~Jealousy~

二木瀬瑠

~Jealousy~

 映画やドラマの影響で、『不倫』や『浮気』に対する倫理観が薄らいでいるように感じられる昨今、身近なところでも不倫がバレて別居するとか、離婚になったとかいう話を聞くことが増えました。


 罪悪感を払拭するために、あえて『自由恋愛』なんていう耳障りの良い言葉に置き換える方もいますが、既婚者である以上、独身の立場の人同士が、自由に恋愛するのとは訳が違います。


『民法770条1項1号』に記載されている通り、配偶者に不貞行為があったときは、離婚の訴えを提起することが出来、この場合の『不貞行為』とは、夫婦間の貞操義務に違反する姦通、つまり、配偶者以外の異性との性行為のこと。


 ただ、この法律には罰則がありませんので、不倫や浮気自体を取り締まることは出来ず、既婚者が『自由恋愛』を謳歌すること自体は、確かに自由ということになるのでしょうが、『自由』には『責任』が伴いますので、それがバレたときの代償は大きいのも事実。




     **********




 私の名前は、松武こうめ。この新興住宅地に住み始めて5年の、専業主婦です。



「おはよう、松武さん! ねぇ~、4丁目の佐藤さん、離婚するんだって~。知ってた~?」



 朝、ごみ出しで顔を合わせた時、斜め向かいの葛岡さんのおばあちゃんに、そう話しかけられました。



「あ、葛岡さん、おはようございます! いえ、知りませんけど?」


「あそこの奥さん、不倫してたらしくて、おまけに、旦那さんのほうも不倫してたのが分かったらしいのよ~」


「へー、そうなんですか~」



 嬉々として話すおばあちゃんに対し、まるで感情の入っていない棒読みで返事をする私。


 いつも感心するのは、葛岡さんのおばあちゃんの情報収集。いったいどこから仕入れてくるのか、常にアンテナを張り巡らせ、多くの速報をゲットしては、その広報活動に邁進しているのです。


 とにかく、他人様のことに関して、並々ならぬ興味がおありのようで、町内に在住する住人の大半を網羅しているという、御歳に見合わぬCP並みの記憶力。しかも、転入出の更新機能付きというハイスペック。


 とはいえ、ここは日々増殖を続ける巨大な新興住宅地。我が家が在籍する町内会は1丁目から5丁目まであり、一つの丁はそれぞれ10班に分かれ、1班は10~15軒で構成されています。


 よって『町内』だけでも、ざっと600軒以上のお宅が存在し、住人は約1800名。顔と名前が一致しないどころか、顔も名前も存じ上げない方が大多数なのです。


 ですから『佐藤さん』といわれても、町内には同じ苗字のお宅が何軒もありますので、私のような凡人には、交流のある方か、余程インパクトのある方でもない限り、すぐには(あるいはまるっきり)ピンと来ません。




 そうした『人』を記憶することに関して、並外れた才能を持っている方というのは時々存在し、私が知る限り、町内にも3名ほどいらっしゃいました。


 1人は言わずもがな、葛岡さんのおばあちゃん。


 2人目は、石ノ森酒店の大女将さん。とても繁盛している個人経営の酒屋さんなのですが、たった一度でも来店したお客さんの顔なら、何年経ってもすべて覚えているという能力の持ち主。


 3人目は、いつも親しくしている百合原さん。彼女は人脈が広く、人望も厚いことから、沢山の方と親しく交流していて、確かな情報網をもっていらっしゃいます。昨年からは民生委員になられたのだとか。




 ただ、それぞれが持っている情報の扱い方に関しては、三人三様。




 おばあちゃんの情報アンテナは、感度は高いのですが、精度が低いのが難点。誰より早く情報をゲットしても、内容がいい加減だったりする上、その不確かな情報を広めるため、迷惑している方もいらっしゃるようです。


 石ノ森酒店の大女将さんの場合、お客さんの情報に関しては、決して口外しないというコンプライアンスの塊。


 周囲には、価格の安いフランチャイズの酒屋さんも多数ありますが、石ノ森酒店には圧倒的にリピーター客が多いのも、大女将さんのおかげだといわれております。勿論、我が家もリピーターです。


 百合原さんの場合、かなり高精度な情報な上、情報の流出の是非をご自身が判断して下さり、さらに内容によっては、伝達する相手もきちんと選んで下さるので、とても安心出来るのです。




 一方で、こうした膨大な人口を抱える新興住宅地では、自分のコミュニティーから少し外れれば、ほとんど知らない方ばかりですから、不用意な噂が一人歩きすることの怖さは、確かにあります。


 たとえば、私のことを知らない誰かが、私に関する悪い噂を聞いたとしても、その真偽をわざわざ確認することはなく、その情報だけが、記憶として残ることもあります。


 もしそれが、意図的に仕組んだ誰かの悪意だった場合、その判断材料を持たない『善意の第三者』の間に定着してしまったりすれば、その人物の思う壺となり、私の立場は最悪になります。


 どうやら、今回の葛岡さんのおばあちゃんの情報も、情報源が不確かなだけに、無用な被害を生み出さないとも限らず、機会があれば、確認してみようと思います。





 まあ、不倫や浮気は今に始まったことではなく、昔からそういう方はいらっしゃいました。


 ただ、不貞も離婚もよりタブー視されていた時代、その代償は今より大きかったのは事実。そして、そのペナルティーは、男性よりも女性のほうが大きいことも、またしかり。




     **********




 当時、私は社会人3年目のOL。


 男女雇用機会均等法により、多くの企業で女性総合職の起用が定着し始めた頃で、私も当時勤めていた総合商社(株)オークに、女性総合職として新卒採用された一人でした。


 総合職の新人は、入社するとまずは管理部門に配属され、2年間の研修期間中、監査室、総務部、秘書部、広報部、人事部、経理部、経営企画部などを回り、内部のことを徹底的に叩き込まれた後、3年目からは各事業部へと配属になります。


 私が配属されたのは『不動産事業部』。総合商社として多々ある部門の中でも、結構ヘビーと噂されていた部署でした。


 総合職組みの同期で女性は3人だけで、他の2人もそれぞれ『食品事業部』『機械事業部』など、男性でもきついといわれる部署への配属。


 歴代の女性総合職の先輩たち同様、期待の大きさなのか、それとも暗黙のプレッシャーなのか、いずれにしても、常に周囲の厳しい目に晒されているような感じでした。




 異動初日、不動産事業部での全体朝礼で、内心かなり緊張しながら自己紹介とご挨拶をした私。


 不動産事業部には、室長はじめ60人ほどが在籍し、担当業務ごとに『住宅・都市事業チーム』『商業施設事業チーム』『不動産投資開発事業チーム』『海外不動産事業チーム』に分かれており、ここでもすべての部門を一巡することになっていました。


 最初に配属されたのは商業施設事業チーム。メンバーは私を含め12人、私が担当するのはビル管理部門で、右も左も分からない新参者の私を、親切に席まで誘導してくれたのは、八神美詐子さんでした。



「分からないことや、困ったことがあれば、何でも言ってね」


「はい、宜しくお願いします」


「そんなに緊張しなくても大丈夫だから。まずは、書類の場所から説明するわね」



 てきぱきとした動きと、ものの言い方で、彼女がいかにこの部署に精通しているのかが分かります。年齢は25歳で、私の一つ上ですが、勤続年数8年目のベテランさんです。


 というのも、八神さんは高校新卒入社組みで、その多くは物流部門や商品管理部門のオペレーターなど、裏方といわれる部署に配属されることが多く、事業部に配属されること自体、とても稀なのです。


