第26話 マウンティング絶許な人々

『かあさま、すっごくキレイ!』


『ふふふ、ファリンもやってみる? ほら、鈴をキレ良く鳴らすには、手首のところをこうやって――』


 ――そんな会話をしたのは、もう十年以上も前のことだろうか。


 美人な上に歌も踊りも堪能で、水の女神の化身と呼ばれた母が居た頃は、物心つく前から真似して踊っていたけれど……それももう、昔の話である。母がいなくなってからは稽古の機会も失って、舞踊には長いブランクがあった。それでもなんとかここに来てから二回の新年を、後ろの方でひっそり踊って乗り切ったのだが……今年はいきなり主役である水の女神に選ばれるなんて、まさに青天せいてん霹靂へきれきである。


 真ん中で失敗したら、皆の舞台を台無しにしてしまうことだろう。稽古の量を前より増やして、誰よりもがんばらなくてはならないのだ。だが焦って練習すればするほどに、なぜかパフォーマンスが落ちてゆくようだった。去年までには感じなかった極度の疲労感が私を襲い、長い一曲が終盤に差し掛かる頃には、ずっしりと身体が重くなってしまうのである。


 そんなことを続けているうちに――やがて一日の稽古が終わるころには、私は稽古場のすみに酷い疲れでうずくまってしまうことが多くなっていた。しっかりやらなければと焦れば焦るほど手足が泥人形のように重くなり、高くなびかせたはずの羽衣が床をこすってしまうのである。


 そんな私を、今はみな優しくねぎらってくれているけれど……これから本番が近づいて余裕がなくなってくると、そのうち呆れを通り越して、怒り出しても不思議ではないだろう。


 私は羽衣をくるくると手中に巻き取ると、こっそりとため息をついた。薄く織られた絹地でできたリボンは手のひらを大きく広げたくらいの幅広で、長さは身長の三倍くらいはあるだろうか。これがまるで神力でふんわり浮いているかのように見せなきゃダメなのに、全然軽やかに振れていないのだ。


 朝から晩まで働いていたときだって、こんなに疲れはしなかったのに。ここで毎日甘いものを食べてはゴロゴロしているうちに、そこまで体力が落ちてしまっていたのだろうか……。もういっそ「失敗するよう呪いを掛けられているのでは!?」とでも、思いたくなるぐらいである。


 そんな日が何日か続いたあと、とうとう恐れていたことが起こった。


「ちょっと、真面目にやってくれる!? ちゃんと集中してやってくれないと、皆が迷惑するの!」


 パラストゥー様はそう言って、こちらに厳しい目を向ける。上手くいかずに内心焦りを感じていた私は、思わず反論の声を上げていた。


「ちゃんと真面目に、一生懸命やってます!」


「一生懸命だから何!? 奉納の舞台は、一生懸命やってるだけじゃ足りないの! 人並みの努力をしただけで、皆の中央に立てると思わないで。出来ないのなら、一生後ろで踊ってなさい!」


 ――そもそも私、別に中央センターに立ちたいなんて言ってない!


 そう言いかけて、私は口をつぐんだ。さすがにそれは、推薦してくれた皆を裏切るように思えたからだ。


「パラストゥーは、自分が女神役じゃないのが気に入らないだけよぉ。だから気にしない! ゆる〜くやりましょ」


「そうそう、体力なんて練習しているうちに徐々についてくるものよ。まだ時間はたっぷりあるから、絶対に大丈夫! ファリンなら、きっと素晴らしい女神を演じられるわ。だから自分を信じて、ね?」


 バハーミーン様とデルカシュ様が口々にフォローしてくれたけど、それでも、気にしないではいられない。


「ありがとうございます。でも……完璧に踊れていないのは、本当のことですから」


 そう口にして、力なく笑ってみせる。しかしパラストゥー様は、その返答すら気に入らないようだった。


「なによ、義妹の鼻をあかしてやりたかったんじゃないの!? 今みたいな無様な姿を晒せば、完全に逆効果よ。さっさと諦めたら? このわたくしが、いつでも代わってあげるから!」


 彼女の物言いは、もっともだ。私が返答に詰まっていると、後ろの方から小さくヒソヒソとした声が聞こえた。


「……やっぱり、自分が女神役をやりたいだけじゃない」

「大したことないクセに、いつも私が私がって、しゃしゃり出てくるのよね……」


 そんなコソコソ話が聞こえた方を、パラストゥー妃は腕組みをしてギロリとめつける。そのとたん、誰ともしれない小さな声たちはピタリとやんだ。


「ハッ、これだから女はイヤなのよ! みんな仲良くお手々つないで横社会。一人だけ抜きん出ようとする者あれば、抜け駆けするなと足を引っ張り、叩いて叩いて横並びの列に戻すのよ! アナタたち、せいぜい仲良しごっこをしているといいわ。その間にわたくしは、必ずや足を引っ張る手すら届かぬような、高みへ上ってやるんだから!!」


