第一章ー1 『分相応に生きるより大切なことなんて、そうはない』
⚫『分相応に生きるより大切なことなんて、そうはない』
分相応を心がけること。
身の程をわきまえること。
無理な挑戦をせず、自分の才能に見合った戦いをすること。
それが世の中を
まったく逆の考え方がはびこっているのも知っている。
一度きりの人生だから、挑戦するべきだ。
高い目標を掲げるから、その頂に到達できる。
成功者がそう
しかし彼らはたまたまうまくいった人間だから言えるのだ。
一握りの成功者の裏には、九十九%の失敗した人間が存在する。
なのに脚光を浴びるのは成功者だけだから、おかしな勘違いが起こる。一%の成功者の主張だけが流布される。九十九%の失敗者の声はどこにも届かない。いわゆる、生存バイアスだ。
一%側の、挑戦の利点を過剰に説く人間に、言いたい。
あんたは成功した。でも失敗する人間だっているんだ。
敗者は失敗した後悔を背負って、残りの人生を惨めに生きていけと言うのか?
凡人は常に要領よく生きていくことを考えなきゃいけない。
もちろん挑戦する人は素直に尊敬する。応援だってしたい。
でも全員が等しく挑戦すべきだという押しつけは、間違っている。
一度きりの人生だから、安全第一に、なるべく失敗を避ける生き方をしてもいいはずだ。
⚫『変わることのない日常とごく
世界が狭くなったというのは、
だってこの町はどこにでもつながっているようで、どこにもつながってない。
校舎三階の窓からは街並みがよく見渡せる。
場違いに背の高いマンションが一棟。あとは畑と家ばかりで、起伏がなく平べったい。
店は国道沿いに密集していて、ほとんどその周辺で用事が済んでしまう。逆に他の区域はひっそりとしている。
東北地方の、片田舎というほどに田舎ではない土地。
暮らすには困らず、車で行ける範囲に働き口もある。景気がいいわけではないけれど、だらだらと働いて食ってはいける。
だからこそ、この町を出ていくのは難しかった。
干上がるのが目に見えているなら、選択する余地もなく飛び出すしかない。でもそうじゃない。ちょうどよいくらいに生きてはいけるのだ。
周りも地元に残る選択をする人間が多い。
一度は都会に出た人間も、見えない磁場に引き寄せられるように、また戻ってくる。
自分も──
世界の表舞台に出る『才能がある』人間と、そうじゃない人間は初めから決まっている。
高校生にもなれば自分がどちら側かはわかってしまう。
自分は間違いなく『そうじゃない』人間だった。
きっと自分は、地元で身の丈に合った『分相応な幸せ』を目指して生きていく。
〝普通〟を手に入れるのが難しいと叫ばれる時代だ。分相応な幸せをつかめれば十分じゃないか。
そんな〝普通〟を目指すため、正太は休み時間の教室で教科書とノートを開く。
昼休み明けにある古文の授業の準備を始める。まあ、予習はすでにしてあるが。
「真面目……じゃなくて真嶋君!」
急にクラスの男子から話しかけられた。
高校三年生の、四月。
クラス替えしたばかりの教室にはまだぎこちなさが残っている。
「え、どうしたの?」
「悪いんだけど、古典の予習をまさかしちゃってたりなんて……」
ああそういうことかと合点がいく。
「やってるよ。僕のノート、貸そうか」
「おおおお、話が早くて助かる! サンキュー」
「言っただろ。真面目君が予習を欠かすことはないから無敵だって、な!」
隣に付き添っていた、二年生の時も同じクラスだった別の男子が親指を立てる。「真面目君の伝説を一つ教えてやろうか?」となぜか彼が自慢げに語る。
「なんと一年の時……家庭基礎でも予習をしてきたんだ!」
「家庭科でなにを予習すんだよ!? ガチで真面目すぎるぜ……!」
「いやぁ~、照れるなぁ~」
「いざという時に頼れる
三年のクラスでもすっかりあだ名は『真面目君』になっていた。
由来は『
男子たちが離れて行き、
「なに一人でにやついてるの、よっ」
背後から声がすると同時に肩を
目の前でスカートが舞う。ひょいと、机の上に女子が腰かけた。ふわりと
「……アベマリか」
「正太ちゃんは、三年生でもあだ名はまた真面目君?」
別クラスなのだが、よく正太のいる一組に顔を出している。麻里の所属する吹奏楽部の
「さっきもノートを貸してたけど、便利に使われないようにしなきゃダメだよ」
麻里が机の上で足をパタパタ揺らす。スカートの中が心配だが
「やってきたもの見せてるだけだから」
まれに「幼なじみの女子とかうらやましいな!」なんて反応をされる。実際、そんなに
「むしろこれで真面目って思われるなら、ありがたいくらいだよ。ふふ」
「出た、『真面目』売名行為……!」
「売名じゃない。ただの事実だ」
「真面目、真面目って言われて喜ぶ人、あんまりいなくない?」
「僕はそれが間違っていると思うんだ。真面目で勤勉なのは日本人が持つ本来の──」
「あ、もう何度も聞いてるからいい」
熱く語ろうとすると、面倒臭そうに制された。