 八神さんも入社当初はそうした部署に勤務していたそうですが、仕事の処理能力の高さからすぐにチームリーダーに抜擢され、さらに責任ある部署に異動になり、という具合にスキルアップし、3年前からこの不動産事業部に配属されていました。


 当時は、私のような女性総合職も珍しかったのですが、彼女のようなケースも相当珍しく、それだけ実力があるものと、社側が認めるところなのでしょう。


 実際、必要な書類や資料など、前もって彼女が準備をしてくれるため、チーム内の作業効率も良く、皆から頼りにされる存在でした。




 そして、もう一人。不動産部での直属の上司となる、不動産事業部室長で、専務取締役の柏崎政伸さん。32歳の若さでそのポジションにいるのは、彼が社長の次男だからです。


 何より、世間は狭いな、と思うのは、偶然にも柏崎室長が、当時まだ恋人だった現夫の大学時代の先輩だったこと。共通の趣味であるマリンスポーツで知り合い、シーズンになると、プライベートのグループで一緒に出掛ける間柄でした。


 とはいっても、今回の人事は何の意図も働いていない全くの偶然で、そもそも私がこの会社に入社するまで、彼が社長の次男であることも、ましてや役員であることも知りませんでした。勿論、向こうも同様。


 別段、隠すことでもないのですが、あえて部署の皆に公言するほどのことでもなく、柏崎室長自身、ONとOFFをきっちり分けるタイプでしたから、部署内ではそのことには触れず。


 それよりも、私自身慣れない仕事に、ハードな毎日を乗り切ることだけでいっぱいいっぱいでした。




 5月に入り気候が良くなると、休日には毎週のように海に出かけるようになります。仕事で溜まったストレスの良い捌け口になり、当然、柏崎室長とも毎週のように顔を合わせていました。


 逆に、会社では出張や接待で出勤しない日も多く、一週間、まったく顔を合わせないこともあり、



「おお、こうめ! 久しぶり~。今週、会社の様子はどうだった?」


「まーさん、ご無沙汰~! 別段、変わりなくって感じかな~」


「僕がいなくて、皆、淋しがってなかった?」


「ううん、むしろ、のびのびしてるよ~」


「酷っ! そんなホントのことを、バカ正直に~!」



 などという、お約束の会話が交わされることもありました。


 家庭では、よき夫、よき父親で、時々奥さんの和華子さんと、4歳の長女、莉菜ちゃん、2歳の長男、要くんも連れて来ていました。


 和華子さんは、独身時代モデルのお仕事をしていただけあり、外見の美貌は超ド級、なのにとても気さくな性格の方です。何度か自宅にお邪魔した際には、得意の手料理を振るまって下さる家庭的な一面もあり、服やインテリアのセンスも素敵で、私にとって憧れの存在でもあります。


 当時、私が一人暮らしを始めたばかりだったので、何か困ったことがあればと、まるで姉のように色々と気遣ってくださり、とても頼りになる存在でした。


 私自身、母親との関係が上手く行かず、実家を出るまで色々ありましたが、社会へ出てからは、つくづく周囲の人たちに恵まれていると感じられたのです。




     **********




 梅雨になり、鬱陶しい日々が続いていたある日。いつもなら、誰よりも早く出社している八神さんが、その日は私用で、午後から出勤すると連絡がありました。


 いつも彼女がしてくれる書類や資料の準備を、急遽自分たちでやらなければならず、こういうときに彼女のありがたさを痛感します。


 午後1時を回って、ようやく出勤した八神さんは、申し訳なさそうに謝りました。



「急に無理を言って、すみませんでした。ご迷惑をお掛けしました」


「いやいや、いつもよくやってくれてるんだから、こんな時くらい遠慮しなくても大丈夫だよ」



 すかさず、主任の松田さんがフォローしました。


 いつもなら、しっかり相手の目を見て話す八神さんですが、なぜかこの日は誰とも目を合わせず、何だか疲れたような表情をしているのが少し気になりましたが、



「さ、遅れてきた分、頑張って取り戻さないと」



 そう言うと、すぐさま自分の仕事を始めた八神さん。そのあたりは、いつも通りの切り替えの早さで、てきぱきと溜まった書類の処理を始めました。


 八神さんから30分ほど遅れて、柏崎室長が戻ってきました。一瞬、不穏な空気が走った気がしたのですが、皆いつも通りで特に変わった様子もなく、気のせいかと思い、すぐに私も自分の仕事に戻ったのです。




 このころになると、少しずつ仕事にも余裕が出てきて、部署の仲間たちともすっかり打ち解け、仕事終わりに食事や飲みに行ったりする機会も増えていました。


 チームのメンバーは、松田主任を除いた全員が独身で、誰かが誘えば、特に都合が悪くない限り、独身メンバーの大半が参加するような仲の良さです。


 ただ、八神さんだけは参加する回数が少なく、さゆりちゃんから聞いたところでは、歓送迎会や、新年会、忘年会など、不動産事業部全員が参加する会のみ出席するといったスタンスのようでした。


 その日も、独身最年長の若林さんの発案で、皆で飲みに行こうということになり、私にも声が掛かりました。



「こうめちゃんも、参加でOKだよね?」


「はい、行きます」


「じゃ参加者は、こうめちゃんと、僕、木山、斉竹、後藤、綿部、静花さん、智枝ちゃん、さゆりちゃんで9名っと。綿部、いつもの店、予約頼むわ」


「了解っす!」



 そう言って、部署内最年少の綿部君が、予約の電話を入れようとしたときでした。



「あのさ、松武さん。プライベートのことまで、とやかく言うつもりはないけど、遊びに行くなら、せめてきちんと自分の仕事をしてからにしてよね」



 あきらかに、いつもと違う八神さんの言動に、私を含めた全員が言葉を失って、思わず彼女を振り返りました。


 中でも一番驚いたのは、私自身です。何かミスでもしたのかと思い、恐る恐る尋ねました。



「すみません、私、何かミスでもしましたか?」


「別に、そういうことじゃないけど。だいたいね、あなたは総合職として、会社から期待されているわけだし、他の皆とは立場が違うわよね?」


「いえ、そんなことは…」


「自分では思わなくても、周囲はみんなそう思ってるってこと」


「はあ、すみません」


「もういいから」



 何だかイライラしているような、明らかに八つ当たりと取れる言動に、



「きっと、虫の居所が悪かったんだよ」


「別に俺たち、総合職とか立場とか考えてないし」


「そうそう。気にしない、気にしない」



と、同僚たちがフォローしてくれたのですが。


 やはり、私としては、八神さんに言われたことが気になり、正論の部分もあることから、特にその日の仕事は入念にチェックしてから飲み会に出かけたのです。




 ところが翌日、険しい顔をした八神さんが、昨日私が作成した資料を、私のデスクに投げるようにして、周囲の皆にも聞こえるような声で言ったのです。



「ねえ、昨日あんなに言ったのに、抜けてる部分があったわよ」


「え!? すみません、すぐにやり直します! どこが…」


「もう、やっておいた。ほら、10時に待ち合わせがあるんでしょ? ミスして、遅刻までしたんじゃ、シャレにならないわよ」


「あ、どうもありがとうございました」



 そう言って受け取った書類を確認すると、確かに一通だけ八神さんが作成した資料がありました。ですがそれは昨日、確かに私が作成した資料と同じものだったのです。


 私の記憶違いなのか、あるいは整理していた最中に、その一通だけが抜け落ちてしまったのかは不明ですが、待ち合わせの時間があったため、再度その場で資料を確認し、そのまま急いで出かけました。