 彼女はそう、声高こわだかに言い放つと……いつもの信者とりまきたちを引き連れて、稽古場から出て行った。


「なによあの女! 大して美人でもないクセに調子に乗って、いつも上から目線で自慢ばっかりなんだから!」

「あんな性悪、すぐに本性がバレて陛下に愛想尽かされるに決まってるわよ!」


 パラストゥー妃の姿が見えなくなった途端。そんな声が、さっきヒソヒソしていた妃たちの方から次々上がり……私は、ゾッとした。結局、パラストゥー妃の言っていたことは、ある意味で真をとらえていたのかもしれない。


 私だったら、周りからこんな風に言われたら、胃に穴がいくつも開いてしまうことだろう。――何を言われても負けない自信にあふれた彼女が、少しだけ、羨ましかった。



  ◇ ◇ ◇



 ああ、本番が近づいてくるのが怖い……憂鬱な気分を抱えたままヴィラに帰ると、最近砂漠の言葉がめきめき上達しているシャオメイが、すぐに駆け寄ってきた。


「ファリンさま、主役やる聞きました! なぜ教えてくれなかったですか!? 楽しみにしてるです!」


「シャオメイ……」


 無邪気に喜んでくれる彼女の姿を見ていると、さらにプレッシャーで胃が痛くなってくる。だが彼女が悪いのではない。こんなにもプレッシャーを感じるのは、私が自信を持てないからだ。自信をつけるためには、とにもかくにも練習して、上達するしかないだろう。


「ファリンさま、お疲れなのです? すぐ甘いもの用意します!」


「ううん、今日もおやつはやめとくね。舞台に向けて、もっと体形を絞っていかなきゃ」


「でも、ファリンさまつらそうです。食べないと、体力つかないです。甘いのダメなら、献立を肉中心にしてくれ厨房に言います。食事は大事です!」


 かつて食生活の乱れで身体に不調を来たした彼女が言うと、説得力が段違いである。私は困ったように笑うと、渋々ながらうなずいた。


「うん……ありがとう」




 その日はさっそくお肉の割合が増した夕食を食べながら、私は向かいで同じく肉にかぶりついている子トラに話しかけた。


「ねぇバァブル、踊りを上手にしてとか、体力つけてとかは……お願いできないよねぇ、やっぱ」


 バァブルは頬いっぱいに詰め込んでいた仔羊ラム肉をゴクリと飲み込んでから、珍しく申し訳なさそうに肩をすくめてみせる。


「だねぇ」


「じゃあやっぱり……もっと稽古を重ねるしかないか」


 その夜、私は意を決して稽古場のある棟にこっそりと忍び込むと……窓から差し込む月明かりだけを頼りに、一人で舞の練習を始めた。それは皆の期待に応えたいという理由もあるけれど、もちろん、あの義父たちに私はここで立派にやっているのだということを、見せつけてやりたいという気持ちもあるのだ。


「え、別にいい感じに踊れてるじゃん!」


 面白がって稽古場まで付いて来ていたバァブルが、そう歓声を上げてくれる。それを少し嬉しく感じながらも、私は困ったように笑いながら言った。


「でも音楽がないと、タイミングがちゃんと合ってるのかよく分からなくて……」


「音楽? なら早く言ってよ!」


 その瞬間、月明かりの中で子トラがボムンと白煙に包まれた。しばらくして煙が晴れると、そこには舞台で使われるような楽器たちが並んでいる。それらはひとりでにフワリと浮き上がると、一斉にがくかなで始めた。


「これって……水の女神の舞曲ぶきょくじゃない! すごい、こんなこともできるのね!」


「このぐらい簡単さ!」


 透明な楽団を引き連れて、子トラが小さな胸を張る。


「ええと、これって願い事になるよね……?」


「いや、いいよ。音楽は好きだから自分用だよ!」


 子トラはそう言って飛び上がると、曲に合わせて自らもくるくると踊り始めた。その楽し気な様子を見ていると、私もなんだか気分が軽くなってくる。こうして、ただただ苦しかった稽古は毎日の夜のちょっとした楽しみになった。




 ――そんな夜が三日ほど続いた、あるとき。


 音楽に合わせて手首を素早く返すたび、シャンっと鈴の音が鳴る。皆とテンポがずれてしまうと、この音が乱れて美しくなくなってしまうのだ。だが今日は、それが楽器ときっちり合っている。


 曲の終わりまであと少し、最後まで、爪先一本まで気を抜かず……!


 最後のポーズもピタリと決めて、私はゆっくり身を起こす。初めて完璧に踊れた気がして、私は意気揚々と子トラの方を振り向いた。


「バァブル、今のどうだった!?」


「とても、素晴らしかった」


 だが返ってきた声は、子どものような高くかわいい声でなく……予想外の人のものだった。

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