第32話 苛むは、彼女自身の

「俺はジャハーンダール族のサイード、小姓頭を拝命している。……忠実なる下僕には、相違ない」


「はぁ? かしらなんて言ったところで、しょせんは下僕どもの中の……」


 だがそこで、彼がその名をわざわざ名乗った意味にようやく気がついて……義父はとたんに、顔色を一変させた。


「こらっアルマ! ジャハーンダール族のサイード様といえば、皇帝陛下の甥御様だ!!」


「ええっ、この下ぼ……いえ、御方が……ウソ……」


「ロシャナク族のアルマガーンと言ったか。――その名、覚えたぞ」


 サイード様が無表情のまま目を細めて言うと、義父たち三人はサッと顔を青ざめさせた。この状況であえてお互いの出自を強調するということは、宣戦布告にも等しいことだろう。


「どうだ、アーファリーン妃。貴女が望むなら、ロシャナクを帝国の直轄地とするよう陛下に進言してもよいのだが」


 直轄地にする――それは兵を送り、支配権をりにゆくという意味だろうか。それを聞いた義父は焦ったように膝をつき、つらつらと言い訳しつつ揉み手を始めた。やがて娘の腕を引っ張るようにして、自らの横に膝を突かせると。その扱いにすかさず文句を言おうとした彼女の頭を、冷たい石の床に向かってぐっと強く押さえ込む。


 だがその様子を私はひとつも表情を変えずに見下ろすと、穏やかに口を開いた。


「いいえ、不要です。ロシャナクに、そのような価値はございませんわ。どうぞ、捨て置かれませ」


「おお寛大なるお妃さま、ご慈悲をありがとうございます!」


 ちょっと大げさなほどに自らの両手を握り合わせて、義父がこちらを向いて声を上げる。するとアルマガーンは伏せたままの青い顔を一転赤くして、ぶるぶると屈辱に打ち震えているようだった。


「認めない……こんなのぜったいに、認めないんだから……」


 小声でボソボソと呟き始めた彼女の性格は、よく知っている。部族を攻め滅ぼされることなんかより、自尊心を打ち砕かれることの方が、彼女にははるかに辛いことだろう。


 ――簡単に破滅なんて、させてあげないんだから。


 そんな彼女へと向かい、私はふんわり優雅に笑って見せた。


「そうそう、ずっとアルマガーンに伝えたいことがあったのよ。義理とはいえ、貴女と私はたったふたりきりのなんだもの。これからもっと、仲良くしていきましょう。また宮殿へ招待するから、遠慮なく遊びに来てね?」


 弾かれたように上がったその顔は、強い怒りの感情で歪められている。だが私は穏やかな笑みをたたえたままで、小さく首をかしげて見せた。


 そう、こちらが手を汚してあげる必要なんて全くない。私はただ、幸せに過ごしているだけでいいのだ。そんな私の姿が目に入るたび、彼女は悔しさに歯噛みし続けるだろう。


 だが――それらは全て、彼女の精神性が見せる幻だ。


 彼女と私の立ち位置は、あの家を出た日から少しも変わってなどいない。彼女が下がったわけでも、私が上がったわけでもない。ただ彼女自身が私と自分を比べては、『負けている』と感じて自己をさいなんでいるだけだ。肥大化してしまった虚栄心を彼女自身が捨てない限り、それは一生続くだろう。


 彼女は顔を真っ赤に染め上げたまま、への字に引き結んだ唇をワナワナと震えさせていた。極限まで見開かれた目はひとつの瞬きもせずに、ただ宙の一点のみを見詰めている。その姿に仄暗ほのぐらよろこびを覚えて……私は自嘲した。


 私だって、彼女と同じ。他人と比べて『勝つ』ことは、なんとも言い難い愉悦ゆえつを生むものだ。でも私はもう、それだけじゃない。もっと他に、楽しいことがいっぱいあることを知っている。ここに来て、気の合う仲間たちと出会い、知ったのだ。


 ――この子アルマにもいつか、気づける日が来るのかしら。


「では、ね?」


 地に伏せたまま屈辱に震える彼女を、最後にニッコリと鮮やかな笑みで見下ろしてから。私はくるりときびすを返し、悠然とその場を離れた。


 だが部屋を出て、背後でバタンと木の扉が閉じられた、瞬間――これまでの色々な思いが去来して、固く見開いたままの瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。


 まだダメだ。まだ、後ろにサイード様がいるのに……。


 私のすぐ後に部屋を出たらしい気配は、まだ後ろを付いて歩いているようだ。私は気づかれないよう平気なふりして真っ直ぐに歩き続けたが、どうしてもあふれるものが止められない。


「……大丈夫か?」


「申しわけ……ございません……ちょっと目にゴミが……」


 ――その時。まるで肩の震えを抑え込むかのように、背後から強く抱きしめられた。血の気が引き、冷え切っていた肌に……じんわりとした温もりが広がってゆくようである。


「無理はしなくていい。よく、頑張ったな」


「……なぜ頑張った、と? もしかして……私がここに来た本当の経緯を、ご存じだったのですか」


「すまない。君が自分のことを『厄介払いされた』と言っていたことが気になり、ロシャナクへ人をって調べさせたんだ。行商のふりをして使用人たちに聞けば、簡単に教えてくれたそうだ。実家での君が、どんな扱いを受けていたのかを」


 私は惨めやら恥ずかしいやらで、顔を真っ赤にして項垂うなだれた。そんなふうにあなどられた存在の『かわいそうな子』だったということを、ずっと表舞台で生きてきたのだろう彼には、知られたくなかった。なぁんて……見栄っ張りは、家系だったのだろうか。


 そこに複数の足音が近づいてくるのに気が付いて、私たちは慌てて距離を取る。頭にかけていたヴェールを目深まぶかに被り直した理由は、もう、涙を隠すためだけではなくなってしまっていた――。

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