第一章ー2 『一人の夜の楽しみ』

⚫『一人の夜の楽しみ』


 家に帰ると、母が不機嫌だった。

 顔を見なくても、ダイニングに座る後ろ姿だけでわかる。

 今日もしようたは学校が終わるなり、部活もせず誰と遊ぶこともなくまっすぐに帰宅した。母はまだ夜の仕事へ出かける前だった。

「ただいま」と正太から声をかける。

 いきき、自分の中でなにかを切り替えるような間があってから、母が振り返る。

「おかえり」と返事をする母は、少し疲れた笑みを浮かべていた。

 今月も二十五日が近づいてきている。

 内容はもうわかっている。触れないようにするのではなく、先手を打って話を聞いた方があとに引きずらないということも、知っている。

「父さんから連絡あった?」

「聞いてくれる!?」

 しようたが言うと母がい気味に反応した。

 結局あの人は──。今月は出費がかさんだとか──。見えている数字があるから──。来月にまとめて──。いつもそう言うくせに──。

 話の内容は想像どおり。

 要は、離れて暮らす父親からの入金がまた遅れるらしい。

「正太は絶対に、あの人みたいな分不相応なことをしちゃダメよ。真面目にコツコツが一番なんだから」

 母がそう言う気持ちは、よくわかる。

 ふがいない父親も、幼少期は神童扱いの優等生だったらしい。

 高校では東京大学への合格を目指していたほどだ。

 結局父親の歯車が狂ったのは、東大に二浪しても合格できなかったところからなんだと思う。

 地元の大学に進学した父親は、「俺は地方から東京のやつらの鼻を明かす」と血気盛んに事業を興そうと挑戦したらしい。

 だがなにをやっても絶望的なまでにセンスがなかった。

 いや正確に言うと、叔父いわく「辛抱さえできれば」うまくいきそうな兆しもあるにはあったらしい。

 ただ、我慢ができない。小さく収益を上げて、コツコツ地道に続けていけばいいものを、すぐ大風呂敷を広げて手に余って失敗する。時にはおだてられて欲をき、あっさりだまされる。