 外での仕事を終え、帰社した私を待っていたのは、朝よりさらに不機嫌そうな八神さん。開口一番、あからさまにきつい口調で言いました。



「ねえ、松武さん、昨日、○○銀行からの電話を取ったの、あなただよね?」


「はい、そうですけど」


「そういう大事な用件は、ちゃんと伝言してもらわないと困るでしょ! さっき、銀行に電話で確認したら、『昨日連絡しました』って言われて、赤っ恥だったわよ」



 これで、確信しました。昨日からの一連の出来事は、八神さんの故意によるものに違いない、と。



「あの、お言葉ですが、その電話の件はメモにも残しましたし、口頭でも伝えましたけど」


「メモなんて知らないし、私、そんなこと聞いてないわ」


「でも、確かに…」


「じゃあ、証拠でもあるの?」



 せめてメモだけでも見つかればまだしも、『言った』『聞いていない』は、それぞれの記憶でしかなく、さすがにそこまで言われてしまうと、どうしようもありません。


 おまけに、私は入社3年目で、この部署に来て数か月の新参者、片や八神さんは入社8年、不動産事業部3年の、部署内での信頼も厚いベテラン。どう考えても、私のほうが圧倒的に不利な状況です。


 ですが、私はこうした理不尽な状況には、幼い頃から慣れていました。経緯は違いますが、いつも母から受けていた仕打ちと似たような構図でした。




 私の母を一言で表すなら『守銭奴』、これに尽きると思います。


 加えて、物事にルーズなくせに、とにかく自分の思い通りにならないと気が済まない性格で、そのしわ寄せや八つ当たりは、常に実の娘である私に向けられました。


 たとえば、提出期限のある書類を、何度催促しても放置したままにしておき、期限が過ぎて学校側から催促が来ると、私が渡し忘れていたと言い訳し、しかも母の中ではそれが事実にすり替えられてしまうという。


 さらに、自分が機嫌が悪いと、ほんの些細なことや、ときには冤罪にも関わらず、激昂して怒鳴り散らすなど、私は母のストレス解消のサンドバッグにされていたのだと思います。


 哀しいことに、こういう人をどうにかすることは先ず不可能。おまけに、被害はそこだけに留まらず、それに関わった人たちに、私本人が『いい加減』『ルーズ』『駄目な子』という印象を植え付けられてしまうのです。


 実際、子供の頃はそうした誤解を受けることも多く、それでも長く関わって行く内に、母の嘘やいい加減さが露呈し、私のほうが正しかったと理解してもらえたこともありました。



 ではなぜ、周囲が騙されるのか、それはひとえに『信頼度』の違いです。



 通常、大人と子供の言い分が食い違ったとき、大抵の人は、大人のほうを信じます。子供がまるっきり嘘をついているのではなくても、言葉が足りないか、しっかり理解出来ていなかったのかな、という判断で。


 時間をかけ、徐々に『私』という人間を知ってもらえれば、やがて誤解は解けるのですが、その間とても辛い思いをしたり、先入観や、度重なる母の介入や妨害で、最後まで理解してもらえなかったこともありました。


 今回も、八神さんのようなキャリアも実績もある人と、実務期間数か月の私とでは、信頼度という点で圧倒的に私のほうが不利。そして、長年の母との確執の経験から分かるのは、彼女が故意でしているということです。


 私が彼女に何かしたのかも、と考えてみましたが、これといって思い当たる節もなく、逆に彼女に何かがあったとして、私と接点があるとは考えにくいものの、確実に『ターゲット』にされていることだけは間違いありません。



「あの~、ちょっといいですか?」



 すると、それまで黙って事の成り行きを見守っていたさゆりちゃんが、恐る恐るといった感じで、口を開きました。



「違っていたらすみません。でも、昨日、こうめちゃんが貼り付けたメモを、八神さんが読んでるの、私、見たんですけど…」


「俺も、松武さんが八神さんに話してるの、聞きましたよ。××商事から○○銀行に、3千万円入金があった件ですよね?」



 追随するように、後藤君も言いました。


 私にとってはまさに天の助け、ふたりが天使に見えましたが、八神さんからすれば、余計なお世話。小さく舌打ちすると、もの凄い形相で私を睨み付け、場の空気はさっきより尚悪くなってしまいました。


 すると、それまで電話をしていた松田主任が『まあまあ』と言いながら立ち上がり、



「昨日は、八神さんが午後からの出勤で、部署内もバタバタしてたことだし、勘違いや思い込みがあったのかも知れないでしょ? お客さんにご迷惑を掛けたわけでもなし、ふたりとも仕事熱心ってことで、ね!」



 主任の言葉に、さすがに八神さんもそれ以上攻撃することはせず、席に戻って黙々と仕事の続きを始めました。


 私も松田主任にお辞儀をし、他の皆にも会釈して自分の仕事に戻り、釈然としないままではありましたが、ひとまずこの場は収まったのでした。




     **********




 その日の夕方、私にかかって来た内線電話は、受付の梨花さんからでした。



「業務連絡です。本日午後7時に定例ミーティングとのことです」


「かしこまりました。ご連絡、ありがとうございます」



 梨花さんは一つ上の先輩で、秘書部受付課勤務。


 研修期間中、社内イベントの準備で一緒にお仕事をしたのをきっかけに、好みや趣味などが近いことを知って仲良くなり、今ではお互いのディープな部分まで話せる関係になりました。


 受付といえば会社の顔、秘書部の中でも頭脳明晰で人当たりも良く、容姿端麗な人が選ばれるという噂で、まさにそれを絵に描いたような梨花さんですが、そんな彼女にも、過去に辛い恋から脱却した経験がありました。


 その恋人というのが、借金は作るは、それを梨花さんに支払わせるは、浮気はするは、本当に酷い男だったのですが、それはまた、別のお話。




 内線電話で彼女が言った『午後7時の定例ミーティング』というのは、私たちが待ち合わせに使っている合図です。仕事を終え、いつもの喫茶店へ行くと、すでに梨花さんが待っていて、智枝さんとさゆりちゃんも一緒でした。



「ごめんね! 待たせた?」


「大丈夫、さっき来たとこ。ね、聞いたよ、八神さんのこと。酷い目に遭ったんだってね?」


「私、あの時、言おうか迷ったんだけど、何か、凄い腹が立ってきちゃって!」


「さゆりちゃん、ありがとね! すっごい嬉しかったよ!」


「うん、さゆり、良くやった。あたし、あの女嫌いなんだ~」


「ちょっと、智枝さん、言い過ぎ~!」



 そんな話をしていると、そこへやって来たのは、後藤君と綿部君の二人。



「あ、やっぱりここにいた!」


「どうした、坊主ども? ここは女子オンリーだけど?」


「そんなこと言わないでくださいよ、智枝さん。俺たち、こうめちゃんのことが心配で、来たんですから。な、綿部」


「はい。僕も八神さんのこと、苦手なんですよね。それに、梨花さんもいるし~」


「綿部、あんたが梨花にアプローチしようなんて、100万年早いよ。その前に、先輩たちに殺されるね」



 その美貌から、社内外の男性から圧倒的な人気を博している梨花さん。毎日受け付けの前を通るたび、羨望のまなざしで眺める男性社員は少なくありません。




 それにしても分からないのは、昨日からの八神さんの変貌ぶり。元々、私が嫌われていただけなのかも知れませんが、あまりにも態度があからさま過ぎて、不気味にさえ感じます。


