我慢の時間でもある……だから、あんな高揚感は間違っている。

 まさか英語の小テストの時間に、わくわくと胸が躍る瞬間があるなんて、ありえない。

 なにかが変わろうとしている?

 それは恐ろしい。でも同時に怖いもの見たさも同居する。

 どこまで踏み込んでいいのか。すでに踏み込みすぎではないか。

 ただもう少し、勉強をするだけなら。

 東大を目指すなんて分不相応なことはせず、もう少しよい成績を目指すなら。

 この関係を続けたって、いいのではないだろうか。

 ちゃんと約束の二十点満点も取ったんだ。

 堂々と会いに行こう。

 普段より自転車の速度を出しても、疲れはまったくない。

 今日も正太は夜の三年一組を目指す──。


「誰だ!? 止まれ!!」

 校舎に入り、階段を上っている最中だった。

 二階と三階の踊り場で、大人に見つかった。

 心臓が跳ね上がって口から吐きそうになる。

 ──なぜその可能性を忘却していた?

 つきもりがなにも気にする様子を見せないから? 二日間まったく気配がなかったから?

 ただ、調子に乗っていただけか。

「君は一体……あれ、一組の子……?」

 一瞬逃走の選択肢がよぎって、すぐ観念した。

 非常灯が照らす階段でも、お互いの顔ははっきり見えてしまった。

 漆黒の長い髪。金縁の眼鏡に、白衣。上からやってきてしようたを見下ろすのは、ちょうど今日授業を受けてきた、英語担当のだった。

 残業の可能性はあった。もっと慎重に確認するべきだった。でも後悔しても遅い。

「ここで、なにをしている?」

「……わ、忘れ物を取りに来ました」

 とっさにでまかせを口にする。

「夜に無断で入るのは不法侵入だよ」

 不法侵入。その言葉に、ずんと体が重くなる。もしかして法律にも違反してしまったのか。だとしたら、どんな処罰が下されるのか。親にも連絡がいくのか。ぐるぐると目が回った。

「今、入ってきたばかり?」

「……はい」

 一段、また一段と海老名が階段を下り、迫ってくる。

「なにも、見てないな?」

 海老名が正太の肩を両手でつかむ。

「…………は、はい」

 質問の意図がよくわからないが、うなずく。

「なら今日のところは、特別に許そう。二度と不法侵入なんてしないように」

「……え?」思わぬ寛大な処分に、一気に力が抜けた。「……いいんですか?」

「見なかったことにしておく。まともにやっちゃうと……わたしもまあ面倒臭いし。だからさっさと帰りなさい」

 よほど不安げな顔をしていたからだろうか、海老名は正太を安心させるように微笑ほほえむ。

 よかった。お堅い先生じゃなくて、まだ若くて生徒とも距離が近いから理解があった。ドSなんて言われているけど、やさしい先生じゃないか。

「──待って、エビ先生!」

 そこに現れるべきではなかった人物が、出てきてしまう。

 つきもりだ。教室に引っ込んでくれていれば、見つからずに済んだのに。正太のせいで、月森の居場所が奪われては──。

「彼は、私が呼んだから!」

 その言葉に、眼鏡の奥で海老名の目が鋭く光る。

「……それを許した覚えはないよ?」

「ごめんなさい。でも……」

「話が違うね、そうなってくるとさ」

 待て。少なくとも二人は……お互いが夜ここにいることを、認識している?

「あの……」

「君はさっさと帰るっ!」

 しようたの体をに反転させて、背中を押してくる。階段なので踏みとどまるのが難しく、いやおうなく下へ下へと追いやられてしまう。

「あのっ、どうしてつきもりはいいんですか!?」

 その場に立ちすくむ月森との距離が離れる。今引き下がると、もう二度と夜の月森には会えない気がした。

「関係ないよね。早く帰らないと、出るとこに出なきゃいけなくなるけど?」

「私は夜、ここで勉強をしているから! 勉強をするのなら使っていいって、認められているから!」

 月森の声が階段に響いた。

「勝手な解釈をしない! 月森さんが東大を目指すからのはず! そういう契約!」

 海老名が大声で返す。

「じゃあ、他の人でも東大を目指していれば……」無意識で口にしていた。

「君は東大を目指しているのか? 学校にも希望進路をそう出してる?」

 今はただ……くつみたいな発想で言ってみただけだ。

 まさか自分が、九十九%側の人間である自分が、無謀にも、分不相応にも東大を目指すことなんて──。

「いえ……、は違います……」

「だよね。じゃあ帰って、もう夜は学校へ来ないように」

 校舎から追い出される。ふらついて、正太はけそうになった。

「学校は昼間に来るところだよ」

 背後で、校舎の扉が閉じられる。

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