 父親が思い描く華々しい成功と、この町は初めからっていなかった。

 結婚してからも父親の性根は変わらず、母も働きに出ることで家計を支えていた。

 正太が小学六年生の時、ついに父親は「やっぱり日本のど真ん中で勝負しなきゃ駄目だ」と東京に飛び出した。雑な言葉でまとめてしまえば──今でも夢を追っている。

 成功すれば楽な生活をさせてやれる。だからちょっとの間は苦労させるが我慢してくれ。

 そう言いながら、もう何年も経過した。

 なんの兆しもないどころか、むしろ状況は年々悪化している。

 地元に帰省する機会も減り続け、ついには年一回帰るだけになった。

 毎月生活費を入れる──それも母の稼ぎより少額のはずだが──と言いながら、しょっちゅう入金のスキップや減額の連絡がくる。

 もう親族の誰もが、東京で父親が花開くとは思っていない。

 皆がいつ諦めて帰ってくるのかと待っている──。

 母も一通り愚痴を言い終えると、いくらかりゆういんが下がったらしい。

 うつぷんまるのも納得できるので、これで母の機嫌が直るなら、しばらく付き合うくらい安いものだ。

「……そろそろ仕事に行かないと。しると野菜いためは作ってあるから。ご飯だけ、お願いしていい?」

「炊いておくよ。母さん、明日の朝は食べる?」

「明日は食べてもパンだからいいわ。ありがとうね、しようた。自分で料理もできるし、ちゃんと自立してくれて」

 微笑ほほえむ母に、正太は「うん」とうなずく。

 米を炊くだけで料理とも言えないけれど、母が満足してくれているならいい。

「正太は真面目だし、家のこともよく手伝ってくれるし。あの人と違ってよくできた子だわ、本当に」

 しみじみと、自分に言い聞かせるように母は言う。

「分相応に、ちゃんと自分の手の届く範囲で、幸せを見つけられる人になりなさいね」


 母が夜の仕事へ向かった。

 二人暮らしになって久しい一軒家は、正太だけの空間になる。

 制服から家着のスウェットに着替え、正太のルーチンが始まる。

 米をといで炊飯器をセットする。時間があるので釜炊き設定で。

 風呂掃除をする。浴槽はもちろん毎日のこと。今日は風呂の蓋もれいにする。明日は洗面器を洗おう。

 ダイニングで今日出た宿題と、予習を行う。宿題が少なかったので思ったより予習が進んだ。たぶん次の次の授業くらいまで先取りできた。

 健康のための筋トレをする。腕立て伏せ、腹筋、背筋を三セット。それからお風呂にゆっくりつかる。

 次は夕食だ。味噌汁と野菜炒めを温め、ご飯をよそう。自家製の大根の浅漬けも並べて、いただきます。食事のお供に、ニュース番組をける。

 たとえ隠しカメラで全世界に中継されてもなんら恥じることのないルーチンを、ほとんど自動操縦でこなし終える。

 さて、やっとじま正太の『昼』の生活が終わった。

 時刻は二十時半を回っている。

 ここから、正太にとっての『夜』が始まる。

 正太は自室に入って、扉を閉める。

 それがスイッチ切り替えの合図だ。

「夜だ───! ……っと」

 とりあえず一人で叫んでみた。

 ちょっと大声すぎたかと思い、口を押さえる。一軒家だし、多少なら大丈夫なんだが。

 あるだろ? なんとなく、一人ででかい声を出したい時。

 スピーカーとスマホを無線接続し、音楽をかける。

 鼻歌交じりに小躍りしながら、炭酸ジュースを開ける。

 ごくごくと音を鳴らしながら流し込み、「くぅ~!」と大きく息を吐く。強炭酸が喉に痛い。でもこの爽快感がいいんだ。

 ノートパソコンのスイッチを入れる。

 まず動画をようか。チャンネル登録しているお気に入りのユーチューバーの動画が更新されていた。大物かと言えばそうではない、でも一部でカルト的な人気を誇るぼっち系ユーチューバーだ。

 新着動画を観ながらにやにやする。「バカだな」と一人でつぶやく。自分とどこか重ね合わせられる部分があって、でも自分にはできないことをやってくれているのがいい。

にはできねーわな」

 スゲえよ。素直に尊敬する。こんなの絶対にできない。

 別ウインドウでツイッターを開いて、なんとなく思いついたことをつぶやく。

 リアルな知り合いなんて誰も知らない、それでも数十人のフォロワーがいる、ポエムな言葉をつぶやくためのアカウントだ。

 読みかけていた文庫本に手を伸ばす。

 音楽は流しっぱなし、動画も再生しっぱなし。

 スマホのマンガアプリのチケット消費もしなければ。

 昼間は真面目にそつなくこなしていると、いつもスケジュールが早め早めに前倒しになっていく。やることがなくて、手持ちになることもしばしばだ。

 それなのに、夜がやってくると、途端にやりたいことだらけで手が塞がるから困る。

 夜の、一人の、自分だけの時間。

 しようたは自分の中で『夜の息継ぎ』と呼んでいる。

 学校や仕事がない休日を『息抜き』とするなら、一日の終わりの夜の時間は『息継ぎ』と表現するのがぴったりだと思うんだ。

 昼の生活は、多かれ少なかれみんな疲れがまる。

 だから夜に、大きく深呼吸をする。

 だから明日も、頑張れる。

 流している音楽を停止させ、今度は深夜ラジオのタイムフリー配信をバックミュージックにする。

 一人で、自由だから、なにをどんな順番で、どんなぶつ切りにやったって構わない。

 家に誰もいないから、自作の即興ソングを声に出して歌ってみたっていい。

 ツイッターの大喜利お題にリプライ投稿しても誰にも笑われない。むしろどこかの誰かに「くだらねー」って言われたら本望だ。

 もちろんソシャゲもする。そんなにやる気もないのに、無課金の割には随分強くなってしまった。

 あとはネトフリの動画もたいのがあった。

 やりたいことがありすぎる。

 でも大丈夫。

 一人の夜は、まだまだ長いから。

 そうやっていつもどおり過ごそうとする。なんとか日常を保とうとする。でも。ダメだ。

 どうしても、どうしても今日は──この夜に集中できない。

 しようたはベッドに飛び込む。枕に顔を押しつける。そして叫ぶ。

(あああああああああああああああ! くっっっっっっっっっっっっっそ!)

 全力の叫びは枕じゃ吸収しきれなかったかもしれない。どうでもいい。

 いらつく。むかつく。ぐつぐつとはらわたが煮えたぎる。

 無視しようとしてもしきれない。一つの光景が、何色もごちゃ混ぜになった感情が、頭の中で暴れてうるさい。

 今日の昼間は、なにも感じなかった。

 自分が日中になにをされようが、なんとも思わないのだ。

 だけど、どうしても。

 この夜に。

 この安らげる自由な夜に。

 誰かが、自分に悪事を働いているのは、許せなかった。

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