第27話 そのステップが血を溶かす

 まるで感嘆のため息をもらすかのように、柔らかな中低音が、静かな夜の稽古場に響く。私は暗がりに立つその声の主に気がついて、慌てて居ずまいを正した。


「サ、サイード様、なぜここに!」


「誰もいないはずの稽古場の方から夜な夜な音楽が聞こえてくるが、悪霊のしわざではないか? ……と通報があったから、確認に来た」


 ああ、そりゃあそうよね。こんな深夜の稽古場に、楽団がわざわざ集まっているわけがない。なのに合奏が聞こえてくるなんて、控えめに言って怪奇現象だ。この辺りは夜になると人がいなくなるエリアだからって、すっかり油断してた。


「す、すみません、夜中に騒がしくしてしまって」


「だがこれは一体、どういうことだ。奏者がいないのに、なぜ楽器がひとりでに?」


「それは……」


 私が答えに詰まっていると、子トラが前足でポスポスと私の脚を叩いた。目線を下げると、彼はこちらをじいっと見つめてコクリとうなずいてみせる。


「言っちゃっていいの?」


 再び、コクリ。私はバァブルを抱え上げると、サイード様の前に差し出した。


「それはこの、精霊様のお力です」


「バァブルが、かの伝承の精霊様だと!?」


 だが子トラは無言のままで、鼻をヒクヒクさせてニヤリと口角を上げて見せただけだった。どうやらサイード様とは直接会話するつもりはないらしい。


「正直に言うと信じがたいことだが、実際に楽器がひとりでに宙に浮き、竪琴たてごとがかき鳴らされているのを見てしまったからな。実在していたのか……しかしまさか」


 そのまま考え込んでしまったサイード様に、私はおずおずと声をかけた。


「あの、バァブルはどうも我が家の守り神様のような存在らしいんです。悪い精霊様ではないので、見なかったことにしてくださいませんか?」


「まぁ、彼に悪意がなさそうなのは、なんとなく分からないでもないが……。今は、君の言葉を信じよう。それにしても伝承の精霊様をこの目にする日が来るとは、驚いたな」


 サイード様はそう言うと、手を伸ばしていつものように子トラを撫でようとして、そしてやっぱり引っ込める。そんな会話を行っている間も、まるで水を吸っていくかのように、身体が徐々に重たくなっていくことを私は感じていた。実は踊っている最中から、ずっと疲れを感じていたのである。


 とうとう抱え上げた子トラの重さに耐えきれなくなって、私は思わずその場にしゃがみ込んだ。視界が白くけついてゆくのを感じつつ、柔らかい重みをなんとかそっと床へと下ろし……そのまま立ち上がることができなくなって、板張りの床へと座り込む。


「お見苦しい姿を、すみません。ちょっとだけ休んだら、すぐに自分のヴィラへ戻りますので……」


 最後はほとんど気合で踊り切ったけど、こんなにどっと疲れが押し寄せてくるなんて。視界は元に戻ったけれど、いつも以上にめがまわり、身体が重くてたまらない。


 とうとう膝を抱え込むようにして、ぐったりと座り込んでいると……何の前触れもないままで、ひょいっと担ぎ上げられた。


「いや駄目だ、こんなところで休んでいては余計に身体を壊す。すぐにヴィラへ戻ろう」


「えっ、ダメです! 重いっ、重いですからっ!」


 だが声を上げるたび、くらくらと視界がまわる。とうとう抗議を諦めて、その力強い腕に身を預けるようにおとなしくなると……サイード様はすぐに稽古場の出口へと向かって歩きはじめた。


「駄目だ、はこちらの台詞だ。むしろ軽すぎる。ちゃんと食べているのか?」


「それは、水の女神役なので……。動きが軽やかに見えるように、一応ちょっと役作りを」


「そんな状態で疲労が回復するわけがないだろう。しっかり食べて、練習はしばらく休んだ方がいい」


「でも、この程度でこんなにも疲れて動けなくなるなんて……急いで、もっと鍛えなければいけないんです。もっと、もっとがんばらなきゃ……このままじゃ舞台を台無しにして、みんなに迷惑をかけてしまう!」


 強い焦りをあらわにしてしまった私に、しかしサイード様は事もなげに首を振った。


「いや、鍛え方が足りないせいじゃない。君は恐らく行軍貧血、むしろ鍛えすぎだ」


「え、貧血? 私、別になり易い方ではないはずなんですが……。甘味は控えていますけど、ちゃんとお肉はしっかり食べていますし」


 かつて粗食で一日中働いていたときですら、貧血になんて一度もなったことは無いはずだ。思いもよらなかったことを言われて首をひねる私に、サイード様は進行方向を向いたまま軽くため息をついた。


「自分では気付きにくいだろうが、爪が真っ白になっているぞ。この貧血は長時間の行軍時だけじゃなく、足捌あしさばきの激しい鍛錬たんれんを行う剣術などを学ぶ者にも、まれに発生する症状だ。足底部そくていぶに強い衝撃を繰り返し与える運動を行うと、血が壊れて貧血を起こしやすくなるらしい。水の女神の舞は一見軽やかに見えるが、跳躍ちょうやくと着地の動きが多いからな。足底への負担も大きいだろう」


「まさか鍛錬のせいで血が壊れて、それで貧血を起こすなんて……思いもよりませんでした」


「まあ、同じ運動をしても発生するしないは個人の体質によるところが大きいし、直接的な原因としては結び付け難い事象だからな。血を増やす良い薬があるから、すぐに手配させよう」


「薬、ですか? せっかくですが、なんかズルするみたいで……」


 その響きにどこか後ろめたさを感じた私が、眉尻を下げながら言うと……彼は腕の中の私を見下ろして、そのダークブラウンの瞳を優しく細めた。


「努力はもちろん大事だが、根性だけでは解決できないこともある。必要に応じて道具を頼るのは、悪いことじゃないさ」

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