 同様に、彼女より年齢が下の後藤君、綿部君、さゆりちゃんも、いつ自分もターゲットにされるかも知れないと、恐怖感を覚えたのだといいます。


 加えて、以前から八神さんの裏表のある性格を見抜いていた智枝さんは、とうとう化けの皮が剥がれたと、内心ほくそ笑んだのだとか。



「こんな言い方したら悪いけど、今回のターゲットがこうめさんで良かったですよ」


「それ、どういう意味だよ、綿部?」


「だってもし僕だったら、リアルにミスしてた部分だっただろうから、反論の余地もなかったですよね? 言い掛かりを付けられても、みんなには僕のほうがミスしたんだって思われると思うから」


「あ、それ、私も! もしまた今後もそういうことがあったら、って思ったから、勇気を振り絞って言ったの!」


「そうだね、あの女なら、やり兼ねないわ」



 確かに綿部君の言うとおり、私で良かったのかも知れないと思いました。普通の神経の人がこれをされたら、とても平常心ではいられませんので、こんな時、あの母の娘で良かったと、感謝の気持ちを抱くのです。皮肉なことに。


 ただ、私としてもこの状況を甘受し続けられるほど、メンタルが強いわけではありません。あまり長くこんなことが続けば、いつか本当に大変なミスを仕出かすかも知れないのです。



「ねえ、提案があるんだけど。これからお互いの仕事を、チェックしあわない?」


「それ、賛成! 今回は、たまたま私と後藤さんが覚えてたから、証言出来たんだものね」


「うん。複数でチェックしていれば、いくら八神さんでも、濡れ衣を着せられないと思うの」


「是非お願いします! 僕の分は、特に念入りに!」


「綿部、あんたはもう少し、自立する努力をしな。じゃないと、八神の餌食になったら、一発でアウトだからね」


「そんな~! 智枝さん、お願いしますよ~!」



 思わず、全員から笑いが溢れ出しました。こんなふうに、仲間同士協力し合える関係が築けるというのは、とても嬉しいことです。ただ、向かう敵がチームの仲間というのが残念ですが。


 そういうわけで、私たち不動産事業部商業施設事業チーム5人+秘書部受付課の梨花さんによる『チーム・プロジェクト8』を発足。勿論、8の意味は、八神さんの八から取ったもの。


 その夜、チームの結成を記念して、6人で飲みに出かけた私たち。場はとても盛り上がり、綿部君は梨花さんの隣りに陣取り、何やらずっと話し込んでいました。


 梨花さんも、真剣な表情で彼の話に聞き入ったりと、何だかちょっと怪しげな雰囲気にも見えましたが、特にそれには触れず、また明日から始まるであろう八神さんの嫌がらせを考えると、少し憂鬱な気分になるのでした。




     **********




 翌日も、朝一番からさっそくのクレーム。それに対し、鉄壁のチームワークで応戦する我ら『チーム・プロジェクト8』。


 以前にもあったように、作成した書類の一部を抜き取るという嫌がらせに対処するため、私以外の担当分も含め、作成した書類には、必ず二人一組で通しナンバーを入れて封印するなど、他にも問題が起こるたびに対策を講じた私たち。


 ですが敵もさるもの、ミスが見つからないと、文字が見にくいだの、数字の書き方がどうのとまで言い出す始末。先回りして、彼女より先輩である主任や若林さんたちにチェックして貰うといった対策をするなど、とにかく付け入る隙を与えないよう、万全を期していました。


 そして、ついには、



「先週、松武さんが集金してきたお金、まだ貰ってないんだけど?」



 と言い出した八神さん。しかも、あえて日を置いて、記憶が曖昧になることを計算していたかのようなタイミングです。


 集金等で発生する現金は、重要な書類と一緒に金庫の中に保管されていて、その鍵は柏崎室長と松田主任、そして八神さんが管理していました。



「ああ、それなら、俺の集金を八神さんに渡したとき、金庫の中に袋が入ってるのを見ましたよ」



 すかさず、後藤君がそうフォローすると、八神さんがとんでもないことを言いだしたのです。



「うん、そうなんだけどね、肝心の中身が入っていなかったのよ」


「それ、いったいどういうこと?」



 聞き捨てならない発言に、いつもならスルーしている松田主任が、険しい表情で口を挟みました。



「それがですね、主任、先週、松武さんが○○ビルのメンテナンス料を集金して来たんですけど、中身のお金が入ってなかったんですよね」


「金額は、いくらだったの?」


「28万5000円です」



 通常、大きな金額は銀行振込にして頂くのですが、不動産のオーナーの中には現金至上主義の方も一定数いらっしゃり、それを集金するのも私たちの大切な役割でした。



「袋を受け取ったとき、八神さんは、中身を確認しなかったの?」


「その時はバタバタしてたので、後になってから見たんですけど、中は空っぽで」


「じゃあ、何ですぐに言わなかったの? 別の場所に保管してて、入れ忘れた可能性もあるでしょ?」


「ええ、そうとも思ったんですけど、もしかすると松武さん、集金してきたお金を一時的に借りて、後で返そうと思ったのかな、とも考えたので」


「どうして、松武さんがそんなことを?」


「彼女、一人暮らしをしてるし、頻繁に飲みに行ったりもしてるから、お給料だけじゃ足りなくなって、つい手が出てしまったのかもって。あまり騒ぎ立てたら、返しにくくなってもいけないと思ったんです。でも、もうこれだけ時間が経ってるということは、返す気持ちはないんだな、と判断したもので」



 立て板に水のように、つらつらとそう話す八神さん。完全に、私を泥棒扱いして、濡れ衣を着せようという魂胆が見え見えです。


 ですが、今回の件に関しては、これまでの嫌がらせとは訳が違います。何しろ、紛失したのは『現金』で、しかもそれを私が横領したと言っているのですから。


 これに対し、真っ先に怒りを露わにしたのは、智枝さんでした。



「あんたさ、自分が何言ってんのか、分かってる?」


「勿論。私だってこんなこと言いたくないけど、でも、やっぱり人としてこういうことは最低だと思うから」


「ふ~ん、最低のことしてる自覚はあるんだ?」


「何? それ、どういう意味?」


「ここ最近のあんたの態度見てて、こういうこともあろうかと、こうめの集金は中の金額から、あんたに渡すところまで全部、こっちは確認してんだから」


「私も」「俺も」「僕も」



 口々に間違いないことを申告しあう私たちに、一瞬、悔しそうな表情を浮かべた八神さんでしたが、すぐにポーカーフェイスに戻り、



「じゃあ、私の勘違いです。複数の人が確認しているというのなら、間違いないでしょうから」



 そう言って、自分の席に戻ろうとした彼女を、普段は温厚な松田主任が、いつになく厳しい口調で引き止めたのです。



「ちょっと待って。じゃあ、集金したお金はどうしたっていうんだ? 28万ていったら、大金じゃないか」


「いいです、あの時、確認しなかった私の責任なので、私が弁償しますから」


「そういうことじゃなくて! お金が自分で移動するはずないんだから、松武さんの入れ忘れじゃないなら、誰かが持ち出したということになるだろう? もしそれが外部からの侵入者だとしたら、ここには現金以上に重要な書類だってあるわけだし、大問題だぞ」


