エピローグ サイードの告白

 君と初めて言葉を交わした日のことは、今でもよく覚えている。自らを妃だと名乗った君は、まるで少年のような姿なりをしていた。


 後宮を抜け出し皇帝陛下の話を盗み聞きするなどと、随分と大胆なことをやってのけた君だったが。その本当の目的を知ったとき、俺は一瞬唖然とし……そして、そのあまりのくだらなさに、内心で思わず笑みをこぼした。


 陛下の周囲を嗅ぎまわった罪で捕らえられた者達に、かつてこんなにも平和な目的を持っていた者が、いただろうか。俺が笑いをこらえている横で、もう何年も聞いていなかった、陛下ちちの笑い声が響いていた。


 すっかり興味を引かれてしまった俺は君に会いに行く口実を作ろうと、後宮の呪いの調査を依頼することにした。だがそうして親交を深めた君は、たまに呆れを感じるほどに自己評価が低かった。そこに功があったなら、堂々と誇ればいい。だが君はいつもどこか自信なさげで、誰にも嫌われないよう周囲の顔色をうかがいながら、当たり障りなく笑ってばかりいたのである。



 ある日とうとう、俺はその卑屈にすら思える言動に軽い苛立ちを覚えてしまい……まるで捨て台詞のような言葉が、君に向かって口をついた。


「君であれば、必ずや立派な御世継ぎを生んでくれるだろう」


 そう言ってしまってから、俺はようやく自分が君に惹かれているのだということに気がついた。この苛立ちの正体は、俺が素晴らしいと思う存在を、大したことはないと否定されたから。そして、こんなにも焦がれているのに絶対に手に入らないものに対する、俺自身への失望からなる怒りの感情だったのだ。


 とはいえ俺にどんな事情があろうとも、これは微妙な立場に置かれている君に向けるべきではない発言だった。だがそれに気付いた俺が慌てて言い訳を並べ立てる前に、怒りで本音をあらわにしたらしい君が口にしたことは――。


「でも私なんかは、その役目すら果たせそうにないわ。ここへは、厄介払いされてきたんだから!」


 厄介払いとは、一体どういう意味なのだろう。その言葉がどうにも引っかかった俺は、君の過去を調べてみることにした。思いのほか簡単に終えた調査報告を受けながら、俺は愕然として、次に憤りを感じていた。君が自信を持てず、自己肯定感に欠けている原因が何処にあるのか、よく理解できてしまったからだ。


 悪意ある者達から、君を守ってやりたい。その全てを肯定し、自分がどれほど価値のある人間なのかを理解させて、自信を取り戻させてやりたい。なにより、俺は君を必要としているのだと、今すぐ抱きしめて、伝えたい。


 ――そんな一方的な庇護欲にも似た感情が湧き上がってくるのを感じたが、だが、どうやって?


 生まれて初めて感じた強い情動に戸惑いを覚えたが、だが理性が、俺をあと一歩のところで押しとどめた。君はすでに、皇帝陛下のつまである。生まれ持った責任からすら逃げ続けている俺に、君に想いをぶつけて困らせる資格なんてないだろう。



 それでも何か、君の力になれることはないだろうか。だが臆病な俺が手をこまねいているうちに、君は自らの手で過去と戦おうと、努力を始めたようだった。


 ひとりでに奏でる楽器に囲まれながら、月明かりの下で舞う姿を見て――実は君は、本物の女神が地上へ舞い降りた存在なのではないかと考えた。そのあまりにも幻想的な美しさに魅入られてしまった俺は、声をかけられないまま幾日かの時間だけが過ぎた、ある夜……俺は意を決して、君へ賞賛の言葉を送った。


「素晴らしかった……」


 本当はもっと言葉を尽くしてこの感動を伝えたかったのに、ようやく絞り出せたのは、ただその一言だけである。だが珍しくべにが引かれていない君の唇が真っ白になっていることに気がついて、俺はハッとして我に返った。君は異能の女神などではなく、やはり人間だ。ならば俺にも、君を助けられる方法があるだろう。


 君を抱き上げた腕が、伝わる温もりで熱を帯びてゆく。おずおずと見上げる瞳は少しだけ潤みを帯びていて、かつてこれほど心惑わされるものがあっただろうか。だが俺は鋼の意志で平静を装いながら、君を寝台の上まで送り届けた。あくまでこれは、業務に基づいた行動でなくてはならない。個人的な感情を周囲に気取けどられてしまっては、こうして触れるどころか、二度と会うことができなくなってしまうだろう。



 後日俺が用意した丸薬は、ようやく僅かながら君の助けになることができたようだった。そして大舞台を堂々とした姿で終えた君は、自身の力で過去の亡霊を打ち負かせるまでに、成長を遂げていたのである。


 もう俺の助けなど、君には不要なのだろうか。そう勝手な喪失感を覚えていた、そのとき――背筋せすじをまっすぐに伸ばし前を行く君の肩が微かに震えていることに気がついて、俺は思わず、その背を強く抱きしめた。


 すぐに振りほどかれるだろうと思った腕は、だがなぜか、君を包み込むことを許されたままである。もしや俺は、君に受け入れて貰えているのだろうか……?


 震える君の耳もとに、そっと唇を近づける。だが近づく誰かの足音が聞こえた、その瞬間。臆病な俺は君の立場を言い訳に、その両肩を手放してしまったのだ。


 ――そしてすぐに、俺はその選択を酷く後悔することになる。


 陛下が君のヴィラへと向かった夜。俺は志願して、内廷で宿直とのいのお役目についていた。今夜はどうせ、一睡もすることはできないだろう。だが朝まで戻らぬはずの主がまだ夜も更けないうちに姿を見せたので、俺は呆然と、口を開いた。


「お早い、お戻りで……」


 だがそんな俺を陛下は一顧いっこだにせずに、通りすがりに呟いた。


「――臆病者が」


 無意識にずっと握り締めていた拳をほどけば、そこには血が滲んでいる。赤く汚れた手のひらを眺めつつ、俺は自嘲気味に笑った。


 本当に、俺はとんだ臆病者だ。好機ばかりをうかがって、だが周りの目を気にしては、本当に欲しい物を奪い取ることすらできない。そんな俺が君に「自信を持て」などと言う資格は、初めから無かったのだ。



 後日、とある妃に起こった一連の悲劇を聞いた帰り道――皇都の外れで荷車を走らせながら、俺は横に座る君をこのまま遠くへ連れ去ってしまおうかと考えた。だが、すぐに思い直して奥歯を噛みしめた。俺はまた、逃げようとしている。そんな心持ちで、果たして君を幸せになんてできるのか。


 ――俺はようやく、覚悟を決めた。


 たとえ茨の道を選ぼうと、必ずや堂々と君を手に入れる。君を幸せにするためならば、王としてこの国の民全てを幸せにするぐらい、いくらでもしてみせる。


「愛してる。何があっても、必ず守り切ってみせる。だからずっと、共に――」


 俺はずっと、君を助けてやりたいとばかり思っていた。だがいつの間にか勇気づけられていたのは、助けられていたのは、俺の方だったのだ。



 俺はもう、逃げない。

 君と共に、未来さきへゆく。







 -完-


――――――――――――――――――――


最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

ここで本編は完結ですが、またいずれ番外編など投稿予定です。お気づきの際には読みに来て頂けますと幸いです。


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