秘密





「殿さま!」

「うお!どうした?」


 突然、高欄を握っていた両の手を取られては熱く握られて、身体の向きも高野へと向けさせられた殿さまは、大粒の涙を流す高野を見て目を丸くし、次いで頭を下げた。深く。


「すまぬ。高野。朝が弱いそなたはそれでもわしのために朝早くから起きて付き合っておるからな。辛いのだろう。明日からは別の者に変わらせる「殿さま浮気はいけませぬ!」「………うわき」


 殿さまは目を点にした。

 高野はそうですと声を抑えて言った。


「殿さまが夢に見た女性は、もしかしたら、拙者の、嫁、かもしれませぬ」

「え!?そなた結婚していたのか!?」


 驚愕きょうがくの事実に開いた口がふさがらない。


「え、え、え!?え、いつ、いつだ?養子となる子どもを親戚から預かるとは聞いていたが」

「はい。拙者は結婚するつもりはなかったのですが、家は途絶えさせたくはなかったので、親戚から一人、男の子を預かりました。男手一人でも周囲の助けを受けて愛して育てるつもりだったのですが。親戚の者が、男の子と一緒に、一人の女性を、押しつけてきました。その者の家族はすでにおらず、仕事を見つけるまででいいから、と強引に。ただ、結婚していない男女が一つ屋根の下にいるのは、外聞が悪い。とりあえず結婚しておけ、離婚は自由にできるのだから。と。女性が仕事を見つけるまでの人助けだと思い、その頼みを引き受けました。殿さまに言わなかったのは、愛していない女性と結婚したとは言いづらかったのです」

「なるほど。出会った直後は愛していなかったが、今はそうではないのだな」


 殿さまは真剣な顔で言った。

 一瞬で顔を真っ赤にさせた高野の、殿さまの両の手を握る手は震えていた。


「い、今さら。言えるわけがないのです。常日頃、仕事が見つかるまではと言い続けていたのです。年も。二十も離れております。こんな六十のじじいと一緒にいるよりも、同じ年の者か、年下の者と一緒になるべきなのです」


 いつもそう思っていたのに、五年間も一緒にいてしまった。

 最初は冷めた気持ちで。

 はやくはやく仕事を見つけてくれ。

 はやくはやく愛する者を見つけてくれ。

 いつからだ。

 いつから、この冷たさは消えたのだ。

 早くしてくれないと。

 このままでは。と。

 熱い気持ちへと変わった?


(よかったと心の底から祝えなくなる)


 いつのまに、いつのまにか。

 いや。

 気持ちに気づいたのは、藤棚を一緒に観に行った時。

 はっきり覚えている。


「殿さまと一緒になった方があやつは、乃藤のふじは幸せになる。確実です。が。拙者は」

「高野」


 いつのまに、俯いていたのだろう。

 高野は殿さまの優しい声を頼りに顔を上げて、殿さまを見た。

 まっすぐ。

 殿さまも見てくれた。


「高野。そなたの素直な気持ちを伝えに行け。わしはいい。わしは殿さまだ。民の幸せが第一だ。もしわしが好きな相手がそなたの嫁だったとしたら、失恋することになるだろうが。そなたが幸せならば笑える」

「殿さま」

「そんなに顔にしわを作って泣くな。いや。そのままでいい。行け。行って、伝えてこい。高野」

「はい、殿さま!」


 高野は走った。

 最後に殿さまの両の手を、強く、けれど痛めないように握りしめてから。

 まだ、手の震えは治まっていなかった。

 まだ、涙も流れていた。


 なんて、情けない姿だろう。

 恥ずかしかった。


 ただただ、恥ずかしかった。






 失恋するのは自分かもしれないと、強く思っているのだから。

 





 それでも、











(2022.5.21)


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