「それは…」



 松田主任の言う通り、商業施設事業チームでは、個人・法人のお客さまからお預かりしている土地建物の登記や権利に関する多くの重要書類を管理していました。


 セキュリティー上、金庫の鍵は管理職である室長と主任、そして信頼されている八神さんの3人だけが所持しており、通常であれば他の人が勝手に開けることは出来ないので、彼女の発言には矛盾が生じます。


 明らかに狼狽している様子の八神さん。すると、それまで黙って成り行きを見守っていた若林さんが、口を開きました。



「ってか、何なの、これ? 僕たちの中に、犯人がいるかもしれないってこと?」


「あの、だから、そういうことじゃなくて…」


「僕も一人暮らしだから、金盗んだって疑われてるのかと思うと、心外だわ」


「だから、私は、犯人は松武さんだと言っただけで…!」


「要するに、そう仕組んだんだよね?」



 智枝さんの言葉に、全員の視線が八神さんに集中しました。


 言葉を失って、立ち尽くしたままうつむいた後、ゆっくりと顔を上げた彼女は、私を睨み付けるようにして言ったのです。



「そうよ。松武さんに罪を着せてやろうと思ったの」


「最低! それって、お金を盗むより、人間として卑劣な行為だよ!」


「何でそんなことしたんだよ? 理由は?」


「総合職だか何だか知らないけど、会社に入って間もない、何の苦労もしたこともないような女が、みんなにちやほやされて、美味しい仕事させてもらえて、人一倍のお給料まで貰って、腹が立つからよ!!」


「そんな理由で?」


「そんな? 私はね、18でこの会社に入って、ずっと日の当たらない場所で、地味な仕事ばかりしてきたの! 事業部や管理に行きたいと思っても、高卒の私になんか、入り込む余地もなかった!」


「でも、実際、今こうして不動産事業部にいるじゃない? 努力したから、勝ち取ったポジションじゃ…」


「本気でそう思ってるの? だったら、相当おめでたい脳みそだわね」


「じゃあ、何なの? 訳分かんないこと言ってないで、説明しなさいよ?」


「教えてあげる。私ね、室長の愛人なの。肉体関係があったから、こうして引き抜いて貰えたのよ」


「!!!」



 誰もが思いもしなかったカミングアウトに、驚きを通り越して、あっけにとられて絶句する中、八神さんはどこか勝ち誇ったような、それでいて、氷のような冷たい目で、私を睨み付けて続けました。



「だいたい、松武さんだって、室長の愛人なんでしょ? だから、あなたみたいな人でも、総合職に抜擢されて、不動産事業部に配属されたんでしょ?」


「違います! 私、愛人なんかじゃありません!」


「だったら、毎週末、室長と一緒に海に出かけてるのは何?」


「それは、偶然、趣味のマリンスポーツで知り合って!」


「ほら、やっぱりね! 室長の配慮があったから、こうして抜擢されて…!」


「それは違うと思う」



 そう言ったのは、斉竹さんでした。睨み付けるように、彼のほうに振り返った八神さんに、淡々とした口調で言いました。



「実は、僕も室長とはスキー仲間で、冬の間は毎週のようにゲレンデに出かける仲なんだ。だけど、そういうことで手心を加えるとか、そういう人じゃないから、室長は」


「でも、男と女じゃ違うでしょ!?」


「室長の奥さん、すごく気配りのある人でさ。シーズンオフでも、まめに連絡してくれるんだ。こうめちゃんのことも、奥さんから聞いてた。彼氏が室長の後輩で一緒にマリンスポーツしてて、子供たちもすごく懐いてて、ふたりとは家族ぐるみの付き合いだって」


「だから?」


「もし、彼女が本当に愛人だったら、とてもそんな付き合いは出来ないって、八神さんなら分かるんじゃない?」



 斉竹さんの言葉に、八神さんは悔しそうに唇を噛みしめると、突然、瞳からぽろぽろと涙を零し、側にあった椅子に力なく腰かけ、震える声で話しました。



「なんか…、なんか不公平だよね。皆は、ごく普通の幸せな家庭に生まれて、大学に進学して、希望する企業に就職して…。私の家は母子家庭で、子供の頃から給食費も払えないくらい貧乏だったし、高校もアルバイトしながら行ってたから、大学なんて夢のまた夢…。せめて、良い会社に入って、たくさんお給料貰えるように頑張ろうって思ってたのに、実際はさっき言った通り。ねえ、知ってる? 4年間勤めて、大卒の新入社員と同じ年齢になっても、大卒の初任給のほうが高いんだよ? 仕事なら、私のほうがずっと出来るのに!」


「…」


「だから、悔しくて悔しくて、何とか這い上がろうと考えて、室長に近づいた。ううん、室長だけじゃない。これまでも目的のためには、その部署毎に上司と関係を持ったわ。でも、こんなことまでしなきゃここまで来れないなんて、惨めだった…」


「…」


「だから、分かるでしょ? 松武さんみたいに、何でもかんでも恵まれてる人が、憎らしくて堪らなくなる気持ち!」


「それは、あんたの気持ちであって、他の同じ境遇の人間まで、同一にするなよな」



 今度は、木山さんが口を開きました。



「何よ!? あなたに何がわかるって言うの?」


「僕の実家、商売に失敗しててさ。八神さんはバイトしながら高校行ったって言ったけど、僕は中卒で働く以外の選択肢はなかった。想像はつくと思うけど、悲惨でさ。これじゃ駄目だと思って、働きながら夜間行って必死で勉強して、バイトもいくつも掛け持ちしながら必死で金溜めて、それでも足りなくて奨学金も借りて大学へ行った」


「でも、あなたは男だから…」


「男だから、色仕掛けも使えない。おまけに、実家が破産してるから、金融関係は絶望的。少しでも就職に有利なように、学生のうちに色々と資格も取ったよ」


「あ、それ、私も」



 木山さんにわり込むように、静花さんが話しました。



「八神さんは、大卒が有利みたいに言うけど、寿退社までの就業年数を考えたら、高卒より大卒のほうが短いって思われて、敬遠されることもあるのよね。それに、うちも母子家庭だったから、母も会社からの圧力で、仕事を辞めさせられたこともあったって。それなら結婚しても会社側から『是非いて下さい』って言われるように、私は宅建を取ったの。だから、就職先は不動産関係一本に絞ったわ」



 当時は、まだまだ結婚すれば退職(寿退社)するというのが、暗黙の了解だった時代。そのまま働き続けても、その先に立ちはだかるのが『出産の壁』。育休という概念などありませんから、かろうじて有給休暇を合わせた産休が取れれば御の字です。


 子供関連での欠勤や遅刻早退が続けば、退職勧告や部署異動されるのが一般的で、余程育児環境が整っていない限り、既婚子持ち女性が会社に残るには、高いハードルがありました。


 シングルマザーに至っては、生活のためには低賃金でも劣悪な労働条件でも、とにかく働かなければならず、そうした家庭への補助制度も脆弱だったため、八神さんのように辛い思いをした子供たちがたくさんいたのも事実。