「真面目すぎず、『普通』で十分だと思うけどなぁ」
「……僕の場合は、真面目にやらないとダメだから」
「でもさ、吹奏楽部の子に聞かれたよ。『あの子って横断歩道でいつも右見て左見て右を見てから渡ってるの』って」
わたしが恥ずかしいんだから、などと麻里は言うが。
「よしっ、普段の僕を見て憧れてくれる人が……!」
「いや引いてるだけだから! 交通安全講習直後の小学生かよって!」
麻里にビシッとつっこまれる。
「そんなんだから彼女ができず二年が終わって、受験生になって恋愛を始めるチャンスも減ってきて……ってこれまんまわたしにもぶっ刺さってない!? ブーメラン!?」
「うん、アベマリにだけは言われたくない」
「とどめを刺された!? ……毒吐けるじゃん。そういうの出してくと、もうちょっと面白がられてチャンスも増えるんじゃない? 高校卒業前にほしいでしょ、彼女?」
「でも僕は……勉強が忙しいし。家のこともあるし」
人畜無害。出しゃばらないから嫌う機会もないし、毒にも薬にもならない。
皆に正太の印象を聞いた時、返ってくる答えはおそらくそんなものだ。
真面目は損だ。目立つ方がいい。そういう考え方があるのもわかる。
確かに成功すればいい。だが失敗するリスクも大いに膨らむことを皆忘れている。
失敗のない人生を目指すなら、目立たないのだって立派な戦略だ。
予習はする。宿題もちゃんとする。真面目な人間と思われるように生きる。
それが、身近な関係が大人まで続きやすい田舎町で、これといった才能を持たない正太が採る生存戦略だった。
授業が始まると、実は正太は少しほっとする。
休み時間中に一人で机に座っていると、さみしい
授業が始まれば黙ってじっと座っていてもよくなる。その権利が付与される分、授業中の方が気楽だった。
教室内には昼休み明けの
おだやかな
ぼんやりしているのは正太も同じだ。教師の声が耳に入っては反対側から抜けていく。
しかしそんなまったりとした教室の空気が、
「じゃあこの文の現代語訳を──
一瞬にして、ぴりぴりと張り詰めた。
さざ波が広がるように教室内がざわめく。
「……当てるよなぁ、やっぱ」「……飛ばせばいいのに」「……意地だろ、意地」
ひそひそと話す声が聞こえる。
その生徒が当てられると教室に緊張が走るのには、理由があった。
指名された当人は
「月森さん!」
ベテランの女性教師が教卓を
「うにゅ……」
教室に似つかわしくない、
部屋全体の視線を集める彼女が、ゆっくりと上体を起こし始める。
色素が薄くキラキラと輝く長髪が背中まで伸びている。
座っていてもわかる、すらりとした長い足。
背後からでも常人離れした
月森
『普通とは違う高貴な雰囲気を身にまとっている』。
スタイルがよすぎて、制服姿に若干の違和感を覚えてしまう。華美なドレスがお似合いだ。それくらい彼女にはオーラがあった。
そんな彼女が陰で称される呼び名は、『深窓の眠り姫』。
『彼女はとにかくよく眠る』。
よく眠るどころか、ほぼ眠っている。
日中に起きている時間が下手をするとトータルでも一時間を切る。体育の時ですら、グランドの隅で座って眠る。
あまりに堂々と、そして
が、生徒を平等に扱う律儀な教師からは、こうして
「月森さん。三十二ページ、四行目を訳せますか? 前に出て」
月森は目元をゴシゴシと
教師から指定された文は、はっきり言って簡単ではなかった。ちゃんと前後の文脈を読み解かないといけない。事前に訳したノートなしで答えるのは、相当難しい。
「……先生、どこでしたか? 教科書を借りてもいいですか?」
だから、──答えるにあたり、問われている文を把握すらしていないなんてありえない。
「ここ、です」
ぴくぴくと明らかに顔を引きつらせた教師が、教科書を手渡す。
「ああ。はい」
だから、──ノータイムで解答を黒板に書けるなんてもっとありえない。
しかし月森はお手本みたいに美しい文字を書きつけ、さっさと席に戻ってしまった。
「……正解です」
苦虫をかみつぶしたような顔をした教師が、何一つ直すところのない正答だと認めた頃には、月森は再び自席で突っ伏していた。
すー……すー……。
即、寝息が聞こえてくる。
あまりに挑発的態度。
だが月森にとっては通常運転なので、今さら周囲の人間がつっこむことはない。
月森灯が目立つ理由、その三。
『入学以来すべてのテストで学年一位を獲得している』。
それゆえ誰も文句一つ言えない。言う権利も有しない。
まさに天才で、逸材で、
分類するならば、彼女は明らかに才能があり、『世界に出ていくべき』人間である。
彼女くらいになれば、真面目にやるだの、生存戦略だのは気にせず、好き勝手に生きていればいいと思う。
しかし彼女みたいな存在は、普通の人が
彼女とはたまたま三年で同じクラスになり、同じ空間で過ごすかもしれない。
でも自分とは、まともにかかわることすらないだろう。
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