「騒がせて、すまなかったね。今回のことは、僕から謝るよ。本当に申し訳ない」



 そう言って、室内に入って来たのは、柏崎室長でした。私たちに向かって、深々と頭を下げ、気まずそうな顔で視線を逸らせる八神さんに言いました。



「きみは、松武さんが優遇されてると思ってるみたいだけど、それは違う。実際のところ、給料だって同期と大して変わりないし、本人目の前にこんなこと言うのも何だけど、経営側としては『社会情勢に遅れないように』っていう建前もあってね。でも、役員の半分くらいは『女に何が出来る』『さっさと潰れれば良い』くらいに思ってる人間もいる。それでも、プレッシャーだけは半端ないんだから、可哀想だよ」


「…」


「でも一番は、きみに対して申し訳ないと思ってる。本当に、すみませんでした」



 周囲の目も憚らず、再び八神さんに向かって謝罪をした柏崎室長。そして、



「申し訳ないついでに、彼女と話をしたいから、少しの間、二人で席を外させてもらってもいいかな?」



 無言でうなずく私たちに、もう一度深々と頭を下げると、八神さんを促して、二人で部屋を出て行きました。


 残された私たちは、しばし放心状態でしたが、徐々に冷静さを取り戻したものの、今あった出来事をすぐには受け入れることも出来ず。



「いったい、何だったの、今のは?」


「室長と八神さん、デキてたわけ?」


「何か八神さん、このところずっと、こうめちゃんに対して攻撃的な感じがしてたけど、気のせいじゃなかったんだね」



『チーム・プロジェクト8』以外の人たちには、状況が飲み込めなくても仕方ありません。当の私たちでさえ、まさかこんな顛末が待っていたとは、想像もしていなかったことでした。




     **********




 結局この日は、柏崎室長と八神さんが会社へ戻ることはなく、早々に仕事を終えた『チーム・プロジェクト8』メンバーは、いつもの喫茶店に集合し、そのまま『チーム会議』という名の飲み会へ。


 中でも、相当怒りが溜まっていた智枝さんは、まだ興奮が収まらないといった様子で、テンション高めです。



「何だか知らないけど、ホント、自己中な女だよね。他人を羨んだり、貶めようとしたり、挙句に不倫してたり、それ全部、正当化しようとしたり」


「本当に、凄かったんですよ! 梨花さんもあの場所にいて、一緒に聞かせてあげたかったです!」



 嬉々として、梨花さんにそう話す綿部くん。



「で、八神さんはどうなるの? 集金の件もだし、社内不倫も自分で喋っちゃったわけだし、居づらいよね?」


「自業自得でしょ? 今後も、同じ部署で仕事しろって言われても、絶対無理だわ」


「私も! こうめちゃんだって、絶対に許せないよね!」


「うん、そうだね。でもね…」



 確かに、八神さんのことを許せるかといえば、今は無理です。不快な思いもしたし、感情やプライドを傷つけられもしたし、危うく私は泥棒にされるところだったのですから。


 しかもそのすべてが、彼女の勘違いによる嫉妬が原因だったとは、迷惑以外の何者でもありませんが、それでも、そのおかげで手に入れたものもありました。



「こうして、みんなと強い絆で繋がれたのも、八神さんの暴走があったからだと思えば、悪いことばかりじゃないのかも、…って思うのは、甘いかな?」


「良いんじゃない? 俺も最初は自分がターゲットにされるのが怖くて、防御一方だったけど、一緒に頑張ってるうちに、仕事にハリが出てきたっていうかさ」


「うん、それ、あたしも同じ。メンバー以外の若林さんたちにも、すごく連帯感を持てるようになってて、商業施設事業チームがこの顔触れで、ホントに良かったな~って思えるんだよね。あ、八神は別だけど」


「本当っすか!? 嬉しいな~! 智枝さんに認められたんですね、僕!」



 綿部君の発言に、思わず皆が吹き出しました。跳びぬけて明るい彼の存在も、私たちの中で、とても大切なポジションを占めているのです。


 今後どうなるのかはまだ分かりませんが、とりあえず一件落着ということで、お疲れ様の乾杯をしました。




 そして今日も、ちゃっかり梨花さんの真横の席に座っている綿部君。


 皆が歓談している脇で、ふたりでこそこそと話していたかと思うと、いきなりテンションが上がって小さくガッツポーズ。しかも、それら一連の所作を、私たちに気付かれていないと思っているようで、



「あいつ、ある意味、八神より理解不能だね」


「俺も、時々あいつの考えてること、分かんなくなるんだわ。こないだも移動中に地下鉄の窓の外に向かって、いきなりお祈りしてるんだぜ? 一緒にいて、こっちが恥ずかしいわ」


「私、同期だけど、新入社員研修の時から、綿部君って浮いてた気がする」



 私たちのひそひそ話をよそに、その後もずっとハイテンションで飲み続けていた綿部君。


 お酒か天然かは不明ですが、いつの間にかすっかり彼のペースに巻き込まれ、少なからず気持ちが軽くなった私たちは、久しぶりに楽しい時間を過ごしたのでした。




 ところが、どこから漏れたのか、翌日、後藤・綿部の最年少組み二人が、梨花さんを含む私たちと一緒に飲みに行っていたことが若林さんの耳に入り、特に梨花さんに付き纏っていた綿部君は、コテンパンに締め上げられ、



「てめっ! 綿部ーっ! 梨花さんに近づこうなんざ、一億年早いわっ!」


「ち、違いますって!!」


「何が違う!? 言ってみろ!」


「僕が好きなのは、受付の乃理ちゃんで、少し前に、付き合て欲しいって告白したんっすよ! それで昨日梨花さんから、乃理ちゃんがOKって言ってたって、伝言してくれただけなんですって!!」


「えっ!?」「嘘、マジっ!?」「そーだったの!?」「ほっほーー!!」


「あ…!」



 若林さんの、あまりにすごみのある追及に、つい秘密を暴露してしまった綿部君。周囲にいた皆が思わず発した声に、ハッとして顔を真っ赤にし、大汗をかいている姿は、正直者を絵に描いたような人間性です。


 そんな綿部君の言葉に、急に表情を緩めた若林さん。



「そういうことなら、なんだ、うん、まあ、許す。だけど、もしまた一緒に飲む機会があったら、次は必ず自分に連絡するように。分かったかな、綿部君?」


「あ、は、はい! 了解っす!」



 そんな遣り取りに、智枝さんは『まるで、ジャイアンだね』と。



「それはそうと、今日、八神さんは?」


「来てないみたいだね」



 翌日から、八神さんは会社へは出勤せず、私が管理にいた頃の先輩、都築さんにこっそり聞いたところでは、『人事部預かり』という形で、自宅待機になったとのこと。


 以前から、ふたりが付き合っていることは、父親である社長の耳にも届いていて、大事になる前に関係を清算するよう勧告されていたのだそうです。


 いつも、ふたりがデートしていたのは平日の夜。休日は家族と過ごすため会えない事は了承していたものの、春ごろから室長の態度が余所余所しくなったのを感じていた八神さんは、休日に室長を尾行したところ、偶然そこで私の姿を見つけてしまうのです。


 当初は、目的のために室長に近づき、利用するつもりで愛人関係になったものの、いつの間にか本気になっていた八神さん。


 仕事中でも、自分とのデートの時にも見せたことのない柏崎室長の楽しそうな笑顔に、私を別の(新たな?)愛人と勘違いした瞬間、強烈な嫉妬心に駆られたのです。


 それから間もなくして、室長から別れ話を持ちかけられたのは、八神さんが急用といって午後から出勤したあの日でした。


 しかし、交渉はうまく行かず、一方的に八神さんが別れを拒否していたものの、以降連絡すら取れなくなったことで、彼女の憤懣は限界に達し、そこから暴走が始まったのです。


 さらに、私への嫌がらせだけでは足りず、何度も室長の自宅に無言電話を掛けたり、奥さんの和華子さん宛に、マリンスポーツを楽しむ私と柏崎室長のツーショット写真を、繰り返し匿名で送りつけていたそうです。


 勿論、和華子さんは私のことを疑ってもいなかったのですが、あまりの執拗さに、子供たちにまで何かあったらと不安になり、夫の部下で、私の先輩でもあり、別の趣味仲間でもある斉竹さんに相談することに。


 その頃、もう室長一人では手に負えないと、協力要請を受けていた松田主任と斉竹さん。社長からの指令もあり、ずっと八神さんをマークしていたところでした。


 斉竹さんは和華子さんを傷つけないために、不倫の事実は伏せた上で、あくまで私に対する嫌がらせの延長だと説明し、そのまま柏崎室長に話を戻したのです。


 そんな時、私が集金したお金が、金庫から消える事件が発生。結局、自作自演であることを自白した八神さんは、そのまま人事部へ引き取られる形になりました。


 八神さんのしたことは、会社が被害届を出せば、業務上横領罪が成立する犯罪です。しかも、お金を詐取すること自体が目的ではなく、私を陥れようとして仕組んだとなれば、尚更、社会通念上許されません。


 おまけに、和華子さんに対しても、無言電話や写真を送り付けるなどの嫌がらせ行為をしており、今後、会社側は八神さんを訴えたり公表したりしないことを交換条件に、『円満退職』という形で終止符を打つことになるのでしょう。




     **********




 このことは上層部から箝口令が敷かれ、知っているのは一部の社員だけ。仕事が出来、社内でも抜きん出てクールでモラルがあると思われていた八神さんだけに、そのギャップに対する幻滅は、大きいものがありました。


 彼女が抜けたことで、多少の戸惑いもあった私たちでしたが、それもすぐに慣れ、二か月もすると思い出すこともなくなっていた、そんなある日。


 以前から若林さんが切望していた受付課と合同での飲み会の予定があり、外回りを終え、直接いつもの待ち合わせ場所に行くと、珍しく一番乗りでした。


 まだまだ昼間は暑い日が続いていましたが、夜になると少し肌寒く感じる季節。皆を待つ間、注文したホットミルクティーを口に運んだ時でした。



「お久しぶりね、松武さん」



 聞き覚えのある声に顔を上げると、そこにいたのは八神さんでした。もともと細い人でしたが、以前よりさらに一回り細くなった感があります。


 突然のことに、なぜここに彼女がいるのか理解出来ず、同時に、色々と嫌な記憶が蘇り、返す言葉が出てこない私に、彼女が言いました。



「話があるんだけど、少し時間いいかな?」


「すみませんけど、待ち合わせなんです」


「そう。じゃあ、用件だけ言うわね」



 そのとき、お店の入り口から、梨花さんと乃理ちゃんはじめ受付の女の子たち、そのすぐ後ろに綿部君が入ってくるのが見えました。


 おそらく、八神さんもその姿を確認したのでしょう、手を振りながらこちらへ歩み寄る梨花さんたちが、私の前にいる女性が八神さんだと気付くのと同時に、周囲にも聞こえるような声で言ったのです。



「私ねぇ、妊娠したらしいの」



 瞬時に、凍り付く空気。無関係の人たちまで、私たちに視線が釘付けになっています。


 ただ一人、独特の空気の持ち主の綿部君だけは、相変わらず高めのテンションで、目の前の八神さんに言いました。



「あれ? 八神さんじゃないですか~! どうしたんですか、こんなとこで? 妊娠って、結婚されたんっすか、おめでとうございます!」



 乃理ちゃんに脇腹を肘鉄され、『え、え、何?』という感じの綿部君の背後から、若林さんを筆頭に商業施設事業チームのメンバーたちも、続々と入店して来ました。


 計算高い八神さんのこと、こうしたタイミングも、すべて彼女の思惑通りだったのかも知れません。



「何度も、彼に連絡しようと思ったんだけど、私のほうからは、自宅にも会社にも連絡出来ないことになってるから」


「それで?」


「申し訳ないんだけど、彼に伝えてもらえないかな? 私が、子供を産むって言ってたって」


「八神っ! あんたって女はっ…!!」



 今にも跳びかかりそうな智枝さんを、後藤君とさゆりちゃんが押さえ、八神さんは勝ち誇ったような笑みを浮かべて続けました。



「奥さん、私のこと知らないんでしょ? もし、子供が出来たなんて分かったら、きっと離婚よね」


「はあ?」


「正式に離婚したら、子供の責任を取って、彼は私と結婚する、そう思わない?」



 もう、あまりの身勝手な言い分に、事情を知る誰もが言葉を失いましたが、そんな八神さんの暴走に冷水を浴びせたのは、木山さんでした。



「もう、いい加減にしろよ。どんだけ自分を貶めたら、気が済むんだよ?」


「馬鹿言わないでよ。私、本気だから」


「そうだな、そうなったら、室長は責任取って結婚してくれるかもな。だけど、奥さんからは、妻権侵害で莫大な慰謝料を請求されるだろうな」


「構わないわよ」



 そう即答した八神さん。おそらくその様子から、彼女には手切れ金と口止め料として、相応の退職金が支払われたことが伺えました。



「で、慰謝料払って妻の座に収まれば、自分も奥さん同様に愛されるって、本気で思ってる?」


「…愛してくれるわよ。私のほうが、出会うのが遅かっただけで、順番が違えば…」


「違っても、本気だったらとっくに離婚してんじゃないの? いい加減、気付けよ。ってか、分かってんだろ、本当は?」



 図星だったのでしょう、言葉を失ったまま、立ち尽くしている八神さん。それにとどめを刺すように、梨花さんが言いました。



「それに、妊娠してるって、嘘でしょ?」


「!」


「そういう嘘をつく人の特徴が出てるよ」



 思わず顔を真っ赤にして、その場を立ち去ろうとする八神さんに、私も声を掛けました。



「待って! 私も八神さんに言いたいことがあるの」


「もう、何なのよ!? まだ私に恥をかかせようっていうの!?」


「ごめんなさいね、私のせいで、嫌な思いをさせてしまって」



 あまりにも意外な私の言葉に、八神さんのみならず、そこにいた全員が、驚きました。



「はあ? 何それ、私に対する嫌味のつもり?」


「はっきり言って、全部、八神さんの勘違いだったり、思い込みだったと思うけど、でも、八神さんが嫌な思いをしたのは事実だから。八神さんの気持ちの納め場所として、謝ります。私のせいで勘違いさせてしまって、ごめんなさい」



 みんなは、なぜ私が謝るのか理解出来ないといった様子で、ざわざわしていましたが、私には漠然とですが、彼女のような人間の心理が理解出来る部分もありました。




 そもそも、八神さんは最初から『愛人』という、いわば二番手のポジションに不満はなかったはずが、突然の『もう一人の愛人』の出現に、酷く気持ちを掻き乱されてしまったのでしょう。


 生まれた家の経済状況など、自分ではどうすることも出来ない環境や、その先に派生する進学や就職などの不利益によって、そもそもの『スタートライン』が違うという理不尽な格差を、嫌というほど経験して来た彼女。


 辛酸を舐めてまで手に入れた仕事のポジションも、愛する人の心も、易々と手に入れた目の前の女に対して、嫉妬から来る憎悪の感情をセーブ出来ず、同時に、これまでアンタッチャブルだった『妻』という存在にまで波及したのでしょう。


 激高した後、よく母が言っていた、『いつもいつも、あんたが私を怒らせるから!!』という言葉。そうした人たちにとっては、誰かを悪者にでもしなければ、気持ちの収拾が付かないのだと思います。


 八神さんが今更こんな嘘をついたのも、未だ気持ちのやり場がないのだと考えれば納得が行きますし、それで彼女の気持ちが少しでも楽になるのであれば。



「馬鹿にして…! あんたたちなんて、二度と会うこともないから!」



 そう捨て台詞を吐いて立ち去る彼女を、みんなは安堵の表情で見送りましたが、木山さんだけは、行く先を目で追いかけながら、



「僕、ちょっと様子を見てくるわ」


「えー? 何であんな奴ー?」


「もう、放っとこうよ。関係ないじゃん」


「悪い。すぐ戻るから、先行ってて」



 そう言って、八神さんの後を追い、雑踏の中に消えて行きました。


 かつて、自身が苦労した経歴を持つ木山さんには、八神さんのことが、他人事には思えなかったのかも知れません。


 まだ携帯も普及していなかった時代ですから、お店の場所を知らない木山さんを、綿部君と乃理ちゃんのふたりが喫茶店で待つことにして、私たちは一足先にいつものお店へ向かったのです。




 お店に到着すると、さっそく梨花さんの隣りの席をゲットした若林さん。憧れのマドンナを真横に、緊張からかグラスを持つ手が震えています。



「それにしても、梨花さん、よく妊娠が嘘だって見破れましたね。僕、びっくりしましたよ」


「まあ、そういう嘘をつかれた経験があったものですから。ね~、こうめちゃん」


「そんなことも、あったかも知れないね~」


「何にしても、梨花さんみたいな、美人で、頭も良くて、上品な女性を奥さんに出来たら、最高だろうな~。梨花さんっっ!」


「は、はい?」


「僕と結婚を前提に、お付き合いしてください!」



 いきなりかよっ!! という周囲の冷たい視線が突き刺さる中、女神のような美貌と、天使のような声で、若林さんをバッサリと切り捨てる梨花さん。



「ごめんなさ~い。私、お付き合いしてる彼がいるから~」


「あ、…そ、そうなんだ~。そうだよね~、これだけ素敵な人、みんながほっとくはずないもんね~、ハハハ…」



 若林さん、あっけなく玉砕でした。


 そこへ、木山さんを連れた綿部君と乃理ちゃんご一行が到着。



「綿部~! 会いたかったぞ~! 今日はとことん付き合ってもらうからな~!!」


「えー!? 何っすか、いったい~!?」



 可哀想ですが、私たちには若林さんをどうすることも出来ませんので、ここは全面的に、綿部君にお任せすることに。


 私の隣りに座った木山さんに、あの後の八神さんの様子を尋ねると、かなり感情的になっていたけれど、おかしなことはしないだろうと判断し、別れたそうです。しばらくは、木山さんのほうから連絡を取り、様子を見ようと思っているとのこと。



「直接、会ったりするのはきついですけど、もし、私に出来ることがあったら、言ってくださいね」


「うん、その時は頼むね。こうめちゃんって、苦労知らずなお嬢さんっていう印象だったけど、案外、苦労してる?」


「人間、色々ありますよ。誰にだって」


「そうだね。何にもない人間なんて、いないよね」



 このメンバーとはこの先も、異動になったり、退職したり、結婚したりと、それぞれが別々の人生を歩み始めた後も、ずっと長く交流が続きます。


 そしてそれぞれが、いろんな出来事に関わることになるのですが、それはまた、別のお話。



「おい、お前、何やってんだ!?」


「はいっ! 綿部、歌いまーす!」



 その時、ワインボトルを両手に抱え、急に椅子の上に立ち上がった綿部君。楽しそうに笑いながら、彼の母校の校歌らしき歌を歌い始めました。


 どうやら、かなり若林さんに飲まされた様子。今ならありとあらゆるハラスメントで訴えられるレベルでしょうが、まだそんな概念も存在しなかった、ゆる~い時代のこと。



「さっきの撤回! 何にもない人間も、一人くらいはいるかも」


「いるみたいですね、一人くらいは、確実に」



 まあ、本人が楽しんでいるのですから、OKということで。




     **********




 可燃ごみの日の朝。


 カラス除けのネットを掛けていると、待ち構えたように、葛岡さんのおばあちゃんが出ていらっしゃって、声高に話しかけて来ました。



「おはよう、松武さん!」


「おはようございま~す」


「やっぱり、佐藤さんとこ、離婚するんだってねぇ~! ダブル不倫とかっていうやつだったらしいよ~」



 朝から何て話を! と思いつつ、適当に相槌を打っていると、そこへ愛犬の愛子ちゃんを連れた百合原さんが通り掛かりました。


 当然、彼女にも食いつくおばあちゃん。



「あ、百合原さん、聞いたでしょ~、佐藤さんの離婚~!」



 すると百合原さん、淡々とした口調で言いました。



「それ、デマですから。ドラマの話をしてたのを聞いた誰かが、それを本人の話だと早とちりして、噂を広めたっていうのが真実らしいんですよね」


「え? そうだったの?」


「そうなんだって。ねえ、葛岡さん、そういう方ご存じありません?」



 すると、おばあちゃんは無言でスーッとその場を離れ、三軒むこうの椎名さんの姿を見つけると、駆け寄るようにして移動して行きました。



「任務完了。これで今回の噂は、収束するでしょ」


「佐藤さんって方は、大丈夫なの?」


「大丈夫。みんな大人だから、そんなに簡単に信じる人も少ないから」



 まったくもって、人騒がせなおばあちゃんですが、それでも憎めないのは、彼女のキャラクターがなせることなのでしょう。




 あれ以来、私は八神さんと会うことは、二度とありませんでした。


 ただ一人、木山さんだけは、何年かの間連絡を取っていたようですが、それも次第になくなり、今では彼女の行方を知る人はいません。


 噂では、某一流大学に入り、その後大学院に進んだ後、凄い研究をしている教授になったとか、セレブと結婚して、某タワーマンションのペントハウスに住んでいるとか、他にもまことしやかにいろいろと聞きますが、真実は定かではなく。


 知りたい気もしますし、知りたくもないとも思いますし。




 もしまた偶然に、あるいは待ち伏せに関わらず、どこかでばったり遭遇するのは勘弁して欲しいと思いますので、余計な詮索はやめて、彼女のことは記憶の中に封印しようと思います。



~ The virus of jealousy is latent in everyone. ~

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

~Jealousy~ 二木瀬瑠 @nikisell22

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